6

 太郎は三年生になると同時に、美術部を引退した。

「いまの成績のままだと推薦してもらえないから、しょうがないよ」と太郎は寂しそうに笑った。

 放課後の美術室に太郎がいないだけで、次郎の目に見えるものすべてが急に味気なく見えてきた。ちょうど犬の視界に、赤と緑が存在しないのと似ていた。

 変だなあ、俺、いま人間なのに。

 次郎が遅れて家に帰ると、太郎はいつも勉強机に向かっていた。太郎にも柴犬体質の可能性が残されている以上、塾には行けなかった。次郎は「一緒に勉強しよう」とは言えなかった。きっと邪魔になるだけだと思った。

 それでも朝は一緒に登校するし、ごはんも一緒に食べる。たまには太郎も漫画を借りに部屋に来た。別に二人の仲が悪くなったわけではない。けれど、会話の量は目に見えて減っていた。

 次郎はもう、太郎を無理に夜歩きに連れ出す気にはなれなかった。父さんも、「太郎が嫌だと言うなら、仕方ないな」と言った。次郎は少しずつ柴犬に変身する感覚に慣れてきたが、初めて柴犬になれたときの感動も薄れていた。

 そのまま一学期が過ぎて夏休みを迎える頃、次郎の部屋では、中三になってから一度も電源を入れていないファミコンが埃をかぶり始めていた。

 次郎は一人でコンクールの作品を描かなければならなかった。絵を描く動機。自由な表現。描きたいもの。俺の個性。俺がどうしても、描かなければいけないもの。――それらをすべて見失った次郎のクロッキー帳には、無意味な迷い線が増えていくばかりだった。

 何も描けないまま、花火大会の日がやってきた。

 ところがその年は、運悪く父さんの社員旅行と、母さんの同窓会と、花火大会とが重なってしまった。

「あーああ、花火が観たかったのになー」

「いまごろ、二人ともご馳走だろうなー」

 付添人がいない太郎と次郎は、留守番を余儀なくされていた。多少不機嫌でも、チキンラーメンはきっちり三分待ってから食べる双子だった。

「ごちそうさま」と太郎が先に立ち上がった。

「今日も勉強?」と次郎が後に続いて立った。

 今日は花火大会だ。たとえ花火は観に行けなくても、今日くらい遊んだっていいんじゃないか。

「勉強かー」太郎は意外な答えを返した。「実は、勉強なんてそんなにしてないんだ」

「どういうこと?」

「次郎、話があるんだ。俺の部屋に来て」

 太郎の部屋に招かれたのは、部屋が分かれてから初めてだったように思う。突然のことに、次郎は身構えた。

「これ、見て」

 太郎から渡されたのは、一冊のノートだった。

 最初の数ページをめくっている間は、次郎はなぜこのノートを見せられているのか分からなかった。ただ因数分解や展開の問題を解いているだけの、何の変哲もない数学のノートだった。「俺は勉強を頑張っている」とアピールしたいのだろうか? いや、太郎はさっき「勉強なんてそんなにしてない」と言ったばかりだ。

 様子が変わってきたのは、ノートが半分を過ぎたあたりのことだった。余白にリンゴや花瓶の落書きが頻繁に登場するようになり、数学の先生の似顔絵が現れた。消しゴム、三角定規と分度器、太郎の前の席に座っている小林こばやし君の後ろ姿。絵がどんどんノートを侵食し、数式を隅へ隅へと追いやっていた。

「ついつい落書きしちゃって、全然はかどらないんだよね」

 太郎は照れ臭そうに笑った。

 ノートの最後から二ページ目にはもはや数式はなく、小さなトロフィーカップだけが描かれていた。金属が反射する眩しい光や曲線が生み出す濃い陰影、台座の細かい木目まで、鉛筆で丁寧に描写されている。次郎の目は釘づけになっていた。

「やっぱ、太郎は上手いね……」

 実物はいま二人の目の前にある。中一のとき、「時柴兄弟」で佳作をもらったときの副賞だ。太郎は勉強机の上に、ずっとこのトロフィーカップを飾っていた。

「俺さ、次郎に謝んなきゃーって、ずっと思ってたんだ」

「何を?」

「分かんない?」

「分かんない」

 そっか、と太郎は微笑んだ。

「俺はね、絵描くのは好きだけど、ただ好きなだけなんだよ。目に見えたものを見えたように描きたいだけで、それ以上のことは考えられないんだ。次郎みたいに面白い表現を工夫するどころか、ビニールシートの色すら嘘がつけないんだもんなー」

 次郎が言っているのは、昨年のコンクールで佳作をもらった、「家族」のことだ。

 そこに描かれた縞模様のビニールシートは、二人が必ず遠足に持って行くものだった。青空の下で一緒にお弁当を食べた思い出がいっぱい詰まっている。太郎は、賞欲しさにビニールシートを無地にするような真似はしなかった。

「そっか、『家族』だもんな……」

 次郎はようやく気づいた。惰性なんかじゃなく、太郎はずっと描きたいものを描き続けていたということに。

「でもそれじゃ佳作止まりなんだ。画家なんて、無理だよね」

「俺たちまだ中学生じゃん。諦めるの早すぎるよ」

 太郎は首を振った。

「俺さ、広崎先生から、推薦でならタネ高行けるかもって聞いたとき、反射的に『行きたい』って思っちゃったんだよねー」

「そりゃあ、タネ高はいい高校だから……」

「でも次郎だったら、それでも大杉学園に行くって言うだろ」

 次郎は一瞬戸惑った後、「うん」と正直に答えた。

「そこなんだよなー、次郎と俺との違いは。俺には画家を目指す情熱がないんだ。せめて柴犬に変身できて、他人には見えない景色が見えたら話は別かなって思ってたけど、どうも無理っぽいし……だいたい、そんなのを当てにしてる時点で、もう駄目だよね」

「全然駄目じゃないよ。俺だって……」

 言いかけた次郎の手から、太郎はノートを取った。

「ごめんな、次郎。俺、次郎と一緒に画家にはなれない」

 太郎の目は潤んでいた。照れ隠しに笑って、「落書きばっかりしてないで、勉強しなくちゃなー」と背を向けようとする。

 衝動的に、次郎は太郎の手をつかんでいた。

「太郎、行こう」

「行こうって、どこへ」

「どこでもいいよ。どうせなら花火観よう」

「でも、もう夜だよ」

「夜だから行くんだろ!」

 次郎が太郎の手を引いて、二人は夜へと飛び出した。いつもの神社ではなく、七中の裏山へ。花火大会へ向かう人や、部活帰りの七中生と、何度もすれ違った。もしここでどちらかが柴犬に変身してしまったら、大勢に目撃されてしまう。でも、次郎にはどうでもいいことだった。

 次郎は祈った。太郎も柴犬体質であってほしい。それは四月の頃とは、まったく逆の願い事だった。神様、本当は画家になりたくて仕方がない太郎に、柴犬に変身する力を与えてください。俺と太郎を、全然違う人間にしないでください。神様、どうか。

 もし二人が青春ドラマの主人公なら、脇目も振らず七中の裏山まで走り抜けるのだろう。しかしこの双子はいかんせん走るのが苦手で、体力がなかった。実際にはジョギング程度の速さだし、裏山への坂道に差し掛かったところで、二人はもう疲れ果てて走るのを諦めた。

 とぼとぼ坂道を上り、時柴家の空地に着いたとき、次郎だけが「あの感じ」に見舞われた。身体が小さくなって服が脱げ、太郎の顔が遠ざかっていく。

 花火が上がり始めた。犬の耳には恐ろしい轟音だった。太郎はしゃがみこんで怯える次郎を抱きしめてくれた。それが双子の勘なのか、柴犬の勘なのかは分からない。けれども次郎はこのとき確信した。

 太郎は、一生柴犬に変身することはない。

「わん! わん!」

 次郎の言葉は、意味のない吠え声にしかならなかった。しかしたとえ人間の姿でも、どんな言葉をかけたらよかったのだろうか。

 花火の音にかき消されないよう、太郎は声を張った。

「いいんだ、次郎。これが俺の運命なんだよ。普通の人間として普通に生きて、普通に幸せになるよ。柴犬になれない運命を、逆手に取ってさ」

 そうして次郎の背を撫でてくれた。温かい手の感触の後、涙の粒が次郎の毛並みを湿らせるのを感じた。

「でも、一度でいいから、次郎と同じ世界を見てみたかったなあ」

 人間の太郎は声を上げて泣き、柴犬の次郎は長く吠えた。

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