美容室にさよならを告げて
神楽坂
第1話
「今空いてる? って聞こうとしたけどその調子だと暇そうだな」
読んでいた本から視線を上げると、店先に和明が気だるそうな顔をして立っていた。
俺は、何の言葉も発することなく、和明の顔をぼんやりと見ていた。
「なんだよ。鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔して。あ、鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔って生まれて初めて言ったかも。多分」
そんなことを、和明は無表情で言う。
「何しに来たんだよ」
俺はなんとかそう言い返した。あまりに突然の出来事だったので、頭が上手く回転しない。
「髪切ってもらいに来たんだよ。当然だろ」
俺は和明の頭に視線を移す。前髪は切れ長の目にかかり、綺麗に尖った耳は髪の毛に隠され、襟足は和明が着ているワイシャツの襟にかかっていた。
和明は俺の返事を待たずに、店内に入ってくる。つかつか、と磨かれたローファーが放つ足音が店の白い壁に響く。
「前に切ってもらったのいつだったっけなぁ」
「三ヶ月前。和明がドイツに出張した時」
「そうだそうだ。もう三カ月も経つのか」
俺は座っていたレジの椅子から立ち上がり、三つ並んでいる椅子の真ん中の椅子に移動する。革張りの白い椅子は、店長がリサイクルショップで一目惚れして三脚揃えた椅子だ。暇さえあれば、店長自らが丁寧に拭いている。
「じゃ、こちらへ」
段々と、頭の中が整理されてきた。ラジオから流れてくるFM放送の小さな音も耳に入ってくる。
ん、と和明はやはり気だるそうに返事をし、俺が導いた椅子に腰かけた。俺は和明の首にタオルをあて、その上からクロスをかぶせる。
「苦しくないか」
「あぁ」
「どのくらい切っていく」
「タキシードが似合うくらいにばっさりいってくれ」
「結婚式用の髪型だったら俺みたいな田舎の美容師より、きちんとしたヘアデザイナーにやってもらったほうがいいんじゃないのか」
「いいんだよ。お前は俺が最も信頼する美容師なんだから」
和明は、わずかに顔を綻ばせて、当たり前のように恥ずかしい台詞を言う。この不意に見せる笑顔に、俺はやられたんだ。
「ま、隆二に任せるよ。自由にやっちゃってくれ」
「わかったよ」
俺は、一つため息をついて鋏を手に取る。
俺は、新しい髪型を見定めるフリをして、鏡の中にいる和明をじっと見る。鏡の中に閉じ込められた和明。こうして、ずっと鏡の中にいてくれればいいのに。
俺は、和明の髪の毛を少し手に取り、静かに鋏をいれる。この時間は、俺以外に店員はいない。と言っても、昼の時間帯に店を訪れる客も少ないため、苦労はない。
静かな店内には、ラジオから流れてくる名前も知らない音楽と、鋏が和明の髪の毛を切っていく音だけが響いている。
こうして、和明の髪の毛を切るのは何回目だろうか、と俺は回想する。もう、切ることもないと思っていた和明の髪の毛。
黒い髪の毛の中に、ほんの数本ではあるが、白髪も混じるようになってきた。少しだけ髪にクセがついているところは、和明自身の心のひねくれ具合が反映されているに違いない。
ベッドで夜を共にした時は、この髪の毛を愛おしく何度も撫でた。情事が終わり、和明が先に眠りに落ちると、俺は和明の寝顔をまじまじと見ながら、クセのついた髪の毛を撫でた。撫でながら、今度、髪が伸びたらどんな髪型にしてあげようかと夢想した。俺は軽く、短く揃える方が好みで、いつも切る時には「短くしたい」と言うのだが、和明はある程度の長さは残しておいて欲しい、と言う。俺は、口ごたえもせずに和明が望むように髪を切った。
だから、今日みたいに和明が俺に髪型を任せることはおそらく初めてだ。
多分、最初で最後だ。
「耳は全部出しちゃっていいのか」
「あぁ。綺麗に出しちゃってくれ」
前は、耳なんて出そうものならその日一日は拗ねて口は聞いてくれなかっただろう。
「そうだ。鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔、って前一度言ったことあったわ」
鏡の中の和明と視線が合う。俺は慌てて視線を逸らす。
「隆二と初めて会った時だ。お前、あの時も鳩が豆鉄砲くらったような顔して俺を見てただろ。そうだ、思い出した」
「頭の左側を青に染めて右側を赤に染めてる人間なんて初めて見たからな。てっきりキカイダーかと思った」
「どうにか目立ちたかったんだよ。大学生なんてみんなそんなもんだろ。あれって二年の時だったっけ」
「そうだよ。語学の授業全部サボってたお前がいきなり最後のテストの日に現れて先生に土下座したんだろ」
「よくそんなこと覚えてるな」
「忘れてる方がおかしい」
俺がそう言うと、和明は悪戯っぽく笑った。
「あれから八年になるのか」
和明は、鏡の中の自分を見ながら言う。
「想い出話をしにきたのかよ」
俺は冷静に鋏を動かし続ける。
「それもある」
しょきしょき、と鋏が和明の髪の毛を切っていく。
彫刻は木材を削って造るのではなく、木に埋まっている像を彫り出しているだけだ、というセリフがある小説がある。俺はその小説を思い浮かべて、今俺がやっていることも同じようなことなのかもしれない、と思う。鋏を動かしていくと、俺が求めている、俺が欲しいと思っている和明が現れてくる。
しかし、俺が求める形の和明は掘り起こせるかもしれないが、その和明が俺のものになることは、もうない。
「和明も丸くなったよな、この八年で」
「大人になったって言ってくれよ。やっぱな、就職すりゃあ人も少しは変わるもんだ」
「そうかねぇ」
「根本の部分はもう変わりようがないけど、狭い部分は様変わりするだろ。そうやって小さく変わっていかないと、人間は死ぬことなんて出来ない」
「変わらないと、死ねない、か」
「そう。死ぬからこそ、人間は生きる。死ねないと人間は生きられない」
たまに、和明は核心を突くことをさも当たり前のことかのように言ってのける。そんな根本は、やっぱり出会ったころから全く変わらない。
その根本が変わらないと、俺は、和明を諦めることなんて出来ない。俺は、和明の髪の毛に触れて強くそう思った。
「前髪は」
「眉の上くらいまで切ってくれ」
「いいのか、本当に」
「あぁ」
和明の長い前髪を手に取り、俺は鋏を当てる。さっ、と前髪が切られ、クロスにはらりと落ちていく。三か月前からの俺と和明の記憶が、はらはらと白いクロスに舞い散っていく。
一緒に行ったバー、一緒に行った美術館、一緒に過ごしたベッド、それらの記憶が、銀色の鋏によって切り裂かれていく。この俺の手で、俺の鋏によって、切られていく。
この八年間、俺は和明だけを求め続けていた。中学生の頃から、男に好意を抱くようになってはいたが、ここまで一人の男を好きになるのは初めてだった。和明は、俺が持っていないものをすべて持っていた。奇想天外な発想、恐ろしいほどの行動力、他人を顧みない自己中心的性格。そもそも、俺と和明が恋愛関係にあったということ自体がおかしな話だったんだ。いつも感情が昂ぶらない俺とは水と油だ。水と油は、相容れない。
しかし、相容れないからこそ、求め合ってしまうのかもしれない。離れそうになればなるほど、お互いが結びつこうとする力が強くなるのかもしれない。そうして、俺と和明はお互いを求め合った。二週間前、和明に別れを切り出されるまでは。
「すげー。こんなに髪切られるのなんて小学生以来だ」
和明は自分の髪の毛が切られていく光景を楽しそうに眺めている。そんな和明の姿を見て、俺の胸はきつく締めつけられる。
俺は、今にも鋏を床に落として、和明の背中をきつく抱きしめたかった。
和明の髪の毛にまみれたクロスも脱ぎし、そのまま着ている服も引きはがして、全てを貪りたい。今までの夜のように、和明の全てを俺のものにしたい。
和明は俺のものなのに。俺は、和明のものなのに。
「手、止まってる」
和明の声に、俺は我にかえり、鋏を再び動かし始めた。
「そうやって、すぐ他のこと考える癖も変わらないな」
和明はあくまでも、笑う。
和明は、どう思っているのだろうか。
俺のことを、どう思っているのだろうか。
失恋した人間は髪をばっさり切るという。
明らかに失恋したのは俺だし、髪を切るのは俺の方だ。
しかし今、俺を失恋させた男の髪の毛を俺が切っている。
こんなおかしな構図の中で、和明は何を思っているのだろうか。
俺を想っているのだろうか。
八年間の関係を思い起こしているのだろうか。
鏡の中の和明は、いつもと変わらない、飄々とした顔をしている。何事もないように。いつもと変わらない日常を生きるように。
「結婚式挙げた後、アメリカに行くことになった」
突然、和明はそう告げた。
俺は、体を一瞬だけ固まらせる。その後の会話を続けさせないように、体が抵抗する。
「出張?」
しかし、俺の口からは言葉が出てくる。聞かなければならないことだから。
「いや、転勤。アメリカ支社に行く。当分日本には帰ってこない」
和明は言う。
「昨日社長から言われた。ちょっと世界で羽ばたいてこいって。英会話教室じゃないんだからさ。もうちょっとおしゃれな言い方なかったのかね」
和明は、茶化して言う。いくら茶化しても、和明と離ればなれになるという事実の重さが淡くなることはない。
もう、和明は俺の手が届く場所から離れてしまう。
和明が勤めている会社の社長令嬢との結婚が決まったと聞いた時は、和明が俺のものではなくなってしまう、と思ったが、同時に、でもまた会えるから大丈夫だ、と自分で自分を元気づけもした。
しかし、太平洋を隔ててしまっては、それも出来なくなる。和明を見る事すらも出来なくなってしまう。
俺は、そのことに耐えられるのだろうか。和明がいないこの国で、生きていく事なんて出来るのだろうか。
俺の心が複雑になっていくことに反比例して、和明の髪型が整えられていく。こんなに心を乱している時でも、冷静に髪を切れてしまう自分の手を少しだけ恨んだ。
ここで、いきなり和明の頭をモヒカンヘアーにしてしまったら、と俺は考える。
クロロホルムでも少し嗅がせて和明を眠らせ、そのうちにとんでもない髪型にしてやれば。モヒカンを赤と青で染分ければ、相手の社長令嬢は和明に愛想を尽かすだろうか。社長令嬢に愛想を尽かされれば、アメリカにいくこともなくなるだろうか。社長令嬢に捨てられれば、また俺のところに帰ってくるだろうか。
また、俺を抱きしめてくれるだろうか。
そうは思うが、俺の手は冷静に、和明にとって理想的な髪型を掘り出し続ける。
俺の手だけは理解しているのだ。和明が、もう俺のものではないということを。
「泣くなよ、隆二」
和明にそう言われ鏡を見てみると、俺の目からは涙が流れていた。全く気が付かなかった。
「泣くなよ」
和明は、もう一度言った。その表情は、いたずらっぽくもなく、飄々としてもなく、ニヒルでもない。少し、曇ったような表情だった。
「悪い」
俺は、慌てて腕で涙をぐしぐしと拭う。
それからは、二人とも言葉を変わることはなかった。また店内には静寂が訪れる。ラジオから流れる軽薄な音楽が、俺の心をほんの少しだけ慰める。
シャンプーを終え、髪をドライヤーで乾かし終えると、俺は鏡を和明の後頭部に当てる。
「うおー。ばっさりいかれてるー。みじけぇー」
和明は、また楽しそうに言ってみせる。鏡の中の和明は、まさに俺が理想に思っていた和明の姿だった。まだ、俺のものだった頃に、こんな髪型に出来ればどんなに幸せだっただろう。
「これならタキシードもばっちり似合うに違いない」
和明は満足そうな表情を浮かべて、椅子から立ち上がった。俺は、和明がいなくなった椅子の後ろからなかなか動きだせなかった。
「んじゃ、お会計」
和明はポケットから長財布を取り出す。
「いいよ。俺からのご祝儀だ」
俺は、鏡を見たまま言う。理想的な和明が、映っていない鏡。大切なものを失ってしまった俺だけが映っている、鏡。
「そっか。さんきゅ」
和明は、入り口に向かって歩きはじめる。
俺は、耐えられなくなり、和明の方を見る。
外の光に照らされたワイシャツ姿の和明は、どこまでも理想的な姿をしていた。
少しだけ猫背な佇まいも、スラックスが似合う長い脚も、細面に似合う整えられた髪型も、全てが、愛おしい。
「キスしたい」
俺は、無意識に言っていた。言ってから、後悔するかもしれない、と思ったが、その後も後悔は襲ってこなかった。純粋に、口づけがしたいと思った。
和明は、少しだけ笑みを浮かべる。
「ダメだ」
和明は言う。
「せっかくお前のこと吹っ切ろうと思ってきたのに、キスなんかしたら、また諦めがつかなくなるだろ」
和明は、言う。
「俺は、さよならをしにきたんだ。お前と、この店に」
和明の瞳は、涙で揺れていた。
「俺だって失恋したんだから、髪切って心機一転するんだよ。お前に切ってもらいたかったんだよ。お前への未練を」
和明の目から、一筋だけ、涙が流れた。
「お前の手で、お前の鋏で、切って欲しかったんだよ」
和明は、涙をぬぐおうともせずに、言う。
「だから、キスはしない。もう、出来ない」
和明は、そこまで言うと、口元に笑みを浮かべる。
「短い髪の毛ってのもいいもんだな。気持ちが軽いや」
そう言って俺に背を向けて、歩き始めた。
和明は、軽く右手を上げて、俺に別れを告げる。
俺は、その背中を目で追うことしか出来なかった。
店内に取り残された俺の足元には、和明から切り離された髪の毛たちがそこらじゅうで横たわっていた。
俺は、どうしてもその髪の毛を片付ける気にはなれなかった。
片付けてしまったら、全てが終わってしまいそうな気がしたから。
俺と和明の恋が、本当に終わってしまうと思ったから。
俺の涙が床に落ち、和明の髪の毛の上にふりかかる。
じんわりと、俺の涙が和明の髪の毛ににじんでいく。
俺は、その光景をじっと見る。
俺の涙は、いつまでも、和明の髪の毛を求め続けていた。
美容室にさよならを告げて 神楽坂 @izumi_kagurazaka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます