繭姫

あずみ

繭姫


 朝ぼらけに似た薄明るさにて、時を留めたさいの河原。雑花を手折り、あえかに詠う小姫があった。

「逢ふ瀬あらば」

 声は漣。浅く遠く基から広がるうたは、やがて川音に溶け入って、たれぞに届く気配もない。

 しんと水香の沁む、寂たる気配を斥けるように、砂利の狭間の花から花へ、跣足はだしで礫の上を飛び廻る、その姿はさながら真白き蝶。ひらりひらり、翻される単衣ひとえの裾より、覗く脚は折れそうに細く、袖より蕾む手は手折れそうに儚い。大事に伸ばされた射干玉ぬばたまの髪が、すきとおるような小姫の頬を縁取り、肩を撫で、稚い背中を覆っていた。

 その年紀としごろは八つか九つ。瞼の裏に夢を隠し、生まれた邸の奥深く、眠るように生きてきた小姫は今、二度と動かぬ胸の前で衣を左前に着付けられ、がらす珠のような瞳で花を探している。

 ゆびで束ねた花々に、愛しげに桜貝のくちびる寄せて、小姫は何度もあどけない声で口ずさんだ。

「逢ふ瀬あらば」


   * * *


 渡し守は、小姫がほのかな声音を風に乗せ、軽やかに舞い遊ぶ様子を、川面に浮かぶ粗末な舟上で見守っていた。

 夜明けにも似た、むらさきを帯びた薄灰の。この世の界に落とされて、こころ穏やかに河原の涼気を味わえる人間はめずらしい。冥途に続く三瀬川みつせがわ、と、その名を聞けば多くは顔色をなくし、慌てふためき嘆き激した。情の乱れが収まると、渡し守に擦り寄って懇願する者があり、家族に持たせられた幾ばくかの銭を差し出す者がある。俗信は人の界の産物。渡し守はなにも求めはせぬのに、それをせねばこころ残りがあるとばかり、人は縋る。

 渡し守はその相手をするために此処にあった。よって、望まぬうちに人間を彼岸へ渡す本性は、まず持ち合わせていない。小姫にその用意ができて初めて、かれの出番がある。わざに渡し守の側から無理を説くことはなかった。

「渡し守。渡し守。こちらへ」

 只そこにあって、呼ばれることがあれば、否もなく舟を岸につけて声の元へと赴く。

 己の背丈の半ばほどの小姫と話をするにあたり、渡し守はさざれに片膝を落とすのが常であった。

「お呼びになられましたか、姫」

「渡し守。糸が、絡まってしまったのです」

 小姫はこの頃、花首を糸で縛る遊びに興じている。初めは、摘んだ花を編んで花冠にしようとしたのだが、雑花の茎の太さは様々で、うまく編めないと悩んでいた。やがて、すべての花を一本の糸に連ね、後で頭に合わせてくるりと巻いてしまえばよいのだと思いついた小姫は、こんこんとそのわざに熱を投じている。

「お貸しください」

 言って、渡し守は小姫から花の連を受け取った。

 なにをしたのか、糸は頑なな絡まりをして、山吹色の花を花弁の上からぐるり締め付けている。渡し守は力を尽くしたが、花を傷つけずに絡みをほどくことはできぬように思えた。

「花を諦めるか、糸を一度断ってしまうか、でしょうな」

「どちらが良いでしょうか」

「…………」

 渡し守は、己が決めて良いことだと思えないので、黙っていた。どちらにしろ断つしかあるまい、とは思い当るものの、それを小姫に告げることには躊躇いがある。

 小姫は、答えを返さぬ渡し守に諦めをおぼえたのか、糸を持ち上げ、歯でちょん、と途中を切った。

 山吹色の花がほろり、と連からこぼれ出る。

 それをたいせつそうに掌に拾い上げて、小姫はえくぼを刻んだ。

「これは、やんごとなき御方が贈ってくださったうたに、詠まれたお花。糸はまた繋げてしまいましょう」


   * * *


 小姫がこの河原に来て、どれほどの時が経ったのか。

 ひとところに留まった時を数え上げるのは、最早無為であるかもわからない。しかし、泡沫ふたつ淀みに集えば、くすぐり合って馴染むもの。共に過ごすうち、渡し守と小姫の間には、奇なる親しみが生じていた。言を交わす。笑みを交わす。只それだけのことで、胸に自分とは異なる温の灯火が宿ることを知る。

「渡し守。こちらにいらして。偶にはあなたのお話を聞かせてくださらない?」

「私の、ですか……?」

 小姫は渡し守が何者であるかを知らない。俗世で過ごすよろこびも、格別の情も持ち合わせぬ、只の仕組みの一部なのだと理解しない。

 愛らしい問いかけにどう答えれば良いかと、視線を泳がせた渡し守の目に、地に置かれたままの花連が映った。ここしばらく、小姫は同じ場所でぼうっと眠っていることが多く、連に結わえられた花は、これ以上には増えそうにない。

「花を、随分とお集めになられましたね。冠には充分でしょう。御髪に巻いてさしあげましょうか」

「いいえ、これは差し上げるものなのです。きっとあの御方にお似合いになると……」

 きっぱりとそう告げた小姫の表情は、段々と萎れたものとなっていく。

「……渡し守。あの御方は、いつになったらお迎えに来てくださるのでしょうか。とても、とても長い時間が過ぎていきました。このままでは、いずれ、あの御方の顔を忘れてしまいそうです……」

 渡し守はなにも言えず、只痛ましげな顔で、小姫を見上げた。


   * * *


 死して三瀬川を前にした時、女は初めて一つ臥所ふしどで契りを交わしたいもに背負われて渡る。

 そんな伝承を、何処で聞いたのか、幼い小姫は信じており、しかも、契った相手がいる、と言う。

「とてもお優しい御方でした」

「日々、お手紙をくださいました。病で伏しがちだったわたくしを励ますように、すばらしい手蹟で、やわらかなうたを、四季折々の花枝に添えて。わたくしは幾度、それにこころを慰められたか、わかりません」

「こわい夢を見たと言ったら、あの御方は隣に添って、共に眠ってくださいました。……雨の強い晩のことです。夜の間中、やさしい声でものがたりを聞かせてくださいました。いつも熱があった私の掌には、あの御方のゆびは、ずいぶんひんやりしたものに思えました。それがここちよくて……」

「その時、契りを交わしたのです。ずっと一緒に、小姫の傍に、いてくださいましと。あの御方は、ええ、と……おっしゃってくださいましたのに。なかなか、迎えに来ては、くださらない。あの契り自体、いつわりであったのでしょうか。そうだとしたら、……あまりにも救いがありません」

 花を結びながら、小姫がはらはらとこぼす問わず語りに、渡し守は耳を傾け続けてきた。

 しかし。

「……渡し守。たすけて。あの御方の声が思い出せないの。咳き込んだ時、そっと背に触れた、ゆびの感触も。比べるものなくお美しかった、御髪の艶も。衣に焚き染められた、高雅なかおりも。もっとたいせつな、たいせつななにか、が、たしかにわたくしの中にあったのに――こころのそこは、洞のよう」

 人のいのちは、色とりどりの縁と情で彩り、織り上げたきぬ。時の経過と共に少しずつほころびゆくのが世のならい。

 いそがしい生者のこころから、やがて死者の糸が抜け落ちるのも、必然の流れ。

 河原で待ち続ける小姫自身も、いつしか、体の端からほつれていく。

 手ゆびや足さきから真白き糸を垂らして。花を摘むことも駆け廻ることもなくなった。俗世の記憶を夢見ながら吐き出し、少しずつすきとおってゆく。それは営繭えいけんの蚕のさまに似ている。

 純な、無垢な、血の色を孕まないその糸色こそ、小姫がたれぞとも結ばれておらぬ証立て。そのことを知りながら――しかし、渡し守は、かけるべき言の葉を持たない。

「ああ、わたくし、どうしてこんなところに留まっているのかしら。あちらへ――渡らなければ……」

 長い眠りの後、糸を吐き出しきった小姫は、いよいよ軽やかになった体で三瀬川に足を踏み入れる。

 死出の冷に身を浸し、波に洗われて哀しみの水を呷りながら、彼岸を目指そうとする。

 契りの意味も知らぬ間に。あわれ、神に攫われしあどけないいのち。

 大衆のこころを慰めるために流布した俗信。それにさえ、救われぬものが此処にある。

 渡し守は見兼ねて小姫を抱き上げ、舟に乗せた。

 己はこの小さきものを掬うために、此処にあったのだ、と、ようやく得心する。 

 仕組みに過ぎぬいのち未満の、情で満たされた唯一の言葉を、供養代わりに。

「贈り物の花冠は、私が確かに、やんごとなき御方にお渡ししましょう。いつかお渡りになる日が来たら、その時に」

「……なんのことか存じませんが」

 けれど、お願いいたします、と。

 言って小姫は椛のような両掌を、ひたり合わせた。


 此岸に花冠を。

 たいせつに選び抜いた花と、今世いっぱいの無垢一色たるこころを残して。

 小姫は往った。



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繭姫 あずみ @azumi

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