空蝉(うつせみ)

野沢 響

空蝉(うつせみ)

 蝉が鳴きしきる、七月も半ばにさしかかったある日、当時小学四年生だった私は、黒のブレザーに同じく黒のズボンをはいて、父の後ろを母と一緒に歩いていました。

 私たち家族だけではありません。前を歩いている人たちは皆、真夏だというのに黒い衣服に身を包み、額に汗を浮かべていました。その度にハンカチで汗を押さえながら歩き続けたのでした。


 電話がかかってきたその日はちょうど夕食を済ませたところで、父はテレビのバラエティー番組を見ながら缶ビールを飲んでいて、母は新しい麦茶を作っているところでした。私はその頃夏休みに入ったばかりで、学校から出された課題に取りかかっていました。

その時、いきなり電話が掛かってきて、母は麦茶を冷蔵庫にしまうと慌てて電話に出ました。

 「え? 由永よしえちゃんが?」

 只事ではない母の様子に父と私は同時に振り返りました。

 母は真っ青な顔でこちらを見てから、

 「ねえ、ちょっと! 由永ちゃんが!」

 と、父を呼びました。

 「どうした?」

 父は持っていた缶ビールを置いて母の傍へ行き、受話器を受け取ると、

 「飛び降り? 一体いつ?」

 その言葉を聞いた瞬間、私は驚いて持っていた鉛筆を落としました。

 真っ青な顔で茫然と立ち尽くす母の姿と、受話器を持つ父の手が震えていたのを覚えています。

  電話は由永さんの父親からでした。昨日の夕方、従姉いとこの由永さんが飛び降りて自ら命を絶ったというのです。(由永さんの父親は私の父親の兄にあたります)

 由永さんは私より十三歳年上の女性で、私は去年までよく遊んでもらっていました。

 話によれば、昨日の夜七時頃に突然由永さんの実家に警察から電話が掛かってきたそうです。

 若い女性が飛び降りたとの連絡が入り、現場へ駆け付けるともう既に息はなく、所持品から由永さんの運転免許証が見つかり連絡したのだと。

 遺体の確認をして欲しいということで警察署で確認したところ、その遺体は由永さんのもので間違いなく、遺体は既に自宅で安置されているということでした。


 通夜当日、由永さんの実家にはたくさんの親戚が集まっており、中には見たことのない人の顔もありました。

 私にとって由永さんの死は、生まれて初めて経験した人の死になりました。

 和室には、柔らかく微笑む彼女の遺影と棺の中で静かに眠る由永さんの亡骸なきがらがあり、周りの者たちは皆、若くして亡くなった彼女のことを思い悲痛な面持ちでいるのでした。

 私は棺の中の由永さんの亡骸を覗き込みました。隣からは母の鼻をすする音が聞こえます。

 彼女の顔は包帯で覆われていて、表情を窺い知ることは出来ません。飛び降りた際に顔をしたたかに打ち付けたのが原因だと思われます。そのせいで顔が変形してしまい、彼女の両親でさえ、自分の娘の顔を見ることが出来なかったそうです。

 真っ白な肌に、肩にかかるくらいに切りそろえられた黒い髪は、今年の正月に会った時と全く変わりません。

 「ああ、ご足労おかけして申し訳ありません」

 由永さんの母親の声で我に返り、声のする方に視線を向けると、黒いワンピースを着た女の人と、黒いスーツに身を包んだ体格の良い男の人が控えめに頭を下げました。

 何か小さい声で由永さんの母親と話をしているようですが、会話を聞き取ることは出来ません。

 女の人は由永さんと同じくらいの年に見えましたが、男の人は更に年上に見えました。

 由永さんの母親は周りの親族に、由永さんの昔からの友人だと二人を紹介しました。女の人はミスズさんで、男の人は忠さん。

 どこかで聞いたことのある名前だと思ったら、由永さんがよく二人の名前を口にしていたことを思い出し、「ああ、この人たちのことだったのか」と、その時初めて納得したのでした。

 由永さんの母親は二人を棺の方まで案内しました。

 母と私は二人に軽く頭を下げました。二人も私たちに頭を下げてから、由永さんの亡骸に視線を落としました。目をつむり、手を合わせてから、それぞれ生花せいかを手にして、棺の中で眠る由永さんの両脇に添えました。

 私は彼女の友人たちをちらりと見ました。

 忠さんは茫然としたまま彼女の亡骸を見下ろしていましたが、ミスズさんは哀れむでもなく悲しむでもなく、しっかりとした顔つきで包帯に覆われた由永さんの顔を凝視していて、その姿が当時子供であった私にとても不思議に映ったのでした。

 少ししてから、バッグの中から一枚の写真を取り出しました。

 「この写真は?」

 「この前の夏祭りの時に撮ったものです。この写真が彼女と撮った最後の写真なんです。私たちのことを思い出して欲しいので一緒に入れても良いですか?」

 「ええ、もちろん」

 胸に組まれた手の上に写真がそっと置かれます。

 私は再び由永さんの棺を覗き込みました。彼女がどのようにに写っているのか気になったからです。

 写真にはミスズさんの左隣で楽しそうに笑う由永さんが写っていました。紺色の浴衣は彼女によく似合っていて、とても自ら死を選ぶ人の顔には見えません。

 私はこんなに楽しそうに笑う由永さんと、目の前で眠る由永さんが同じ人物にはとても思えませんでした。

 暫く写真を凝視していると、突然ミスズさんが口を開きました。

 「由永はね、あたしの数少ない友人の中で一番あたしを理解してくれた子なの」

 その言い方はあくまでも淡々としていましたが、まるで由永さんを心の底から誇っているとでも言うように聞こえたのでした。その証拠に彼女の瞳は潤んですらいません。

 私がぽかんとしていると、母が私を棺から離しました。

 棺から離れた後も、私はそのままミスズさんから目を離すことが出来ませんでした。


 由永さんの母親や私の母親も含め女の人たちは皆台所に立ち、夕飯の支度で忙しそうにしています。

 一方私の父親を含めた男の人たちは特に何をするわけでもなく、リビングに腰を下ろして新聞を読んだり、煙草を吸ったりしながら時間を持て余しているのでした。

 私はその様子を一瞥いちべつしてから、先程線香をあげた和室に向かいました。

 和室に近付いていくと何やら話し声が聞こえてきたので、耳を澄ませていると、

 「由永の顔、見られなかったね。仕方ないかもしれないけど。最後にあの子の顔、もう一度見たかったな。忠、大丈夫?」

 「ああ、大丈夫だ」

 「嘘? 思い出してるんでしよ、昔のこと」

 「思い出さずになんていられねぇよ。あの時と同じなんだ、まるっきり。何でだよ、由永……」

 部屋の中の二人の会話がとても深刻に感じられて、部屋に入るのを躊躇ちゅうちょしました。

 昔のこと? 思い出さずにはいられない? まるっきり同じとは、何のことだろう?

 入るに入れず、リビングに戻ろうときびすを返した時、丁度廊下に置かれた段ボールにすねをぶつけました。

 その音で、部屋の中にいたミスズさんと忠さんが扉から顔を覗かせます。

 「あっ、すみません!」

 うずくまった状態でとっさに謝ると、ミスズさんはぎこちなく笑ってから、

 「良いのよ、謝らないで。由永と一緒にいられるの今日で最後だから、少しでも一緒にいたくてね。あたしも台所で手伝おうと思ったんだけど、由永といてあげてって、お母さんから言われたの」

 隣にいた忠さんもうなずいて、中へ入るように私に手招きしました。 

 私は部屋に入ると、棺の中で眠る由永さんを見つめました。

 「ねえ、ミスズさんと忠さんも今日泊まるの?」

 私は二人を交互に見比べながら尋ねると、二人は驚いたように顔を見合わせてから、

 「俺たちの名前、覚えてたのか?」

 忠さんに尋ねられ、私は首を縦に振りました。

 「由永さんに会った時、よく名前が出てきたから。だから、覚えてました」

 二人はぎこちなく笑ってから、また由永さんの亡骸に視線を落としました。

 「よかったね、目撃している人がいて。じゃないと、今は夏でしょ? 見つかるのが遅れていたら腐敗していたよ。そうだったら由永、可哀想じゃない?」

 突然の問い掛けに戸惑いながらも私が頷こうとした時、隣に座っていた忠さんが口を開きました。

 「ミスズ、そんなこと子供の前で言うな」

 低く落ち着いた声でミスズさんに注意をしてから、今度は少し困惑した表情を私に向けました。

「俺たち昔からの友達なんだ。一週間前にあった時も元気そうだったから、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった」

 「由永さん飛び降りたって聞いたんですけど、なんで飛び降りたんですか?」

 忠さんはショックを受けたような表情を浮かべてから、すぐに苦笑して私の頭に手を置いてぎこちなく頭をでながら、

 「俺にも分からないんだ。びっくりしたよな?」

 続けてミスズさんに顔を向けると、彼女もうつむき加減に、

 「あたしにも分からないの。前にね、由永に何か悩んでないって聞いた時も何もないって笑っただけで」

 一週間前まで元気だったのならば、亡くなるまでの数日間にきっと何かあったのだ。いや、もしかしたら何か悩みがあっても心配をかけたくなくて、あえて何も話さなかったのかもしれない。

 私は頭を撫でられながらそんなことを考えていました。

 「あの、昔のことってどういう意味ですか? さっきあの時とまるっきり同じだって言ってましたけど」

 部屋に入る前に聞いた忠さんの言葉が引っ掛かっていたのです。この人は、由永さん以外にも飛び降りた人の遺体を見たことがあるのだろうか?

 一瞬忠さんの顔が強張こわばりました。その後、どのように説明したら良いのか迷っていましたが、ミスズさんが口を開きました。

 「忠はね、警察官だったの」

 「そうなんですか?」

 「まあな。けど、今は違う」

 忠さんはそれ以上何も言いませんでした。

 もしかしたら聞かれたくないことだったのだろうか。私は気まずくなり、顔を伏せました。ふと先程見た由永さんの部屋のことを思い出し、顔を上げて、

 「あの、由永さんの部屋さっき少し覗いたんですけど、なんか昔と違う気がして」

 「由永の部屋?」

 「はい」

 私が頷くとミスズさんは立ち上がり、それから部屋のふすまを指さしました。

 「ねぇ、由永の部屋行こうか?」

 私は頷き忠さんも何も言わずにに腰を上げると、由永さんの眠る和室を出て、彼女の部屋に向かいました。

 由永さんの部屋は、小さい頃に入った時と比べてずいぶん変わっていました。

 学生机は当に処分されてありませんし、カーテンもピンク色の花柄のものから黄緑色の落ち着いた色合いのものに変わっていました。

 「机なくなったんですね。カーテンも違う」

 「もう学生じゃないからね。変わるよ。でも、あなたよくカーテンが変わったの分かったね」

 ミスズさんが微笑みながらそう言うと、忠さんも「ああ」と、短く答えました。その後すぐに「入ったことがあるのか」と、聞かれたので頷くと、

 「時々遊びに行ってました。由永さん、僕とトランプやってくれたり、テレビゲームもやってくれて」

 忠さんは「そうか」と、だけ答えると、目の前のカーテンに顔を向けました。カーテンが網戸から入る風に揺られています。

 そうして私たちは夕飯に呼ばれるまで、風に揺れる黄緑色のカーテンを眺めていたのでした。


 その日の夜は由永さんの実家に泊りました。

 彼女の両親は棺が置かれている和室で眠り、私たち家族はリビングと隣接している部屋を借りました。ミスズさんと忠さんは由永さんの両親の部屋を借りることになりました。

 夜中に目が覚めたのでふと両脇にいる両親を見てみると、二人とも眠っています。

 私は目をつむり再び眠ろうとしましたが、眠ることが出来ず結局起き上がりました。

 水でも飲もうと、こちらとリビングを隔てている襖を開けようとした時、かすかに話し声が聞こえたので、そっと襖を開けて声のする方に目をらすと、その先にミスズさんと忠さんの姿が見えました。

 二人ともソファーに座っていて、こちら側に背を向けていたため表情を伺うことは出来ません。

 「……あの子、由永が自殺したこと知ってたね」

 「ああ、てっきり親から事故だと聞かされていると思ってたんだ。自殺した理由を聞かれた時、何て答えたら良いか分からなかった」

 「あの子、びっくりしたでしょうね」

 「そうだな。遊んでもらったって言ってたもんな」

 「もう会えないね、由永に……」

 そう言ってからミスズさんが両手で顔を覆い、忠さんが彼女の頭に腕を回して自分の方に引き寄せるのが見えました。

 大人の女の人の悩みなど、当時小学生だった私に分かるはずもありません。

 後から聞いた話によると、どうやら由永さんは勤めていた会社を退職することになり、次の仕事先を探すつもりだったそうです。

 それだけが理由なのかは分かりませんが、時々母と私が由永さんの家に遊びに行くと、彼女の母親がよく私の母に由永さんのことを相談していたようなので、一概には言えませんが。

 私は項垂うなだれる二人の姿を見て、自分の何気なく発した言葉にとてもショックを受けました。

 自分のせいで目の前にいる二人をとても傷付けてしまった。これほど後悔したことは後にも先にもありません。今まで否定してきた由永さんが自ら命を絶ったという事実を、否定出来なくしたのは他でもない自分だ。

 私は襖を閉めるのも忘れ、自分の布団へ戻りました。

 そして、頭に布団を被ると、両親を起こさないようにむせび泣きました。


 翌朝、目が覚めてもすぐに起きることが出来ず、ごろごろと寝返りを打っていると、突然襖が開きました。

 てっきり母だと思い、

 「今起きるから……」

 だるそうに呟いた時、

 「昨日眠れなかったか?」

 母とは明らかに違う低い男の人の声で尋ねられ、慌てて起き上がると、目の前には忠さんがしゃがんで私の顔を覗き込んでいました。

 「おはようございます……」

 「おはよう。朝飯出来てるぞ」

 それだけ言うと、忠さんは部屋を出て行きました。

 私も布団をいで後を付いて行くと、リビングでお皿を並べていたミスズさんが私に気付き、

 「おはよう。昨日眠れた?」

 尋ねられた瞬間、顔を覆い、忠さんに引き寄せられて泣いていたミスズさんの姿が脳裏に浮かびました。

 彼女はいたって何事もなかったように普通に振舞っていたことに、私が驚きを隠せずにいると、

 「どうしたの?」

 ミスズさんに尋ねられて首を横に振った後、「何でもないです」とだけ答えて、テーブルの前の椅子に腰掛けました。

 夜中の二人の会話について黙っていた方が良いのか、口にしても良いものか分からず、目の前に出された味噌汁に口を付けたのでした。


 お昼前に告別式が終わり出棺も済むと、由永さんの亡骸が入った棺は火葬場へ移されました。

 由永さんの両親は棺から離れようとせず、私の父や忠さん、親族が引き離すかたちになり、そのせいで火葬の時間が十分も遅くなってしまいました。

 由永さんの遺体が完全に骨になるまで一時間近く掛かりました。

 その間、普通であれば故人の生前の思い出話でもするのでしょうが、死亡理由が自殺である以上そういった会話が親族の間で交わされることはなく、皆出されたお茶を飲んだり、窓から見える景色を眺めて過ごしていました。

 由永さんの両親は親族たちから離れて、火葬場の前に置かれた様子に腰掛け、彼女の遺影を眺めていました。

 時折ハンカチなどで目を抑えている彼女の両親の嗚咽を聞きながら、ミスズさんと忠さん、それに私は一番後ろに設置されている椅子に腰掛けます。

 私がぼんやりと由永さんの遺影を見つめていると、ぽつりとミスズさんが言いました。

 「あたし思うのよ。この世で苦しい思いをした人は天国で幸せになって欲しいって」

 私は頷きました。

 「僕もそう思います」

 ミスズさんが言うように、由永さんには天国で穏やかに暮らして欲しいと思いました。

 魂だけになった人々に暮らしというものがあるのかは分かりませんが、生きている間に苦しい思いをした人たちには、あの世で幸せになる権利があるのではないか、と強く思ったのです。

 「忠?」

 ミスズさんの声で私も忠さんに顔を向けると、彼は力なく項垂れていました。

 「大丈夫ですか?」

 具合でも悪いのかと思い尋ねると、

 「ああ、大丈夫だ。あいつを救えなかったのが悔しくてな。腹立たしいんだ、自分が。ごめんな、お前にまで心配かけちまったな」

 苦笑しながら、忠さんは昨日と同じようにまた私の頭を不器用に撫でたのでした。

 

 葬儀を終えてから一カ月が経とうとしていた頃、由永さんの実家から再び電話が掛かって来ました。

 内容は、由永さんが暮らしていたアパートにそのままになっている荷物を運び出さないといけないので、その手伝いをして貰えないか、というものでした。

 私たち家族は、電話を受けた日から三日後の日曜日に由永さんの住んでいたアパートへ向かいました。

 両親からは、祖父母の家で待っているように言われたのですが、私はどうしても行くと言って聞きませんでした。

 由永さんのアパートには一度も行ったことはありません。

 私がどうしてもアパートに行きたかった理由は、ミスズさんと忠さんも手伝いに来ると聞いたからです。あの二人にもう一度会いたいと思ったのが他でもない一番の理由でした。

 由永さんの住んでいたアパートはそれほど大きくなく、二階の部屋を合わせても六部屋しかない、小さなアパートでした。

 それは住宅が並んでいる一角にひっそりとあり、二、三分歩いた先には公園もあって、小さい子供たちが遊んでいるのが見えました。

 木々の緑の隙間からは太陽の光が差し込んでいて、私はまぶしさに思わず目を細めます。 

 彼女の住んでいた203号室に着くと、私は辺りを見回してからミスズさんと忠さんの姿がないことに気付き、伯父に尋ねました。

 「ねぇ、伯父さん。ミスズさんたちは?」

 伯父は廊下の方へ顔を向けてから、私に視線を戻して、

 「まだ来てないな。じきに来るだろう」

 そう言うと、大家さんから借りたカギで玄関を開け、部屋の中へ入っていきました。

 由永さんが飛び降りたのは十五階建てのビルの屋上からだそうです。

 皆、「アパートで死ななくて良かった」と、口を揃えていました。アパートで死なれたら賠償金の問題が発生するから、と。

 作業を始めて五分後くらいに、ミスズさんたちは到着しました。

 「遅れてしまってすみません」

 走って来たのか、二人とも息を切らしています。

  由永さんの父親も作業を中断し、慌てて立ち上がり頭を下げてから、

 「いやいや、こちらこそ申し訳ない。手伝わせてしまって」

 由永さんの母親も同じく頭を下げました。

 その様子を黙って見ていた私にミスズさんが気付いて中腰になり、私に目線を合わせてから尋ねました。

 「あなたも来ていたの?」

 私は何も言わずただ頷きました。微笑みを浮かべて「そう」とだけ言うと元の姿勢に戻ってから、部屋の中を見回しました。

 私も同じように部屋を見回しました。

 由永さんの部屋はすっきりと片付いていて、本も食器も化粧品も全て収まるべきところに収まっています。

 その片付いた部屋を見て私は恥ずかしくなり、顔を伏せました。

 当時の私はあまり片付けが得意ではなく、読みかけの漫画はベッドの上に放置したままでしたし、教科書やノートは机の上に乱雑に置いていました。

 脱いだパジャマをたたむこともなく、そのまま床に放置するという有様だったので、由永さんのアパートの部屋を見た時は、ひとり暮らしの人の部屋はこんなにきちんと片付いているのかと、衝撃を受けました。

 彼女の部屋はよく片付いていましたが物が多く、全ての物を運び出すのは容易なことではありません。

 食器棚や姿見、洋服ダンスといった比較的大きなものから、本棚に入っている本、CDにDVD、調味料やお菓子などの細かい物まで色々とありました。

 私たちは手分けして作業に取り掛かります。

 昼食を取ったのは午後一時を過ぎてからで、母親たちがコンビニから買って来た中華そばを黙々とすすりました。

 昼食を終えてベランダで頬杖ほおづえをついていると、ミスズさんに名前を呼ばれました。

 「良かったら、これ」

 そう言いながら私にお茶が入ったペットボトルを差し出します。

 「ありがとうございます」

 お礼を言って受け取ると、ミスズさんは前に顔を向けてから、

 「今日も暑いね」

 「そうですね」

 「ちゃんと水分取ってる? 喉が渇いていなくても飲まないとダメよ。脱水症状になっちゃうから」

 私は黙って頷き、ペットボトルに口を付けました。

 ミスズさんはその様子を眺めてから、 

 「あなたがうらやましいよ」

 いきなりそんなことを彼女が呟いたので驚いて「え?」と、聞き返しました。

 彼女は微笑んでから、

 「お父さんとお母さんを悲しませちゃダメよ。あなたのことを一番に考えてくれている人たちなんだから」

 「ミスズさんのお父さんとお母さんは?」と、私が聞こうとした時、

 「ねぇ、あなたこれ見たことある?」

 私に尋ねてから、彼女は軽く握っていた拳を開いて私にあるものを見せました。

 手の中に収まっているその物体に目を凝らすと、それは蝉の抜け殻でした。

 顔を上げると、彼女は目を細めて懐かしそうにその抜け殻を見つめて、

 「由永はね、だいぶ変わっている子だったの。子供の頃から蝉の抜け殻を集めるのが好きでね」

 私の頭の中で、木の枝から蝉の抜け殻を嬉しそうにつまんで見せる由永さんの姿が浮かびました。

 夏休みに祖父母の家に行くと、決まって彼女は裏庭に生えている木々を見て回り、蝉の抜け殻を取るとそれを幼かった私に見せてくれたのです。

 「これはミンミンゼミの抜け殻。そしてこっちがアブラゼミの抜け殻よ」

 由永さんは別々の木からそれぞれ大きさの違う蝉の抜け殻を手のひらに乗せて、種類を教えてくれました。

 「へえ。由永さん、蝉好きなの?」

 女の人は虫が苦手なイメージがあったので、由永さんが蝉に詳しいことを素直にすごいと感じたのです。

 実際、色々な大きさの抜け殻を見つけてはそのたびに蝉の名前をたずねました。

 すると、由永さんははにかみながら、

 「蝉は好きだよ。他の虫は気持ち悪いから嫌いだけど、蝉は可愛んだよね。小さくてもでかくてもさ」

  私はあの時の由永さんを思い出しながら、ミスズさんを見上げました。

 「由永さん、蝉に詳しかったです。見ただけでその蝉の名前とか鳴き方とかちゃんと分かってて」

 私が当時のことを思い出しながらそう話すと、ミスズさんはまた嬉しそうににっこりと笑いました。

 「うん。あの子、蝉にとっても詳しかった。そのせいでクラスから浮いちゃってね。ねぇ、大きくなっても由永のこと忘れないでね」

 その時、網戸越しに悲鳴が聞こえました。

 ミスズさんと私は声のした方を振り返ると、網戸を開けました。

 中に入ると、皆何かを見下ろしています。由永さんの母親の顔が引きつっていたので、腐りかけの食べ物でも見つけたのだろうと思っていましたが、覗き込むようにして見てみると、目の前の箱の中には何時のものか分からない蝉の抜け殻がたくさん詰め込まれていました。

 「こんなものばかり拾ってくるから……。 由永、あんたって子は」

 そう言うと、蝉の抜け殻が入った箱を乱暴にゴミ袋の中へ放り込んだのです。

 由永さんの母親の顔はみるみる真っ赤になり、その顔には悔しさと後悔が色濃く滲んでいました。

 成人になってもずっと蝉が好きだった由永さんのことを考えると、彼女の母親の行為がとても残酷なものに感じられました。

 由永さんの母親が嗚咽を漏らすのを聞きながら、私はゴミ袋に投げ捨てられた蝉の抜け殻を眺めました。


 由永さんのアパートから荷物を運び終えて三日後に、私は母と由永さんの実家を訪ねました。

 その日は天気が悪く、朝からずっと雨が降っていました。

 テレビの中継で、台風並みの豪雨になると報道していたので、早めに帰ろうと母が帰り支度を始めた時、インターホンが鳴りました。

 由永さんの母親が出ると突然、「忠さん!」と、声を上げました。そして、慌てて玄関に向かって駆け出したのです。私も同じように玄関に向かいました。

 「忠さん! どうしたんですか? こんなに濡れて……」

 玄関前に立つ忠さんは、雨のせいで全身が濡れていました。ここまで走ってきたのか荒い呼吸を繰り返しています。

 「突然すみません。ミスズ、来ていませんか?」

 「ミスズちゃん? いいえ、来ていませんよ。どうかしたんですか?」

 忠さんは目を逸らしてから、

 「昨日から帰って来ないんです。行きそうな所は全部探したんですが、携帯電話も繋がらなくて」 

 その声音からは不安と焦燥感を感じます。

 「とりあえず上がって下さい!」

 由永さんの母親が入るように促しましたが、忠さんは黙ったままで中に入ろうとしません。

 「ミスズさんのお父さんとお母さんは……」

 私が言いかけた時、

 「ミスズには親がいない。ずっと施設で育ったんだ」

 きっぱりとした口調で否定され、私はミスズさんから言われた言葉を思い出しました。

 (お父さんとお母さんを悲しませちゃダメよ)

 「ご迷惑をおかけして、すみません。もう一度探して来ますので、もしミスズが来たらお願いします」

 「何言ってるの、こんな天気なのよ! それに、風も強くなってきたじゃない」

 由永さんの母親が、踵を返した忠さんの腕を掴んで叫びました。

 私の母親も同じように、

 「そうよ。忠さん、とりあえず中に入って」

 玄関の扉が開いたままになっているせいで、玄関はどんどん濡れていき、足元にも雨がかかり私の足元を濡らしていきます。

 母親たちが忠さんを無理矢理中へ入れようとした時、女の人の声が聞こえました。

 「……忠?」

 声のした方を見ると、そこには同じように全身雨に濡れたミスズさんんが立っていました。両手には何かがタオルに包まれていて、ミスズさんはそれを大事そうに抱えています。

 彼女は不思議そうな顔で忠さんと私たちを見つめたまま動きません。

 「ミスズちゃん!」

 由永さんの母親が裸足はだしのまま駆け寄り、彼女を抱き締めました。

 「どこに行っていたの、こんな雨の中。昨日から帰って来ないっていうから……」

 彼女を離してから、由永さんの母親が口を開きかけた時、忠さんがふらふらとした足取りでミスズさんの元へ歩み寄りました。

 そして、彼は突然ミスズさんの頬をひっぱたいたのです。

 「お前にとって俺はそんなに頼りないか? 黙っていなくならなきゃいけないくらい俺は信頼されていないのか?」

 降りしきる雨の中、忠さんの怒声が響き渡りました。

 そして力なく項垂れると、

 「もしかしたら、後追いなんて考えてるんじゃないかって思ったんだぞ。もしそんなことになったら、一体どうやってあいつに詫び入れりゃ良いんだ……」

 暫く沈黙が流れ、雨音と風の音だけが聞こえる中、ぽつりとミスズさんが口を開きました。

 「忠のことを頼りないなんて思ったことなんか、一度もないよ」

 そう言うと、ミスズさんは持っていたものに掛けられているタオルをめくり始めました。

 タオルに包まれていたのは、二十センチ程の大きさの箱でした。彼女は箱を忠さんの前に差し出してから「開けてみて」、と言い、忠さんは無言でフタを開けました。

 箱の中に入っていたのはたくさんの蝉の抜け殻です。

 「これを探していたの。由永が好きだったもの色々と考えたんだけど、やっぱりこれが一番あの子が喜ぶんじゃないかって」

 次の瞬間、由永さんの母親は声を上げて泣き崩れました。私の母親が傍まで駆け寄り、彼女の背中をさすっていました。その表情は泣くのを必死にこらえているようにも見えます。

 忠さんは今にも泣きそうになりながら、震えているミスズさんの身体を抱き締めました。

 その衝動で、箱の中に入っていた蝉の抜け殻がいくつか濡れたアスファルトの上に落ち、乾いた薄い膜がどんどんふやけて惨めになっていきました。

 二人は雨に打たれながら、その場を動こうとしません。

 (あたし思うのよ。この世で苦しい思いをした人は天国で幸せになって欲しいって)

 雨に混じって、ミスズさんの泣く声が微かに聞こえたのでした。


                                  (了)

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