びっくりしたのは翌朝になるとマリーの髪の毛が床につくぐらいにまで伸びていたということで、せっかく櫛でとかしてやったのにまたぼさぼさ頭に逆戻りだし、おまけに芸術的とすら言えるアホ毛を縦にびよんと飛びはねさせながら「おふぁよ~」とか目をこすって言ってくるもんだから思わずその場で写真に収める。

 仕方がないのでユニットバスに連れていっておれがハサミでちょうどいい長さに切るんだけど、狭いバスタブの中でちょこんと体育座りしてるマリーのコットンボールみたいな頭はいかにも無防備でついつい股の間に挟みたくなるし、それは我慢するにしてもこの後ろ姿を好きにできるというのはなんとも言えぬ感慨がある。くすぐったいとはしゃぐマリーの髪を指の腹ですくい上げ、それを鼻に押し当ててくんかくんかと嗅いでみてもやっぱりものすごくいい香りがするわけで、ためしに切った髪の毛を口の中に含んでみればこちらにもあのふしぎな力が宿っているらしく、陰毛ほど濃いものではないにせよあのラブアンドピースな効果が発現してくるので、これはあとで取っておこうと思う。


「シゲルってそんなにあたしの髪のこと好きって感じ?」と訊く声はバスタブに反響していて、

「うん」と答えると「ふーん」と言いながらじぶんの髪をつまんで眺めはじめるマリー。


 明るい電球の下で間近から見るその髪や肩やうなじは本当に少女性に溢れていて魅惑的で、とくにうなじなんかは森の中を分け入っていくと不意に出会われる集落みたいな感じの驚きがあるんだけれど、あたかも「見つかっちゃった」と言っているかのように薄緑の産毛が毛穴の上で丸まっているので、おれは髪の中にも「はだか」というものがあるんだとそこで知り、そのまま犬がよくそうなるような衝動にまかせてそのはだかの髪に頬ずりしたりスーハーしたりぺろぺろしたりしまくるのにマリーはたいして嫌がってない……というか本当に犬を相手にしているような感じだ。

 そんなこんなで短く切ったあとはできるだけ見映えがよくなるように整えてやるんだが、こんなにかわいい女の子がいきなりおれのところにやってくるなんていまだにちょっと信じられないなあ……と思うのがだいたい朝の十時ぐらい。で、それから出かける。


 鴨川の橋を渡って出町柳駅から三条まで出るんだけど、気に入ったのかマリーはおれの父親譲りのアコギを引っ提げてきていて、歩きながらときどきじゃららららんとそれをかき鳴らす。セミの大合唱の中にギターの音色が加わり、まじり合い、そして飛行機雲の彼方へ消えていくたびに通行人が振り返って怪訝そうに見てくるから困る。だけどマリーは言うことをきかないというか超楽しそうにはしゃいでいるのでおれもわざわざ止めたりはしない。でもそれだけじゃなくてマリーは木や草花の前でいちいち立ち止まって「こんにちは」とか「え、そうなの?」みたいな感じで会話しているふうなのでなかなか駅にたどり着かないのだわ。それでふつうなら十分あれば到着するところをその三倍の時間をかけてようやく駅の構内に入り、冷房の効いた電車に乗り込んで一息ついていたらマリーのやつは車内でもどこでもギターをじゃららららんとやろうとするのでこれはさすがに止めないといけない。

 京阪三条駅で降り、うだるような暑さの中を歩いて河原町通に出る。京都の街の大動脈にあたるこのビルが立ち並ぶ大通りを目にして、マリーは「きれいじゃない……」とこぼす。あれ?と思う。女子ならこういうショッピング街にときめくものなんじゃないのか、と考えてから、そうかこいつはふつうの女の子じゃないマリファナなんだと気づく。マリーは女の子なのにマリファナ、というよりは、マリファナなのに女の子、というのが正しいんだろう。だったらマリーにとってはこんな人工的な都会の眺めより緑豊かな大自然のほうが合ってるんだろうか?


「でも、すきになれるようがんばる。だってあたしはきれいなシゲルのことがすき。そしてシゲルは人間。だから、人間ともお友達にならなくっちゃ」


 と言うマリーの左側を歩くおれはその横顔にどきっとしちゃったりしてるわけで、照れ隠しに「おれは人間の友達なんていねーよ」とか口走ってしまうんだけどマジでなに言ってんだろおれ。

 でもそんなふうにさらりと口に出されるマリーのことばは無意識のうちにある種の含みを帯びていて、単純に額縁通り受け取るのはなにか違う気がする……のはそのやさしそうな目尻に誰かの悪戯で描き加えられたような一点の泣きぼくろのせいかもしれない。これはほとんどささやかな偶然の産物でありながら、まるで水面に投じられた小石のように広がる波紋を形作り、ついには顔全体の印象をもがらりと変えてしまうのだ……。


「ねえシゲル」と信号を待っているときに横顔のまま言われる。「あたし、知ってるわ。人間って、恋をするんでしょう? でも、これはいちおうあたしとしてのお願いなんですが、シゲルはあたしに恋をしないでね」


 おれはびっくりして「なんで?」と尋ねる。幼いマリーに真剣に恋をする、とまではおれはまだ思っておらず、せいぜいかわいい妹か、下手すれば娘のようにすら感じていたわけだけど、考えてみればおれはマリーといったいどんな関係になるんだろう。友達? 保護者? わからないけど、ここでマリーが唐突に引いた一線もその未来図の一部をなしていくんだろうか。


「それはひみつ。あたしは〝おんな〟だから、ひみつをもちます」となんだか満足そうに言うマリーのとらえどころをなくさせている泣きぼくろがおれにはあんまりおもしろくなくて、それをさっと掃き落とすつもりでこう言う。

「じゃあ、もしもだけど、おれがマリーを好きになっちゃったときはどうしたらいい?」

「え~っ……」と困ったようにマリーが頭をかかえたとき、信号が変わる。人の波に流されるように歩道を横断していくさなか、「ほんとはよくないんだけど、でも、内証ならいいかな?」と振り向いてちょっぴりはにかんだ笑顔を見せるマリーはやっぱかわいいしすでに恋しそう。


 とか思っているうちにも足はしっかり進んでいてやがてちょっとオシャレな寺町商店街に入る。天井が高くて、シックモダンな感じのタイルの床がつらなっている両側にカフェやブティックやメロンブックスやとらのあなが店を構えている。日曜日なのでけっこう賑やかだ。


「シゲルぅ~……、どこへ行く感じなの? なんだかこの場所こわいわ。みんなあたしを見てへんなこと思ってるみたい……」


 おれのシャツの端をきゅっとつかんだマリーが商店街の中をきょろきょろしながら不安そうにつぶやく。マリーの風貌はやはり人目を引くのかすれ違う人々やオタクどもから好奇の視線を注がれていて、それをマリーは敏感に察知しているらしく首をすぼめている。ごめんよ。


 ところでおれはいまこのほとんど喧噪とも言うべき「街の音」にあらためて驚いている。というのもおれの持病である吐き気はこういう街中においていちばんひどくなるので絶対にヘッドホンを欠かすことができなかったのだが、どういうわけかマリーの陰毛はそれを止めることができる。だからおれはいま久々に五感の全部で世界に立てていて、その思いがけない距離の近さに今度は眩暈をおぼえそうになる。むしろ世界のほうからおれに迫ってくるように感じられるのだ。


「とりあえずここでいいか」

 立ち止まった先にあるのはおれの行きつけの小ざっぱりした服屋で広さとしてはコンビニ三つ分ぐらい。1Fのメンズフロアと2Fのレディースフロアに分かれているのは知ってたけれども、ここの階段を上がるのは初めてなのですこし緊張する。

「わあ!」と元気を取り戻したマリーが「すてき!」と歓声を上げるのでおれはちょっと安心し、「好きなのを選んでいいぞ」と言うが早いかててててーっと駈けていくマリーを追っかける。


 やがて「同胞!」の連呼とともにマリーが手に取って抱きしめる商品はやはりと言うべきか、麻の無地のワンピースである。でもこの薄いベージュの色合いがマリーのモスグリーンの髪をいっそう引き立たせてくれそうだしなかなかグッドチョイス。試着室に連れて行って着替えさせてカーテンを開ければはい完璧。どこで覚えたのかマリーはその場でくるんと回ってみせてからワンピースの両側の端をちょいとつまみ、「どう?」と訊いてくるので迷わず「最高」と答える。

 マリーも気に入ったのか足元のギターを持ち上げてじゃららららーんと鳴らしながら「ふんすー」と鼻を鳴らしているのでそのまま着せて帰ることにし、似たような感じで微妙に色違いのやつを何着かカゴに入れたところで帽子も似合いそうだなと思い連れていく。麦わら帽子とキャスケット帽とで悩んだが実際乗せてみるとどっちもテクノブレイクしそうなほどかわいい! ので両方買って店を出る。

 次はロフト。おれはもうマリーと暮らす気満々なので生活に必要そうなものを適当に揃えていく。マリーは壁掛け時計の集合を見て目を回したり、変な小物を手に取って「これなに?」といちいち尋ねてくるので、わかるものについては教えてやって、わからないものについてはゴミだと説明する。そのたびにマリーはきゃははと笑い、おれも愉快になって噴き出しまくる。


 黒のキャスケット帽を両手でぽてぽてと叩きながら歩く不法薬物をこんなに堂々と連れ回してもいいのかという話だけど、おれが思うにマリーは大麻の生まれ変わりであっても大麻そのものではないんだからギリギリセーフなんじゃないか? だって女の子だぜ? それにもしアウトだとしても誰の目にも明らかな美少女なんだからまさか大麻などとは思うはずもないし。


 そんなわけで四条まで下って東に折れて八坂神社の横を通って最終的に円山公園にでも行くかなーってつもりで花見小路をぶらついていたらパトロール中の警官が向こうから来てる。


「やばい隠れろ!」

「わわわわ」


 なんだかんだでやっぱり後ろめたいものはあるわけで、とっさにおれはマリーの頭をキャスケット帽の上から押さえつけて姿勢を低くとらせる。八坂神社へと続くこの細長い一本道は人で溢れかえっているからマリーもその中にまぎれられればいいんだけど、よく考えたらこんなことやってると余計に目立って危ねえじゃん! と気づいて手をはなす。頭を上げたマリーはちょうどキャスケット帽を目深にかぶる形になっていて奇しくもお忍びっぽい雰囲気が出てる。

 警官は向こうからだんだんと近づいてくるがおれはつとめて堂々と歩く。やましいことなんてなにもありはしませんよって顔でまっすぐ前だけを見て。そしてすれ違う瞬間、その鷹のような目が一瞬ぎょろりとこちらを睨んだ気がしてびくっとしたが、何事もなく、警官はそのまま通り過ぎていく……。おれは思わず安堵の息を漏らすが、心臓の鼓動はまだ108BPMはある。

 ふしぎそうな顔をしているマリーに説明してやる。あの服を着たおっさんはこわい人だから絶対に近づいちゃ駄目だと。そしてふるえあがるマリーに向かって「おれがついてたら大丈夫だ」とかなり臭い台詞を吐く。「シゲル……」とおれのシャツの端をきゅっとつかむマリーは素直。


 円山公園に無事到着するとそんな憂鬱気分も一気に吹き飛んで、「きれい!」と顔をほころばせたマリーはギターを背負ってどんどん先へ行こうとするのでおれはやれやれと思いながらもちょっとうれしい。

 八坂神社に隣接するバカデカいこの公園は、巨大な総合としての公園の中に小さないくつもの公園が入っている銀河みたいな場所で、普通の大学のキャンパスなら二、三個はゆうに収まるぐらいだからたぶん糺の森よりも広いんだろうが、桜の木がたくさん植わっているので春なんかは花見客でよく賑わう。もっともいまは夏なので木々はすべて新緑の若葉へと衣替えを済ませているしセミがうるさく鳴いてるだけなんだが、カップルや子ども連れの家族やセカンドライフを楽しむ老人や観光中の外国人なんかの姿はちらほら見受けられる。


 青天の下で汗を拭いながら低い柵に囲まれた小径を行くと、マリーは手をメガホンみたいにして、公園でいちばん目立つ枝垂桜の高い木に向かってなにやら呼びかけている様子。


「はじめまして! あたしはマリー!」


 枝垂桜は巨大な翼竜のように広げた葉を風の中で気持ちよさそうにそよめかせている。


「ようこそマリー、だって!」

「ふうん」


 どうやらマリーには枝垂桜の声がわかるらしい。


「……え? ……ちがう! そんなことない! あたし、もうきめたんだから! それはあなたには関係ない話!」

「なんだって?」


 マリーは首を振り、「なんでもないー」とはぐらかす。そのまま近くの8の字池までとととーと走っていって「えい!」とつかんだ小石を投げはじめるもんだからおれもそれ以上は追及しないかわりにその場でちょっと陰毛をもらう。


 枝垂桜の手前には花見用のちょっとした広場みたいなのがあって、石を切り出した長細いベンチが置いてあるんだけど、おれたちはそこに腰かけて売店で買ってきたパンを食べはじめる。すると鳩がめちゃめちゃ寄ってきて、マリーの周りにだけ死ぬほど集まって、マリーの身体が鳩だらけになる。でもマリーは楽しそうで、パンとか普通に食べられてるんだけど全然気にしてないし、おれもその様子を見ながら腹をかかえて笑う。

 ところが突然そこへ散歩中の犬がやってきていきなりギャンギャンと吠え立てられ、「きゃっ!」とマリーが驚いて飛び上がった拍子に鳩は全部逃げてしまう。犬は飼い主の老人に引っ張られていきながらもまだマリーを威嚇しつづけていて、そんなマリーはベンチの裏にまわっておれの後ろに隠れ込み、「シゲルぅ~……」と泣き出しそうな声を出すんだけれどどうしたものか。「もう行ったぞ」と教えてやってもマリーはなかなかおれの背中から離れようとしないので、なにか景気づけに……と考えているうちにぱっと閃いて、「歌でも歌ったらどうだ?」と提案する。

 そしたら単純なことにマリーは一発で元気になって、身を躍らせてベンチの上に座り直し、じゃららららんとギターをかき鳴らしてみせる。すると近くにいる人の注目がちょっとそこへ集まり、それがうれしいのか、マリーは瞳を爛々と輝かせながら「歌います!」と背伸びした敬語で言う。


 ラブアンドピース ラブアンドピース

 ラララ ララララ

 おなじ空の下 手をつなぐなら

 神さまだって笑うだろう

 ラブアンドピース


 歌い終わるとまばらな拍手が起こる。いつの間にやら人が何人か集まってきていて、マリーの歌を聴いてくれていたのだ。もちろんアコギの伴奏はお粗末なものなんだけれど、そのへたくそ具合が逆に微笑ましいというか涙ぐましいのか、みんな力の抜けた笑みを浮かべている。


「どうもありがとう!」と言ってぺこりとお辞儀を済ませると再び拍手。


 おれはなんだかマリーのことが無性に愛おしくなってきてその手を握る。するとマリーも笑顔になって握り返した手を振って、また寄ってくる鳩に包まれステップ踏んで踊り出す。そんな瞳は輝いていて飛沫を上げる汗もまぶしく、太陽と雲と枝垂桜に祝福されていると感じる。


「ねえシゲル、さっきのみんなの顔、見たでしょう? みんなにこにこって感じしてた。つまり、これってしあわせ! みんなやさしくて、心がぽわっとして、ラブアンドピースだよね!」

「ああ! おまえはいま最高にイケてるぜ! ビバ! スイート・マリー!」


 おれは思う。この草木の匂いとマリーの歌声を、たぶんずっと後になってからもおれは思い出すことになるんだろう。このときはまだなにもかも始まったばかりだったんだな、と。

 じゃららららーん、と再度アコギをかき鳴らしながら青空に向かってマリーが叫ぶ。


「あたし、もっと歌を届けたい! この街をラブアンドピースでいっぱいにしたい!」


 それから三十分後に夕立が降る。



 地球酔い。おれの吐き気にはそんな病名がある。


 人は一定確率で車に乗ると酔う。船に乗っても酔う。列車や飛行機でも酔う人は酔う。またこれはごく稀なケースだが、無重力空間で引き起こす宇宙酔いなんてものも存在するらしい。

 酔うと吐く。乗り物の振動が耳の三半規管を冒すことにより身体のバランスが取れなくなって吐く。また体質によって酔いやすい人と酔いにくい人とがいるわけだが、車酔いは起こさないのに船酔いだけは起こすとか、その逆のパターンとかも同様にあったりする。

 でおれはといえば、普通に歩いているだけでも酔う。もとい、地球という乗り物に酔ってしまう体質だと考えられている。


 おれが地球酔いを発症したのは母親が死んだ年だったからまだギリギリ中学生のころだったが、それまではどんな乗り物でも酔ったことはなかったから、少なくともこれが異常な症状であることは確かだ。最初はストレスによる自律神経失調症と診断されて、まあ既存の病名に即して言えばそれがいちばん妥当なんだろうが、いかなる薬も効いたためしはなく、この謎の吐き気はおれの身体の内側にべっとりとこびりついたまま動こうとはしなかったので、もしかするとこれは現在の技術、あるいは普通の理屈では解決できない問題なのかもしれない、ということで考え出された病名がこれ。まあ正式にはおれが罹患者第一号ということになるけれど、たぶん隠れてるだけで世の中には同じような人がもっといるんだろうという話だ。


 地球は年に三六五回の自転を行いながら太陽の周りをぐるりと一巡りしていて、そこにへばりついているおれたちには見当もつかないがそれはきっとものすごいスピードなんだろう。おれたちはそんな地球という名の宇宙船に乗って食べたり飲んだり生活しているわけだけど、たまにこの宇宙船地球号の中で酔う乗組員が出てくる。

 原因はよくわからないものの、おれの場合は母親の死に立ち会ったことがなんらかのきっかけにはなったはずで、たぶんこのときからおれという存在のバランスはどっかでずれていって、地球のベクトルとだんだんそりが合わなくなってしまったんじゃないかと思う。


 車酔いなら降りれば治るけれども、宇宙船地球号という乗り物からは生きているかぎり絶対に降りることができない。だからおれはこの意味不明な吐き気と一生付き合っていかなければならないのだと思っていた。

 トランスを聴き始めたのはそんなときで、埃をかぶったCD――父親が家を出る前に残していった――に偶然手をつけてみたら、不思議なことに吐き気が軽減することがわかったのだ。理屈なんてないが、もしかすると規則的に刻まれるリズムがおれのバランスを調整してくれる電子ドラッグになるのか、あるいは単に世界にフィルターをかけて刺激を緩慢にしてくれているということかもしれない。


 いずれにせよそんなわけだから、滅多なとき以外おれはヘッドホンを外さなくなる。当然人との会話なんてできないから友達もいないし学校ではハブられるし、態度が悪いとみなされて教員からも容赦なくいじめられる。ついでに言えば授業もまともに聞けないから成績も悪い。

 おれも最初こそつらかったが、音楽だけの隔絶された空間に閉じこもっていくなかで次第になにも感じなくなり、ある時を境に自分から人と距離をおくようになる。


 だけどやっぱり本音を言えばおれは人のぬくもりを求めているし、おれだってできることなら人にやさしくしたいと思う。やさしくすることでやさしい人間になりたい。ただこの吐き気があると本当にすべてのことがどうでもよく思えてきてなにもできなくなってしまう。

 そんなどうしようもないジレンマを抱えていたおれの前にあたかも天恵のごとく現れたのは一本の蜘蛛の糸、ではなく、ふしぎなことに大麻の草であるらしい。もちろんマリーのことだ。


 一週間ほど一緒に暮らしてみてわかったのだが、大麻の生まれ変わりであるマリーはマリファナの特性をおもしろいほど忠実に受け継いでいる。眼や髪の色は言うまでもなく、成長の早さについてもそうだ。ネットで調べてみたところによると大麻というのは自生力がとても高い植物らしく、ほっといてもすごいスピードで成長するんだそうだ。マリーの体毛が植物のときの名残だとすれば、髪の長さが一晩であんなことになるのも納得がいく。

 それにマリー自身の身体もありえないほど早く成長していて、出会ったときは小学生ぐらいの体格だったのに、いまはもう中学生ぐらいのそれになっている。胸に張りが出て腰つきがちょっと丸くなってまさに第二次性徴期を迎えているという感じなんだけれど、いきなり女っぽくなったのでおれはちょっととまどっている。

 前の朝なんかは「シゲル~」とユニットバスの中から呼ぶ声がするもんだから行ってみたら便座に座ったマリーが股から血を流していて、「初潮だ!」とおれはパニックになってどうすればいいかわかんないから隣室の眞島さんに土下座してなんとかしてもらった。おれはこのとき初めて眞島さんと会話したんだけど、これについては後でいろいろとあった。


 体毛を摂取したときの効果は完全にマリファナのそれで、いわゆる「ハイ」という陽気な気分になり、感覚が鋭敏になってちょっとしたことでも笑いたくなって食欲が倍増するんだけど幻覚は見ないし副作用もとくにない。そしておれの地球酔いがおさまる。これについては調べてみて驚いたんだが、マリファナはいま医療研究が盛んになってるらしく、実際にアメリカなんかでは鎮吐剤や食欲増進剤として癌やらエイズやらを患った病人に処方されているのだとか。

 酔い止め薬も効かなかったおれの吐き気がマリファナで止まるというのは変な話だけど、なにか作用機序が異なったりでもするんだろうか? あるいは「マリーの毛」ということの意味が重要なのか? まあおれは本物のマリファナを試したことはないのでそれは判断できないか。


 で眞島さんとの一悶着の件だけど、この過程でマリーがマリファナだということが眞島さんに露見してしまった。というかマリーが勝手にばらした。

 眞島さんはボブカットの茶髪で身体の線がしゅっとしてる美大生なんだけど、「駄目」と「絶対」が口癖で、マリーに向かっても「ダメゼッタイよ!」と非難する。

 マリーは大麻の生まれ変わりであって大麻そのものではないからセーフだとおれが強弁すると眞島さんは赤縁メガネの奥で切れ長の目をくわっと見開いて「生まれ変わりでもなんでもダメなものはダメに決まってるでしょ! 通報してくるから!」と言うなり壁の等身大力士ポスターをぺろんとめくって穴から自分の部屋へ帰ろうとするのでおい待てやとその肩をつかむとギロッと睨まれて「どすこい!」とおれを突き飛ばそうとするんだけどおれも負けじと踏んばってぐぬぬと眞島さんを引っ張るうちにその場で相撲が始まる。

 決着はなかなかつかなくてのこったのこったしつづけているとそれを見たマリーがあわあわと慌てだして目をぐるぐる回しながらアコギを持ち出してきてそれを無茶苦茶にかき鳴らしながら、

「ラブアンドピース! ラブアンドピース! けんかはよくない! みんななかよく!」

 と騒ぎはじめるんだけど無視してのこったしているとうえーんと泣き出してしまう。

 これにはさすがに二人とも手を焼いて「ごめんなマリーおれが悪かったよ」とか「わ、私も我を忘れていたわ」とかおろおろしながら声をかけてやっても全然泣き止まないからやべーってなってるとやがてうつむき加減に、

「じゃあ仲直りの握手して?」

 と言われ、こんなんずるいわと思いながらも嫌々握手して「ほら!」「ほら!」と無理やり笑顔をつくってやるとようやくそれで落ち着く。


 その後おれは学校の補習に行かないといけなかったからマリーを置いて部屋を空けていたんだけど、夕方になって帰ってくるとマリーがいない。おれは焦り、どこに行ったと名前を呼びながらバスタブや洋服棚の中を探していると、そのうちに壁の力士ポスターがぺろんとめくられて穴の向こう側からマリーの無邪気な顔がぬっと出てくる。混乱するおれに向かってマリーは「キノコちゃんとお友達になれた!」と言い、そこでおれは眞島さんの下の名前が木之子だということを知る。なんだかんだで眞島さんもマリーのかわいさにあてられたらしく、「通報するのが面倒臭くなったわ」とか言ってたけどこんなでかい壁の穴を放ったらかしにするような人だからまあそうなんだろうなと思う。


「で、マリーちゃんがマリファナの生まれ変わりってどういうことなの?」

 と夜になって部屋に来た眞島さんに改まって尋ねられ、おれも正直よくわかんないんだけど適当に考えてみる。


 マリーの出自が何者かによって糺の森に蒔かれた大麻の種であることは間違いない。犯人はまだ見つからないという話だが、どうせ頭のとち狂った京大生あたりの仕業なんだろう。下鴨警察署もすぐそばにあるというのによくやったもんだと思う……と言うと、眞島さんは妙に納得したそぶりで「それは絶対そうね」とうなずく。


 まあそれはともかく、おれはマリーには下鴨神社の霊力かなにかが偶然宿ったんじゃないかと推測している。根拠としては二つあって、どちらもマリーがギターを練習している横で眞島さんと便利なパソコンでちょちょいと調べたものなんだが、一つは大麻と日本の神道の関係性についてで、もう一つは下鴨神社の祭神について。


 古来大麻は神事の際に重宝されていて、礼服や注連縄なんかも麻のものだし、邪気を祓う大幣おおぬさは正式には「大麻」と表記されるんだそうだ。これはもともと大麻には魔除けの力があり、また神様の御霊みたまを宿らせる「依代よりしろ」としての役割をはたすものと考えられていたからだとか。


 そして下鴨神社の東殿におわしますのは「玉依姫命たまよりひめのみこと」という神なんだけれど、これも元をただせばたまりつく姫、つまり依代としての「巫女」を表していると言われていて、それが神格化されて祀られているものらしい。で、わかるとおり、このふたつは「依代」という点で共通している。


「もしかしたらだけど、下鴨神社の神域である糺の森に偶然大麻が植えられたことによって偶然玉依姫命たまよりひめのみことの力が宿り、それが偶然マリーを誕生させた……つまり、マリーは巫女?」

「あー駄目。結局全部偶然ってことじゃないのそれ」


 壁際の畳に足を伸ばした眞島さんが赤いブラウスの襟をぱたぱたとやったり団扇で風を送ったりしながらため息をついているわけだけど、でもそんなこと言ったら大麻が女の子になること自体がそもそも理屈の次元を超えているし、多少の飛躍がなければ説明は無理だろうと思う。

 あるいはマリー自身が玉依姫命たまよりひめのみことの化身なのか……? とも思ったけれど、そこであぐらをかいて全開の口で「ラララ~♪ ララララ~♪」とか歌っているガールからはなんというかこう神の威厳みたいなものがまったく感じ取られないので違うんだろうな。


「ていうかなんで私こんなところにいるんだろ。あんたとは他人だし別にどうでもいいわ」


 と言って立ち上がり、床に投げてあるおれのえっちな同人誌をグシャッと踏みつけて穴から帰ろうとする眞島さんをまあまあまあと引き留めて、マリーの髪で出汁を取った緑茶を勧める。

 眞島さんはそんな十五歳の媚薬をくいっと一飲みすると、「ほわあぁ~」とにわかに頬を緩ませて目がとろんとしただらしない表情になり、

「あれぇ~? 私どうしちゃったんだろぉ~?よくわかんないけどなんか……あっ……これ許されてる……」

 とかつぶやきながらおれの顔に熱病のような視線を注ぎはじめ、「淺原くんってひょろいけど、よく見たら結構男前じゃない」とか言いだす。

 あーキマっちゃってるなあとにやにやしているところに突然「降りてきたっ!」といきなり奇声を発した眞島さんは、いったん自分の部屋へ飛んでいくとキャンバスと画材を手に高速で戻ってきて、マリーを見ながらその場で絵を描きなぐりはじめる。

 やがて出来上がったのは抽象的で意味不明なモダンアートなんだけれど、眞島さんはそれを指差しつつ、

「オンディーヌが水の精なら、マリーちゃんはきっと森の精なのよ! まさに自然の神秘、奇跡の結晶だわっ! ってなに言ってるんだろ私あははは、うひっ、うひひひっ、あひゃひゃひゃ!」

 と引き笑いをしだすほどテンションがやばい。それからポテチとかを開いて宴会が始まり、「ねむ~」と目をこすりはじめたマリーを布団に寝かしつけてからは眞島さんの部屋に連行され、バイトの愚痴とかを朝まで延々聞かされる羽目になる。

 その後眞島さんはちょくちょくおれの部屋を訪れてはなんらかのインスピレーションを得て帰るようになるんだけど、いいか悪いかは別にしても、マリーという存在が、この京都市左京区下鴨にある小さなボロアパートの風通しをちょっとだけよくしたことは事実なんだろうなと思う。


 マリーは結構遊びたがりの目立ちたがりの外に出たがりなので、おれも暇をつくって鴨川デルタや円山公園や四条大橋に連れていって歌を歌わせてあげたりするんだけど、やっぱり心配なのは警察のことで、交番の前を通るときなんかはいまだにひやひやしてしまう。マリーとセミ獲りなんかして楽しく遊んでいるときでもつねに警察という脅威が影のように横たわっている気がして、その不安に押し潰されそうになることがよくある。もしかしたら、いずれおれは法かマリーかのどちらかを取る選択をしなければならなくなるのかもしれない。


 だけど、そもそも法ってなんなんだ?

 おれはかわいい女の子と毎日平和に暮らしているに過ぎないわけで、それで逮捕されるなんて正直ちょっと意味がわからないぞ。マリーが大麻扱いになって摘発対象になるかどうかは本当に捕まってみないとわからないんだけど、普通の身体とはほんの少し違うだけであって、その存在自体が違法なようにはとてもじゃないが思えない。マリーはみんなにやさしくしようとしているし、おれもそんなマリーにやさしくできることがなによりの幸せだ。こんな時間がいつまでも続けばいいな、なんて思ったりもする。

 しかし結局、おれはマリファナのことを甘く見過ぎていたのかもしれない。

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