微睡みの中の物語

矢口 水晶

微睡みの中の物語


 僕の祖父、神田直次郎は不思議な人物だった。

 お正月やお盆に親類が祖父の家に集う際、彼は「おいでおいで」と言って僕や従兄弟たちを自身の周りに集めた。そして、しわに覆われた巾着袋のような口をもごもごと動かし、彼が幼少期から青年時代までに体験した冒険譚を語り出すのだ。




 ◆   ◆   ◆




「今日はわしがお前たちくらいの時の話をしようかの。狐の嫁入りを見た話じゃ」


 祖父は軽く天井を仰ぐようにすると、眼鏡に隠れた目をしょぼしょぼと瞬かせた。

 幼少の頃、祖父は京都の伏見で暮らしていた。彼の家は稲荷神社の近くにあり、近所の子供たちと一緒に毎日境内で遊んでいたのだそうだ。


 ある日、祖父はいつものように千本鳥居をくぐりながら、探検ごっこをしていた。すると急にぱらぱらと小雨が降り出し、冷たい雫が彼の鼻頭を打った。

 驚いて空を仰いだが、鳥居の合間からは白っぽい日差しが差し込んでいる。彼は不思議な天気だと思って首を傾げた。


 ふと鳥居の隙間から外を覗くと、森の中を長い行列が進んでいるのが見えた。彼らはそろって着物や紋付きに身を包んでいて、黒い衣が雨でしっとりと濡れているようだった。

 その中に、綿帽子を被った白無垢姿の女が混じっていた。

 女は着物の裾を押さえるようにして、しずしずと進んでいく。それは花嫁行列だった。人々の歩みに合わせて、しゅらんしゃらん、と玉鈴が鳴った。


 こんなところを花嫁行列が進んでいるだけでもおかしいのに、参列者はみんな白い狐の面を付けていた。つり上がった目に赤い唇。狐の面がずらりと並んでいる様子は、ひどく不気味だった。しかし、祖父は怖ろしいとは思わなかったという。


 薄暗い森の中、花嫁の着物は雨の粒子を絡ませ、白く浮き立っていた。まるで光の衣をまとっているかのようなその姿は、美しい天女のように見えたそうだ。

 彼はじっと息を殺しながら、そのあやしくも神聖な光景に見入っていた。


 狐の嫁入りの他にも、祖父は少年時代にいくつも京都の闇を垣間見た。真夜中に百鬼夜行を目撃したり、天狗にさらわれそうになったりもしたという。京都を駆け回る少年時代の祖父は、まるで少年漫画の主人公のよう好奇心と勇気に溢れていた。


 祖父の話を聞いて、私は京都の町に憧れを抱いた。私の頭の中で京都というところは、人間とお化けの混在する異形の都と化していた。

 いつか、祖父のようにあやしい世界を探検してみたい。子供の頃、お話を聞く度に、そう思っていた。


 親戚の子供たちの中で、最も祖父の物語に魅せられていたのは僕だった。従兄弟たちがお話に飽きて外へ遊びに行っても、僕だけはずっと祖父にひっつき、次のお話をねだっていた。


 お話を最後まで聞いていると、祖父は決まって夏はアイス、冬はストーブで焼いた餅を食べさせてくれた。それは従兄弟たちの目を盗み、こっそりと悪戯をするようで気分がよかった。


 祖父はお菓子を頬張る僕を見ている間、恵比寿様のようにふくふくとした顔で笑っていた。そしてにっと笑って、抜けてまばらになった歯を見せるのだ。


 またある時、祖父は戦時中に人魂を見たというお話を語ってくれた。

 あれはちょうど終戦記念日で、テレビで戦争について何らかの番組をやっていた。僕はそれを見て、戦争へ行ったのかと何気なく祖父に尋ねた。


「おお、行ったとも。わしはな、実際に兵隊にとられて戦争しに行ったんじゃ」


 僕のいかにも子供っぽい質問に、祖父はゆっくりとうなずいた。禿げ上がった頭が汗に濡れて、つるつると光っていた。


 戦時下、青年だった彼は徴兵され、無事に帰還したという経歴を持っていた。彼が送られたのは、東南アジアのある島だった。

 亜熱帯のジャングルでの軍隊生活は、それは悲惨なものだったと祖父は語った。いつも微笑を浮かべている祖父が、その時は表情を曇らせていた。


「ジャングルの中には、わしらを殺そうとするアメリカの兵隊がひそんでおる。一時も気が抜けんかった」

 そう言って、祖父はまた記憶を掘り返すように目をしょぼしょぼさせた。


 ある夜、祖父たちの小隊は本隊からはぐれ、食料も弾薬もつきかけていた。いつ米兵に見つかってもおかしくない状況の中、彼らは心身共に極限まで追い詰められた。

 祖父は敵兵に見つからないよう、仲間と共にジャングルで身をひそめていた。亜熱帯のジャングルは蒸し暑く、じっとしているだけで気力と体力が削がれていく。

 祖父は激しい喉の渇きを我慢できず、一人で川へと向かった。


 祖父は川にたどり着き、水をすくおうとして川辺にしゃがみ込んだ。すると、水面で何かが光った。祖父は驚いて手を止め、それをまじまじと見つめた。


「それは何?」と僕は問いかけた。祖父は顔を寄せ、


「人魂じゃよ」


 と低くささやいた。


 光は一つではなかった。数え切れないほどのおびただしい光が、水に浸された祖父の足許に広がっている。それらは蛍の群れのように漂い、川に沿って流れていた。

 最初は星の光が映っているのかと思い、夜空を仰いだ。だが、その日は雲が出ていて星は一つも見えなかった。


 祖父は喉の渇きも死の恐怖も忘れ、しばし水面を眺めていた。光の群れがジャングルの闇に浮かび上がる光景は、まるで夢を見ているかのようだった。そしてむしょうに悲しく、この世の果てに立っているように心細く感じたそうだ。


「たぶん、あれはジャングルで死んだ者たちの魂だったんじゃろう。みんな川に乗って海に出て、日本に帰りたかったのかもしれん」


 そう言って、祖父は眠るように痩せたまぶたを伏せた。彼の目には、今でも異国の幻が見えているのだろうと思った。

 その日は非常に蒸し暑く、じっとりと汗の滲んでくる夜だった。




 ◆   ◆   ◆




「いいか、これは特別なお話じゃ。このお話はお前だけにしてやろう」


 祖父がとっておきのお話をしてくれたのは、小学校五年の夏だった。その時も従兄弟たちは外へ蝉を捕りに行き、家にいる子供は僕だけだった。外は焼けつくような日差しが降り注ぎ、蝉の声で満ちていた。


 祖父は居間の扇風機の前から立ち上がると、「おいでおいで」と言って廊下に出た。わくわくしながら後をついて行くと、彼の寝室に招き入れられた。この部屋は祖父と祖母が寝るところだから、入ってはいけないと両親にきつく言いつけられていた。


 祖父は僕を自分の後ろに座らせ、衣装箪笥の一番下の引き出しを開けた。箪笥の中には亡くなった祖母の着物が入れられていて、お線香にも似た懐かしい匂いが広がった。祖父は着物の下にそっと手を差し入れると、何かを取り出した。


 それは小さな木の箱だった。箱には何の装飾もされておらず、長い年月が経っているせいか、深い飴色にくすんでいた。彼はそれを両手で包み込むようにすると、耳もとで振った。

 からんころん――

 箱の中から、何やら乾いた音がする。僕はびっくりして目を瞬かせた。


「これは開けてはならん。とても大切なものが入っとるからな」


 祖父は念を押すように声をひそめると、木肌のような手で小箱の表面を撫でた。それはか弱い生き物をいたわるような、繊細な手つきだった。

 眼鏡に隠れた目が、記憶を手繰って動き始める。そしていつものように、不思議と冒険に満ち溢れたお話が始まった。




 ◆   ◆   ◆




 終戦後、直次郎青年は京都の実家を出て東京で暮らしていた。

 当時彼が働いていたのは、浅草の劇場だった。子供の頃から芝居を見るのが好きで、劇場で働くことに憧れていたらしい。給料は決して高くなかったが、不満はなかった。大好きな芝居に少しでも関われただけで、毎日が楽しかったそうだ。


 ある夜、直次郎は仕事を終えて、下宿屋に帰宅しようとしていた。浅草の街は芝居や映画を見に来た人々の活気で溢れ、彼はその雑踏の中を歩くのが好きだった。家路を急ぐこともなく、ズボンのポケットに手を突っ込んでぶらぶらと歩いていた。


 その時、ふと路地にうずくまっている女を見つけた。

 女は路上に積み上げられた資材と飲み屋の壁の間に隠れるようにしながら、ぐったりと顔をうつむけていた。その様子は、いかにも具合が悪そうだった。


 生来お節介な性質の直次郎は、女に声をかけた。女はびくりと身体を震わせ、長く垂れた髪の下から、直次郎を見上げた。

 女の肌は魚の腹のように青白く、濁った目には生気がなかった。胸には、桐の箱を後生大事に抱えている。

 器量は良いが、何だか不気味な女だなあ――と、直次郎は思った。重く湿ったような黒髪からは、かすかに潮の香りがした。


「見世物にされていた妹を、迎えに来たの。見つけたけれど、帰り道が分からなくなって……」


 女はひどく聞き取りにくい声で、ぼそぼそとしゃべった。

 貧しい村の娘が見世物小屋に売られるというのは、当時よくある話だった。「妹はどこか」と問うと、「ここにいる」と言って、彼女は桐の箱を掲げる。

 言葉の意味はよく分からなかったが、直次郎は彼女が気の毒になり、力になってやりたいと思った。


 何か欲しいものはないかと問うと、女は水を所望した。喉がからからに乾いて、死にそうだと訴える。直次郎は女の手を引いて、自分の下宿屋へと連れて行った。

 直次郎はコップに水を注いで、女に手渡した。彼女はコップを煽ると、あっという間に飲み干してしまった。それでも足りず、まだ水を欲しがる。


 コップを渡されるのがもどかしくなったのか、女は蛇口に口を付けて水を飲み始めた。ごくっごくっごくっ……と東京中の水をすべて飲み干さんとする勢いで水を貪る。直次郎は唖然としてその様子を見守っていた。


 ようやく喉の渇きが癒え、女は息を吐いて手の甲で口端を拭った。上げられた女の顔は、いくぶん血色が戻って頬が艶々としていた。

 女はにっこりと微笑んだ。その笑みが窓から差し込む月明かりに照らされ、美しく浮かび上がった。


「海に行きたい。連れて行ってほしいの」


 女の願いを直次郎は快く了承した。しかしもう遅いので、明日の早朝に東京湾へ行くことになった。


 彼女は襖の前に座り込むと、箱を抱えて小声で歌い出した。その姿はまるで赤ん坊を抱いて子守歌を歌う母親のようだった。

 直次郎は畳の上に寝転がり、女の声に耳を澄ましていた。彼女と同棲でもしているような、奇妙な錯覚を覚えた。歌は外国の曲のように歌詞が聞き取れなかったが、甘く心地よい響きだった。


 やがて、歌声が唐突に途切れた。直次郎は不思議に思って顔を上げる。

 女は箱を抱いたまま、うとうとと眠っていた。そのあまりに無防備な表情に、直次郎はおかしくなって、くすりと笑った。


 翌朝、直次郎は女を連れて始発の電車に乗り、海へ向かった。

 当時の東京湾はまだ開発が進んでおらず、美しい海岸や干潟が残っていた。直次郎と女は埠頭に立ち、水平線から昇る朝日を眺めた。

 まっさらに漂白されたような景色に、直次郎はほうっと溜息を零した。


「あなたにこれをあげる」


 女は直次郎の手の平に何かを乗せた。

 それは小枝のような、細く白い欠片だった。欠片は朝日を浴びて、きらきらと雪のように輝いていた。


「それはね、私の骨」


 その言葉に、直次郎はぎょっとして女の顔を見た。すると女は右手を上げて、柔らかく微笑んだ。

 彼女の右手からは、小指がなくなっていた。指の付け根は滑らかな皮膚で塞がれ、最初から指がなかったかのようだった。


「人魚の骨よ。持っていて、お守りになるから」


 女はそう言い残すと、海面へと身を躍らせた。

 ざぷん、と海面に水飛沫が立つ。慌てて直次郎が埠頭から見下ろすと、女の姿は消えていた。

 ゆらゆらと揺れる海面には、白い泡だけが漂っていた。


「わしが死んだら、お前にこれをやろう。だからこの話は誰にも教えてはいかん。わしとお前だけの秘密じゃ」


 祖父は唇に人差し指を当てると、悪戯っぽく微笑んだ。僕は何だか誇らしい気持ちになって、彼と同じように人差し指を口に当てる。

 祖父は東京湾に消えた人魚を思い出すように、小箱を振る。

 からりからり――箱の中から、骨の奏でる音がした。




 ◆   ◆   ◆




 その後、中学、高校と上がっていくにつれて、祖父の物語を聞くことはなくなっていった。

 僕も従兄弟たちも歳が上がると、親戚の集いに顔を出すのが億劫になり、祖父の家に行かなくなったからだ。


 僕は十九歳になり、祖父の育った京都の大学に進学した。実際に住んでみると京都は不気味な魔物の棲む都ではなく、ただの観光地だった。当然、僕の身の回りで祖父が体験したような出来事が起こるはずもない。

 いつの頃からか、僕は祖父の持つ人魚の骨のことを忘れてしまった。


 祖父が亡くなったのは大学三回生の夏だった。

 以前から身体の具合が悪かったと聞いていたが、まさかこれほど唐突に、祖父の訃報を知らされるとは思っていなかった。

 僕はゼミの合宿を断り、新幹線に乗って祖父の家に向かった。そしてその夜、通夜に出席した。


 棺の中の祖父は、生前と変わらず恵比寿様のように穏やかな顔をしていた。しかしその表情はどことなく寂しそうでもあった。


「そういえば親父の奴、よくお前にほら話をしていたよなあ」


 通夜の後、父がネクタイを緩めながら言った。その夜は記録的な熱帯夜で、汗がじっとりと喉元に絡みつくようだった。

 僕が首を傾げると、「何だ、知らなかったのか」と父は笑った。


 聞けば祖父の出身地は京都ではなく、石川県だった。実家を飛び出して上京するまで、ずっと小さな港町で暮らしていたらしい。


 また戦時中、彼は肺病を患って徴兵検査に弾かれ、出征さえしていなかったという。だから稲荷神社の狐の嫁入りも、ジャングルをさまよう人魂の群れも、見たはずがないのだ。


「きっと親父は寂しかったんだよ。俺もお前も家を出て、お袋が死んだから。作り話をして孫達の注目を集めたかったんじゃないかな」


 長男である伯父は、祖父を懐かしむように煙草の煙を吐いた。薄れていく紫煙の向こう、遺影の中で祖父はふくふくと笑っていた。


 この歳になるまで、祖父の話を信じていたわけじゃない。子供の頃から祖父の物語を面白がりながらも、心のどこかで嘘っぱちだと思っていた。摩訶不思議な物語を鵜呑みにするほど、現代の子供は純粋じゃない。


 それでも、父たちから祖父の真実を知らされ、お気に入りの絵本を捨てられたような、何とも寂しい気持ちになった。


 その夜、僕は祖父の寝室に忍び込んだ。

 衣装箪笥の一番下の引き出しを開けると、あの時と同じどこか懐かしい香りが漂ってきた。着物の下に手を入れ、固い感触を確かめる。そこには昔と変わらず、小箱が大事に仕舞われていた。

 祖父が死んだ今、これは僕のものだ。


 祖父を真似て箱を振ってみる。からんころん ――あの日と同じ、軽やかな音がした。悪戯を企む少年のような、祖父のかわいらしい笑顔を思い出す。


 一瞬、中を覗いてみようかという考えが頭をよぎったが、止めた。それはあまりに無意味なことだと思った。

 中に入っているのが人魚の骨だろうと、そうじゃなかろうと関係ない。祖父が人魚と過ごした美しい一夜は、今も僕の中で息づいている。


 僕は箱の中を想像する。きらきらと輝く白い骨が、ひっそりと微睡んでいる。



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