本好き乙川さんは読むのが遅い
Win-CL
本好き乙川さんは読むのが遅い 上巻
2018年、春。
僕は新任の教師として、私立
受け持つ担当科目は、国語。現国。
学生時代は文学部で、大学に通って居る間にあれよあれよと教員免許を取った僕が――かつて小説家を目指し、けっきょく自費出版止まりで夢を諦めた僕が、流されるままに流されて、流れ着いたのがこの場所である。
社会人となってから、初めての仕事の場所がこんな花の園だなんて。
想像していたよりも遠慮して接してくれるのは有り難いものの、それでもまだ息苦しさが拭いきれない毎日で。昼食の時間になる度に、どこか自分の落ち着ける場所はないものかと探すのが日課となっていた。
最初の一月が過ぎる頃には、学内の半分以上は回り終えていて。特に行く当てもなくなっていた僕は、職員室で昼食を済ませて余った時間を有効利用しようと、学内の図書室へと向かった。
「へぇ……」
足を踏み入れた僕を待って居たのは――高校の図書室とはまるで思えない程豪華な場所だった。カウンターは綺麗に磨かれた高価そうな木材で、キラキラと天井の光を反射している。本の貸し出し処理は全て機械で行われていて、司書をしているのは妙齢の女教員だった。
「あら、土佐先生。図書館をご利用ですか」
「木嶋先生……。え、えぇ、お話は伺っていましたので、少し覗いてみようかと」
赴任してすぐの頃から、いろいろと世話をしてくれた木嶋先生。自分が担当する前は、現国、古典の両方を受け持っていた人だった。この場所のことを教えてくれたのも、この先生で。いつか余裕が出来た時に顔を見せねばと思っていたのである。
ついでにここならば、ゆっくりと時間を潰せると思っていたのだけれど――
「学校の図書館といえば、もう少し落ち着いた雰囲気を想像していたのですが」
「貴方たちより前の世代だと、こういう図書室は珍しいわよねぇ。まるで市や県の図書館みたいで。新校舎へ図書室を移す際に、設備も一新しようって話が出てね。こんな形になったのだけれど……やっぱり本を読むのには、落ち着かないかしらね」
――確かに目にはいいのかもしれない。けど、自分にとってはどうにも居辛い空間だった。図書館にいる生徒たちを見ても、勉強の場所に使っているのが殆どで、読書の空間として利用している者はあまりいない。そういった意味でも、僕は‟異質”になる勇気なんて持っていなかった。
その日の夕方、放課後である。
それとなく、木嶋先生との話に出ていた旧校舎を訪れたのは。
今では全く使われておらず――生徒のたまり場にならないよう、立ち入り禁止となっている旧校舎。その図書室を一目、覗いてみようと思ったのは。
床は板張りで、まさに‟旧校舎”。お約束のようにギシギシと鴬張りになっていないのは、なんとも趣もなにも感じられないけれど、それでも自分の通っていた高校と同じ匂いを微かに感じる。
部屋の名前が書かれたプレートを眺めながら、一階の廊下を真っ直ぐ進んでいくと――二階へと上がる階段の更に向こう、廊下の突き当りに見える“図書室”の文字。
「――あった」
扉についた窓は暗幕によって塞がれ、中の様子はこちらからでは分からない。鍵が開いてなければ諦めて帰ろうか、そんなことを思いながら扉の取っ手に手をかけた時だった。
――ぺらり。
「…………?」
紙を捲る音が、聞こえた気がした。
生徒が立ち入り禁止となっている、この旧校舎で。本もあらかた移動されたという、図書室の中で。誰かが本を読んでいる、その音がした。
「――――」
別にバレたところで困ることもないけれど。息を潜めて、中の様子を窺うように聞き耳を立てる。本当に誰かが中で本を読んでいるならば、もう一度ページを捲る音がしてもおかしくはないだろう。
そう考えて、一分、二分。三分経っても聞こえて来ず。
五分経った頃になって、ようやく――ぺらりと紙が捲れる音がした。
……いや、いくら何でも遅すぎないか。
本当に本を読んでいるのだろうか。文字数でも数えているのだろうか。
予想を変わった形で外され、肩透かしを食らいながら。
ここまで警戒する必要がどこにあると、がっくりと肩を落としながら。
僕は静かに扉を開ける。旧校舎の、図書室の、今となっては不可侵であるべきの、誰のものとも言えない聖域の扉を。
その玉座とも言い難い場所に、椅子ではなく机に腰かけていたのは黒い影――否、黒い制服に身を包んだ、腰まである黒髪をした、黒いソックスを履いた女生徒だった。
「……図書館の主は恐ろしく行儀が悪いな」
「…………っ!?」
最悪のファーストコンタクトと言うべき出会いだっただろうか。不意打ちするつもりもないのに、不意打ってしまい。目の前の彼女は顔を真っ赤にしながら、慌てて机から身体を下ろした。
……完全に本の世界へと没入していた様子。そんな彼女に、どうすれば不意打たずに挨拶できようか。例えばノックをしたところで、逆効果になっていただろう。
「だ、誰ですか……!?」
「今年赴任してきた現国の土佐だけど、知らないってことは二年か三年なのかな」
まぁ、自分も完全に慣れたわけでもないから、顔の覚えていない生徒が殆どなのだけれど。なんというか雰囲気自体が、これまで見てきた生徒たちとは違うものだった。
「…………」
……おいおい、こっちは名乗ったのにそっちは
かといって、無理に聞きだしても得することなんかありゃしないだろうし。ここは別の話題に振ってしまおう。例えば――さっき彼女が読んでいた本についてとか。
はっきりと表紙を覗いたわけではないけれど、読んでいた時と咄嗟に後ろ手に隠したとき、その一瞬でなんの作品かぐらいは分かっていた。
もちろん、自分がありとあらゆる本について精通しているわけではなく。そんな非凡な才能を持っているわけでもなく。ただ種明かしをするならば、それはただ、自分が好きだった作家の長編作品だったからだ。
十年以上続いた息の長いタイトルで、今年に発売された二十七巻で完結した作品の、三巻あたり。分厚さから言って、そんなところだろう。
「その本、面白いよね。夢中になってしまうのも分かるよ、僕も読んだから」
「――先生も読まれたんですかっ!?」
「――っ!? あ、あぁ――」
一人で本を読んでいた時の雰囲気とはまるで変わって、花の咲いたかのような笑顔でこちらに詰め寄ってくる。余程、同好の士を見つけたのが嬉しかったのだろうか。
――それもそうだろう。表紙もタイトルの無愛想、大人が読むのならばともかく、女子高生が手に取るようなものではない。一度読んでしまえば、面白さに嵌ること間違いなしなのに。それなのに、語れる友人がいないというのは……それはそれは、もどかしいことだろう。
「ずっと誰かと、この作品の話をしたくて――」
そんな彼女の勢いに押され、気が付けばつらつらと会話をしていた。他の生徒も、司書の先生もいない、自分と彼女だけのこの空間で、図書館という静寂に包まれるべき空間で、楽しく談笑していた。
「私、この作品が大好きで大好きで――。何回も読み返しながら、完結するのを待っているんです」
「読み返し――って、ネタバレとか気にしながら話す必要無かったのか。……?」
――『完結するのを待っているんです』?
「完結なら今年しただろう? 二十七巻で。うちの図書室にも――新校舎の方の図書館にもたしか入っていた筈だぞ?」
あまり目立つ場所ではなかったけれども、一瞬でも目に入れば分かる背表紙である(もしかしたら自分だけかもしれないけど)。読みたいのならば、新校舎で借りればいいんじゃないかと、そう言うと――
「新校舎……私、あまり向こうの方には行きたくないの。こっちの方が落ち着いて本が読めるから。本を読むなら、こっちの図書室の方がいいから」
どうやら、彼女も自分と同じ感性の持ち主だったらしい。そのことを少し嬉しく思う。しかし――借りるだけ、利用するだけも嫌ときたか。自力で買い揃えようにも、学生には少し手の出しにくい金額ではあるし、借りないわけにはいかないだろう。
「諦めるしかないのかな……」
「……諦めるだなんて、そんな勿体ないこと言うな。明日も置いてあれば、僕が借りて来てやるよ」
自分が新校舎の図書室から借りて、彼女に読ませれば問題ないのだろう。我ながら名案だと思ったのだが――
「……又貸しはマナー違反ですよ、先生」
そんなことを言われてしまった。
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