いまひとたびの

真夜中 緒

 

 六条の邸は、静かに古びようとしていた。

 私のようだと綾子は思う。

 斎宮を務める娘の傍らでの、静かな隠者めいた生活のうちに、綾子は静かに老いた。

 お方様はいつまでたっても若くお美しいと、女房たちは言ってくれるし、綾子の肌は今も白く髪は見事に黒い。それでも静かな伊勢での日々のうちに、綾子の内側は立ち枯れてゆく木のように確実に老いていった。

 もしかしたら、と綾子は思う。

 かつてそう願った通りに、清浄な場所での生活が綾子の妄念を焼いたのかもしれない。ただそれは激しいものではなくて、じわりじわりと焼き尽くす、風のない日の野火のようなものだったのではないか。

 御代替わりに従って、綾子の娘である斎宮晶子内親王は任をとかれた。譲位による御代替わりであったので、行きと同じ道を反対に辿って京に向かう。

 既に斎宮ではない晶子には黒木の宮の用意はなく、土地の有力者の邸に泊まりながらの帰京となった。

 長く留守にした六条の邸は静かな佇まいの中に、主のいない邸特有の寂びれた気配を滲ませている。それは老女のまどろみにも似た、物寂しさと懐かしさを感じさせた。

 「おかえりなさいませ。」

 涙ぐんで綾子たちを迎えた召使い達も、皆一様に老いていた。

 「留守の間、苦労をかけましたね。」

 主の居ない邸を守って、仕えてくれた者たちだ。応える綾子の声も柔らかい。ぽつぽつといなくなった者もいて、例えばあの葵祭の日に綾子の車を無体から守ろうと声を張ってくれた老爺は、前年の冬に風邪をひいて帰らぬ者となっていた。

 

 綾子が伊勢にいる間に光る君もまた京を去り、そして戻ってきていた。

 光る君が殿上の札を削られ、京を落ちたことを風の噂には聞いても、伊勢にいた綾子にとってはそれはどこか他所ごとのようで、ただ光る君の名前が胸に燻る未練をかきたてたに過ぎなかった。

 光る君が京に呼び戻されたと聞いたときにも、それは同じ。

 けれども光る君の帰京を契機に譲位のことが決まり、綾子の帰京もまた決まったのだ。今や光る君は新帝の後見人であり、権勢並ぶ者なき立場に上りつめようとしている。

 しかし、それもまた綾子にとっては他所ごとだった。綾子にとっての光る君は、傲慢で残酷で魅力的な、あの若い光る君なのだから。


 夜明けにふと目覚めて、綾子は床を抜け出した。

 風を通すのに少し開けたままの蔀の隙間からそっと外を見る。白く明けてゆこうとする明かりに浮かぶ庭は、綾子の胸に鈍い痛みをもたらした。

 幾度、こんな明かりの中に光る君の背中を見送ったろう。

 あの時の綾子の胸にも痛みがあった。

 甘い、陶酔した痛みは恋の香気そのものだ。綾子もまたその痛みに酔い、浸りきっていた。

 今、あの時の自分に言葉を送れるなら、綾子はどんな言葉を選ぶだろう。その恋は危険だと、その陶酔は失われれば恐ろしい苦しみをもたらすのだと、警告するだろうか。

 いや、そうはなるまい。

 いっそもっと溺れて我など忘れてしまえと、自分をそそのかしてしまいそうな気さえする。

 いいえ、そんなことも結局は言えないのかもしれない。

 陶酔も痛みも苦しみも未練も後悔も。

 今となっては全ては綾子の一部であり、かけがえのないものなのだから。


 綾子が邸に戻ると、かつて邸に集っていた人々がまた集うようになった。

 詩歌、史書それから音楽。

 かつてのもてはやされた六条の有り様がよみがえる。

 けれどそこに光る君の姿はない。

 光る君からは幾度か文もあったけれど、綾子は女房に代筆させた型通りの返事しか返さなかった。

 あの、狂おしいような恋はもう終わったのだ。

 綾子の内の尽きない未練も泣きわめく時は過ぎ、静かにすすり泣くような、鈍い痛みに変わっている。

 一度生まれた妄念は綾子の死まで消えはしないのだろうが、それはもう綾子自身の力でなだめ、抑えることができるものだ。

 これでいいと綾子は思う。

 こうして静かに老いていきたい。

 久しぶりに過ごす京の夏は暑かった。

 海からの風の抜ける伊勢と違い、山に囲まれた京には暑気が溜まる。うだるような暑さをなんとかやり過ごし、少し過ごしやすくなったかと思えた頃に、綾子は倒れた。


「お疲れがたまっておいでだったのですよ。」

「涼風がたてば落ち着かれますわ。」

 女房たちは口々にそんなことを言う。

 そうだろうか。

 綾子にはそうは思えない。

 立ち枯れた木が倒れるように、自分もまた倒れたのではないかと感じられるのだ。

 「長く御仏から離れておいでだったのも良くないのかもしれません。」

 古参の女房にはそんな事を言う者もいる。

 神域において仏事は忌むもの。

 伊勢にいる間の綾子は、もちろん仏事になど触れてはいない。晶子までが気にしているようだったので、綾子はしるべの寺から導師を迎え、髪をおろした。

 重たい体を女房に支えられ、手には紫水晶の数珠をかけて戒を受ける。長い黒髪を切り落とすと、確かに頭は軽くなった。

 「きっとお元気になられます。」 

 不安そうに取りすがる晶子に、そっと微笑む。

 愛おしい、背の君の忘れ形見。

 晶子のことを思えば生きていたいとも思うけれど、実は綾子の内にはもう、生きようと足掻くほどの気力は残っていない。 

 まるで綾子の妄念を焼いた野火が、綾子の生命力までも焼き尽くしたかのようだ。

 晶子の事さえなければ、もう生きることに未練はない。

 ただ晶子の後見をどうするかと考えると、任せられる者もいないのが実際のところだった。

 かつて綾子の後見人であった大臣は、綾子が伊勢にいる間に身罷った。大臣の娘である太后も、最近は病みがちであるように聞く。邸に集う文人たちには、元斎宮の後見を務められる程の者は見当たらない。

 結局、考えられるのは光る君その人だが、さすがにそれも言い出しにくく、思い悩むうちに綾子の病は一層重くなっていった。


 読経のうねりは緩やかに綾子を包む。

 とよもすような盛大さではないけれど、しるべの寄こした一人二人、あるいは六条の集いに立ち交じっていた僧都自身が、立ち寄っては病魔退散の経を誦してゆくので、常に綾子の耳には低く経が聞こえている。

 その低いうねりの中で、綾子は目を閉じため息をもらす。

 ああ、いい気持ちだ。

 なんと安らかな気分なのだろう。

 こうして髪をおろし、読経のうねりに身を任せていると、全ては長い夢だったようにも思える。

 このまま夢の中に滑り込むように死んでしまえるなら、どんなに安らかなことだろう。そんな死はきっと恐れるようなものではなく、ただ一日の終わりに眠りにつくようなさりげない現象なのではないだろうか。

 「あの、お方さま。」

 女房が一人大きな包を運んできた。

 仄かな丁字の香に、綾子がゆっくりと瞼を開く。

 「これが、御文と一緒に。」

 包は法衣のひとかさね。優美な織りの鈍色の衣には、香染めの単が添えられている。

 文を開かなくてもその送り主はすぐにわかった。

 文には来訪の是非を尋ねる言葉がある。

 目を閉じて、少し考える。

 やはり光る君の他に、晶子を託せる人はいない。

 「お待ちしますと、お返事して。」

 女房に代筆の指示を出すと、綾子は再び目を閉じた。


 私は死にゆこうとしている。

 久しぶりに眺めた鏡に、綾子は自分の面に映る「死」をはっきりと見てとった。

 白い頬はいよいよ白く。

 薄くなった輪郭はもはや幽鬼じみている。

 髪だけは黒々と豊かだが、尼削いだすそが肩にかかり、頬の白さを際立たせていた。

 病みやつれた匂いだけでもなんとかしようと、病室の畳や褥も新しく替え、御簾も几帳も取り替えて光る君の訪れを待つ。綾子は光る君に贈られた新しい法衣に袖を通した。

 香染めの単を身につけるのは久しぶりだ。

 たぶんあの野宮以来。

 これは恋の香りであり、恋の終わりの香りであり、今の綾子にとっては只々懐かしい香りだった。

 ふわりと部屋の隅に燻らせた香は、かつて綾子が心を込めて合わせたもの。丁字の配合をわざと抑えて、香染めの単と合わせた時に、最も香りの高いように合わせた香だ。

 やがて光る君の訪れが告げられた。

 綾子は女房に手伝わせて、体を起こす。しっかりとした脇息にもたれかかって、なんとか座ることができた。

 少し考えて晶子を呼びにやる。

 頼もうとしているのは晶子のことだ。本人も同席したほうがいいだろう。

 「こちらはいつ伺っても変わりませんね。むしろいよいよ趣き深くなるようです。」

 光る君が、来た。

 晶子の内側で妄念が騒ぐ。

 待ちかねたもの、焦がれぬいたもの、それが立ち現れた現実にざわざわと揺れ動く。

 深く息を吸い長く吐き出して、綾子はそれをなだめ抑え込む。

 「わざわざのお出まし、いたみいります。」

 我が声ながら、細かった。

 細い消え入りそうな声。

 けれどそれは几帳越しに光る君に届いたようで、光る君がはっきりと綾子の方を見た。

 「もっと早く、伺うのでした。」

 光る君は泣いているようだった。几帳越しにもありありとわかるほどに綾子はやつれていたらしい。光る君の涙に滲む、仄かな情の名残が綾子の心を温めた。

 これでいい。

 これで晶子の事さえ託せば、私は死ぬことができる。

 その時、晶子が静かに綾子のそばに寄り添って座った。

 ふと、光る君の気配が動く。

 ああ、この人は。

 綾子の心を温めたものがはらりと落ち、黒いものが湧き上がってくる 

 光る君からはっきりと顔を見られるような無作法をする晶子ではないが、それでも光る君の視線が晶子の輪郭をなぞっているのがわかった。

 舌なめずりするような密やかな気配。

 晶子は美しい。

 母の綾子からみても透き通った水晶の如き娘だ。

 加えて前斎宮という立場。

 いかにも好色心を動かしそうな、格好の獲物ではないか。

 湧き上がる黒い、黒い気持ち。

 それはすでに力を失いかけていた綾子の妄念を染め上げ力づける。

 ああ、私はこの男が憎い。

 この男の薄情が、傲慢さが、残酷さが。

 憎い、憎い、憎い。

 それは綾子が初めて覚える感情だった。

 この男を苦しめたい。

 この男を貶めたい。

 この男に目にもの見せてやりたい。

 この男が絶望して、打ちひしがれる姿が見たい。

 憎くて、憎くて、憎くて…恋しい。

 「ひとつお願いがございます。この世のほかの願いと思し召して、なにとぞお聞き届けくださいませ。」

 「この世のほかなどと悲しいことを申されますな。もちろんなんなりとお申し付けください。」

 光る君の視線が、さすがに綾子に戻る。

 「私亡き後、内親王を御心にかけてやってくださいませ。清らかなところに生きて世間知らずの内親王です。私の命のあるうちに色々お教えするつもりでしたがどうやらそれは叶わぬようです。内親王のこと、なにとぞよろしくお願いいたします。」

 光る君から歓喜の気配が湧き上がる。

「もちろんです。お言葉などなくとも心にかけないことがありましょうか。この先は気のつく限りのご後見をさせて頂くつもりです。なにとぞご安心ください。」

 そうだ。光る君はそう言うだろう。後見人という立場は晶子を手に入れるには絶好の立場だ。けれど決して好きにはさせない。

綾子はそっと背筋を伸ばす。

 「そうは申しましてもきちんとした父親の後見があってさえ、母なき娘のその後のことは難しいものと聞き及びます。」

 言霊を練り、思いを込める。

 しっかりと聞くがいい、この私の遺言を。 

 「どうか間違っても、内親王をご寵愛くださいませんように。色めいたお気持ちでは決してお世話くださいますな。」

 晶子がはっと綾子を見る。

 大切な、私の娘。背の君の忘れ形見。

 あなたは美しいのだから、賢くなくてはなりません。母があなたをこの男に託しても、けっして御心は許さずご油断なさいますな。

 「…私とて昔のままではありません。私の二心なきことは必ずお分かりいただけるかと存じます。」

 一瞬、光る君が言葉に詰まったことも、晶子は耳にとめたようだ。この聡明な娘なら、賢く身を処するだろう。

 気が抜けると同時に、妄念を押さえ込んでいた力が抜けるのを感じた。

 憎しみが妄念と共に綾子の身体から抜けてゆく。

 「お方さま。」

 控えていた女房が慌てて綾子の身体を支えた。

 抜け出した妄念は綾子に残っていた力を、残らず持っていったらしい。

 動揺した光る君が几帳の隙間から覗いているのがわかる。それでいて光る君の視線はともすると、晶子の方にすべるのだ。

 憎い憎い、あなた。

 最期のこんな時になって、まだ私に憎しみを教えようとするあなた。

 一人の女の想いでは、きっと光る君を満たすことはできないのだろう。

 ならば綾子は誰よりも光る君を傷つけてやりたいと思う。

 爪を立て、掻き毟り、消えない傷を黒々と刻んでやりたい。それがどれほど不毛な願いでも、他に何を望めるというのだろう。

 「お方様は、お具合がお悪くてこれ以上のお話は無理でございます。何卒お引き取りくださいませ。」

 女房が綾子にかわって口上を述べる。

 さようなら、愛しいあなた。

 そして

 どこまでも一緒に。

 遠のいてゆく意識の中で、綾子はいくつもの景色を見る。

 御簾を巻き上げる唐猫。

 臥せる美しい女。

 そして山中の庵に臥す、老いた光る君。

 憎い憎い、愛しいあなた

 私はあなたにわざわいを遺してゆこう。

 それはあなたの誇りを打ち砕き、最も愛しいものを奪う。

 そしてあなたの生命の終りを、黒々と塗りつぶすだろう。

 未練、執着、嫉妬、憎しみ、絶望。

 あなたが私に教えた全ての感情を、その時あなたは知るだろう。


 綾子の息はそれでも七、八日は保った。

 晶子はもちろん傍らに詰め、光る君も連日通いつめたが、それがどれだけ綾子に伝わっていたのかはわからない。

 ある夜明け、ふと長いため息をつくように胸が動いて、とまった。

 疲れ果てたようでもなお美しい死に顔だった。

 

 

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いまひとたびの 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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