富豪のコーヒー

白居ミク

富豪のコーヒー

 一杯525円のこだわりコーヒーを注文してくれる客は少ない。みな、サンドウィッチとセットの一杯105円のコーヒーを頼む。それはコーヒーメーカーで、安い1キロいくらの粉コーヒーを使った、味も香りもない苦い水に過ぎない。が、それをコーヒーカップに入れてスプーンとミルクと砂糖を添えて出せば、客はそれで満足する。

 しかし、そんな安いコーヒーを注ぐたびに、香田高志は歯をきりきり食いしばって耐えねばならない。ときに『ジャイアンそっくりの名前』と言われるが、彼の性格は勤勉なのび太君である。口にも行動にも出さないまま家に帰り、自分のコーヒーは500円以上の値打ちがあると、コーヒーを淹れながら自分に言って聞かせるに過ぎない。一応そう思うだけの根拠もある。

彼は、コーヒー会社代表の吉田義男氏が年に一回開催する、「コーヒーの会」に呼ばれる、7人のバリスタのうちの一人であり、「コーヒーの会」とは、5人のコーヒー道楽の金持ちたちが各自全国を回って、これはと思うバリスタを推して開かれる品評会で、ベテランのバリスタたちの間で、知る人ぞ知る大変名誉な会だった。カプチーノの表面に絵を描くといった、外面的な事は全く問われない。豆も自由、器具も淹れ方も自由、カップは向こうにあるがそれも持参可、水は3種類のミネラルウォーターがあるが、これも持参してよし、とにかくコーヒー道楽の金持ちの舌と鼻をうならせる旨いコーヒーを淹れた者が、最後に十人の金持ち達の拍手をもらって一等となる。香田はその会に二年連続で招かれている。そして、明日はその二年目の日だった。去年は一等を逃したが、惜しい所だったと自己評価していた。

 今年こそはと思い、自己研鑽を重ねてきた。 

 客がサンドウィッチセットを平らげる頃を見計らいながら、香田は心の中で最も理想的なドリップ式のコーヒーの淹れ方を思い浮かべる。

 まず、ミネラルをたっぷり含んだ天然水を、ぐらぐらと沸かす。ぐらぐら沸かすとは、十円玉大の泡が浮かんでくることだ。さらに水を加えて再沸騰させて火を止める。再沸騰させるだけで水の味は劇的に変わる。しかし沸騰させすぎると、水の味が抜けてしまう。

 次にそのお湯を温めておいた湯冷ましに注ぐ。細い糸のように注げる注ぎ口がついていなければならない。シャワーのように浴びせられたら一番良い。だから彼はそのために小さなじょうろ的注ぎ口を自作して湯冷ましの口にとりつけている。だが湯冷ましが冷たいと、お湯の温度は急激に冷めすぎる。だからじょうごとポットも一緒に温め、そして紙じょうごはお湯でじょうごにぴったりとはりつけて、紙がめくれるのを防ぐ。

湯冷ましとポットとじょうご、この三つが温まり、温め用の捨て湯を捨ててから注ぐのだ。一度移し替えると、水の温度は10℃下がる。90℃がコーヒー豆にとって理想の温度だ。香田はさらにもう少し温度を下げる方が苦みが出にくいと見ていて、その微妙な温度も勘だけで完璧にやっていた。

そしてここからが本番。いよいよ挽きたてのコーヒーにお湯を注ぐ。(挽き立てだと香りは段違いだ。もちろん、焙煎したてならなおよい。焙煎した直後から味はどんどんと落ちていくからだ。)

 なるべく低い場所からそっと注いで、水に空気を含ませつつ、8の字を描いてまずはコーヒーを湿らせて、ふくらませる。ふっくら高く盛り上がり、ぶつぶつ穴も開かず、ひび割れもないコーヒー豆の小高い丘が、香田には愛おしくてたまらない。

コクをひきだす間だけ蒸らしてから、そのまま山の高さを維持するだけ、水を注ぎ続ける。目安は三度山がへこむくらい。それより長いと豆からどろどろのエグ味やどうしようもない不良の苦味がでてきて、快感を与える苦味をぶち壊してしまう。 

 だからその気配を感じたらすぐさまじょうごをポットから外す。

 本物のコーヒーとは、苦みの後ろに甘みを感じるものだ。苦みで終わるのならそれはコーヒーとは言えない。それはかぐわしく、体が浮き上がるようで、まさに天上の甘みと呼べる。ほかでは味わえない物だ。

 その心とろかす香りを思い浮かべながら、香田はホットコーヒー3つを運び、食べ残しのお皿を下げ、洗い物を片付けた。こんな仕事の後、極上のコーヒーを舌の上に感じるのは、まさに夢の世界に行くことだ、と、香田は考える。何故こだわりコーヒーを頼む客が少ないのか分からなくなる。


 吉田義男氏はコーヒー会社の社員から叩き上げて社長になった。もちろん仕事もできるが、コーヒーに対する情熱もすさまじかったからだ。

彼の社長室には全世界の豆見本を保存した冷凍庫があり、カップ専用の食器棚があったが、小さめのコーヒーカップのみで、大ぶりのティーカップは皆無だった。秘書はもちろん、新入社員から役員まで、コーヒーをおいしく淹れる技術が求められた。胃の悪い人にとっては、吉田氏の会社は飲むものがない。砂漠のように水を求めてうろうろすることになる。コーヒーしかないからだ。

 彼は朝も昼も夜もコーヒーを飲み、飲めないときにはコーヒー味のあめか、コーヒー豆の入ったチョコレートを食べた。

 「コーヒーは軽い習慣性があるんですよ。」という真実を口にする人は、吉田が社会的地位を築くにつれてありがたいことにいなくなった。

 広い庭のある邸宅には、広い庭の大部分を占める温室があって、そこで彼はコーヒー豆を自分で育てて実を収穫した。

また彼は毎年家族を連れて通訳つきの贅沢な海外旅行をしたが、行く国は、ブラジル、コロンビア、コートジボワールならまだよいが、外務省から渡航制限が出そうな治安の悪い国でも、旅行会社がツアーも組まないような何も見るもの遊ぶところがない都市でも、コーヒー園がある場所を選んだ。そこで彼は通訳をつれてコーヒー農家へ行き、採れたて、挽き立ての豆を、コーヒーの木々の下で飲むというぜいたくを味わう。その間に家族はとにかくコーヒー以外のものを求めて、街を散策するのだった。あるいは治安が悪すぎてホテルの中を散策した。

 彼はおいしいコーヒーを追及することに、世界を救うのと同じくらいの使命感を見出しており、彼ほどではないがコーヒー党の金持ち仲間と共に、おいしいコーヒーを追い求めて労力と金を惜しまなかった。

そこで、情報交換のため、お互いにこれはと思うバリスタを連れてきて仲間にその味を披露し、批評する会を設けた。こんな素晴らしい会の恩恵に浴させてやろうと、本当は紅茶党の奥方もひっぱり出し、夫婦同伴の会にした。これが香田の呼ばれた「コーヒーの会」である。

バリスタ達は旅費の他に日当が一万円もらえるだけ。投票の結果選ばれた一等者も全員から温かい拍手が送られるにすぎなかったが、この会の優勝者と言うだけで、ありとあらゆるバリスタ達から敬語と敬意を以って迎えられるというほどの名誉があった。加えて、吉田氏は全国のコーヒー関係者と太い人脈を築いていたので、彼の口添えがあればコーヒー業界でかなわぬ望みはなかった。初回の優勝者は、吉田氏が行く先々で誉めちぎった結果、銀座の外れに小さな店が持てたという。

香田もそうなりたかった。自分の店が持ちたい。味の分かるお客が来る場所がいい。インスタントではなく自分のコーヒーを毎日お客に飲んでもらいたい。常に新鮮で、良質の豆をそろえた棚が欲しい。人の顔を見て好みのブレンドにしてやれる。ある日、入ってきた品のよい老紳士にこだわりコーヒーを出して、その会のチケットを手に入れたとき、香田は絶対自分なら優勝すると思った。大学の頃、一杯のコーヒーに魅入られてから、研究に研究を重ね、今やどんなコーヒーでも舌にのせればどこ産のどの淹れ方かが分かる。店を出す金を貯めるのには十年かかるが、そんなことをしなくてもよくなる!

 そして間違いなく、香田のコーヒーは金持ち達を一番驚かせた。

 が、優勝したのは、山口文太という、目の大きな、明るい人好きのする青年だった。彼は小さなカップとはいえ、コーヒーを5杯も飲ませられ続けた奥方達に、コーヒーではなく、さっぱりしたおいしいレモンソーダを出して、女性票を総取りし、優勝をさらっていったのだった。その日、世の中の理不尽さに、香田は真剣に自殺を考えた。


(今度はその轍は踏まないぞ。)

 香田は決意を固めて控え室に入る。もうすでに、ライバル達は来ていた。

 助手を連れて大きな装置を組み立てているのは、水出しコーヒーを作るつもりだろう。夏の暑い日にはすっきりした苦みがたまらなくおいしいが、こんな冬の寒い日には、旨い苦味の熱々コーヒーが飲みたいものだ。技術のない奴がやる事だ。

 あそこに黒い顔をした黒人が、ガスコンロを持ち込んで、小さな棒で何やら鍋をかきまぜている。一時間かきまぜて煮出し、コーヒーの脂分を溶かし出すというエチオピア伝統の煮出しコーヒーを作るつもりらしいが、目新しいだけでうなってくれるほど、金持ちの舌は甘くない。自分もやったことがあるが、味に何かが足りない気がしたものだ。スパイスを入れるとそれはもはやコーヒーで勝負していることにならない。

他に、水を選んで話し合う者達、豆を吟味するもの、テーブルの上にマイエスプレッソを置きっ放しにしている者などいるが、どうでもよかった。香田は憎き山口文太を探した。まだ来ていない。前回の優勝者はハンデの意味をこめて出すのは一番最後と決まっているから、多少遅くても問題ないが、それにしても早めに来るのが普通なのに。良いカップや良い水をとられてしまう。まあ自分は岩清水を一〇ℓも持参したので、何の関係もないのだが、ひょっとして山口もそうするつもりか!

 そう思って無駄なことに気を遣っているうちに、山口がのっそり入ってきた。別人かと思うほど日焼けし、心なしか精悍になった顔つきで、元気よく声を張り上げた。

「よろしくお願いしまーす。」

 部屋にいた全員が山口を見た。香田も見た。前よりも元気そうなので改めて脅威を感じた。大きなリュックを背負い、他にも大きな袋を3つも肩に担いで、制服でと決まっているのにTシャツとジーンズで、まるでバックパッカーのようだった。

 荷物なら自分が一番多いと思っていたのに、と、香田の視線は否応なく山口の荷物を穴が開くほど凝視した。あの大きな黒いケースは何だ?見たこともない装置が入っているのか、それとも中くらいの水出しコーヒーメーカーか? まるでギターケースみたいなケースに入れてある。他にも重たそうなリュックには何が入っているんだ?前回はレモンとソーダを持ってきていたが、今度は何だ?リンゴか?あの中くらいの袋は焙煎器の入っていそうな形をしているが、そうすると王道の焙煎したてのコーヒーで勝負するつもりか?望むところだが、正体不明の荷物が多すぎて、全く予想がつかない。今度は一体何をやらかす気なんだ!香田が戦々恐々としていると。山口はドアの後ろに向かって言った。

「ああ、男ばっかりだ。あちらにいて、奥様方と話されたほうがよくありませんか?」

「いいんです。精神統一もしたいですし。」

 若い女性の声だった!結婚している!こんなところでも先を越された!香田は愕然としたが、少し冷静になると、妻に敬語を使うわけはない。すると彼女か!いやいや、さっきから自分は嫉妬ばかりしているが、コーヒーで山口に負けたわけではない。何故コーヒーを淹れるのに精神統一をする女性がいるのかは依然として疑問だが、自分はコーヒーで山口に負けたわけではない。邪道のレモンソーダに負けたのだ。自分は自分の道で頑張ればいいだけの話だった。一度はぺしゃんこに潰れたがまた復活して、香田も、他の参加者も女性の声に耳を済ませた。

「まあ、椅子はありますけどね・・・。」

 山口は女性を招きいれた。髪の長い、瞳の印象的な、きれいに身だしなみを整えて上品な感じだった。お洒落着だから、バリスタでないのは確かだが、女性は目を閉じて精神統一をしているし、山口は制服に着替えに行ってしまった。女性が一人いるだけで、大勝負を前にピリピリしていた控え室は、心なしか浮き足立った。それが山口の策略かもしれないと、もう気にするのはやめにして、香田は自分のコーヒーに集中した。

 今回彼は、自分の持てる知識と技術を最大限に生かし、一人一人にあった個別のブレンドで勝負しようと思っていた。

山口から学んだのだ。女性には苦味の少ない、酸味も少ない、とにかくすっきりしたブレンドにして、事前に水出しコーヒーを作り、香りが逃げないよう炭酸ガスを入れて瓶詰めにし、クーラーボックスに入れて持ってきた。それに、山口を越えるためにコーヒーにぴったり合うお菓子も用意してきた。

 さらに五人の金持ち達には、それぞれの好みの豆を鑑み、ぴったりしたブレンドを考えてきた。それぞれ、生豆の状態で持ってきたそのブレンドを直前に焙煎し、いりたてを挽き立てで、得意のドリップ方式で出す。6種類のブレンドを一度に出すのは時間がかかるが、彼は何度も練習して手順を工夫し、そのタイムを縮めていた。名づけて十人十色コーヒー。これで勝てなければその勝るコーヒーのほうが知りたい。

 彼は焙煎を始めた。

 この焙煎の深さも練習を重ねて身に付くことだった。

香田は緊張しているからといって煎りを深すぎたり浅すぎたりするようなミスは犯さない。彼は大学の頃からコーヒーの脂分を主食にしてきた。コーヒー豆の倉庫で暮らしたいほど豆を愛しているのだ。

対して山口はと横目で見ると、眉間にしわを寄せながら豆を煎っている。真剣なのか、面倒なのか分からないが、油断ならない。

香田は気を引きしめて焙煎鍋をゆすり、匂いと色に神経を集中した。


何といってもコーヒーは淹れ立ての香りが一番かぐわしい。だから香田は自分の番が来るまで控え室でコーヒーを淹れることに集中していた。順番が来てから淹れても、吉田氏は待ってくれるだろうが、去年吉田氏を少し長く待たせ過ぎたために怒鳴られたバリスタを見ているので、先に淹れた方がよいと判断したのだ。淹れたコーヒーは分厚いポットカバーをかぶせて冷めるのを防いだ。

香田の番は最後から2番目。これは実力が認められた証拠だと香田は自分に言い聞かせた。クーラーボックスを肩にかけ、盆を持って出番を待っていると、擦り切れて白っぽい黒色になった安物のチョッキと蝶ネクタイ、昨日磨いたが見劣りのするナイロン製の安革靴が、ひどく気になり始めた。安物の制服を着てきたのはまずかっただろうか?昨日急いでクリーニングから取ってきたのだが。

たかだか零細チェーンレストランの雇われ店長でしかないこと、ウルトラCの奇抜な隠し手を備えている山口文太への嫉妬、いろいろなものがないまぜになりながら香田を押しつぶしそうになった。

(だけど僕のコーヒーは一番おいしい。だからこの会に呼んでもらえたんだ。あの人たちはカップを出す人間の服なんか見ていない。コーヒーの味だけを見ているんだ。それなら僕のコーヒーは日本でトップレベルに入る。)

香田は6つのコーヒーポットをしっかりと見つめた。その中の波一つ立てない茶色の小さな湖の最上の味と高い香りをイメージした。飲まなくても、見なくても分かる。その苦味、酸味、かすかな甘みのハーモニーが、香田にはしっかりと感じとれる。

やがてガランガランとベルがなって、香田は呼ばれた。

コーヒーポットを運んでから、カップの盆を取りに戻ろうとすると、控え室にいた謎の女性がもう持ってきてくれていた。短く礼をすると、女性はかすかに微笑んで、香田が3往復しなければならないのを手伝って、気の短い吉田氏を怒らせずにすむようにしてくれた。香田は感謝した。

気をひきしめて、クーラーボックスからアイスコーヒーを出して、質問があれば丁寧に解説をしながら、女性陣に注いで回り、ポットカバーを一つ一つとって男性陣に注いで回った。コーヒーポットにはブレンドの豆と、短い解説の紙がついていて、男性方の興味をひいた。

「コーヒーの会」では、コーヒーと一緒に食べるためのシンプルなクッキーとホットケーキが用意されていたが、コーヒーが主役だからということで味気のない代物だったので、香田の小さな卵タルトはお菓子には舌の肥えたご婦人方にもう一つだなどと酷評されながらもかろうじて好評を得た。

砂糖と生クリームではなく、ホイップし立ての本物の動物性脂肪の生クリームを浮かべるやり方は、全員から面白い面白いと言ってもらえて、香田はほっとした。甥っ子の誕生日のショートケーキを食べながら思いついたアイディアだった。

しかし、山口文太に真似ができないのはここからだった。香田のバリスタとしての実力の高さだ。

香田は一つ一つのポットのブレンドを、尋ねられるままに解説していった。

「これは少し苦いような気がするな。」といった意地悪な質問にも、香田はたちどころに答えて、相手を納得させることができた。香田の解説は分かりやすく、奥様方もコーヒー通になれるような本質をついた説明だった。が、その分退屈でもあった。しかし全員が香田の言葉に耳を傾けている。今こそ自分の本領が発揮されていると思うと、香田は嬉しかった。

「私のブレンドは何だ?」

いよいよ吉田氏から尋ねられた。香田は緊張と高ぶりに身を震わせた。

「それは吉田様がお好みの、ジャマイカのブルーマウンテンでございます。その豆だけでもおいしいのですが、甘みを増し、コクを足すためにイエメンのアラビアン・モカもブレンドいたしました。同じ高山で採れるタンザニアのキリマンジャロも少しですがブレンドしてあります。」

「そうか。ブルーマウンテンのブレンドがおいしいと思うとは思わなかった。今度家にある豆でやってみてくれ。いい豆を使えば、もっとおいしいだろうから。」

 コクのある豆同士を混ぜてはならないという定石を打ち破る、試行錯誤を重ねた結果の一番の自信のブレンドでその言葉をもらえたとき、香田は天にも昇るかと思った。香田の考える天国には自分のコーヒー喫茶店がある。いよいよその店に入れるときが来たと香田は思った。悔しそうに、あるいは妬ましそうに、香田を見つめる競争者の視線を浴びながら、香田はふわふわと待ち人の列に加わった。

 後学のため、他の人のコーヒーを見るべしという吉田氏のアイディアで、運が悪ければ寒空の下、薄っぺらい制服で2〜3時間立たされるはめになるのだが、バリスタは全員立ち仕事に慣れていて、誰も文句を言わない。

 吉田氏は大きなベルをガランガランと振って、山口文太を呼んだ。香田はやっと気がついてあわてて自分の食器を下げた。うっかりしていたが、工場横の喫茶店で鍛えられているので、食器を欠けさせずに重ねて、盆を草の上に置き、山口文太の来る前にテーブルを拭き終わった。が、のっけから嫌な予感がした。

 コーヒーを煎っているときから変だと思っていた。山口は真っ白な麻っぽい長装束にまた白いズボンをはいて、真っ黒に日焼けした顔と一緒になって、アラブかどこかの外国人の風情を漂わせていた。それが、さらに白いターバンを巻いて冬の日本の庭から浮き出した格好で、銀のお盆にしろめのカップを載せ、後ろからはあの親切な謎の女性が大きなハーブを抱えてついてくる。まるで植民地の貴族の家の召使が出張してきたようだった。

(今度は異国情緒できたか!)

と、香田は思った。

「こちらは吉長さゆりさんです。彼女は、アラビアンハープの奏者です。」

 女性は一礼して椅子に座り、ハープに指をかけた。

「『コーヒールンバ』を弾いていただきます。これはかつてコーヒーの豆を石臼でひきながら歌われていた歌です。これから供しますコーヒーは、現地アラビアの雰囲気を感じながら味わっていただきたいのです。」

 目で合図するとさゆり嬢は魅力的なメロディーを奏で始めた。

今まで聞いたこともない「コーヒールンバ」の音色。コーヒールンバとは本来このように演奏されるのかという気づき。灼熱の地で、一日の労働の後でコーヒージョッキを傾ける黒い肌の労働者達の雑然としたざわめき、秘められた恋の情熱。そんなものまで伝わってくる・・・。

負けたか、と香田は目をつぶって、あわてて思い直した。自分は負けてない。ハーブの音色には負けたかもしれないが、弾いているのはさゆり嬢だから、山口の淹れるコーヒーとは、全く何の関係もない。しかし、金持ち連中が老いも若きももハーブに聞き惚れているので、自分の工場横の喫茶店より、百貨店の喫茶店のほうに金持ちの客が集まることを知っている香田は心配になる。コーヒーは絶対自分のほうがおいしいのに。固い椅子しかないし、店が素敵じゃないという理由で、金持ちは滅多に飲みに来ない。せいぜい、コーヒーが評判ならどこでもいくという変わり者の金持ちが来るくらいだ。しかも彼らはコーヒーしか頼まないので、長時間席を占領しているのを見つけるとオーナーが香田をにらみつける。

 やはり今年も負けるかもしれない。しかし、それもコーヒー次第だ。吉田氏の目を見てみろ。ハーブや若い美人には目もくれず、山口のことしか見ていない。コーヒーのことしか頭にない、と、香田は再び自分に言い聞かせるが、なんだかどうしようもない運命の重みと闘うのが嫌になりかけていた。

「私は去年一年、吉田様の御援助を賜りまして、世界各地のコーヒー園を巡りました。そうしてコーヒー豆をより深く知りたかったのです。そして、最上のコーヒーを見つけました。それは、採れたての豆を、皮をむいてすぐに煎って、ひいて、飲むというやり方です。コーヒーの主成分は、香気を伴う脂肪で、これはどうしても時が経ちますと酸化します。ですから、現地のコーヒー園で飲む、採れたてコーヒーに勝る味はないのです。

 ですが、皆様にもその味を味わっていただきたいと思います。

 こちらに用意致しましたのは、そのコーヒーです。」

 山口文太は袋の中から土でラベルが汚れている3本の緑色のビンを取り出した。コルク抜きで栓を引っ張り出しながら説明した。

「採れたてコーヒーをすぐに瓶に詰めて、炭酸ガスを入れて酸化を防ぎました。これはイエメンのコーヒー園で最高の木から採ったアラビアン・モカ・マタリの豆のコーヒーです。一週間前に淹れたのをこの日のために私が持ち帰りました。一週間といわず、もっと長持ちしますが、念のために。モカは甘みが強く、女性の方も好まれる味だと思います。」

 一口含むや、全員が恍惚となって目を閉じ、美しいハーブの生演奏に耳を傾けた。やがて吉田氏が口を開いた。

「かつて、私が今の会社に入社する前、私に飲めるのはまずい缶コーヒーだけだった。本物のコーヒーを淹れるのは、来客が来たときだけ。朝から晩まで休日なしに働いて、香りしか嗅いだ事がなかった。好きなだけ飲める金持ちになりたいとよく思ったものだ。

 これは最高のコーヒーだ。エチオピアのコーヒー園で飲んだコーヒーよりおいしい。そしてこの演奏!・・・素晴らしい。金を稼いできたのも無駄じゃなかったと思える。コーヒーを愛する金持ちだけが味わえるぜいたくだな。」

 山口文太が賞賛の拍手を受けているのを背中に感じながら、香田は列を離れた。もう二度とこの会に出るつもりはなかった。


 新幹線に乗ってから、クーラーボックスと10ℓの水ポットを忘れたことに気がついたが、どうでもよかった。後で送り返してくれるだろう。今は新幹線の旅を楽しもう。送ってもらったグリーン車のチケットは、自由席に換えてもらって差額を豆代に充てたのだが、それでも新幹線に乗れるなんて、たぶんこの先何年もないことだろう。

 車窓を流れる見慣れた日本の風景を見ながら、香田は目を閉じる。あのコルクの瓶のコーヒーの味はどんなだろう。後で探してみるが、きっと見つかっても迷うほど高価に違いない。自分には山口の真似はできない。卸売りの豆屋に電車で通い詰め、無理を言って小分けしてもらったあの豆達の混ざりあった茶色いコーヒーが、自分にできる最善の手段だった。だから悔いはない。精一杯やれたのだから。

 もう山っ気のある夢は捨てて、こつこつ地道に働いて、夢を掴もう。倹約に倹約を重ねれば後7年、いや5年で実現できる。モヤシと鳥の胸肉ばかりの自炊にも慣れた。5年くらい耐えられないこともない・・・。

 しかし香田は自分の中の何かが死んでいくのを感じた。彼は自分で思っていた以上にこの会に賭けていた。

 雇われ店長の仕事はひどくきつく、給料は少ない。5年と思うが、それだって十分な金額とは言えない。

(お金さえあったら…。100万円か、150万円ほどのお金があったら、そしたら今すぐ開店できる。同じ苦労を好きなコーヒーとともにできるんだ。)

 そのとき、隣の席に座った人が、足に荷物を押しつけてきた。一人でいたいのにと思って見ると、それは見覚えのあるクーラーボックスだった。クーラーボックスの隣には茶色の袋の山・・・。

 白い衣装を身に付けたままの山口だった。彼は人懐っこそうに香田に微笑みかけた。香田は思わずぶん殴りそうになったが、警察に捕まると思ってやめた。

「やあ。何で帰っちゃったんだ?是非話をしたいと思ったのにいないから、社長の秘書に電話して、わざわざ新幹線を聞いて、タクシーとばして追いかけたんだ。あのブルマン、ポットに残ってたんで飲んでみたよ。君ってすごいな。感心するよ。」

(追いつくわけだ。僕は20分もバス待ちした。)

 心の中で嫌いながらも、最後の一言で香田は山口を許した。

「話って言うのは実は君の将来に・・・いや、君と僕との将来に関わる大事な話なんだが・・・その前にこれ、飲みたいだろう?母親の分だからって言って、今日の残りをもらってきたんだ。一人分もないが、半分ずつにしよう。」

 山口はあの魅惑の瓶を出して、瓶の口を香田に勧めた。これは口飲みするのは惜しいと香田はためらった。カップで飲みたい。

「早く飲まないと酸化する。」

 香田は小さく一口だけ舌の上に乗せてみた。軽い衝撃。今まで自分がコーヒーと思っていたのは、皆このコーヒーの出来損ないだった。コーヒーの完成形。この若々しい香り、そしてとろけるようなすっきりした苦味。まるで・・・。と、思いつく前に山口はまだ飲みたい香田から瓶をひったくって、全部飲んでしまった。

「まだ家にもあるから、よかったら家に寄っていかないか?長い話になるかもしれないしな。」

 香田は迷いを感じて黙った。山口も黙って返答を待っていた。この一年、憎い敵だった。悪夢にも出てきた。しかし香田はずっと聞きたかったことがあったので、我慢できずに口を開いた。

「今日焙煎してた豆はいったい何に使ったんだい?」

「あれは吉田社長の作った豆だよ。去年の会のときあれを使ってコーヒーを淹れたんで、社長に今年も煎っておいてくれって頼まれたんだ。」

 再び沈黙が二人を包んだが、今度の沈黙にはどことなく親しみが混じっていた。

 こうして山口はがっちり香田を捕まえたのだった。瓶コーヒーをもらうまで山口から離れられなくなってしまった香田に、山口は巧みに話題を振って、自分の話をさせた。

 大学の頃、一杯のコーヒーにとりつかれて、授業そっちのけでコーヒーを飲み歩いたこと。豆会社に就職を願うも叶わず、今はコーヒーチェーンの雇われ店長とは名ばかりのウェイター兼洗い場兼レジ兼軽食のコック兼バリスタをしながら、コーヒー店を開く資金を貯めようとしている事などなど。山口は注意深く真剣に香田の話を聞いてくれるので、香田は山口を憎い敵からいい友人とまで思い直したほどだった。

「それで、その店はどこにある?」

「どこって、川崎の、工場横の・・・」

「駄目だ。そんな所じゃ。500円のコーヒーが工場従業員に売れるわけがない。すぐにもっと金持ちの大勢いる場所に変わらなけりゃ。

 それで?お前は結婚しているのか?」

 香田にも見栄があったので、返事をためらった。

「店を出したいのなら、ただ働きしてくれる奥さんがいる。いいか、お前に教えといてやる。」

 いつの間にか2人は友人の話し方になっていた。山口が上で、香田が下である。

「店を出したいのなら、絶対に守らなきゃならん5か条がある。これがないと飲食店は3ヶ月で潰れる。たいていの飲食店が3ヶ月で潰れるんだ。

 一つ、場所。ターゲットになる客層が、大勢通る場所に店を置く。

二つ目が無料で働いてくれる配偶者を持つこと。

三つ目が金。3年間は自力で生活できるし、家賃光熱費仕入れ代その他を払えるだけの金が要る。

四つ目は、困った時の銀行。何があるか分からんから、毎月事業報告書を出して、普段から銀行参りをしとくんだ。

五つ目が最低いくらあれば生活できるのか、食費家賃その他の光熱費がいくらかかるか計算することだ。

ノウハウやら経験やらは別だぞ。そんなのは必須条件だ。」

「へええ。」 

 香田は感心した。

「でも、三と五は同じじゃないか?」

「いいんだ。五つのほうが収まりがいいんだから。それで、年収はいくらだ。」

「それはすごい個人情報だけど、こっそり言うと・・・。」

「50万上乗せしてやる。僕の作る会社に来い。新宿のホテルでバリスタやらせてやる。思う存分腕が振るえるぞ!掃除も洗い物もバイトがやってくれる。」

 香田は疑り深い安全志向の強い人間だったから、そんな調子のいい話にうまうま乗せられるのはどうかと思った。山口にそんな力があるのかどうかもすこぶる怪しかった。しかし、山口のアパートで瓶詰めコーヒーを1本もらって、一緒に吉長さゆり嬢のCDももらい、デートの機会も作ってやるといわれると、すっかり丸め込まれてしまって、心が動いた。

 駄目だったら、また別の喫茶店で雇われればいいだけの話。毎日本物のコーヒーが淹れられるのなら、それだけで危険を冒す価値があると香田は思った。そして、言われたとおり、1か月したら、山口の下で、新宿のホテルで、働くという誓約書を書いた。何故か心変わりをしたら違約金を支払うとの一文まで入っていたが、香田は気にしなかった。気持ちを変えるつもりはなかった。

(信じてみよう。二度も僕を負かした男だ。)

 結局香田はそう考えたのだった。失うものは、安い割にやたらと働かされるあの喫茶店兼レストラン。惜しくはない。

 

 翌日、店に吉田氏の秘書から電話がかかってきた。忘れ物をとりに来いと言うのである。送ってくれというと、話もあるから足代も払うと言う。

 何だか前にもあったなと、思いながら香田は次の休みに新快速で吉田邸に向かった。そして約束どおり、もう一度ブルマンブレンドを淹れた。

 話というのは、コーヒーの会では拍手を逃したが、香田の技術には感心したので、我が社でコーヒーソムリエとして働いてみないか?一度面接を受けに来てくれ。年収は400から500万くらい出してもいい・・・という事だった。

 香田は気が遠くなった。初めて山口が知り合ったその日に誓約書を書かせた意味が分かった。山口は知っていたのだ。この話が来ることを。香田は泣き出しそうになりながら、そのことを吉田社長に説明した。

「何?じゃあ、新宿の店を手伝ってくれるという友人とは君のことか!山口を呼べ!」

 吉田社長は青筋を立てて怒鳴った。しかし居間には香田しかおらず、吉田は悪態をつきながら自分で電話をかけた。

「もう君は帰ってよろしい。またこちらから連絡する。」

 しかしそれきりまたこちらから連絡はなかった。


香田が辞職を申し出ると意外なことにレストランの方ももめた。香田は辞めなければ違約金を取られることを説明した。

「違約金だと!それならこちらも払ってもらおう。3か月前に、あと1年働くと言う誓約書に君サインしただろう!弁護士を立てるぞ。辞めたければ法廷に訴えろ。」

 香田が山口に辞められそうもないと言うと、山口はにやっと笑って、僕が話をしてやるからオーナーの連絡先を教えてくれと言った。


山口はどう言いくるめたのか、結局一ヵ月後、香田は、吉田社長念願のコーヒー園直送喫茶店「ゴールドカフェ」1号店の副店長になった。店長は山口で、しかし彼は滅多に姿を見せなかったが、何故かクビにはならず、香田が全てを切り回すことになった。洗い物や掃除はなくなったものの、残業と、次々とやってくる新人達にコーヒーのコツを教える日々が待っていた。

苦労して積み上げてきたノウハウをあっさり教えるのは惜しかったが、香田は手を抜かなかった。自分が一杯のコーヒーに人生を変えられたように、この新人達の淹れるコーヒーで、コーヒーに目覚める人が出てくるかもしれない。

経理も任された。これは昔からやっていたが、新宿店は桁が違うし、物騒で神経を使った。が、香田は大金を預かるからこその責任があると思い、疲れていても一円もおろそかにせず、毎日自分で電卓をたたいた。

新宿は夜こそ接待の客が商談に来る。山口は深夜営業を決め、香田はカクテルを習わされたが、眠れない孤独な客が夜もコーヒーを飲もうと来ると、コーヒーの同志を見つけたようで嬉しかった。

給料はレストラン時代より上がってお金の貯まるスピードも上がったし、同じ苦労でも毎日飽きるほどコーヒーを淹れる仕事ができて、香田は幸せだった。

 

香田はテーブルの隣を通って香りを感じるだけで淹れるのに失敗したコーヒーを見抜いた。

「水の温度が高すぎだよ。あと5℃くらい下げて。容器を指で触って感覚をつかむんだ。熱い?じゃあ、湯気に指をかざすのでもいいよ。あんまりかざしたら、水を汚すからダメなんだ。そこ微妙だからね。」

「君のコーヒーは温度が低いぞ。湯気の出方が少ない。ちゃんと温めた?ふーむ。目の前で温めるのだって、お客様へのサービスの一つなんだよ。」

「君いいね。すばらしいよ。君のコーヒーは。カウンターに移って。焙煎機にいちばん近いから、酸化する前にコーヒーを淹れられるよ。時間を間違えちゃいけないよ。イタリアンローストの深煎りは長く、緑の豆の浅煎りは短く…」

「君、抽出の時間を長くしすぎたぞ。香りにえぐみが交じりかけたらすぐにじょうごを引くんだ。交じってからじゃ遅い…えっ鼻かぜ?今日は帰りなさい。カバーしておくから。バスはあるね?何か食べられそう?パン、食べられそうなのがあったら持って帰っていいよ。選んで。牛乳も飲めそう?」

香田はコーヒーの伝道師だった。そのあまりのコーヒーに対する真剣さと何の疑いもなく人生の一番の幸福にコーヒーを置いている姿勢に、下についた若者はコーヒーを神聖視せざるをえず、神経質になるあまり、コーヒーを飲めなくなる者もいた。

注文すればタキシードを着て真剣な目をした若者が、目の前で挽きたてコーヒーを確かな技術で淹れてくれる。味は一度飲めば忘れられないほどおいしい。「ゴールドカフェ」は満員御礼の大繁盛店となった。


結局香田は理想的な副店長だった。探し回っても見つからないほど信頼のおける副店長だった。コーヒー豆の品質と淹れ方にこだわりすぎるきらいはあったが、それ以外は誠実で温厚で客も従業員も離れなかった。

こうして、本人の値打ちよりもずっと低い給料でよく働いてくれ、裏切らず、上前をはねても全く文句を言わずに売り上げを指定口座に振り込んでくれる同志を手に入れた山口は、自由に動き回り、勝手に水面下で始めた自分のコーヒーネット通販の客をどんどんと増やしていった。一年の半分は海外で店長不在だったが、珍しい豆のお土産をいつも必ず持ち帰ってくれたので、香田は何の疑問も持たなかった。むしろ歓迎した。こうして香田はそうとは知らずに強力に山口を支えた。


2年後、香田の知らないところでの吉田社長と山口の壮絶な果し合いの末、新宿店は山口に乗っ取られ、「ゴールドカフェ1号店」は「山口珈琲店1号店」と名前を変え、さらに香田の育てたバリスタが代官山2号店を出していた。

数日前に香田は辞表を出していた。山口は三度も辞表を目の前で破ったのだが、性懲りもなくまた出してくるので、今日は威圧的な態度を転換し、懐柔のために、カウンターでコーヒーを飲みに来ていた。

「代官山店まで出したのに、給料を上げなかったのが不満だったんだろう?」

「いや、とんでもない。代官山も、この新宿の店も、社長の才覚があるから流行ってるんですよ。」

 香田は心からそう思って言った。新宿店はエグゼクティブ向けに重厚なしつらえに、話し声ももれないように配慮し、代官山店は女性向けにパリ風のお洒落なしつらえに。インテリアから制服やカップにいたるまで、山口の指示は細かく、さらに従業員の笑顔、敬語、お辞儀の角度をチェックしに抜き打ちで店を訪れては延々と説教し続けるので、山口は台風並みに恐れられていた。

それもこれも香田には出来ない事で、だからひとえに店の成功は山口の才覚だと、信じて疑わなかったのだ。

 穏やかな香田の笑顔を見ていると、さすがの山口も後ろめたさを感じた。

「いや、コーヒーがいいからだよ。いくらインテリアがよくても、まずくちゃなあ。」

「私は辞めさせていただきますが、この二年間、ここで働かせていただいて感謝してます。川崎で、粉コーヒーを淹れてた頃のことを思い出すと、コーヒーミルを回しながら、何度もうれしくて涙が出そうになりましたよ。だからずっと、働かせていただきたかったのですが、やっと資金がたまりましたので。さゆりも手伝ってくれると言っていますし。

もちろん、後任者が出るまで続けさせていただきます。今、良さそうなバイトが2人おります。どちらかお好きなほうに社長が声を掛けていただければ。」

「最近の若いのは根気がないからなあ。またどっかから引き抜くか。募集広告はかけないとなあ。・・・さゆりちゃんと本当に結婚するの?」

 香田は幸せ一杯でにんまりとうなずいた。

「はあ。・・・僕なら絶対にしないな。もっといい女が出てくるかもしれないのに。それに演奏家は気まぐれで金遣いも荒いぞ。それで?どこで店出すの?」

「文京区です。」

「もう見つかってるの?」

「ええ。社長が以前おっしゃっていた通り、人通りも確かめてきました。高級住宅街も近いし、OLも多いので、何とか食べてはいけると思います。」

「そうか・・・。」

 山口はその店を探して人知れず邪魔する方法を見つけてやろうと思った。深夜労働にも文句も言わず、給料も据え置きで、滅多に休まない香田は、全く得がたい働き手なのだ。戻ってくるときには給料を減らすといっておいて、また元の給料にしてやれば、感謝して今まで以上に働いてくれるだろう。家庭があれば、尚更だ。

「何だか失敗しそうな気がするなあ。お前は宣伝も下手だしなあ。」

 香田は修行僧のように微笑んで、カップを磨いた。

 その時、山口は香田を吉田社長から奪った日のことを思い出した。あれほど怒りっぽい吉田社長が、カップを下げ忘れた香田を温かい目つきを見ているのを見て、こいつは気があると思ったので、すぐに話をつけて誓約書も書かせておいた。そもそも、吉田社長から新宿店を任せたいという話があったとき、香田を取れたら丸投げできそうだと思って、「手伝ってほしい友人」の話をし、その足で香田と友人になりに行ったのだった。

その後、吉田社長の脅しや皮肉をうまくごまかしながら、ゴールドカフェ発通販の会社を作り、その会社が軌道に乗りかけると今度は怒り狂う吉田社長と近くにライバル店を作るぞとやり合い、香田の知らないところで香田と香田の育てたバリスタの奪い合いをし、結果、腰を据えるとなかなか動かない安定志向の強い香田をがっちり掴んでいる山口が勝って、手打ちになった。

これから、口から火を吹いて怒っている吉田社長をしのぐ人脈を作っていかなければならない。勝てばどんどんと金の流れが懐に流れ込む。その額は香田の満足している給料の1000倍にはなる。負ければ莫大な負債を抱えて、フィリピンあたりへ高飛びするしかない。

 その競争に、最初から香田は脱落している。彼はコーヒーのことしか考えていない。山口は最初からお金のことだけを考えていた。コーヒーは手段に過ぎない。

「お前は幸せだな。コーヒーのことだけ考えていればいいんだから。」 

 香田は笑った。

「悪いことは言わない。給料上げてやるから残れ。商売始めたら、好きだけではすまされんぞ。さゆりも気まぐれの身勝手女だ。自営の手伝いは無理だ。」

(例えそうでもさゆりは僕の淹れるコーヒーとなら結婚してもいいと言ってくれた。それに僕がみすぼらしい制服を着ていたときから僕に優しくしてくれた。)

 香田はカップを持つ手をとめて、山口をしっかり観察してみた。2年前、明るい日焼けした好青年だった男は、今は太って、シャツのおなかがでっぱっている。日焼けとは違う黒ずんだ顔色の悪さ。目も血走っている。毎晩のように六本木で接待に明け暮れているという。

 今この人の淹れるコーヒーは、かつてのような香気を放つだろうか。見るだけで飲みたくなる何かを放っていたあの楽しげなコーヒーを、今もこの人は淹れられるだろうか。香田は首を振った。今なら自分の、地味だが考え抜かれ、安い豆でも最大限に生かされたこの一杯のコーヒーが勝るだろう。

「そうですね。確かにそうです。」

「だろ!じゃあ辞表はとりやめにして・・・。」

「しかし一度だけは自分の店でコーヒーを淹れてみたいです。私の夢ですので。お許し下さい。」

「そうか。でも忘れるな。失敗したら俺のところに来い。」

 山口は頭の中で計算した。新宿店を任せられる人間をこの機会に2人ほど育てさせておこう。一人は予備にする。香田が戻ってきたら、3号店を任せる。横浜に作りたいと思っていたところだ。名古屋進出してもいい。いい考えだ。ピンチはチャンスだ。

 しかし、ピンチはピンチで終わった。

 香田が必ず失敗すると思ったのは山口だけではない。吉田社長もそうだった。そして香田フリーの状態を見逃さなかった。

「受けて!」

山口の言った通り財布の紐のゆるみがちな美しい妻は、この話を聞くと、香田の知らなかった金切り声で叫んだ。

「もやしと鶏の胸肉だけのお食事なんてもうできない!コーヒーとお菓子じゃご飯にならない!それに私奨学金の返済がまだなの!」

どれも初耳だった。特に最後のは衝撃だった。

こうして香田の夢の喫茶店は開店準備期間で閉店した。内装を始める前に閉店したので、損は少なく、彼は開発部で、退職後の喫茶店を夢見ながら新しい缶コーヒーを作る仕事を選んだ。中級の豆を工夫と腕でおいしくしてきた香田の経験が、開発部に太い柱を入れることになった。彼はいかにもおいしく聞こえる一般には目新しい技術をいくつも紹介して、吉田社長の会社の缶コーヒーの人気は落ちることがなかった。

山口を富ませていた香田は、今度は缶コーヒーの定番を作って、吉田社長の会社を競争の激しいコーヒー業界でゆるぎないものにし、しかし当人は一向に肥え太らないという歳月を送った。

 そして何年かして、香田は山口が行方知れずになったという話を聞いた。

「ああ、じゃあもう、あのコーヒーは飲めないなあ。でもきっとコーヒー園のある国にいるよ。あの人は。」

 香田はそう言って、今はコーヒーを絶っている妻の大きなお腹をなでた。

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富豪のコーヒー 白居ミク @shiroi_miku

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