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 二〇一五年の秋、画家の時柴次郎は十年ぶりにパリから故郷へと帰ってきた。地元の美術館で、彼の作品を集めた企画展が開催されるからだ。大きな看板には、代表作「慈母」と、群青色と黄色の文字で描かれた企画展のタイトルが配されている。


《時柴次郎展「トキシバ・ブルー 青のまなざし」》


慈母じぼ」は三年前に亡くなった母さんを悼んで描いた作品だ。母さんの絵で看板を飾れるのは嬉しいし、葬式にさえ帰れなかった親不孝の、せめてもの償いになればと思う。でも、本当は「柴犬のまなざし」だと知ったら、みんなどう思うだろう?

 開催前夜に関係者だけを集めた内覧会は、なかなか盛況だった。若い頃はよく太郎と通ったこの美術館も、最近では赤字続きらしい。本開催でもこの調子でお客さんに来てもらえるといいのだが。

「おー、太郎、おひさしぶりー」

「おー、次郎、こまんたれぶー」

 再会の言葉は、太郎が知っている数少ないフランス語の挨拶だった。サラリーマンの太郎は短髪で、チェックのフランネルシャツとベージュのチノパンだ。肩まで届く髪にパーマを当てて、派手な花柄の上下を着ている次郎と比べると地味なファッションだが、顔立ちはやっぱり瓜二つだった。

「父さんと次郎叔父さんって、本当に、双子なんだね……」

 二人の顔をぎょっとした目つきで交互に眺めているのは、時柴流星だ。太郎の長男だから、次郎にとっては甥っ子である。流星は最近、自分が柴犬体質だと知って悩んでいるらしい。前に会ったときはまだ幼稚園児だったのに、子どもの成長は早いものだ。

 太郎と一緒に並んでいると、他のお客さんたちに「次郎さんの双子のお兄さんですか?」とたびたび声をかけられる。次郎はそのたびに「僕が、太郎の双子の弟なんですよ」とやんわり訂正する。逆に太郎は、次郎のことを人に話すとき「弟」とだけ言う。表現は違うが、二人とも相手を自分の付属品のように言い表したくないと思っている。当たり前だが、二人は全く別の人間だ。

 今回は特別に、次郎が学生時代に描いた作品も展示している。

 中一のとき佳作をもらった「時柴兄弟」。その半分は太郎が描いたと知ると、流星は大いに驚いていた。父親が絵を描いているところを、彼は一度も見たことがないらしい。

 中二のとき賞を狙って見事に失敗した「花火」。三十年経って見ると、あの頃の自分が思い出されて非常に痛々しい。

 そして中三のとき、最後のコンクールに出品したのが「変心」だ。

 構図自体は、テーブルの上に果物と花瓶が並んだよくある静物画だが、くすんだ黄色と濃い青で明暗が表現されている。「柴犬のまなざし」を取り入れて描いた絵であることは言うまでもない。


〈「自分の絵は本当にこれでよいのか?」思春期の葛藤が画面に溢れ出したかのような「変心」には、すでにトキシバ・ブルーの萌芽がみられます〉


「こういう解説って、当たってるもんなの?」

 壁にかかったパネルを見て流星が言う。次郎は「当たってたり、当たってなかったりだね」と答えた。少なくとも、次郎は思春期の葛藤を描いたつもりはなかった。太郎に自分が見ている世界を見てほしい。その一心で描いた絵だ。

 次郎はむやみに個性を追い求めるのをやめた。だから「変心」だ。

 本当に描きたいものを描いたとき、個性はおのずとついてくる。賞こそもらえなかったが、この絵は次郎の強烈な個性を目覚めさせた。もしも太郎がいなければ、自分は画家にはなれなかっただろうと次郎は思っている。

「次郎叔父さんはすごいよね。双子なのに、父さんとは大違いだ」

 太郎がトイレに行っている間に、流星が言った。

「絵ばっか描いてて独身の俺より、太郎のほうが立派だろ?」

「でも普通のサラリーマンだし、自分は柴犬体質でもないくせに、俺には『運命を嘆くより、逆手に取れ!』なんて言うんだよ。父さんに言われても説得力ないよね」

 次郎は笑って「そうでもないよ」と答えた。

 太郎はタネ高に合格し、大学に入って就職して、職場恋愛の末結婚して一男一女の父となり、幸せな家庭を築いている。画家にはなれなくても、それはそれでものすごく立派なことだ。――まあ、まだ若い流星には分からないだろうが。

 次郎は流星に企画展のチケットを二枚渡した。

「今度は彼女と一緒においで。昼間だったらいきなり柴犬に変身して、パンツをくわえて花火大会から逃げ出さなくてもすむ」

 流星の顔が一気に青白くなった。

「えっ、どうして次郎叔父さんがそんなこと知って……」

 ちょうど太郎がトイレから出てきた。流星が怒りの目を向ける。

「父さんっ! 次郎叔父さんに余計なこと話したでしょ!」

 太郎と次郎が顔を見合わせた。

「そりゃあもちろん話したよなー、次郎?」

「俺たち隠し事はナシだもんなー、太郎?」

 だって俺たち、とびきり仲良しの双子だもん。

 二人の声が不意にぴたりと揃った。同じ顔を見合わせて大笑いする双子に、流星が「むかつく!」と叫んだ。


おしまい。

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時柴兄弟の変心 泡野瑤子 @yokoawano

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