マリファナのマリー
鹿路けりま
前
何者かが
1
マリーについて話せって? 別にいいけど、ちょっと長くなるぜ。恋人のことだからな。
一週間後に糺の森を訪れたおれはコンビニからの帰りで、寝間着代わりの浴衣にサンダルを突っかけ、耳にかけたヘッドホンでティエストの「イン・ザ・ダーク」を聴きながらぶらぶら歩いていた。羽虫の群がる煌々とした明かりをともす亡霊みたいなコンビニを背に高野川の橋を渡り、コンビニとおれのアパートとをむすぶ御蔭通を西へ行けばその入口が右手に見えてくるんだけど、相変わらずそこだけが外界から切り離されたように深閑としていて、異界へ通じる門みたいに一段と濃い闇をのぞかせているんだ。ちなみにケヤキだかムクノキだかの木が天を取り囲むように伸びていて、見上げると樹冠のシルエットが空に毛細血管を走らせているんだけれど、その梢をとおして銀貨のような月が目に入ってくる景色がおれのいちばんのお気に入り。
で、中に入る。草木も眠る丑三つ時とは言うものの、まだ薄目をあけてじっとこちらを窺っている気がする糺の森全体は、でもべつにおれを歓迎しているわけでも鬱陶しがっているわけでもなさそうで、暗がりの参道へ吸い込まれるようにして歩くおれの姿をさも無関心そうに眺めていると感じる……のはおれがダッチトランスを大音量で聴いているからかもしれない。
まあ暗いと言っても参道沿いの木に数メートル間隔でくくりつけられた電灯のおかげでその道だけは多少明るく、下鴨神社の楼門へとまっすぐ伸びる土の地面をぼうっと白く浮かびあがらせているわけだけどその左右は本当に真っ暗で、左手には浅い御手洗川が参道に沿ってちょろちょろと心許なく流れていて、わずかな光を反射して自己主張を試みてはいるものの、右手には木々や雑草がこんもりと生い茂っている気配があるばかりでほとんどなにも見えやしない。
そういえばいつだったか、以前同じような感じで来たときにはあそこで赤いブラウスを着た若い女とばったり出くわして、おれと目が合うやいなやだーっと逃げ出していったんだが、たぶん丑の刻参りでもやっていたんだろうな、などと考えながら歩いているとすぐそばの太い幹に大量のアブラセミがびっしりととまってるのを見つけて、それが電灯に照らされてぎょろっとしているもんだから、あまりの気持ち悪さに思わず縮み上がりそうになったが先へ進む。生温かい風が頬にまとわりついてきてもヘッドホンをつけているかぎりおれの精神が立ち止まることはない。
深夜の糺の森は確かにちょっとこわい。だがそこがまたいいのだ。
おれは糺の森が好きでよく来る。なんとなく調子が優れないときとか家に帰りたくないときなんかに「行こう」という気分になることがあって、そういうときにふらっとやってきてぼーっとして深呼吸して感覚を取り戻して帰る。左京区の街中にどんと出現したようにも見えるこの十二万平米の原生林にはやっぱりなにかしら不思議な自然の力があって、ごちゃごちゃした気持ちを鎮めたり調整してくれたりするところがあるんだとおもう。あんな事件があった後だからしばらくは自重していたけれどよく考えてみればべつにおれがやったわけでもないし、おれには糺の森が必要だから行くだけであって、この習慣はたぶんこれからも変わらない。
あのときは大騒ぎになって人がいっぱい来て新聞やテレビにも報道されてうわーって感じだったけど一週間も経てば全部元通りになってて、いや生き残りの大麻がまだあるかもしれないからか進入禁止の柵とかは増えてるんだけど、でもこんな夜更けだから人影もなくてひっそりとしている。なつかしいなこの感じ。大麻ぐらいでは偉大な森は動かないんだって安心する。
そうしてトランスを聴きながら白い土を踏み、黒い木々に囲まれた参道をノリノリで歩いているうちに鳥居をくぐって下鴨神社の楼門にたどり着く。まあ当然のごとく閉門していて中へは進めないようになっているんだけど、あたかも立派な城のそれのように高く巨大な門を前から見上げてみるだけでもちょっとした満足感は生まれるのだ。あの提灯と照明でライトアップされた感じがどっしりとした風情をたたえていて見事なんだよなあと思いつつ深呼吸。
そいつを発見したのはその直後のことで、おれはくるりと踵を返して今度は御手洗川をはさんで向こう側にあるちょっと広めの道から帰ろうとしていたところだった。そこは
それで御手洗川のほうにふっと目をやってみるとなにかがいるんだ。鳥居の手前にまず手水舎があるんだけど、御手洗川の水面へ降りていく低い石の階段がさらにその手前にあって、一番下の段なんかはもう水面すれすれになってるんだけど、そこに誰かが座っている。人影がないと思っていたのはどうやらおれの勘違いのようで、おれと同じく深夜徘徊でもしているのかそれとも丑の刻参りにでも来たのかそれとももっとやばい見てはいけないなにかなのかはわからないがとにかく先客がいるというわけで、正直ぎょっとして背筋が凍りつきそうになったけれども正体不明のまま済ますのはたぶんもっとこわいぞという気がしたので目を凝らしてよく見てみるんだがやっぱりなんだか様子がおかしいのだそいつは。で、近づいていくと……
全裸の少女だ。
このときのおれの驚きをなんと表現すればいいだろう。とにかくおれは心臓を撃ち抜かれたような心地を味わい、そこで立ち止まり、目も口も全開にして、何メートルか先にいる女の子の後姿に釘付けになる。……浅い御手洗川のほとりにちょこんと腰をおろして足を水にひたしている少女の髪はとても長く、幼いおしりにかかるぐらいまであるんだが、その両側から絹のようになめらかと言ってみても陶器のようにつややかと言ってみても全然足りないぐらいとにかく繊細で白く透き通った肩が惜しげもなく露出されていて、周りは暗いのにそこだけが月に守られるようになんだかすこし輝いて見える気がしておれの直観ではそれは女神だった。
女神。そうかもしれない。なにしろここは神社の境内なのだ。つまり女神さまがこの滋味豊かな糺の森での沐浴ついでに御手洗川で水浴あそばされてっていうことなんだろうか? 昔から女神は池かどっかで裸になって水浴するって言うけれど、おれがいま目にしているのってそれなんだろうか? 聞いたことがあるが確かアルテミスだったか月と純潔の女神がいて、全裸で水浴しているところをアクタイオーンっておっさんに見られてぶち切れてなんか忘れたけどやばいことになってたような。じゃあおれっていまアクタイオーンなのか? あれやばくね?
いやまて落ち着け。冷静になれおれ。それはギリシア神話の言い伝えであって日本の神道とはまったく関係のない別の話だしそもそも女神なんて突拍子もない単語はどこから出てきたんだバカか。でもじっさい目の前で川べりに座る一糸まとわぬ少女が足をぴちゃぴちゃしていることは事実なわけで、おれがその姿に見とれてしまっていることもまた事実です。
と、少女が気配に気づいたのか突然振り返り、目と目が合う瞬間にあ、とその口がまるく開かれるのを見ておれは焦る。立ち上がった少女の身体を照明が照らし、息をのむほど美しい肢体がこのときすべてあらわになり、おれもあ、と言って目を逸らさなきゃとは考えるいっぽう心のどっかではやっぱり見たいと願っているのでまあ無理で、結局細くしなやかでありつつもまだ未成熟なその肉体を凝視してしまってるわけだけど、小ぢんまりとした頭が知性を感じさせる首の上にそっと置かれていて、すとんと落ちるけなげな肩から張り出された肩甲骨に蝶のような印象をまずはおぼえる。ちょっと身体を斜めにして手を胸の前でかるく重ねているんだが、その手は白鳥のようでありながら触ると溶けてしまいそうで、肩から腰にかけてゆるやかな曲線をえがくシルエットはひとつの精巧な花瓶のようにも見える。それがまただんだんすぼまっていくことでかたどられていくほっそりとした脚は地面に立っているというよりはむしろ乗っているという感じで、彼女自体が一箇のリボンの装飾であるかのように重さを感じさせない。そこに逆ハート型の愛らしいおしりがぷりんと付け加わっているんだけれどまったく下品ではなくむしろ上品でさえあり、そしてその前側――おれはそこに自分が住んでいる京都市左京区の地図をはっと見出す。おへその両側からくっきりとしたV字ラインを描いている鼠蹊部は高野川と賀茂川というふたつの一級河川で、それがやがて一本に交わり鴨川になるのだが、その鴨川デルタとよばれる合流地点近くにこんもりと生い茂り、いちばん大切な部分を包み隠しているのは――そうここ、もうひとつの糺の森にほかならない。
そんな神秘的な全裸の少女はなんだか不確かな笑みを浮かべて手をちょいちょいとやっているっぽくて、え、おれ? と周りを見渡してみるもののやっぱりほかには誰もいなくて自分が呼ばれているんだとわかる。で近づいていくと今度は口をぱくぱく開いてなにか言ってるみたいなんだけどおれの耳にはアーミン・ヴァン・ブーレンの「クリアブルームーン」が流れているので聞こえない。仕方ない外すか……でもなあ……。
結局外すことにしてヘッドホンを首にかけると途端に吐き気がむっとこみ上げてきてあーやっぱりなという感じ。トランスを聴いていないとおれの精神は本当に駄目なのだ、前を向けないなにも見たくない言いたくないし世界との距離がぐーんと遠ざかっていく……。
それでもなんとか我慢して全裸美少女の声に耳を傾けてみるとなんだ、「こんばんは」とか言ってるのだ。なにがこんばんはだよ全裸のくせに面倒臭えとは思うがおれも一応「こんばんは」と返してやると、にこっと笑ってうわなんかこっちに来る。駈け寄ってしかも抱きついてくる。逃げようと思っても身体がだるくて、もたついてるうちに右手のレジ袋ががさりと鳴って気がつけばもう胸の中にいる。うわー女の子だよ女の子の肉体だよこれ。女の子の肌にさわったのって初めてかもしれないけどすごい。細いし軽いしやわらかいしなんかいい匂いがする……。
でも駄目なのだ。この吐き気のせいで全然現実感が湧いてこないしもう早く帰りたいし、余計な刺激を与えないでほしい。それになんだよこいつ。なんで見ず知らずの全裸ガールなんかに抱きつかれてるんだよおれ。この子はさっきからやたらおれの胸に鼻をすりつけてなんかおれの匂いをくんかくんかと嗅いでいるわけだけど、やがて顔を上げるとちょっぴりうわずった声で、
「同胞っ」
とか言ってくる。
意味わかんないし黙っているとガールはちょっと離れてからこほんと咳払いをして名乗る。
「あたしはマリー!」
「……おれはシゲル」
「すてきな名前!」
おれは吐き気をこらえているから最悪な気分なんだけどそいつは勝手にはきはきと喋り出す。
「シゲルとマリー、世界でいちばんいい名前かな?」
「そうでもないさ」
「くんくん……なんだかいい匂いしてる?」
指をくわえたマリーという全裸ガールはおれが持っているコンビニのレジ袋に興味を示している様子だったので、中から板チョコを取り出して見せてやると「それ!」と言って手を伸ばす。女の子の無防備な腋……ごくり。なんか内側に筋がしゅっと入っていて奥がちょっとへこんでいたりしてかなり肉体的だ……なんてもやもやしながら二枚に割った板チョコの片方を差し出してやったらうわーいと言って笑顔で銀紙ごと食べはじめようとするのであわてて取り上げて剥いてやるんだけどその間中マリーはおれの手元をじいっと見ながらつばをごっくんと飲み込んでいたりしてなんかかわいい。で渡すとよろこんでむしゃりとかじりついてその場で全部喰う。
「どうもありがとう!」
と言ってていねいにお辞儀をするマリーはおれが持っているもう半分のチョコをなお物欲しそうに眺めているので、まあいいかと思い銀紙を剥いてくれてやるとこれまたたいそううれしそうにむしゃぶりつくのだ。そのとき気づいたんだが彼女は眼も髪もふつうの色とはちがって、どっちも目が覚めるようなグリーンなのだ。ただでさえ全裸なのにいろんなところが緑色の美少女が糺の森に現れるってさすがにちょっと常識を超えているというかなんか怪しいなとか考えながら吐き気と闘っているうちにマリーはもうチョコを食べ終えていて銀紙を返してくる。
「そうだ、なにかお礼をしなくっちゃ」
「いいよべつに。なにも持ってないだろ」
まあなにも持ってない全裸ガールでも男に対してできるお礼をひとつだけおれは知っているんだけれどどうしたものか……マリーは見れば見るほどほんとかわいくて身長はおれの肩ぐらいなんだけれどビー玉みたいにくりっと大きな目がきらきらしていて逆に口はちっちゃくて栗みたいでよく見ると端っこにチョコがくっついてる。鼻はきゅっと引き締まってて余計なものが全部削ぎ落とされた感じなんだけれどマリーって名前からして外国人なんだろうか。でも全体的にちょっとあどけない顔立ちとかはやっぱ日本風かな。顎の輪郭はくっきりしてるけどやさしそうなカーブをえがいて花びらみたいな耳につづいている。胸の発育具合とかからいって十二歳ぐらいだろうか? でもその割には陰毛が濃いしあんまりよくわからない。処女だといいなと思うけど自分が全裸でいることになんの羞恥心も覚えてないあたりを見るとどうなんだろう。実はえっちなことに興味津々な女の子だったりするのかな。うーんカルマ。
「あれれ、どうしちゃってる? なんだかどよーんってしてて雨の日みたい」
「あーうん実はちょっといま気分がね……」
身体をかたむけたマリーが斜め下から見上げるようにしておれの顔を覗き込んでいて、長いぼさぼさの髪が暖簾みたいにぶら下がっているんだけれど、そこに無自覚なエロスを感じてしまうのはその何束かが首や肩の上でしどけなくたわんでいるかもしれない。
このとき気づくことになるのだが、こんなふうに絵に描いたような美少女でありながら、いちばん最後に神さまの手元が狂ったのかそれとも遊び心なのか、左の目尻に一点の墨がぽとりと落とされていて、その場違いみたいな泣きぼくろのつくりだすアンニュイな奥行きが、幼く純真そうな雰囲気にまとまっていたはずの面貌を不意につかみどころのない感じにさせていて、ちょっととまどったりしているうちにそんなのどこ吹く風だと言わんばかりにぽんと手を打つマリー。
「あっ、それならまかせて! あたしいいものもってる!」
なにをしだすかと思えばマリーはおもむろに自分の股間に手を持っていくので、ああそうかじゃあこいつはいまからこの人気のない森の中でおれにいいものすなわち公開野外オナニーを見せてくれるんだなってことはやっぱりえっちな女の子だったのか! って了解して見ているうちに「んっ」とか艶っぽい声を漏らしてちょっぴり顔を歪めてみせるのでおっ始まったなとわくわくしていたらどうやらそれで終わりらしくて手を引っ込めてしまうのであれ? と思っているおれに「どうぞっ!」という活発な声とともに差し出されてくるマリーの手。
とにかくのぞき込んでみるとまだ世の中の汚れも知らなさそうなぺちゃっとしたその手のひらの上に乗っているのは一本の縮れた毛……。なんじゃつまりこれを抜いてたってわけかいな。
「この陰毛をおれに?」
「そう、シゲルに! あたしからのお礼のしるし」
「どうしろと」
「ぜひ使って?」
美少女に自分の陰毛を使用しろと言われ、とっさにいくつかの用途が思い浮かぶわけだけど、そのなかでもおれはいちばん無難な方法、つまり食用にするという方法をとることにする。
で、その陰毛を舌にのせ、舐め回しながら口に含むとそのことによってなにか得体の知れないパワーがおれにみなぎってくるのだ! しかもいままで感じてきた強烈な吐き気もまるで嘘のように引いていくのだ! 世界との距離が一気に縮んで景色の見え方ががらりと変わる!!
「なんかすごいぞ!!」
「どんな感じしてる? うれしい? たのしい?」
「最高だ!!!」
おれはマリーの手をとる。きゃははとはしゃぎながらマリーがくるくる回り、おれがそれに合わせて笑いながらステップを踏む。こんな要領でおれたちは糺の森のど真ん中ででたらめなダンスを踊りまくる。足に羽が生えたみたいになって身体が軽いし空でも飛べそうだ! って感じだったけどしばらく経つと落ち着いてきて汗をぬぐっているとにこにこしながらマリーが言う。
「あたしたちって気が合うわ!」
「そうだとも!」
おれはすでにマリーのとりこでマリーのことが大好きになってしまっている。いまだって抱きつきたいし頬ずりしたいし実際してる。「味わい深い!」と思わず叫ぶ。「味わい深いなあ!」
「あたしきめたわ。あたしシゲルについていく! シゲルとマリー、このふたりからはじまって、いつか世界中をラブアンドピースにするっていうのはどう? あたしたちならきっとうまくいくわ。そうでしょう?」
「ああもちろんさ!」
以後マリーはおれの部屋に棲みつくことになる。
2
マリーがあの大麻の生まれ変わりだと知ってショックを受けたのは彼女を糺の森徒歩三分のボロアパートに連れ込んでとりあえず風呂に入れて間に合わせの服を着させてボサボサの髪を櫛でとかしてやってたときなんだけれど、でも冷静に考えてそんなことありえるんだろうか?
まあ彼女がちょっと変な子なのは見ればすぐにわかるし、たとえば部屋に入る前に雑草伸び放題プラス壁に蔦とかも這っちゃってるオンボロアパートの外観を見て「きれい……!」と目をときめかせるところからしておかしかったし、さらにいくつか質問してみたところによると、糺の森で生まれ育ったというマリーはお日様と風と草花が家族なんだとか。なんのこっちゃ。
で、さっきのすごい陰毛の効果とか緑目緑髪の容貌とか糺の森といった情報が例の事件のことを呼び起こして、まさかなとは思いつつ訊いてみたらあっけなくも「そうです!」となんか妙に背伸びした敬語でのしゃきっとした肯定が返ってくるもんだから始末に負えない。
おれとマリーはすでに意気投合しているし彼女はどうやらおれに好意を寄せているようなのでおれもよっぽどのことがないかぎり親しくつきあっていこうと思っているが、大麻というのはそのよっぽどのことなんじゃないのかな? てかそもそも大麻の生まれ変わりってマジでなんなんだ? どういうことなんだ?
「シゲルってこんなところで暮らしてるの? お友達もいなくて寂しくしてない? あ、蛾だ!おーい!」
空き缶をはじめとするゴミが山積みになっている六畳一間の部屋の真ん中で、天井からぶら下がる切れかけの蛍光灯に寄ってくる茶色い蛾に向かってマリーが手を振っている。蛾はしばらく鬱陶しそうに蛍光灯の周りをうろついてから、ぱっと飛び立ってマリーの鼻先にとまる。「きゃはっ!」と歓声を上げていったん閉じた目をすぐまた開いたマリーは寄り目がちに鼻の上のちいさな蛾を見つめ、指先でつんとつつこうとするんだけど触れる直前に蛾はまたぱっと飛び立って蛍光灯の上に戻ってしまい、それでマリーは腹を立てている。楽しそうだな。
大麻の生まれ変わりを自称するだけあってマリーは麻の衣服を好み、いま身につけているのもおれが替えで持っている白い浴衣なんだけれど、当たり前のようにサイズが合わなくてぶかぶかになってしまっている。でもこんな異国風の美少女が身の丈に合わない男物の浴衣を着ている光景なんてなかなかお目にかかれるものでもないだろうしちょっと得した気分だ、ていうかどきどきするよ割と。
「あたし、知ってるわ。シゲルっていつも森にきてくれてたでしょう? きれいなひとって思って、ずっと見てたからもう顔もおぼえちゃって、誰なんだろうってずっと気になってたの。シゲルってほんとうにすてきな名前。シゲルがシゲルって名前でよかった。でもきれいなひとだから、ぜったいそうって思ってた」
おれは畳の上に足を伸ばし、蛍光灯の下のこたつ兼勉強机に投げ出してあるレジ袋から三ツ矢サイダーを取り出してそれをカシュッとやりながら口を開く。
「おまえみたいなのがいたなんておれは全然気がつかなかったなあ」
「あれれそうなんだ。人間ってあたしたちが話しかけても知らんぷりするんだと思ってたけど、もしかして聞こえてなかっただけ? あ、ちなみにあたしは毎日歌を歌っていました!」
「どんな歌?」
と尋ねてから三ツ矢サイダーをぐいっと一口。冷たい炭酸の刺激が喉の渇きをうるおして汗が一時的に引いていく……が、すぐにまたじっとりと滲み出てくる。こんなボロ賃貸にエアコンがついているはずもなく、真夜中なのに室温は三十度をゆうに超えている。しかしそんな京都の夏の暑さをものともしないマリーは部屋をきょろきょろと見渡すなり壁際に立ててあるインテリアと化したアコースティックギターに目をとめ、「あ!」と言って引っ張り出してくる。
「これ! 知ってる!」
と言いながらマリーはギターの弦をじぶんの貝殻みたいな爪ではじいてみせる。じゃららららん、と小気味のいい音が鳴り、片手を口元にそえたマリーがきゃはっと笑う。
「やっぱり! 川のほうから風に乗って流れてくるのきいて、すてきだなって思ってた! ねえシゲル、これあたしが借りてもいい?」
おれがうなずくとマリーはしばらく幸せそうにギターを適当にかき鳴らして遊んでいたが、やがてよいしょとその場にあぐらをかき、でたらめな演奏と一緒にこんな唄を歌いはじめる。
ラブアンドピース ラブアンドピース
ラララ ララララ
生きていること 感じてるいま
みんなにもっと伝えたい
ラブアンドピース
おおうまい。いやギターは無茶苦茶だし歌詞も即興レベルなんだがとにかく歌声がきれいで、フルートのような透明な響きと雨上がりの午後みたいなやさしさを兼ね備えているのでついつい聴き惚れてしまうのだ。おれが拍手するとマリーはちょっと照れたような笑みを浮かべる。
「同胞のなかでもあたしがいちばん歌がうまいって評判で、それがあたしとしては自慢なの」
同胞っていうのはおなじ大麻の仲間らしくて、「同胞たちはどこにいっちゃったんだろう」と気がかりな様子を見せるので、たぶんみんなで血眼になって除草作業をやっていたからもうこのあたりに大麻は残ってなくて、抜かれた大麻たちはポリ袋に詰められてゴミ処理場にでも送られたんだろう、みたいなことを噛み砕いて伝えてやったら「なんてひどいことするの!」と泣き叫ばれるんだけど、いやいやおれに言われても知らないし……とは思いつつもやっぱりすこしかわいそうなので「これでも飲んで落ち着こうぜ」と言って三ツ矢サイダーの缶を手渡してやる。マリーは両手で受け取るなりさっそく口をつけ、「わあ!」と目をぱちくりとさせる。
「人間って、ふしぎなものを飲むみたいね?」
おまえの陰毛のほうがよっぽどふしぎだけどな、と考えているうちにまたほしくなってきて、そういえばさっきの効果も切れてきたしな……とか思っていたらそれを口に出すまでもなくマリーはじぶんから浴衣の裾に手を突っ込っこんでごそごそとやりはじめ、そうしてちぎった陰毛を手渡してくれるのでさっそく舌にのせて転がしているうちにまた頭がふわっとなってきてやべえすげえ楽しい! きたきたきたきたきたうおおおおおおお!!
「マリー! さっきのやつもっかい歌ってくれ!」
天国にいるような気分から発せられるおれの叫びを聞き、ふふんと笑いながらじゃらららんとアコギをかき鳴らしてみせる陽気なマリー。しかし――
ドンッ!
と壁を叩かれる音が突然向こうの部屋から響き渡り、それによってはっと我に返る。やばいやばい、あまりにも気持ちよすぎて理性を手放すところだった……あわててマリーを中断させ、「ごめんお隣さんが住んでるから騒がしくしたら駄目なんだ」と言ってきかせる。「それってお友達ってこと?」と首をかしげるマリーへの説明が面倒くさくって、部屋の白い壁に空いた大きな穴を塞いでいるポスターをだまったまま指差す。
五月ぐらいにいきなり出現したこの壁のでかい穴は人が一人通れるほどの大きさで、隣に住む眞島さんという女子大生? の部屋とつながっている。欠陥住宅なのかそれとも誰かに破壊されたかは知らないが、大家に苦情を言いに行くのが億劫でいまのいままで放置されている。だから最初は隣の生活が見えていたんだけど、眞島さんはなんか目つきがこわいしおれは常時ヘッドホンを装着しているから結局一度も会話とかしたことはなくて、「そっちが言いに行けよ」という無言の駆け引きが延々と続けられた挙句にいつの間にかあのポスターが張られていて、そのまま事実上落ち着いてしまった状態がこれ。こっち側から見えるのは裏面なんだけど目を凝らしてみると力士の柄が透けていて、眞島さんが相撲ファンだということだけはよくわかる。
とはいえこんな薄い紙一枚でしか隔てられていないわけだから声やら音はよく響くだろう。ひょっとするとさっきまでの会話も筒抜けだったかもしれない。ここに客を招くのははじめてだったからあまり意識してはいなかったけれど、これからはひそひそ話とかにしたほうがいいんだろうか? ていうかこれやばくないか? おれ通報されるんじゃ?
ということをちらりと頭で考えてはみるんだけど、いまはそれを上回るすばらしい多幸感に身を包まれているので結局心配する気持ちは全然起こらず、まあどうでもいいかべつに大丈夫だろうと思うが、さすがに穴のほうへおもむろに近づいていったマリーが手を伸ばしてポスターをぺろんとめくろうとしたときにはその頭をぐわしとつかんで止める。そしたらちょうどそこへ「げっぷ」とかいうサイダーの副作用がマリーに現れ、それがなんともおかしくって思わず笑ってしまう。そして笑いながら思う――マリーといるのは楽しい! マリーがマリファナであろうがなんだろうがそのことは変わらないしおれはマリーにやさしくしていきたい――
陰毛の作用なのか落ち着いてくるにつれだんだん眠くなってくる。おれはマリーのために布団をあけ、おやすみと言って床にごろんと横になる。
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