「新しい人間のお友達ができた」


 と、ある日マリーがうれしそうに報告してくるので、おれはカバンを畳におろしつつ、どんな人かと訊いてみる。なんでもそれは「ヨースケ」という男性で、楓の木みたいな人物だそうだ。どこで知り合ったのかと尋ねてみればどうやら眞島さんつながりらしく、気になったので事情を聞きに行ってみたところ、その結城洋介という男は眞島さんのバイトの先輩で、おれが補習に行っている間に眞島さんの部屋に来ていたのだとか。そこへマリーが顔を出して知り合いになり、三人で遊んでさっき帰ったという話だ。

 おれは以前眞島さんの口から「しつこく関係を迫ってくる男がいてウザい」という愚痴を聞かされていたから、そいつのことかと質問をぶつけてみたら眞島さんは案の定きまり悪そうにうなずいてみせる。なんでそんなやつを部屋に入れるのかおれには不思議だったが、女子大生というのはいろんな思惑があったりして簡単には推し量れないものなのかもしれない。


 で、おれは次の日暇だったからマリーを深泥池みぞろがいけか府立植物園にでも連れていってやろうと思っていたんだが、それを話すと「明日はヨースケがカラオケってところで歌わせてくれるみたい」と返ってくる。

 は? と思ったが、まあそうかマリーもおれだけじゃなくていろんな人と仲良くなったほうがいいんだろうなー、と自分に言い聞かせて「じゃあ明後日に行こうな」と言ったら、「明後日はヨースケがドライブってところに連れてってくれるみたい」と断られる。結局おれとの予定は三日後ということになったが、なんか嫌な感じだった。


 ただマリーはそのヨースケとかいう男のことをただの人間のひとりとしてしか見ていないらしく、「シゲルとはちょっとちがった感じだけど、あたしはシゲルのほうがすき」とか言うんだけど、おれはそんなふうな比較はされたくない。

 ちなみに八月に入ってマリーの背はぐんぐんと伸び、とうとうおれに並んだ。中身はまだ全然子どもなのに見た目だけはすでに高校生ぐらいまでにもなり、早くも大人の予感を漂わせるようになってきているのだから驚きだ。すぐ服が入らなくなると困るので、おれはちょっと大きめのワンピースを新しく買いに行った。


 いやそんなことより不安なのは、マリーがこの先どうなってしまうのかということだ。

 このままのペースでいけば、マリーはあっと言う間に大人になってしまうだろう。

 しかし……

 不意にあるひとつの予感が蛾のようにおれの手の中に飛び込んでくる。おれはそれを瞬時に握り潰そうとしたが、かえってそれがこの予感を自分から離れがたいものにしてしまう。


 吐き気をおぼえ、すぐさまマリーに言って陰毛を直接口の中に入れてもらう。が、たちまち吹き飛ぶかと思われた嘔吐感が今回はなかなか消えず、それどころかますます巨大にふくれあがり、おれの皮膚を内側から突き破って飛び出そうとしているようにさえ感じる。


 おかしい。いつもと様子が違う。天国かと思いきや、地獄だ。


 おれは吐きたくてたまらなくなり、トイレへ駆け込もうと思い立ち上がろうとする。ところが、足がガクガク震えて立てないのだ。同時にまるで日射病にでもあてられたように視界がザーッと砂嵐に包まれていき、目の前が冗談ではなく本当に真っ黒になる。

 やばいと思ってマリーに頼み、ヘッドホンを持ってこさせ、それを耳にかけ、汗のにじむ手でプレイヤーを操作して、フェリー・コーステンの「アウト・オブ・ザ・ブルー」を流す。しかしまったく効果はなく、吐き気は波浪となって怒濤のように押し寄せ、やがて不安という名の渦潮をつくりだし、おれはその感情のループの中から抜け出すことができなくなる。


 ……マリーがこの速度で成長していったらどうなる? 大人になって、その先にあるものはなんだ? この半月あまりでどれだけ背が伸びた? 人間にするといま何歳だ? マリーも人間と同じ運命をたどるのか? おれはあとどれだけマリーと一緒にいられる?


 ……マリーの寿命は九月までもつのか?


 ふと冷たいものが額に当たり、それで少し視野を取り戻す。見ると冷蔵庫から取り出した三ツ矢サイダーかなにかの缶を手に持って正座したマリーが、もう片方の手で胸をぎゅっと締めつけ、泣き出しそうな顔でおろおろしているのがわかる。おれが缶を自分の手で持つと、マリーはうしろにまわって無心に背中をさすってくれるが、その口からは、「ごめんなさい……ごめんなさい……」という謝罪のことばがしきりに漏らされてくる。おれはちょっとだけましになり、三ツ矢サイダーを開栓して乞食のように飲み干す。けれども不安の連鎖はなおおれに巻きついたまま離れようとはしない。


 ……おれとは全然違う早さの時間がマリーには流れている。この一瞬一秒も、おれには想像もつかないぐらい、マリーにとってはとてつもなく凝縮された時間のはずなんだ。だったらおれはこの一日一日をなによりも慈しみ、そしてだれよりもマリーのために尽くすべきではないのか?


 ……それなのになんだ? 結城洋介ってやつはそれをぶっ壊しに来たのか? おれとマリーの蜜月を邪魔したいのかこいつは? それがどんなに多くのものを失わせることになるのかわかってんのか? おれのマリーに手を出すなクソ野郎が!


 結城洋介を殺しに行かなければならない。そう決意しておれは立ち上がり、泣き叫ぶマリーに「すぐ帰ってくるから待ってな」と言い置いて部屋を飛び出す。住所もなにもわからない。でもそんなことすら頭にはなく、おれは自転車を猛烈な勢いで飛ばしながら、「オイコラ出てこいやあああ!!!」とひたすら怒号を振りまいて回る。


 ――あとから気づいたが、このときおれはに入っていたのだ。そしてこんなへまを打ってしまったばかりに、おれの人生は下り坂を転がりはじめることになる。


「おいそこの君! ちょっと止まりなさい!」


 夕暮れの川端通でおれを呼び止めた人がいて、でも誰だかわかんないから無視して突っ切ろうとしていると、なんとそいつはおれに飛びかかってくるのだ。おれは自転車から落ちて歩道に投げ出され、尻と肘を強く打った。倒れた自転車がカラカラと後輪を回しているさなか、その男はおれの肩を乱暴につかんで立たせる。


「離せテメー! ナメてんのか!? ブッ殺すぞ!」


 で、おれを取り押さえようとするその姿をよく見ると……それは警官だった。


「あ……」


 たぶんこのときおれはこの世の終わりのような表情を浮かべていたんだろう。まずいと思ったときにはもう遅く、警官は任意と言いながらも実際には強制的な職務質問を行ないはじめる。


 名前、生年月日、住所、学校の名前などを尋ねられるが、恐怖と緊張とトリップのせいでおれの身体はガタガタにふるえ、歯も勝手にガチガチ鳴りだすし、舌も引っ込んでしまってまともな受け答えができない。怪しんだ警官は「ポケットの中見せてみ」から始まっておれの全身をその場でくまなく調べはじめる……。

 まあ幸いにしてマリーの毛も包丁も持ってきていなかったおれの身体からはなにも出てこないんだけど、安心したのも束の間で、おれの態度がなによりの証拠と見たのか、警官は「署までご同行願いたい」という、あのドラマでしか聞いたことのない台詞をおれに向かって言い放つ。そして下鴨警察署は同じ川端通のすぐそばにあるのだった。


 もう終わりだ。


 犬飼と名乗った中年の刑事――糺の森大麻播種事件捜査課――はおれの様子から覚せい剤の使用を疑っているらしく、警察署の中でまずおれに尿検査のコップを手渡してくる。それで採ったおれの尿から薬物反応を見るのだが、当然出てくるのは大麻の反応。まあどちらにしてもやばいわけで、空いている9番取調室に連行されたおれは犬飼刑事から事情聴取を受ける。


「どこで吸ったんや?」


 と舐め回すようにしておれを見ながら凄味を効かせた口調で問う刑事に、「すすす吸ってません」とおれは答える。

 すると直後に窓ガラスが割れそうなほどの勢いで机を叩き付けた犬飼刑事に、


「いまさら言い逃れできると思っとんのか! お前の小便からカンナビノイドの反応はちゃんと出とるんや! さっさと吐いてしまえや!」


 と怒鳴られる。が、おれは「ししし知りませんよそんなの」と言い通す。「ボケナスが!」と吐き捨てて机を蹴飛ばす犬飼刑事の面相におれは心底震え上がり、さっき出したばかりの小便をまた放出しそうになったが、「吸ってないのは本当です」と本当のことを言う。


 おれはほとんど理性を欠いていたし、景色は船に乗ってるみたいにぐらぐら揺れるし、強烈な吐き気や眩暈でぶっ倒れそうになっていたが、それでもマリーだけは守りたかった。だからシラを切り通すことにしたのだ。


「先月そこの森に大麻が蒔かれる事件があったな。お前もあれとちゃうんか? あ?」


 おれがだんまりをきめこむと、「オイなんとか言えんのかこのヤク中がよお!」と再びものすごい剣幕で怒鳴り上げられ、ホワイトキューブの中のような取調室の空気がびんびんに震える。おれは自分が薬物中毒者扱いを受けていることに驚きをおぼえながらも黙秘権を行使する。


「ここんとこ最近お前みたいなアホばっかりやわ。クサがあるゆーて糺の森まで取りに行って吸い出す頭おかしい連中や。発見がだいぶ遅れたからな。隠し持っとるやつらがぎょーさんおって逮捕されまくっとるんやけど、自分が犯罪者になるってことがわかっとらんのやろな」


 おれはここでちょっとカチンときて「おれはそんなやつらとは違います」とつい口走ってしまう。


「どこがちゃう言うんや? あ? 言ってみろやコラ。お前もハッパでラリっとるキチガイやろが。京都人の誇りをお前らが汚しとんのや。わかっとんのか!?」


「静かにしろよいま吐きそうなんだからよ」


 おれは完全にブチ切れて言う。


「おれはなにも悪いことなんてしてませんよ。平和な生活を謳歌してただけです。だって誰かに迷惑かけたりしましたか? もちろん税金で動いてるあんたら警察は別ですよ。ていうかむしろあんたらがいまおれに迷惑かけてますよね? こんなことしてなんの意味があるんですか? ラブアンドピースって言葉知ってます? そもそも――」


 おれが言い終わるより先に怒り狂った犬飼刑事に胸をどつき飛ばされ、椅子から倒れたおれはその衝撃で嘔吐する。刑事はおれの髪をつかむなり撒き散らされた吐瀉物に顔面をこすりつける。


「ほら見てみ。やっぱり脳がイカれとるんやわ。普通の人間ならそんなことは言わんで。ほんま最悪やな、クスリってやつは。こんなもんがあるからあかんのやわ。世も末やでまったく」


 マリーを侮辱するんじゃねえ。


「そもそも」おれは自分の吐瀉物を喰いながら口を開く。「これなんなんですか? こんなことしてもいいんですか? おれ逮捕されてるんですか? されてるとしても犯罪ですよね?」


 すると犬飼刑事は舌打ちをしてからおれの頭から手をはなし、机を立て直して椅子にふんぞり返る。おれはぐらぐらする身体をなんとか起こし、咳き込みながら顔面の吐瀉物をぬぐい取る。


 このときまだおれは知らなかったのだ。大麻取締法の条文には所持に関する罰則規定はあっても、「使用」そのものに関する規定はない。だからいくら尿検査で黒判定が出たとしても、ブツが身体から見つかるか自白でもしないかぎり、


「これで助かったと思うんちゃうぞ。こっちはもうお前の住所からなにまで全部把握しとるんやからな。覚悟しときや」と、犬飼刑事が低い声で脅す。


 それから一時間後におれは解放される。



 ふらふらの身体で自転車を押して帰ると、おれを待ってくれていたマリーが「シゲルぅ~」と泣きながら抱きついてくる。涙をいっぱいにためた目と、こすって赤くなった顔。「ごめんな」と言って、おれもマリーを抱きしめる。覚えている腕の感覚とはちがって少しとまどうけれど、マリーをマリーたらしめているものはなにも変わらないし、これがおれのかけがえのない存在だ。


 だけど、大切だからこそ、覚悟をきめる時かもしれない。


 眞島さんを呼んで相談する。「絶対ガサ入れが来るわよ」と言われ、それに備えて部屋の中にあるマリーの毛をすべて処分しなければならなくなる。すぐさま大掃除が始められ、畳の上から排水口に絡まっているものまでをかき集め、眞島宅のぶんと合わせてひとつのゴミ袋にまとめる。畳から出てきたアリときゃっきゃと遊んでいるマリーの横で眞島さんが電話をして、結城洋介に応援を頼む。結城洋介は河原町今出川の交差点近くに車を寄せて待っているという。


 で、ゴミ袋をさらにリュックに詰めてみんなで持っていくと、そこに待っていた結城洋介は背の高い大男だった。京大ラグビー部のジャージを着て短い頭髪を赤茶色に染めている。笑顔はさわやかだがどことなく威圧感を秘めていて、サングラスを外した目は斜視が入っているため常にどこを見ているのかよくわからず、不安をおぼえる顔立ちだと感じる。

 結城洋介はマリーの毛が入ったポリ袋を大文字山の奥まで捨てに行ってくれるという。そのことは素直にありがたかったが、つづけて彼は首だけをおれのほうに向け、こう言う。


「てかさあ、マリーたんもそっちの家にいたらやばくね? カノジョ、身体がマリファナなんだろ? そんなのサツにバレたら一発でパクられんぜ。その後どうなるかとかわかんねーよ」


 なにがマリーたんだよふざけんなぶち殺すぞてめえと思ったが、喧嘩したところで絶対に勝ち目なんてなさそうだし、なによりそれはぐうの音も出ない正論で、おれも自分から言い出そうか迷っていたところだったのだが、こうして結城洋介から直接リードを渡されたことによって、おれも腹をきめなければならなくなる。


「どうかお願いします。マリーのことを保護してやってください」


 歯を食いしばり、吐き気をおさえ、おれは頭を下げる。こんな男にマリーを預かってもらうのは癪だったが、どっちみちガサ入れが来る可能性がある以上、マリーをうちに置いておくことはできない。だったらせめて、おれにもしものことがあったとしても、マリーだけは警察の目に見つからないようかくまってもらうべきだ。そしてこの男も明らかに、それを望んでいる。


「あーいーよいーよ、頭上げろって。ま、どーしてもって言うならな、おれとマリーたんは親友なわけだし、その親友の友達の頼みとあればなー、それは断れねーかなあー」


 にやついた笑みを貼りつけているその顔は、正面からおれを見ているにもかかわらず、目はおれのほうを向いていない。おれは本当にこの男と会話しているのか?


「え? え? あのー、どうしちゃってる?」と混乱している様子のマリーに向かって説明する。この前言ってたこわい人たちがマリーを狙っているから隠さないといけない。ここにいたら同胞みたいになっちゃうかもしれないからこの人に面倒を見てもらうことになると。


「じゃああたし、シゲルと離ればなれになっちゃうってこと? そんなのいや!」とまた泣きっ面になるマリーはやっぱりかわいらしくて、おれはそんな頭をキャスケット帽の上からぽんぽんとたたきつつ、「また会いに行くから」とことばをかける。しかしその横から結城洋介が、「言い忘れてたけどイッコ条件があったわ」とからかうように言う。


「ボーヤがサツに睨まれてるってことはよ、がつくかもしんねーからさ……わかるよな?」


 息を呑んだまま何も言えずにいると、「ま、そーゆーことだからヨロシク」という言葉とともにサングラスをかけた結城洋介が車の助手席のドアを開け、マリーをうながす。

 マリーはおれのシャツの端をつまんでいたが、やがてとぼとぼと歩きはじめ、車に乗り込むと今度は窓にぺたんと両手を張りつけて、つぶらな瞳でおれの目を見つめてくる。おれは絶望的な気分だったが、これがおれのやさしさなんだ、マリーのためなんだ、と何度も自分に言い聞かせて連れ戻したい衝動をこらえる。マリーの目を最後まで見つめ返していることはできなかった。


 GT-Rが今出川通を走り去ったあとの空に浮かぶやたら大きな三日月を眺めていると、左肩に無言で手がおかれる。その深夜おれは眞島さんの部屋へ自分から行く。



 今日はカラオケに行って、明日はドライブに行くんだろうな、ということをぼんやり考えながら漫然と過ごす時間はちっとも前に進んでいるという気がしないのに、こうしているうちにもマリーの時間はどんどん先へと流れていって、おれはそれを追いかけることさえできないのか。


 この置いてけぼり感。あのときと似てるな。

 母親の死ってのはおれにとっては割と決定的な事件だったわけで、使い古された言い方をすれば世界の見え方ががらりと変わった。頼れる存在がいなくなって、宇宙にひとり投げ出されるように感じた。

 なのに世界はいつも通り進行していて、テレビをつければニュースが事務的に流れてくるし、街も人も食べ物の味も相変わらずそのままだし、通夜の宴会では酒に酔った親戚同士が当たり前のように喧嘩をおっ始める。

 なんでこんなところにいるんだろう、という気持ちから始まって、徐々に目まぐるしい日常の光景に適応できなくなっていく。なんか周りのスピードについていくのが難しくなったのだ。

 あのときはトランスだけがおれの唯一の救いだった。だけどマリーがやってきて、トランスが必要なくなって、そしてマリーが去ったいま、トランスはもう効かない。アーミン・ヴァン・ブーレンもティエストもフェリー・コーステンもヒロユキオダもナハトもおれの吐き気を止めてくれはしない。


 この星に酔ってしまったおれたちには酔い止め薬も与えられず、自分ごと消してしまいたいという欲求と、どこでもないどこかへ帰らせてほしいという欲望に舵を奪われそうになりながら、見えない目的に向かって進む船をだましだまし漕いでいくしかないのか?


 ガサ入れはなかなか来ない。段取りがあるのか、ただ焦らされているだけなのか、それともなにか別の思惑があるのかわからないが、来るならいっそ早く来てくれと思う。


 一日が過ぎ、また一日が過ぎてもまだ来ない。


 一週間経ってとうとう吐き気に耐えられなくなり、マリーに会いたくなる。

 おれにとってのマリーは太陽そのものだったし、もうマリーがいないとおれは生きていけないのかもしれない。

 抜け殻のような状態でそんなことを考え、眞島さんから結城洋介の連絡先を強引に聞き出しているときにふと気づく。

 おれはとっくにしているのだ。マリーという存在に。



 結城洋介は北白川のマンションに住んでいる。

 インターホンに手を伸ばそうとしたとき、部屋の中からどっと笑い声が聞こえてきたことで、中に何人もいるんだろうということが察せられる。なにしてんだよ。

 押すかどうかだいぶ逡巡したが、結局押すと、そのとたん笑い声がぴたりとやむ。よくわかんないけど警察ってこんな気分なんだろうかと思う。

 しばらくしてチェーンロックされたドアが開かれ、「何しに来たんだよ」と顔をのぞかせた結城洋介は、不機嫌そうに赤茶色の髪をかきむしっている。

「マリーに会わせてください」とおれが言った直後にドアを閉められそうになるが、それを足で挟んで止めると、「おいおいなんのつもりだよあんちゃん。オレが出した条件忘れたのか?」とへらへらした態度で言われるがその目は明後日の方角を睨んでいる。


 その場で押し問答を続けているとやがて「どうかしたのかい?」と部屋の奥から声がして結城洋介が振り返り、寄ってきた男とひそひそと会話を始め、その流れの中でドアの隙間から青年の顔がのぞき、おれと目が合う。黒い長髪にパーマを当てたその男は甘いマスクに意味深な笑みを貼りつけ、「まあいいじゃないか、入れてやんなよ」と結城洋介に向かって言う。それがリーダー格で逆らえないのか、ちょっと経ってからチェーンロックが外され、「特別だかんな」と低い声で結城洋介が告げる。


 玄関から中に入れさせてもらうとモワモワと煙が立ちこめていて臭いがきつい。煙草みたいな匂いとそれからちょっと甘ったるい匂い……二人が入っていく奥の部屋にはさらに白い煙が充満していて中がよく見えない。「マリー!」と呼びながらおれも奥に入っていく。


 十帖ほどの洋室には結城洋介とパーマ男のほかに黒人が一人いてオレンジ色のカーペットにしゃがんでいる。そしてすばやく目線を左右に走らせていくと――おれは最初そこにいるのが誰なのかわからなかった、しかし――部屋の隅っこで目隠しをされて口にガムテープを貼られ、洗面器の隣で膝をかかえているその女性はマリー以外にはありえない。


 なんだよこれ。


 目を疑う光景とはまさにこのことで、何度認識しようとしてもその場でガラガラと音を立てて崩れてしまいそうになる。おれはすぐさまマリーに駈け寄って目隠しをはずしてやる。後ろからの牽制にもかまわずガムテープも取ると、マリーの美しい面差しがようやくあらわになる。

 髪をばっさりと切り落とされたマリーはたった一週間のうちに見違えるほど成長し、またやつれているように見える。鼻筋がすっと伸び、顎もシャープになり、頬は少しこけて、美少女というよりはもう美女といわねばならない。ぷっくりとした唇がかすかに開かれ「シゲル……」といつものように発音する声もまた厚みを帯びて響き、目は眠たげに半開きにされているのだが、それを見た瞬間、マリーがすっかり大人になってしまったことをおれは後悔する。


 おれのせいだ。畜生、おれは弱い男だ。


「なにか痛いことされなかったか? 大丈夫か? チョコ買ってきてるんだ。おまえの好きなチョコレートだよ。あとでまた一緒に食べような」


 と話しかけると、大人になったマリーはふるふると首を振ってから少し笑顔を見せ、それで少し安心するが、すぐに内臓を焼くような怒りに全身を支配され、結城洋介を睨み付けて「なんてひどいことすんだこの野郎!」と言う。


「いやオレも気は乗らなかったんだけどさ、芥川さんがやれって言うから、しょうがなく、な?」


 おれがパーマ男を睨み付けるとその芥川という男は笑いながら手を振り、「いやいや、そこのマリファナ女が進んでやるって言い出したんだよ」と言い逃れようとするので「ふざけんな!」と叫んだら、「まあ別に信じてもらわなくてもいいけど」とふたたび苦笑。


 おれはマリーにそんなことする理由なんてあるわけないとこのときは思っていたからムカついただけだったが、あとから考えてみればあるいは本当にそうだったのかもしれない。


「まーまー、んなカリカリすんなって。そういうときはコレだろ? な?」


 へらへらしながら結城洋介がおれに手渡してくるのは三ツ矢サイダーの缶……だが、それは普通の形状ではなく、真ん中がへこみ、底と側面に小さな穴がいくつも空けられてあるといった細工の施された空き缶であり、もうもうとした白煙に包まれているのだが、よく見るとその側面に乗っているのはマリーの髪の毛だ。「飲み口のとこから吸うんだよ」と説明される。

 おれはマリーに手渡しで貰った毛を直接口に含んだことしかなかったから、こういうアングラな方法に触れたのはこれが初めてのことで、うまく説明できないけどなんかもやっとする。そういう微妙にやりきれない気持ちで部屋の中を見渡してみると、確かに同様の簡易喫煙具がいくつも転がっているのに気づくんだけど、同時におれの目は別のものにも引き寄せられていく。


「おい、あれ捨ててなかったのかよ、なんでだよ?」

「んー、まー、ちょっと、な?」

「ていうかそれ以前になにしてんだよお前ら」


 今の状況。大文字山へ捨てられるはずだったゴミ袋が十帖洋室の出入り口付近になぜか置かれてあり、その目の前に座り込んだ謎の黒人がピンセットでマリーの毛をつまみ取ってはそれを横の電子天秤に乗せ、足したり引いたりしつつ手前にあるチャック付きの小袋に黙々と詰め替えていく。そして床のオレンジ色のカーペットの上にはそうやって小分けされたマリーの髪がずらりと並べられてある……。


「有効活用さ」と長髪パーマの芥川が口を開く。「、いい商売になるよこれは」


「は? なに考えてんだよバカかてめえ。マリーの髪を売り物にするんじゃねえ」


 ここでおれはさっきのもやもや感の正体に気づく。つまりあれはマリーが純粋に「使用」されていることへの感覚だったのだ。そういう行為には「やさしさ」が欠如している。おれはマリーを商売道具として扱おうとしているこのパーマ野郎に対しておさえがたい憤りを感じ、パーマ野郎がふんっと鼻で笑ったことでそれが頂点に達し、持っていた空き缶をそのパーマめがけて本気で投げつける。が、パーマは俊敏な動作でこれをかわしてのける。


「危ないじゃないか。ったく……」


 おれは無視してマリーのところへ行き、その腕をとって「帰るぞ」と言う。「え?」とマリーは一瞬だけ顔を輝かせるが、次の瞬間にはそれがさっと引きつって、何かと思えば直後におれは背後からいきなり腋を取り押さえられ、は? と思っているうちにマリーから引き離されてしまう。「邪魔すんなクソゴリラ!」と思わず叫ぶが、大男の結城洋介は力がめちゃくちゃ強く、抜け出そうとあがいてもびくともしない。そしてそんなおれに向かって芥川が涼しい顔で言う。


「帰るっていうのが何を意味するかわかって言っているのかい?」

「知るかボケ。マリーがこんな扱い受けてるの見てほっとけるわけねえだろうが。家が無理ならアメリカへでもオランダへでもどこまでも逃げるさ。おれはもうマリーを絶対に離さねえぞ」


 すると「ふう~ん」と言いながら芥川はおれの腹部に正面から蹴りを入れてくる。痛え。


「君はマリーがマリーがって言うけれど、結局のところ僕らと同じで、ただマリファナが欲しいだけなんじゃないのかい? そこの女がもしマリファナじゃなかったら、そこまで執着することはなかったんだろう? それを潔く認めるなら返してやってもいいけど? どうする?」

「ふざけんな……おれは……」


 反射的にそこまで言ってから、おれはつまずいてしまう。おれがマリーに夢中になっているのはマリーがマリファナだからなのか? マリファナの効果が依存症を惹起しているだけなのか?

 マリーはおれの吐き気を劇的に止めてくれるわけだけど、結局おれの目的とはそれに過ぎなかったのか? おれはマリーを自分のための道具として使う利己主義者だったのか?


 違うだろう。それだけじゃないだろう。おれが本当にほしかったのはたんなる薬理学的な陶酔でもなければ自分にとって都合のいい存在でもない。あんな喫煙具ではけっして補えないものがマリーにはあるんだよ。そして地球酔いの処方箋はその副産物として生まれてくるだけなんだ。


「おれはマリーに惚れてんだよ。それだけだ」


 蹴り。さっきよりも強烈な。これ内臓破れたんじゃないかと思っていると「もうやめて!」とマリーが泣き叫ぶ。


「お願い……シゲルにひどいことしないでください……。あたしは道具でもいいです……。だからお願い、もうやめて……」


「おい見ろよ。カノジョ、マリファナなのに人間よりずっと利口だぜ」と真後ろからからかう結城洋介に頭突きを食らわせながら「マリー! 頼むからそんなこと言わないでくれ!」と大声で叫ぶおれを尻目に、芥川がマリーに向かって笑顔でこう言う。


「じゃあまずは道具として、いまからそこの洗面器でまたおしっこしてもらおうかな」


「はい……わかりました……」と答えるなり自分のパンティをするっと脱いでしまったマリーがワンピースの格好のまま足元の洗面器にかがみ込もうとするのでおれは発狂しそうになる。

 そんな……マリーが、おれのマリーがこんな他人から命令されて、これから全員の前でおしっこをするというのか? ふざけるな!


「やめろマリー! そんなことするな! おまえは道具なんかじゃない!」

「ははは。ほら結城。彼にもよく見えるようにしてやんなよ」

 が、その矢先に電話が鳴り、「僕だ」と冷静に電話を取った芥川の顔つきが急に変わる。

「……なに? それは本当か?」と鋭く聞き返しながら彼は目で合図し、直後におれを捕らえていた腕が放される。


 二十秒足らずで通話を終えた芥川は苦い顔で「まずいな」とひとりごち、それからカーペットに座り込んでいる黒人に向かって英語でなにやらまくしたてる。ちんぷんかんぷんなおれの耳にも「ポリス」という単語だけは聞き取られ、犬飼刑事の顔が脳裡にはっと浮かびあがる。


「オイ! やっぱお前にヒモがくっついてたんじゃねえか! どうしてくれんだ!」

「いや、おそらく例の件だろう。令状はないんじゃないか。どうする。居直るか、逃げるか」


 今しかない。

 とっさにおれは結城洋介の顔面に一発お見舞いし、それから怯えるマリーの手を取って走り出す。「待ちやがれ!」と声だけは激しいが追ってくる気配はなく、おれは玄関から外へ飛び出して一目散にエレベータのほうへ向かう。

 が、マンションにひとつしかないエレベータは使用中で、いままさに下階から上ってこようとしているところだった。おれは待たずに方向を変え、マリーの腕を引いたまま階段を駆け下りる。

 階段を上ってくる犬飼刑事と途中でばったり出くわす。おれの顔を見るなり「待て!」と叫び捕まえようとしてくるその腹を力いっぱいにおれは蹴飛ばし、階段を転がり落ちてうずくまる刑事を置き去りにしてただひたすらに走る。もう後戻りはできない。


 マンションから出て自転車を引っ張り出すとき立ちつくしたマリーが後ろから口を開く。


「ごめんなさいシゲル……。あたしのせいだね……。あたしがシゲルをかなしいひとにさせちゃった……。やっぱりあたしって、いちゃいけないものだったかな……」

「マリー! 弱気になるな! おれがついてたら大丈夫だ! 絶対守ってやるから安心しろ!」


 おれはマリーを後ろに乗せて自転車を疾走させる。逃げろ逃げろ逃げろとにかく逃げることだできるだけ遠くへ。誰の目にも届かなくなるまで走れ。先のことなんてわからなくていい。今はマリーを安全な場所へ連れていくことだけを考えろ。立ち止まるな前へ進め。あんなやつらにおれたちの平和と愛を奪われてたまるか。おれとマリーは運命共同体でマリーが去るときはおれが死ぬときだ。逃げてやる。一生逃げ続けてやるぞ。地の果てまでな。


 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。おれは川端通の脇から出ている細い坂道を下り、車が入ってこられない鴨川の土手に出る。右手に映る鴨川は夕日を反射してオレンジ色に染まり、麦わら帽子をかぶった小さな女の子がきらきら光る水面に足をつけてきゃっきゃと水遊びをしていて、その様子を母親が少し遠くから微笑ましそうに眺めている。


 時よりも速く。そんな思いでおれは自転車を飛ばす。後ろに美神ミューズを乗せ、血を吐いたように赤黒くにじむ空目指して、一直線にどこまでも伸びる土手を南下していく。


「なあマリー、おれは人間だから、とてもみんなにはやさしくできない。……だけどな、いやだからこそ、やさしくできそうな人に出会えたときには、うんとやさしくしてやろうっていつも思ってるんだ。それだけでもおれは満足だし、ありがとうって感謝なんてされた日にはもう最高だね。そういうときには、あとで心の中で言うのさ。ああ、おれって生きてる意味ちゃんとあったんだ、もうちょっとここにいてもいいんだ、ってな。だからマリー、くよくよするなよ。そんなのお前らしくないだろ。笑えよ。そんでまた歌を歌ってくれよ。こんなくそサイレンなんか吹き飛ばしちまうぐらいでっかな声でさ、お前の自慢の歌を、飽きるほど聞かせてくれよ」


 鴨川の景色は風の中に次々と流れ去り、今度は中学生から高校生ぐらいの少女たちが水遊びをしているのが見える。その水面は夕焼けを映して赤いというよりは、むしろ鴨川が一本の太い血管となり、それが空に注ぎ込んで内出血を起こしているようにさえおもわれる。

 後ろの荷台に横向きに腰かけたマリーはおれのシャツの端をきゅっとつかんだままうつむいていて、すこしずつ、その手にこもる力が強くなってくる。そしてやがて、ちいさな頭をおれの背中にこつんと倒し、しずかに、しかしうんと熱のこもった口調で言う。


「あたし、歌う。シゲルのために。入りきらないぐらいいっぱいの気持ちをこめて、最後まで」


 マリーが歌い出す。清らかな歌声で。へたくそな伴奏がないのは少しさびしいけれど、それでもマリーは果敢に歌う。おれたちは陽気な歌の運び屋だ。誰にも止めることなどできはしない。


「マリー、もっとだ! おれは覚えてるぜ。みんなに歌を届けたいってお前が言ってたことも、マリーとシゲル、このふたりからはじまって、いつか世界中をラブアンドピースでいっぱいにするって言ってたこともな! ああいいぜ、どこまでもどこまでも、おれが連れて行ってやるからさ、おまえと走っていくからさ、街中をおまえの歌声で包みこんでやれよ!」


 夕日に染まる四条大橋の下を駆け抜けながらおれは叫ぶ。泣いていたが、錆びついてギイギイ音を上げる自転車を漕ぐのはやめず、かえって怪物的な力に後押しされるようにしてペダルを回しつづける。地球酔いの発症以来、おれがトランスもトリップもなしに吐き気を感じなかったのは、後にも先にもこの一瞬しかない。マリーの歌。夕暮れの夏風。やさしいその横顔……。

 ああ、時よ、来い、陶酔の時よ、来い。


 ラブアンドピース ラブアンドピース

 ラララ ララララ

 ちがう時を生き 振りかえるころ

 あなたも寂しく思うでしょう

 アイラブドユー


 歌を運びながら鴨川の土手を南下し、桂川に入り、それが淀川に合流する手前で自転車のチェーンが切れ、近くの自然公園に入ったおれたちふたりは、そこで汗だくになりながら互いの神経をそれぞれチェロとバイオリンの弦に変え、気が狂ったようにそれをかき鳴らし合う。夜の茂みの中で交わした初めてのキスは涙の味がして、おれは愛していると囁きながらマリーの奥の奥の奥の奥のところまで自分の精液を何度も注ぎ込み、それをすこし指でぬぐってマリーの顔の泣きぼくろにこすりつける。が、それはまるで別のレイヤーに描き込まれてでもいるかのようにそこにありつづけ、おれはとうとうこれを征服することはできなかった。出会ったときはあんなに場違いに感じたこのほくろが、いまは美しくなったマリーの顔にぴたりとはまっているということがおれをさらに狂わせていく。泣きぼくろが取れて完璧になるのではなく、マリーの顔のほうが泣きぼくろに引き寄せられてしまったのだ。このほくろは最初から最後まで「未来」を北極星のように指し示していて、同時におれの所有の限界をも告げていたのだった。


 ふたりで半分に割ったチョコを食べたあと、おれは疲れ果ててその場で眠ってしまったのだが、朝になって起きると服だけを残してマリーはいなくなっていた。おれの頭にはトルコギキョウで作った髪飾りが挿されてあって、服の上にはチョコと乾いた精液のこびりついた一枚の葉が乗っていた。


 愛と平和を歌いつづけた女の子は、平和のために自由を脅かされ、愛のために命を失う。







以上の通り録取し閲覧させたところ、誤りのないことを申し立て、署名指印した。

八月十五日

警視庁下鴨警察署 司法警察員巡査 犬飼義道                 

(了)

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マリファナのマリー 鹿路けりま @696ki

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