本好き乙川さんは読むのが遅い 下巻

「……それでも読みたいのは読みたいわけね」


 ――聞けば彼女は、後ろ五巻あたりから読んでないようで。読む速度の遅さもあって、最終巻まで読み終えるのに実に一年以上の時間を費やしていた。


 まぁ学校にいる間、それも放課後一時間だけの読書時間である。あんな速度で読んでいては、一冊読み終える間にそれまでの話を忘れてしまいそうなものだけれど、何度も読み返していたおかげか、そういうことは無い様だった。


 ――そして今、彼女は。

 全二十七巻の物語を最後まで読み終え、本を閉じ。

 その読後感に浸っている真っ最中である。


「……どうだった?」


 彼女の幸せに浸る時間を壊してしまわないよう、そっと声をかける。自分も一応は本の虫であったつもりではいる。だからこそ、彼女のこの時間を大切にしてあげたいと思った。


「……私、本は読むけど――あんまり感想とか、そういうの苦手なんで。その、上手く表現できないですけど……あれ?」


 ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。

 ――彼女の涙だった。


「なんだか、涙が出てきちゃって……。きっと感動しちゃっただけですので、あまり驚かないでくださいよ」

「いや、別に驚きはしないけれど。……分かっていたし」


 いきなり目の前で女の子が泣き出して、『別に驚きはしないけれど』というのも我ながら酷いとは思うけど、それにしても状況が状況なのだから仕方ないだろう。


 ……、仕方のないことだろう。


「……え?」

「……僕もそれ読み終わった時、なんか泣いていたし」


 読む間はその文字を追うのに必死で、まるで洪水のように流れていく物語に追いつくのに必死で、泣くことも忘れているのだけれど――


 全てを読み終わった時、この物語の世界が続かないことを理解してしまった時。自分の中のどの感情が動いたのか分からず、ただ泣いていた。今、彼女の中でも同じことが起こっているのだ。


 ……自分と同じ彼女だからこそ、こうなることは分かっていた。


「――他の人が、自分と同じ本を読んで。自分と同じ気持ちになっているのを見るのは初めてだ」

「……趣味良くないですよ、それ」


「逆だろ。趣味が良くなきゃ出来ないんだよ」


 誰もが涙する作品なんて、それこそ一握りしかないだろう。

 世界中にある本の、ほんの一握り。ほんの数%。

 その数%を産みだせなかったから、自分は今、ここにいる。


 僕はそんな現実を見つめ直しながら。彼女が泣き止み、落ち着くのを待っていた。






「――先生」

「……もういいのか」


 夏の終わりが近づくこの時期、ようやく落ち始めた太陽の光が差し込む中で、ゆっくりと彼女が顔を上げた。黄昏色に、夕焼け色に染まった図書室の中で、涙の跡が乾ききっていない顔をこちらに向けた。


「……ありがとうございました。この作品だけは、全部読み終えるまで死んでも死にきれなかったんです」

「そんな大げさな、とは言わないよ。本が好きな人間なら、そういう作品はあってもおかしくない。決して長くない人生の中で、そういう作品に出会えることは、なによりも幸せなことだと思ってる」


「――はい。本当に、本当に――幸せでした」


 ――ぱたりと倒れた本の音。

 夕焼けが差し込んではいるものの、明かりが落ち、一段と暗くなる図書室。


「――え?」


 急に現実へと引き戻されるような感覚。あれだけ静かな空間だったはずなのに。グラウンドでソフトボール部が練習する音、蝉の鳴き声、夏風に揺られる木の葉の擦れる音さえもが一遍に流れ込む。まるで夢物語の一編だったかのように、旧校舎の図書館の情景を掻き消してしまった。


 一年以上過ごしきた、今までの静謐めいた空気は。自分と彼女だけの聖域はどこへ行ってしまったのだろう。


 中途半端な広さの図書室の、その片隅にある小さな本棚を埋めていたあの長編小説も跡形もなく消え去り。あるべきものが無い棚の中を指でなぞると、それに沿って線が描かれる。積もっていた埃が指に付いていた。


「……幻? ――いや、幽霊?」


 “何かを得るために、何かを失わなければならない”ということは、逆を返せば“何かを失ったのならば、何かを得ている筈”ということで。今までの出来事が幻というならば、幻想だったと呼ぶのならば――経過した時間などは存在せず、あの始まりの時へと戻るはずで。彼女と過ごしたという時間が確かにあったことを、外の夏模様は惨酷なまでに示していた。


 今は2019年の夏。わざわざ携帯を取り出して、カレンダーを確認する。間違いない。確実に一年近くの時間の積み重ねは、自分の中に蓄積されていた。


 幽霊という形で、確かに彼女はいた。失った時間が、それを証明している。


「なんで……とは聞かないけどさ……」


 彼女も、この図書館の中身も全て。あの作品を読み終えたことに満足して。

 それで成仏してしまったのだろうか。


『全部読み終えるまで死んでも死にきれなかったんです』


 冗談でもなんでもなく。ただ、それだけのこと。

 きっと図書室の主である彼女にとって、それだけが心残りだったのだろう。


 ――心奪われて。心囚われて。

 そんな彼女の存在は、物語の終わりと共に、終わりを告げた。


 ……不意に訪れてしまった自分が、終わりを運んできてしまった。


「……まだ早かったんじゃないのか? まだ読み足りないんじゃないのか?」


 彼女はもういない。そう頭で理解していても、心が納得していない。

 僕もまた、彼女という存在に心囚われていたのだろうか。


「な、なんだったら、僕の昔書いた本も持ってきてやるよ。少なからず、その作者に影響受けてるからさ、同じような感覚で読めるだろうし。幸い、他の生徒も来ないから、あまり恥ずかしい思いをしなくて済むし」


 ――誰もいない図書室の中で、声が響く。


 ……もしも自分が、彼女にもっと早くこれを伝えていれば、もう少し長く引き留めることができていたのだろうか。そんな後悔をしたところで、どうしようもないのだけれど。


 図書室を出て、扉を締める時――


『先生、本を出してたんですか!?』


 ――そんな声が、聞こえてきたような気がした。






 その次の日の放課後。奇跡を信じて、本を持っていったものの。図書室は相変わらずのがらんどう、自分を迎えてくれる彼女の姿は無く。僕は本棚を埋めるには程遠い、たった数冊の本を並べて帰る。


「……そんなものだろうな。現実ってのは」


 今までの、彼女とのやり取りが既に奇跡だったのだ。一度ならば奇跡でも、二度三度と続けて起これば、それはもう喜劇でしかない。いくら自分が底辺の物書きだったしても、そんなことは百も承知のことだった。


 結局は彼女の物語はここで終わっていて。

 僕と彼女の物語もここで終わって。


 この寂しさは一体なんだろうと、そう考えを巡らせる。


「――あぁ」


 一冊の本を読み終わった時の、その本を閉じた時の寂しさだった。

 明日から、これから、この先ずっと。騒がしい日常に、僕は戻らないといけない。







 そうやって教師を続けて、三年目を終えようとしていたある日。

 あの旧校舎を取り壊すという話を耳にした。


「……え。旧校舎を? なんで――」

「このまま置いておいても、老朽化が進んでいく一方だしねぇ」


 反対しようかと思ったけれども、まだまだ新人の自分が口を出せるわけもなく。業者が入って工事に取り掛かる二週間前に、移動し忘れているものが無いか教師が確認に行くのに付いて行くのが精いっぱいだった。


 僕は木嶋先生と、旧校舎の図書室を。特に親しくしている彼女と組めたのは、運が良かったのかもしれない。


「あまり大きな声では言いにくいですけど……。私はこういう古い図書室の方が、趣があって好きなんですけどねぇ」

「――そうですね。僕も学生時代、この雰囲気が好きでした」


 もちろん、新校舎へ図書室を移したときに、あらかた本は移動されていて。今更運び出さなければならない物なんて、一つも無かったけれども。それでも木嶋先生は、かつての居場所を慈しむように、本棚の一つ一つを確認して回っていた。


「――あら? この本は……」

「あ――」


 ――しまった。


 結局ここに訪れたのはあの日が最後で。当然、その時に持ってきていた自分の本を回収しないままで。その存在すら、すっかりと忘れていた。


「あらまぁ。先生、本をお書きになられていたんですか」


 しかも、作者名を一瞬でチェックされていた。

 そういう部分に目ざといのは仕事柄なのだろうか。


「え、えぇ……。自費出版ですけれども……」


 一年半かそこらの間放置されていたのにも関わらず、埃はそう積もっていなかった。何度か軽く手で払い、埃の落ちたことを確認して鞄へと仕舞い込む。このまま新校舎へと持っていかれて、他の人に見られるだなんてたまったものじゃないし。


 ――そんなこんなで、この図書室に残っていた最後の思い出を回収して。もうすべき事もないだろうと、出口へと向かったところで。貸出カード入れが半開きになっていることに気がついた。


「木嶋先生、このカード入れは――」

 

 外で待っている木嶋先生を呼びながら、中身を確認する。新校舎では殆ど機械に通して管理しているんだし、どうせカードなんて一枚も残っていないだろうけど――


「――――っ」


 ――いや、入っていた。

 たった一枚だけ。表には同じタイトルがずらりと並んだ貸出カードが。


 一瞬見ただけで、その表紙がありありと思い浮かぶ。

 なぜなら、自分の好きな本だったからだ。


 ――彼女が好んで、何度も読んでいた本だからだ。


乙川おとがわ……姫野ひめの……」


 一度読んだ本は、二度目に読んでも書かないのだろう。

 タイトルの後ろに書かれている巻数が、一から順に綺麗に並んでいる。


 その貸出日付の始まりは、自分が赴任してきたよりもずっと昔で。日付の進み具合から、生前から本を読むのが遅かったことが察せられた。


「……もしかして――」


 もしかすると、自分が新校舎の図書館から借りてきた巻も、カードに記入されているんじゃないか、そんな奇跡もあるんじゃないかと裏返したところで――


 ――不意に、涙が溢れてしまった。


 自分が借りてきた二十三巻から二十七巻まで。それは確かに記入されていて。丁寧に判子までされていて。それ以降は空欄のはずのスペースに、他でもない自分の書いた本の名前がしっかりと書かれていたのだから。


 貸出の日付もしっかりと書かれている。そんなに分厚い本でもないのに、一冊借りるのに数か月ずつ。


 ――奇跡は続いても、喜劇にしかならない。

 その証拠に、自分は今、笑っている。


 泣きながら、笑っている。


「やっぱり――」


 ――乙川さんは、読むのが遅い。




(了)

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