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 まるで別世界だった。犬の目では人間の目よりも世界がずっと色あせて見えるのだ。その代わり、夜でもわずかな光で歩き回ることができる。視界だけでなく、鋭敏になった聴覚や嗅覚も、世界を全く違うものに変えていた。身体は完全に犬なのに、人間「時柴次郎」の意識はちゃんとあるのがなんとも奇妙だった。

 初めて柴犬になったとき、次郎はすぐにでも絵筆をとりたい気分だったが、あいにく柴犬の前脚では無理だ。犬の視界を記憶に留めておいて、人間に戻ってから絵にするしかない。父との夜歩きが、俄然楽しみになった。

「太郎、父さん帰ってきたよ。行こう」

 その日、太郎は二段ベッドの上で漫画を読んでいた。次郎は下から太郎に呼びかけた――と言っても、子どもの頃よりずいぶん背が伸びたから、上段でも目線より少し上くらいの高さだ。

「今日も行くの? 面倒くさいよ」

 太郎は次郎のほうを見もせずに言った。冷たいようだが無理もない。四月に入ってから十日以上経つが、天気と父さんの仕事の都合が悪くなければ、毎晩夜歩きに連れ出されていたのだから。しかし柴犬に変身するのは、いつだって次郎だけだった。

「太郎も柴犬体質かもしれないだろ。もしそうなら早く分かったほうが楽だよ」

「大人になるまで、夜に外出しなきゃいいだけなんじゃないの?」

「そういうわけにはいかないだろ。高校とか大学とか入ったら、帰りが遅くなることもあるだろうし」

 言ってから、次郎は思い出した。

「そういえば、進路希望調査ってもう書いた?」

 二人も中三になり、卒業後の進路を考える時期が来ていた。次郎は私立の大杉おおすぎ学園への進学を志望していた。電車で三十分かかるが、それでも美術科がある高校の中では一番近所だ。二人は小学生のときから、そこに進学しようと話し合っていた。

「書いたよ」太郎はようやく漫画本を閉じた。「タネ高にした」

「タネ高!? 大杉学園じゃないの!?」

 次郎にとっては寝耳に水だった。「タネ高」つまり多根川たねがわ高校は、二人の成績ではちょっと厳しい公立の進学校だ。家からは近いが普通科しかなく、美術部さえもない。

「もうちょっと成績上がれば推薦入試でいけるって、広崎ひろさき先生が言ってたんだ」

 太郎は進路指導の先生の名前を出した。テストの成績はほとんど同じはずなのに、次郎にはそんな話はなかった。

 ――佳作を二回獲ってるからだ。

 次郎の心に、こぼした薄墨のような気持ちがじわりと広がった。

「でも、絵描く暇なくなるよ? タネ高、宿題めちゃくちゃ多いって有名じゃんか」

「しょうがないよ。ちゃんと大学行かないと、いい会社に就職できないじゃん。俺は大杉学園よりタネ高のほうがいいよ」

 自分よりも絵が上手く、実際にコンクールでも良い成績を残しておきながら、太郎は画家を目指さず、普通に就職するという。

 ――二人一緒に画家になる夢は?

「なあ、太郎……」

 もし次郎が怒りっぽくて喧嘩っ早かったなら、太郎を引きずり降ろしていたかもしれない。しかし次郎はおとなしい少年だったから、ただ二段ベッドの上段にしがみついただけだ。

 突然、パキン、と耳障りな音が響いた。

「うわぁっ!」

 太郎が叫び声を上げながら、布団とともに次郎に向かって滑り落ちてきた。次郎は太郎を受け止めきれず、二人はもつれあって床の上に転がった。

「どうした!」

 驚いた両親が部屋に飛び込んできた。二段ベッドは、支柱の一本が折れて大きく斜めに傾いていた。上段から落ちてきた布団や枕は太郎の学習机を直撃し、教科書やペン立てをめちゃくちゃに倒していた。結果的に、部屋は次郎が乱暴を働いたのと同じくらい、ひどい有様になった。

「次郎ごめん! 大丈夫? 手とか怪我してない?」

 青ざめた顔の太郎に、次郎は「大丈夫」と答えたが、むしろ謝るべきは自分のほうだと思った。 事実、ベッドが壊れたのは次郎のせいだった。子ども用の二段ベッドをずっと使っていたから、中三男子二人の体重に耐えきれなかったのだ。分かっていながら、次郎はなぜか太郎に謝ることができなかった。

 幸い、二人はおでこや背中にちょっとした青あざとすり傷を作っただけだった。しかし、二段ベッドはもう使えないし、子ども部屋に二人分の布団を敷くスペースはない。

 この日から、父さんの書斎だった部屋が太郎の新しい部屋になった。太郎は、漫画本もファミコンも「全部次郎の部屋に置きっぱなしでいい」と、実にさらりと共有財産の所有権を放棄した。

「要るときは借りるから」

 次郎も床に直接布団を敷くことになった。昨日までは見えなかった天井の高さが、無性にさみしかった。

 太郎も同じだろうか。さみしいと思ってくれているだろうか。

 もう次郎には分からなかった。二人で獲ったたくさんの賞に囲まれて一人で眠る太郎は、いったいどんな気持ちだろう。

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