人魚
野沢 響
第1話
最近、よく子供の頃の夢を見るのです。母がまだ生きていた頃、一度だけ人魚の絵画展に行ったことがありました。展示されている絵画は当たり前ですが、皆上半身は人間の女性、しかし下半身は魚の姿をしており、その珍妙な姿が気味悪く感じられ、とてもではありませんが楽しむことなど出来ませんでした。次女も私と同じで楽しそうにしていた様子ははありませんから、恐らく私と同じ気持ちだったのでしょう。
しかし、長姉は違いました。まるで何かに憑かれた様に一枚の絵画の前で立ち止まり、その場から動こうとしなかったのです。
長姉が変わってしまったのはは去年の冬頃です。長姉は誰に対しても愛想が良く、よく気が利く美人だと評判で、私はそんな姉をとても慕っておりました。それまでは特に変わった様子もなく元気だった姉ですが、季節の変わり目に体調を崩し、暫く病床に臥しておりました。体調を崩した翌日から高熱に見舞われ、何度も「人魚……、人魚……」と、うわごとを繰り返したのでございます。
熱が下がっても、同じ言葉を繰り返し、家の者たちを心配させました。
「姉さん、入りますよ」
姉の部屋の襖を開けますと、境内の前に腰を下ろし鏡に映る自分の顔をぼんやりと眺めておりました。私に気付くとゆっくりと振り返りました。ですが、私へ向けられたその眼差しには生気など宿っておりません。
「具合の方はいかがですか?」
「体調は、良いわ。私ね、人魚になりたいの。人魚の様に血も骨も残らずに消えてしまえたら、どんなに素晴らしいかしら」
姉が発したたわごとに私は絶句しました。
「姉さん、何を言っているんです。それに、人魚になどなれません。あなたは人間なのですよ?」
嗜める様に言いますと、姉は気分を害した様に私に部屋から出る様に告げました。
その日の晩、夕食を済ませた父が落ち着かない様子で尋ねました。
「様子はどうだ? 医者の話ではもうじき良くなるということだったが」
「いえ、それが……、良くなるどころか悪くなってきている様に感じます。人魚になりたいと、話しておりました」
私が顔を伏せてそのように伝えますと、父は落胆した様子を見せ、後悲しそうに呟きました。
「そうか。いくつも縁談の話を頂いているのになぁ……」
父はのろのろと立ち上がると自室へと戻ってしまいました。
「まったく、あんな状態で縁談なんか受けられる訳ないじゃないか。近所になんて噂を立てられるか分かったもんじゃないよ。父さんも何考えてるんだか」
父と私の会話を聞いていた次女は呆れた様に溜息をつきました。
「大体、人魚になりたいって何さ? 狂言も大概にして欲しいもんだね、まったく」
この姉は私たち姉妹の中でも一番はっきりと物を言う気の強い性格です。
私は次女の意見に賛成する意味を込め、首を大きく縦に振りました。
「私もそう思います。何故あんなおかしなことを言うようになってしまったのか……」
困惑した顔を次女に向けますと、彼女は食卓に置いたままになっている食器を片付けながら、
「これ以上悪くならなければいいけどね」
「あの、姉さんは良くなりますよね? 今は無理かもしれませんけれど、いつか必ず」
次女はしばらく黙っていましたが、やがて思い出したように口を開きました。
「何年か前に人魚の絵画展に行ったことがあっただろう。あの時見た人魚の絵に、姉さん魅入られたんじゃないかね」
数年前、とても珍しい生き物の絵画展が催されると話題になり、その絵画展に私たち家族も足を運びました。
「上半身が人間の女性で、下半身が魚の姿で、とても気味が悪い絵だと感じたのを覚えています」
「文字通り人と魚だからね。たがら人魚なんだよ。気味が悪かったのはあたしも同じさ。たしか異国の人魚の絵も展示していたね。髪が黄色で、目なんか青くてさ、あたしはあの絵の方が気味が悪かったねぇ」
「異国の人魚ですか……」
「その話はこのくらいにして、そろそろ姉さんの部屋から食器を持ってきておくれ」
私は次女に言われた通り、部屋に向かいました。
「姉さん、食器をを下げに参りました。失礼します」
襖を開けると、食器の上には料理が盛られたままになっており、箸をつけた形跡はありません。
「姉さん、具合でも悪いのですか?」
体調を気にして声をかけますと、姉はゆっくりと首を横に振って答えました。
「大丈夫よ。それよりね、この絵どうかしら? 上手く描けたと思うのだけれど」
そう言うと私に一枚の絵を見せました。描かれていたのは女性の人魚の絵です。背景が青いのは水中を表現するためでしょうか。姉の描いた人魚はじっとこちら見つめていて、墨だけで描かれているのに神秘的で美しく、けれど何とも言えない恐ろしさを感じました。私が昔見た人魚とはだいぶ違っており、髪は黒くありませんし、目もうっすらと水で薄めた墨が黒目の部分に塗られています。それに、日本人と比べてだいぶ鼻が高いように感じます。この絵に描かれた人魚が日本の人魚でないことは明らかです。
「この絵は姉さんが描いたのですか? とてもお上手だと思いますけれど、見慣れないせいか何だか少し怖いです」
「異国ではマアメイドと呼ばれているんですって。ねぇ、聞いてちょうだい。私は近いうちに人魚になるわ」
「人魚? 何を言っているのです」
「泡になるのよ、私。血も骨も残らずに消えてしまうの」
「泡になる、というのは一体どういうことなのですか?」
「異国にマアメイドが出てくる物語があるのよ。マアメイドは刃物で刺された後、泡になってしまうの。その最後がとても儚くて美しいわ。あなたもそう思うでしょう?」
姉はうっとりとした表情を浮かべると、口元を袖で隠し小さく笑うのでした。それ以上話すことはなく、何がそんなに楽しいいのか、ふふふ、と笑い声が微かに聞こえるだけです。
「マアメイド……」
呟いてから顔を伏せると人魚が描かれた絵が数枚落ちていました。
翌日、私が朝食の仕度をしていますと、次女が慌てた様子で私の名を呼びました。
「こっちに来ておくれ!」
私は何事かと思い、次女に駆け寄りますと、彼女は蒼白な顔を私に向けて唇を震わせながら、「姉さんがいない」と呟きました。
その言葉を聞き、私はすぐに姉の部屋に向かいました。勢いよく部屋の襖を開けますと、そこには次女が言ったように姉の姿はありません。部屋の中に入りますと、昨日見た人魚の絵が散乱しているのでした。
私は部屋の奥に進み、棚の引き出しを次々に開けていきました。まるで何かに憑かれたように全ての引き出しを開けましたが、どの引き出しの中にも姉の私物は入っておりません。
姉が気に入っていた櫛も、母から貰った手鏡も、家族で撮った写真も。
私は辺りに散乱している絵を拾い上げました。姉がどこへ行ったのか手がかりを見つけるためです。絵を拾い上げていくと、刃物の鞘らしきものが出てきました。
私はそれをしばし眺めました。姉が前日に話していた異国の人魚の話が脳裏に蘇ります。
姉は本当に人魚になってしまったのだと思いました。血も骨も残らずに消えてしまったのだと。
今ごろ綺麗な海の中で悠々と泳いでいるのでしょうか。
私は拾い上げた絵を持って、姉の部屋を後にしました。鞘は父と次女に見つからぬようにこっそりと捨てました。
あの日から二十年以上が経ちましたが、姉が戻って来ることはありませんでした。
(了)
人魚 野沢 響 @0rea
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます