強くなれ
サトミサラ
花言葉がつなぐ想い
いつもありがとう、ごめんね。お母さん、大好きだよ。
最期まで言えなかった。あんなにあっけなく死んじゃうなんて。涙すら出なかった。
お母さん。どうして突然いなくなったの? 嫌だよ、ねえ、嫌だよ。せめて最後に伝えさせてよ。大好きだよって。
もう大切な人は失いたくない。後悔なんてしたくない。
手に握り締めた紙切れに書かれた文字は、きっと消えかけている。
それでも私は足を止めない。
蓮くん、蓮くん、蓮くん……!
こんなに走ったのはいつぶりだろう。足が痛い。そして強く握り締めた手のひらも――。
人にぶつかり、つまずき、転び……それでもあがき続ける。
「蓮くんっ……!」
強くなれ。強くなるんだ。もう後悔なんて、絶対にしたくない。
*
ネクタイを締め、小さく「よし」と声に出す。今日から新しい学校。高校二年生になってからすぐ。せっかくの新しいクラスだったけれど、転校は仕方なかった。母の死と共に、両親が二人でやっていた飲食店の経営ができなくなり、田舎の方に引っ越して来たのだ。
「行って来ます」
「いってらっしゃい」
やっと立ち直ってきた。私も、お父さんも。ドアを押すと、爽やかな空気が体に染み渡る。前住んでいた都会と違って、ここは空気がきれいだ。大きく深呼吸をする。これから新しい生活が始まる。新しい日々が、待っている。
学校まで歩いていく間も、全然飽きなかった。緑に囲まれていて、心地よかった。菜の花が風にゆれ、緑の匂いが髪を撫でる。スクールバックに付いたストラップが、時折音を鳴らし、胸が躍る。今向かっているのは新しい場所。まだ何も知らないけど、楽しみでしょうがない。
学校に足を踏み入れる。前までのブレザーと違って、学ランとセーラー服なのが少し新鮮で、思わず笑みがこぼれる。木造建築の校舎が、なんだかほっとする。まるで小さい頃に憧れたツリーハウスや秘密基地のよう。今の気持ちを言葉にするなら、「わくわく」だろうか。
職員室に行くと、先生がすぐに教室に案内してくれた。2年B組、私の新しい教室。先生が先に入り、途中で私に合図を送る。おそるおそる、その教室に足を踏み入れた。
「江藤実羽です。まだ引っ越してきたばかりで知らないことばかりなので、色々教えてください。よろしくお願いします」
騒がしい教室。前の学校では、私が話すときにはみんな話すのを止めて静かに聞いてくれた。人見知りで声が小さい私にはちょうど良かったけれど、結局それって甘やかされているだけなんだと思った。これくらい騒がしい方が、「強くなれる」気がした。
お母さん、見ててね。きっと強くなるから。
先生に言われるまま、後ろの方の席に着く。すると、前に座っていた男子が振り向いて、私に「よろしくね」と言った。
こちらこそ、と小さく返すと、その男子はにっこり笑って前を向いた。少し動くだけで、髪が揺れる。なんだか、素敵な男の子だ。
休み時間になると、すぐに人が集まってきて色々なことを聞いてきた。例えば都会のことや、前の学校のこと。さすがに全部には答えられなくて困っていると、一時限目の初めを告げるチャイムが鳴り、私を助けてくれた。それに少しホッとしながらも、やっぱりダメだなあと自分に呆れる。強くなろうとしたのに。変わろうとしたのに。それなのに、変われない。
初日は慌しく過ぎ、すぐに放課後になってしまった。
「俺、宮瀬蓮。蓮とか、適当に呼んで。良かったら一緒に学校回らない?」
スクールバックにノートやペンケースを入れていると、前の席の男子が声をかけてくれた。ふわっとした黒い髪が動くたびにゆれ、それにドキリとする。いけない、見とれてしまった。慌てて返事をする。
「あ、うん。ありがとう」
じゃあ、蓮くんで。小さく呟くと、彼は満足そうにうなずいた。
「私は、実羽でいいよ」
「オッケー。じゃ、実羽よろしく!」
そうやって蓮くんが話すたび、違和感を覚える。だけど、その違和感の正体はつかめない。
まずは音楽室や美術室など、授業に使う教室を回る。それが終わると、蓮くんは
「部活も見よっか」
と笑った。さっき回った教室で活動していたところ以外だと……と蓮くんは少し考えてから歩き出した。部活に入るつもりはなかったけど、一応見ていこう。私は蓮くんの斜め後ろをゆっくりと歩いた。
「それで、これがラスト。ダンスクラブ。俺もここに所属してるんだ」
蓮くんにつられ、教室の中をのぞく。ジャージでダンスする人と、派手なパーカでダンスしている人に分かれている。パーカでやっているのは、部活動見学のためだろうか。
「えっとねー、部長があの人。ジャージで踊ってる真ん中。俺は期待のエースね」
ドアノブに手をかけ、蓮くんはドアを押し開けた。
「よっしー!」
するとちょうど曲が終わり、さっきまでセンターで踊っていた人がこっちに来た。二人が並ぶと、身長差が驚くほど分かりやすくて笑いそうになる。
「部活の時間によっしーはやめろって。……あれ? 珍しい、蓮が女子連れて来てる」
ジャージには、伊東と刺繍されていた。
「初めまして。江藤実羽です」
少しだけ頭を下げる。
「初めまして、一応部長で、こいつの先輩の伊東です」
「でも伊東なんて呼ばなくていいよ。みんなよっしーって呼んでるし。ね?」
「お前のせいだろうが。よっしーなんて蓮だけだし。みんなはちゃんとそのあとに先輩ってつけてるんだからな」
二人のやり取りがなんだか面白くて、思わず笑ってしまう。
……あれ? さっきまでの違和感がない。今ここで笑っている蓮くんは心から楽しそうで、生き生きとしている。
「まあ、よっしー先輩でいいよ。伊東って滅多に呼ばれないし」
「はい」
よっしー先輩は最後に、「サボるなよ」と笑いながら言って、部室の中へ戻っていった。
「俺がサボるわけないのに、いっつも言うんだよね。俺、ダンサーになりたいんだ」
さっきまでの違和感は気がつけばなくなり、それすら忘れていた。
「じゃあ、俺今から部活だから。見ていく?」
「うーん、今日はいいや。今度見に来るね」
言うと、蓮くんは少しがっかりした表情を見せ、すぐに笑った。
「そっか。じゃあね」
「うん、じゃあね」
こんなあいさつ、いつからしてなかっただろう。こう言ってくれる人なんて、なかなかいなかった。それは進学校だからなのか、それとも単に私にちゃんとした友達がいなかっただけなのか……今さら分からない。でも、別にいい。
だって、こんなにも毎日が楽しみなのだから。
友達もできた。転校前より、学校生活は楽しかった。家事がどんなに大変でも、学校に来るだけで楽しい。蓮くんをきっかけに、よっしー先輩とも仲良くなれた。よっしー先輩と蓮くんは、一緒にいるときが本当に楽しそうで兄弟のようだった。二人を見ている時間も楽しい。
担任も面白い先生で、たまにつまらないギャグも言う。だけど沈黙のたびに蓮くんが空気を変えた。その蓮くんには相変わらず、違和感を覚えた。なんだか少し、無理をしているような、そんな気がした。
転校から二週間――学校生活に慣れた頃だった。早めに学校に行くと、蓮くんのスクールバックはすでにそこにあった。朝、来るの早いんだ……。どこにいるんだろうと学校を歩き回っていると、中庭でその姿を見つけた。ジャージで、必死になってイヤホンを耳に、ひたすら同じ部分のダンスを練習していた。すごい。ここまで夢中になれるものなんだ。私も、こんな夢中になれる夢、いつかできるのかなあ。
しばらく蓮くんを見ていると、やがてイヤホンを外しベンチに座って休憩を始めた。
ジャージのすそで額の汗を拭き、ペットボトルの水を飲む。別になんてことない、普通の動作なのに、私にはかっこよく見えた。夢を持つ人はみんなこうなのだろうか。こんなに、かっこいいのだろうか。
蓮くんはすぐにまた立ち上がり、イヤホンを耳に入れた。しかし踊り始める前に、私に気が付き手招きをした。私はすぐに蓮くんの方に行く。
「来てたんだ」
「うん、おはよう」
他愛ないあいさつと会話。それが楽しいのは、蓮くんだから?
「どうだった? 俺」
「かっこよかったよ。いいなあ、私もそんな風に何かに夢中になれたらいいのに」
言うと、蓮くんは笑った。
「俺、ダンス以外に何もできないからさ。……両親はさ、それを応援してくれたんだけど」
蓮くんの顔が、明らかにくもった。
「父さんと母さんが死んでから、親戚の家にいるんだけど。……勉強して大学行けって。でもなんか、悔しいじゃん。言われるがままなんて。それに俺、嫌われてるっぽいし。自分の息子が東大行ったからって比較して欲しくなかった」
お父さんとお母さんがいない。そして夢を否定され、進学を勧められる。そんなの、ひどすぎるよ。でも、分からないわけじゃない。大学行った方が万が一の時に便利だし、勉強できるなら就ける職も増える。それがむしろ、普通の考えなのかもしれない。だけど、こんなに一生懸命な蓮くんを見たら、そんなことは絶対に言えないよ。
これは、私が聞いてもいいことだったの?
だけど。蓮くんなら、本音で話ができる気がした。
蓮くんが大変だということは分かってる。それなのにどうして? 話したい。私のことを、強くなろうと決めた理由を。
「……私ね。お母さんが死んじゃって、転校してきたの。お母さんが調理師免許を持ってて、お父さんと二人で小さい飲食店をやってた。だけど、急にいなくなっちゃった。だからお父さんが一人で続けるわけにも行かなくて」
蓮くんには関係ない話のはず。なのにどうしてだろう。口が止まらない。溢れだす気持ちが止まらない。
「前の学校では一人ぼっちだったんだ。毎日家に帰るたびに泣いて。お母さんもお父さんも、慰めてくれた。だからちゃんとお礼言いたかった。それなのに、誕生日を目前に、いなくなったの」
蓮くんも大変なのに、ものすごく真剣な表情で話を聞いてくれた。
「そのお母さんが、よく言ってたんだ。強くなりなさいって。……今思えば、あれがお母さんの遺言だったのかも」
言いながら、空を見上げる。お母さん、見てるよね。友達できたんだよ。ちゃんと、友達ができたんだよ。
「そっか……。実羽も大変だったんだ……。俺ね、なんていうか、たぶん、あんま人間が得意じゃないんだ。ずっと強くなりたいって思ってた。……よっしーと実羽はなんか違うんだよね。安心できるっていうか、同じ、なのかな」
少し切なげな表情で、私と同じように空を見つめた。強くなりたい。その言葉が、重く胸に響く。私も、強くなりたいってずっと思ってたんだよ。蓮くん、私もなんだよ。
「なんか楽になったよ、ありがとう」
「ううん、私も。ありがとう」
ありがとうという言葉が、ストンと胸に落ちるような感覚がした。こういう言葉、ここに来る前はあんまり言われたことなかった。こういうの、なんか幸せだ。
それに、新しい蓮くんを知ることもできた。蓮くんが教室で喋るたびに違和感を覚えるのは、無理していたからなんだ。今日は、いつもより空がきれいな気がした。
それから毎日、私と蓮くんは毎朝中庭で会うようになった。たまに不安や悩みを互いにこぼし、慰めあった。クラスでは誰も知らない二人の時間を、幸せだと心から思った。
「俺、中三のときに一回、ダンスで賞を取ったんだよね」
でも、家に帰っても、誰も喜んでくれなかった。蓮くんは寂しそうに言った。
「よっしーとも出会う前だから、喜ぶ人なんて、一人もいなかったんだ。心から本音を話せるような友達もいなかった」
だからね。風で蓮くんの前髪がゆれる。蓮くんは少し微笑しながらも寂しそうだった。
「強くなろうと思った。変わりたいって。それで、知ってる人が誰もいない高校に進学したんだ。電車で一時間半」
風の音が、草木の音が、蓮くんの声をかき消そうとする。だけど微かな音を、私の耳は必死で拾った。
「一時間半も……」
「それぐらいの方が、決意が揺らがないじゃん」
でも蓮くん、ただでさえ無理しているのに。それって、精神的にも、身体的にも辛いんじゃない?
「きつくないの?」
「無理してでも、強くなりたかったから」
くもっていた空から雨粒が零れ落ち、私たちは慌てて屋根の下へ移動した。雨音にかき消されそうな声。それくらい弱々しくて、これもまだ知らない蓮くんだった。
「私も、強くなりたい」
そう言うと、蓮くんは弱く笑った。
「やっぱ俺たち、似てるんだよ」
これでもう幸せだった。似ていると、同じだと言われるたび笑顔になれた。今度は蓮くんも、私の目を見て笑った。
空には、虹。
夜にまた雨が降ったけど、朝にはもうすっかり晴れ、爽やかな風が吹いていた。雨上がりの水たまりに映る自分の姿を見て笑顔を作ってみせる。蓮くんに会えると思うだけで、学校が楽しみになった。中庭に行くのもいつものことになった。着いたときには蓮くんはすでに練習を始めていて、私はベンチでその姿を見ることが多かった。休憩をする時だけしゃべって……二人とも無言なのに、全然気まずいとは思わなかった。
気がつけば、それくらい気を許していたんだ。信頼できる人だった。
でも教室では相変わらずだった。蓮くんは作り笑いを続け、私は静かに読書をするかたまに友達と喋るか。別々に過ごし、特に楽しいわけでもない。読書は好きだけど、教室では一人なんだなと思ってしまう。
目が合ったとしても、互いにすぐに逸らす。たった一瞬だけど、私はその時間が好きだった。
教室の真ん中で集まって、スカートを二重に折った女子から噂話が聞こえる。蓮くんのことだ。やっぱりクラスで一番かっこいいのは蓮だよね、と笑っている。蓮くんって、やっぱり人気者なんだなと少し寂しくなる。だけど、私しか知らない蓮くんがいると思うと、思わず笑みがこぼれた。やがて話題は移り変わる。それは読書中の私にとっては、ただの雑音でしかなかった。途中から雨の音も混じり、教室はさらにたくさんの音が飛び交った。どれが何の音で、どれが誰の声かはもう、分からなかった。ただその中で、無関心に話を聞きながら無理して笑っている蓮くんの声だけは、私に届いた。
六時限目まで終わると、私は一人で帰る準備を始めた。教室では蓮くんと話せない。話せるのは朝、中庭にいるときだけ。
一人で帰ろうと、廊下をゆっくり歩く。大きく息を吸ってみると、木の匂いが全身に届いて気持ちいい。コンクリートよりも温かい校舎。そして温かい人たち。私の日常は、鮮やかな色に染められた。
お母さん。お母さんはいないけど、私は大丈夫だよ。きっと、ここでなら強くなれるよ。
よっしー先輩と蓮くんとおそろいのストラップがスクールバックでゆれる。ムラサキ色の押し花が中に入っている。調べると、これはユキワリソウという花で、花言葉は「信頼」らしい。蓮くんがこれを選んでくれたと思うと、嬉しくてしょうがなかった。
ユキワリソウのストラップを軽く押さえながら階段を下りる。すると後ろから急に呼び止められた。
「実羽ちゃん」
振り返ると、優しそうな笑顔。
「よっしー先輩。どうしたんですか?」
よっしー先輩の目を細める笑い方には安心感がある。蓮くんが信頼してる理由、すごく分かる。
「蓮から伝言だよ。ほら、これ」
朝言ってくれればいいのに。そう思いながら、よっしー先輩から紙を受け取る。
『今度よっしーと三人で俺の家の近くまで行かない? 二千円準備できる?』
二千円か……。それくらい遠い距離なんだ。だけど二千円ならたぶん、準備できる。今まで無駄遣いしてこなかったから、きっと大丈夫。
「ありがとうございます」
先輩に頭を下げ、その紙をポケットの中に入れる。よっしー先輩は、「じゃ」と片手をあげてまた階段を駆け上がって行った。
蓮くんの家の近くかあ……どんなところに住んでいるんだろう。そう考えると、次の日の朝に会うことが楽しみになった。
半分まで開いた窓の外で、菜の花が風にゆれる。そして私の元へ、その香りを連れてきた。菜の花の花言葉は確か――
小さな幸せ。
次の日は快晴だった。軽い足取りで学校へ向かう。この日蓮くんはベンチに座って私のことを待っていた。
「蓮くん! 昨日のメモ、もらったよ! 行きたい!」
「良かった。週末、どう?」
特に習い事もないので、私はすぐにうなずいた。すると蓮くんも嬉しそうに笑った。
そのとき、クラスの真ん中に集まっている女子の声が聞こえ、私は反射的に蓮くんの後ろに隠れた。一緒にいるなんて知られたら、何を言われるか分からない。声が遠ざかっていくと、私はベンチに戻る。蓮くんと目が合うと、二人で笑った。
「やっぱ実羽とよっしーといるのが一番楽だな」
ベンチに両手を着いて座り、空を見上げる蓮くんがいつもより大人びて見えた。二人の微妙な距離の真ん中を、風が走り去っていく。
「なあ、あの花知ってる?」
言いながら蓮くんは、黄色い花が咲く木を指差した。
「キンシバイって言うんだ。花言葉は、秘密」
花言葉は秘密。
「俺たちにぴったりじゃない?」
私と蓮くん、それとよっしー先輩。誰も知らない私たち。確かにそうだ。私たち、みんなに秘密の関係なんだ。
「なんかいいよね。秘密って」
そう言いながら黄色い花を一瞥し、空を見上げる蓮くんはどこか切なげだった。だけど私には、その理由が分からない。蓮くん、私はどこまで踏み込んでいいの? どこまで踏み込むべきなの?
蓮くんを見ていられずに空を見ると、飛行機。
蓮くんも、あんなふうに自由に生きたいと思っているのかな。
土曜日正午、いつもより着飾った服で指定された集合場所――学校から徒歩でいける距離の電車の駅だった――へ急いだ。すると、蓮くんもよっしー先輩もすでにそこにいて、私に手を振ってくれた。蓮くんは長袖のシャツを肘までまくり、ベストを重ね着していた。下半身は黒のパンツをブーツイン。さらに首にはヘッドホンがかかっていて、それがすごくかっこよく見えた。よっしー先輩はパーカに細身のパンツを合わせ、ハイカットスニーカーを履いていた。
やっぱりダンサー志望なだけあって、二人ともおしゃれなんだなあ……。私との違いは驚くほど分かりやすい。
「じゃ、行くか」
よっしー先輩の声で、我に返る。二人が揃うと、やっぱりかっこいい。たぶん、誰もが見とれてしまうほどに。
蓮くんは、私の分の切符をすでに買ってくれていた。電車通学の蓮くんはカードを使っていて、よっしー先輩もそうらしかった。そういえば、遠出や電車なんていつ振りだろう。引っ越してくる前はバス通学で、遠出するほど仲がいい友達もいなかった。今思えば、私の知っている世界はものすごく狭いものだった。学校と家、そして通学路だけだ。遠出なんて、いつだったか、家族旅行で行った海くらい。それももう、どこの海だったか分からない。
ちょうどホームに来た電車に乗り込む。思っていたよりも人が少なくて、三人とも座れた。
窓の外の流れる景色を見る。ほとんど緑一色で、なんだか安心する。前住んでいたところは都会だったから、こんな風に緑を眺める機会もなかった。
流れていく緑色。少しずつ緩むスピードで、視界に一輪の花が入る。これなら私でも何なのかはわかる。色は白だけど、みんなが知っている花。
白いスミレの花言葉は、あどけない恋。
視線を蓮くんの方に向ける。
蓮くんは、寂しげな表情で頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。
こんなに自然と、人を好きになれるなんて。
しばらくすると、蓮くんが「ここだよ」と呟いた。よっしー先輩は前から知っていたらしく、すでに立ち上がっている。
電車から降りると、一面の菜の花が視界に入った。
まさに「黄色いじゅうたん」だった。この菜の花はどこまで続くんだろう。ずっと先の、私が知らない世界までつながっているのだろうか。いつか、その先にあるものを見てみたい。
「ていうかさあ、実羽ちゃん。蓮って、背低くない?」
「よっしー、それはダメ。身長はどうにもならない」
蓮くんはクールな表情だけど、内容が内容なので、私は耐え切れずにふきだす。
「もう、実羽まで」
すねたような表情がかわいい。
「でもそのままでも充分かっこいいよ」
おもわず口から漏れた言葉を、しっかりと耳で拾った蓮くんは、顔を赤く染めた。
「え、何。おまえらそういう感じ?」
よっしー先輩のからかう口調に、蓮くんは
「よっしーうるさい!」
否定しないでくれたのが嬉しい。
「ていうかよっしーだってさあ、先輩に見えるのはスタイルだけじゃんか! いつも後輩とばっかりつるんでるし、誰よりはしゃぐし、子供っぽいし」
「うるせー。言っとくけどな、あれはあいつらが俺のほうに寄って来るだけなんだよ」
「えー? そんなこと言っちゃって、よっしー、俺のこと大好きじゃん」
「おいおい、女子の前で誤解を招くような言い方はやめてくれよ」
そんな風に、よっしー先輩はおどけてみせる。
二人の兄弟のようなやり取りを聞きながら、空を見上げる。きっと、この上で私を見てくれてるよね、お母さん。お母さん、私は今、すごく楽しいよ。だから心配しないでね。
澄んだ青の空と入道雲。たぶん、その先にお母さんはいるんだよね。見守っててくれていたら嬉しいな――。
他愛ない話を繰り返し、菜の花の続く道を歩いていくと小さい店が並ぶ通りに着いた。菜の花の先を見てみたい気もするけど、よっしー先輩と蓮くんが自然とそっちに向かうので私もそれに従った。
「あ、俺ここのお好み焼き好き! お昼ここにしようぜ」
よっしー先輩がいつもよりはしゃいでいるのが珍しくて、くすりと笑ってしまう。それを見つけた蓮くんが、私に笑顔を向けるので、私も笑顔で応えた。
店に入ってすぐに、蓮くんは奥のほうの席に着く。どうやらいつも座っている場所のようで、迷いがない。
「いつものやつね」
蓮くんがバイトらしきお兄さんに言う。どこか違和感を覚えるような笑顔を浮かべながら。
「オッケー。それで……彼女か?」
「まあ、そんな感じ」
少し声を潜めたお兄さんに、苦笑いを見せながら蓮くんが答える。
そのときの笑顔と、私やよっしー先輩に見せる笑顔が全然違って、少し嬉しかった。でも、その一方でそれが少し寂しかった。いつか、私たちの他にも信用できる人ができたらいいね。そんなことを思いながら、お好み焼きを焼く蓮くんの手元をじっと見つめた。
お好み焼きを食べ終えると、私たちは雑貨店を回り始めた。
押し花のストラップも、ここで買ったらしく、似ているものがそこに幾つか並んでいた。
時計の短針が、四を少し過ぎた頃、私たちは菜の花の道の前にあるベンチに座って休んでいた。缶を三つ、カチンと合わせて、初めての三人での遠出を祝した。今思えば、すごくくだらないことで乾杯をしたけれど、楽しかったので、私はそれでも良かった。ちなみに、蓮くんが缶のブラックコーヒーで、よっしー先輩がサイダー、私がミルクティーだった。飲んでるものだけを見ると、蓮くんが年上に見えるけれど、実際はよっしー先輩なんだよなあ。やっぱり、さっき蓮くんが言ったとおり、よっしー先輩の精神年齢は低めなのかもしれない。
すると急に、蓮くんが鞄から紙袋を取り出した。手のひらくらいの大きさだろうか。
「あれ、この店さっき行ったところじゃん?」
よっしー先輩が言う。……言われてみれば、この店のロゴ、見たことあるかもしれない。
「実羽にプレゼント。先に言うけど、よっしーの分はないからね」
よっしー先輩は、泣いたふりをしたあとケラケラと笑い出した。それにつられ、私と蓮くんも一緒になって笑う。笑い声は風に包まれ、菜の花の向こう側に連れ去られた。
プレゼントを受け取る。蓮くんはすぐに、「開けてみて」と笑顔で言った。言われるままに、袋を開けると……
「かわいい」
シュシュだった。しかも蓮くんらしく、花柄の。
「貸してみ」
蓮くんに渡すと、彼は私の首元に手を伸ばして、右下にまとめられた髪につけた。
「やっぱり似合う」
満足そうにうなずいたあと、蓮くんは私と目を合わせてはにかむ。その照れくさそうな表情が、かわいい。時間が止まったようだった。そよ風が連れてきた菜の花の香りに、我に返る。蓮くんもそのようで、顔を赤くしていた。慌てて蓮くんから目を逸らすと、よっしー先輩は声に出さずに笑いながら、蓮くんの方を見ていた。だけどその中には切なさもあったような、そんな気がした。
そのときに、ふと思う。
よっしー先輩は、どんな生き方をしてきたのだろう。
何を考え、何を思い、ここまで来たのだろう。
蓮くんのように、事情を抱えていたのかな。そう思うと、よっしー先輩の背中が、なんだか頼りなく見えてきた。
蓮くんの大切な人は、私もたくさん知りたい。だからよっしー先輩。
先輩のことも知りたいよ。
それから二日後、月曜日の朝、やはりいつも通りの時間に中庭に向かう。だけどこの日は、蓮くんに会えなかった。今までは毎日来てたのに、どうして? 少し遅れてくるのかな、と思って待つけど、蓮くんは現れない。みんなが登校してくる頃、私は一人で教室に向かった。すると、蓮くんはすでに教室にいて、クラスの男子とはしゃいでいた。あいかわらずの愛想笑いを見せながら。
いつもなら、私に気がつけば目を合わせてくれるのに、今日は私のほうを見てくれない。
どうして? 土曜日の優しさのせいか、余計苦しい。お守りとしてスクールバックにつけたシュシュに軽く触れる。気のせい? それとも、本当に避けられてる?
考えるのも怖くなって、私は自分に気のせいだと言い聞かせた。
次の日の朝、蓮くんはいつも通りの時間に中庭でダンスの練習をしていた。あまりにいつも通りだったので、昨日は用事があったのだと自分を説得する。
遠いところに住んでいるんだから、毎日早起きしてられるはずがないんだよね。
「菜の花、すごかったでしょ」
ペットボトルの水を口にしながら、蓮くんは言う。私は二日前に見た景色を思い出しながらうなずいた。
「あの先、いつか見せるよ」
そうやって笑う蓮くんが、私はきっと、どうしようもないほど好きなんだ。
「約束ね」
私の知らない世界を、蓮くんは知っている。見たことのない景色を。その景色のことを得意げに話す蓮くんは確かに楽しそうに笑っていて、だけど、なんだか不思議な感じがした。何がとははっきり言えないけれど、いつもと違うような……。
「実羽、チグリジアって花、知ってる?」
急に話題を変えられ、私はあわてて横に首を振る。それは、いつもと変わらない蓮くんの姿だった。
「結構かっこいい花なんだよ。俺、それが好きで」
チグリジア。今度調べてみよう、と思いながら「へえ」と応える。
「実羽の好きな花は?」
私の好きな花は……
「ユリかな。その中でも、テッポウユリが好きなんだ。蓮くん、他にはなんかある?」
テッポウユリは、ユリの中でもきれいだと思う。怖いイメージがないというか、真っ白で清らかなイメージがある。蓮くんに問うと、蓮くんは聞いたことのないような花の名前を挙げた。
「カイザイクとか、あとは、イトスギ」
この二つも調べておこう。頭の中にメモをする。すると蓮くんは再びイヤホンを耳に入れ、ダンスの練習を始めた。
思えば、この週からだった。
蓮くんは週に一度、中庭に来なくなり、次第に週に二回、三回と見かける回数が減っていった。
教室では違和感のある笑顔を見せながら、時折切なそうに窓の外を見つめた。たびたびクラスの男子に「聞いてる?」と言われている蓮くんを見かけた。「あー、ごめん」と笑い飛ばす蓮くんも、やはりおかしな感じがする。
蓮くんはついに、週にたったの一度、水曜日にしか中庭に来なくなった。そのときも、いつもの笑顔を見せてくれなくなった。
「蓮くん、変だよ。その笑顔、似合わないよ」
「……うん、よっしーにも言われた」
元気なく笑いながら答える蓮くんは、明らかにいつもと様子が違った。
「どうしたの?」
「俺、転校しないといけないんだ、ダンスクラブのない学校に。じゃないと俺、また捨てられちゃう。ごめんね」
どういうこと? そう聞く前に、蓮くんは足早にそこを去って行った。苦しそうに、顔をゆがめながら。どうして蓮くんが謝るんだろう。あんなにつらそうな顔で。
そして、この日を境に蓮くんは中庭に来なくなった。
蓮くんは何を抱えているの? 力になりたいよ。
廊下ですれ違うよっしー先輩もまた、心配そうに蓮くんの背中を見つめていた。
お母さん、私、どうすればいいの?
このまま、失いたくないよ。
もう六月の半ばだ。転校してきてからの毎日はあっという間で、楽しかった。だけど、蓮くんと話せなくなってからは、一日が過ぎるのが遅く感じた。とりあえず、活動も少なくて気楽に参加できそうなコンピュータクラブに入って、今は花言葉についてまとめていた。コンピュータクラブは自由な雰囲気で、顧問もとやかく言わないような部活だった。というより、顧問は基本的にコンピュータ室に来ないので、部員が好き勝手やっていた、とでも言った方がいいだろうか。
この日も、いつもと同じように花言葉について調べていた。
目に入った「チグリジア」の文字。そういえば、これって蓮くんが好きだった花。クリックしてみると、確かにそれは力強く咲く花だった。そして花言葉を見ると……「私を助けて」まさか。偶然だよね?
おもわずそこに入力したのは、「カイザイク」これも、蓮くんが好きだといっていた花。今は写真なんてどうでもよかった。花言葉を見ると「絶えない悲しみ」と書かれていた。あわてて、「イトスギ」と検索する。花言葉は……「絶望」だ。
「嘘でしょ……」
これは偶然じゃない。蓮くんからのメッセージだ。どうしてもっと早くに気づけなかったんだろう。あの日、蓮くんは私に助けを求めていた。
私って、なんでこんなに無力なの? もっとすぐに、蓮くんが好きだと言った花を調べるべきだった。
蓮くんはこんなに苦しんでいたのに。辛くて、だけど、直接誰かに言えなくて、それでもなんとか訴えようとしてた。いつもは笑顔を見せていても、心の奥では助けを求めていた。ずっと、ずっと――。
助けてくれと、叫んでいたんだね。
いてもたってもいられなくて、私はスクールバックを手に引っ掛け、コンピュータ室を飛び出した。
教室までかけ戻る。ドアを勢いよく開ける。だけど、その中に人影はない。
視界に入ったのは、私の机の上。一輪の花と、紙切れだ。ゆっくりとドアを閉め、それに近づく。紫色の花だった。そして紙切れには、見覚えのある文字。
――強くなりたい。たすけて。
誰の字かは、すぐに分かった。蓮くんだ。そうでしょ? 蓮くん、私に伝えたかったんだよね?
そのとき、ドアが勢いよく開いた。黒いタンクトップにビビットカラーのパーカ。ダンスクラブに所属している人だというのは、一目でわかる。一瞬期待をするけれど、蓮くんではなかった。
「蓮いるか!?」
「よっしー先輩」
走ってきたのか、息があがっている。
「何かあったんですか?」
よっしー先輩は落ち着かない様子で、ドアの近くを歩き回りながら答えた。
「あいつ今日、部活に来てないんだ。普段、熱中症でぶっ倒れるほど練習したり、熱出してるのに無理して部活に参加するぐらいダンスに夢中なのに」
ああ、もう、なんでいないんだよ。吐き捨てるようにそう言いながら、先輩はまだそこを歩き回る。
最後に話したのは……あの時だ。転校をするんだと、また捨てられるのだと、そう告げられた日だ。
あれは、どういう意味だったのだろう。蓮くんは、何に苦しんでいたのだろう。
分からない。蓮くんのこと、知ってるつもりだった。だけど、何も分からない。
必死で、手に持った紫色の花の名前を思い出そうとする。絶対に花壇で見た。見たことがある。絶対に、知っている。そのはずなのに、思い出せない。
「アネモネ、か?」
後ろから聞こえてきた声に、顔を上げる。
「その花、前に蓮がきれいだって言ってたんだ。たぶん、中庭の花壇に咲いてると思う」
コンピュータ室に戻る暇はない。本当は校則違反だけど、携帯の電源をつけて、ネットにつなげる。アネモネと検索すると――
紫色のアネモネの花言葉は、
「あなたを信じて待っています……」
私の呟きに、よっしー先輩も目を見開く。どうやら瞬時に事情を理解したようだった。
行かないと。蓮くんのところに、蓮くんの待つ場所に行かないと。だけど、その一方で迷いもあった。私が行ったところでどうなるの? こんな無力な私よりも、よっしー先輩の方が助けられるんじゃないの?
「先輩、私、どうすればいいんでしょうか。私なんかに、蓮くんを助けることができるんでしょうか」
よっしー先輩は、私のほうを真っ直ぐと見る。
「俺、実羽ちゃんのことが好きなんだ。だから自信持ってよ。蓮は実羽ちゃんを選んだんだ。実羽ちゃんしかいないよ、蓮を救えるのは」
よっしー先輩が私のことを? なんで私? だけど今は……今はそんなことを考える暇はない。早く蓮くんのところに行かないと。行くしかないんだ。
蓮くんを救えるのは、私しかいない。私だけ。自分にそう言い聞かせ、スクールバックを手に取る。
今から行くよ。だから蓮くん。お願いだから、待ってて。
強くなりたい。たすけて。
そう書かれた紙を、強く握り締める。そして紫色のアネモネをよっしー先輩に託して教室を飛び出した。
強くなれ。
強くなれ、私。
もう、失わないために。あのときのように、後悔しないために。
強くなれ。
*
大丈夫、行ける。きっと、たどり着ける。
一度、近くまで行ったんだから。きっと、大丈夫。
校門をくぐり抜け、商店街の門を抜ける。赤信号を見て、歩道橋を駆け上がった。だけど、普段走り慣れていない私は
「あっ」
階段で躓くと同時に、間抜けな声が出る。見ると、膝に血が滲んでいた。そのときに目に入った、蓮くんの文字。蓮くんは弱くなんかないよ。だって、私のことを助けてくれた。もう一度その紙切れを強く握り締め、歯を食いしばる。そして、階段を再び駆け上がり始める。
降りる駅の名前も覚えてる。菜の花がずっと続いている道を歩いた。必死で記憶を探る。そこまでは分かる。だけど、その先が分からない。それでも行くしかないんだ。
ただひたすら走った。
蓮くんに会いたい。お願いだから行かないで。
そんな願いを胸に、ただただ、走り続けた。
私の背中を押したよっしー先輩。私のことを好きだと言ってくれた。よっしー先輩の告白を無駄にしたくない。無駄にしちゃいけない。
蓮くん、いなくならないで。まだ隣にいてよ。
ちょうどホームを離れようとした電車に飛び乗る。席に座ってなんかいられなかった。じっと車内アナウンスに耳を澄ませてレールの先を見つめる。早く行かなくちゃいけないのに。初めて乗ったときとは違って、電車はすごく遅く感じた。
大人っぽい表情で空を見つめていた蓮くんも、いつもクラスを盛り上げてくれた蓮くんも、よっしー先輩と笑う蓮くんも、ひたむきにダンスに打ち込む蓮くんも、本当は心の中で苦しみ、悩んでた蓮くんも――全部大好きだよ。
誰よりも大好きだよ。
だからもう、失いたくない。後悔したくない。
蓮くんは、私のことを信じてくれた。ユキワリソウのストラップに触れ、続いて蓮くんがくれたシュシュに触れる。私といると安心できるといってくれた。
だからね。
蓮くん、今度は私の気持ちを伝えさせて。
アナウンスで、目的の駅に着くと私はそれを飛び降り、次の目的地へ向かう電車を探した。見ると、快速が来るのは三十分後。そんなの待っていられない。私は、迷わずに目の前の電車に飛び乗った。
そしてまた駅で降り、切符売り場に急ぐ。財布に入っている全額を機械に入れる。購入できる値段のボタンが一気に光った。だけど……
「足りない……」
今思えば、足りるわけがなかった。毎日の所持金は千円と小銭が少し。そのうち四百円ほどは私の昼食代に消えてしまうのだ。そもそも、私はどうやって帰るつもりだったのだろう。冷静になってみると、問題点が驚くほど出てくる。帰宅もできないし、だいたい蓮くんの家も知らない。それでも、両足が私を急かす。早くしなよ。蓮くん助けるんでしょ? 無視できない。
私は買えるところまで切符を購入し、ホームへ足を急がせた。
その駅までは、すぐに着いた。きっと、会社や学校が終わってみんなが帰る頃なのだろう。駅の中は、田舎の割に混雑していて上手く進めない。やっと、小さい隙間を潜り抜けて駅の外へ出る。ちょうど、蓮くんの家の方向に向かって、電車がホームを抜けた。私は、それを追いかけるように走り出した。あっという間に電車は見えなくなって、だけど私は足を止めない。
蓮くんの家の最寄り駅は、まだ三つも先だ。そんなところまで走って行くなんて、無謀だ。それぐらいは分かってる。それなのに足を止められないのは、きっとそれぐらい大好きなんだ。蓮くんのことが。
もはや自分がどこまで走ったのかも分からない。どんなに走っても、たどり着きそうにない。足に力が入らない。そのまま、歩道に座り込む。強くなると誓ったはずなのに。
「嫌だ、蓮くん、いなくならないで……」
強くなって、お父さんを困らせないって、そう決めたはずなのに。もう、独りにはならないって決めたのに。
なんでいつもそうなの? まだスクールバックにはお母さんへの手紙が入っている。ありがとうって、大好きだよって、どうして普段から言えなかったんだろう。
「実羽ちゃん!」
後ろからエンジンの音と私を呼ぶ声がして振り返る。今の声って……よっしー先輩……? ここまでバイクで来たの? まさか学校から? そんなことって、できるの? 何も言わない私の気持ちを察したのか、よっしー先輩は私にヘルメットを差し出して
「説明は後でする。早く乗って」
と私を急かした。なんでこんなに優しくするんだろう。だって、私は蓮くんのことが好きで、先輩は私のことが好きなのに。その優しさに涙が出そうになるけど、蓮くんのことを思い出し、慌ててそれを振り払った。よっしー先輩からヘルメットを受け取り、バイクにまたがる。よっしー先輩はすぐに、バイクを蓮くんの家の方面へ走らせた。初めて乗るバイクは妙に速く感じて、風が冷たくて、だけど、よっしー先輩の背中は温かかった。
「あのさ。実は俺、家がこの辺りなんだ」
先輩は、この辺りに住んでいて、それなのにわざわざ、遠くの高校を選んで通っているというのだ。それは、家の近くの高校がバイトを禁止されていたからで、母子家庭のよっしー先輩は、母親のために遅くまでバイトをしているらしい。
そこで、蓮くんと出逢った。二人は、まるで運命の巡りあわせだ。同じ方面の、まったく遠い街から高校に通っていて、同じものが好きで、同じように何かを抱えていた。
「だから、別にすごい距離ってわけじゃないよ、バイク」
鏡の中で、よっしー先輩は優しく微笑み、「少しは疲れ取れた?」と私に聞いた。よっしー先輩だって、蓮くんのことは心配なはずなのに。それでも私を気遣ってくれる。
「ありがとうございます。……嬉しかったです」
「……うん」
それからはしばらく無言だった。結構長い時間だったかもしれない。すでに時間の感覚が麻痺していたので、私にはなんとも言えないけれど。
「ダメだ」
と先輩。あまりに唐突過ぎて、私は「え?」と声を漏らす。
「このままだとガソリンスタンドまで着かない。……押していくしかないか」
畜生、と先輩は小さく呟いた。そんな。あと少し。どうして、いつも直前でダメになるの?
「先輩。私、降ります。……走って行きます」
バイクの燃料が切れ、スピードが少しずつ落ちていく。それが完全に止まると、私はバイクから飛び降り、また走り出した。ヘルメットを返し、早口で感謝の言葉を述べながら。
蓮くん、蓮くん、蓮くん……!
右には、どこまでも続く菜の花。この先をいつか見せてくれると言っていた。蓮くんはこの先にいる。そう信じて、私は一直線に続く菜の花の横を走る。
お願い、待って、行かないで。私を独りにしないで。
「蓮くんっ……!」
足の痛みはすでに麻痺していた。全然重くない。むしろ軽いくらいだった。
走れる。
まだ、走れる。
手のひらを強く握り締め、歯を食いしばる。
風が私の背中を押す。
速く、速く、速く走れ。
「実羽!」
前方からの声。走るスピードを少しずつ緩める。
……蓮くん?
大好きな声が、大好きな笑顔がそこに在る。
「蓮くん……」
「実羽、俺」
ゆっくりと息を整えながら、蓮くんが言う。すると私たちの真ん中にある信号が青に変わり、蓮くんが歩き出した。あと少しで、蓮くんに触れられる距離。――それなのに。
急ブレーキの音と、蓮くんの声が衝突し、車と蓮くんがぶつかる。
一瞬、音が消え、時間が止まった。
「蓮くん!」
嫌だ。嘘でしょ? 嘘だよね?
もう失いたくないよ。
お願いだから、いなくならないで。
嫌だよ、いなくならないでよ。
後悔したくない。
好きだよ、大好きだよ。誰よりも蓮くんのことが。
よっしー先輩、私どうすればいいの?
溢れだす気持ちが止まらない。
遠くから、サイレンの音。
「蓮くん……!」
「父さん、母さん、なんでだよ。なんで……俺もう、耐えらんねえよ」
気がつけば、闇の中にいた。蓮くんの声に顔を上げる。ここは、蓮くんの部屋?
ああ、こんな風に泣いてたんだね。それなのに、学校では誰にも弱いところを見せなかったんだね。
すごいよ、蓮くん。蓮くんは、強いよ。
すると急に、蓮くんは立ち上がりどこかへ歩いて行ってしまった。追いかけようとするけど、足が動かない。重いわけでもないのに、足が動かない。足が、私の言うことを聞かない。
行かないで。待って。どこに行くの? 待ってよ、蓮くん。
「蓮くん!」
さっきの闇は消えていた。視界にあるのは、白い部屋と――よっしー先輩の姿。今のは、夢……? 少し安心する。
「実羽ちゃん。良かった……」
「先輩。……蓮くんは?」
よっしー先輩の顔色がくもったのは、嫌でも分かった。
「蓮は……蓮はな……」
怖い。蓮くんに何があったの?
「あいつ、夢を諦めないといけないんだ」
「え?」
じゃあ。それって。
「生きてるんですか……?」
おそるおそる、そう聞く。よっしー先輩がうなずいた。ほっと息を吐く。良かった、もしも蓮くんがいなくなったら、私はひどく後悔するだろう。
「……ああ。命は助かったんだ。命は、だけど」
命は。その言葉が怖かった。足は? 足が動かせなくなってしまったら、蓮くんはダンスを続けられない。
「だけど、右足が……。後遺症が残るかもしれないって。リハビリ次第とは言ってたけど、可能性は低いみたいなんだ」
そんな。私は何も言えなかった。あんなにひたむきに練習してたのに。夢中で打ち込んでいたのに。蓮くんはもう、ダンサーになれないの? 私は、ダンスをしている蓮くんが大好きだったのに。一番恐れていたことが、こんなにもあっさり現実になってしまうなんて。
それはあまりに衝撃で、言葉が出なかった。
「そんな。……蓮くん、どこにいますか?」
やっとのことでそう聞くと、よっしー先輩は首を横に振った。
「今は会いたくないらしい」
まだ、会えない。だけど、ちゃんと生きている。ちゃんと、近い距離にいる。やっと落ち着いて、いつの間にか強く握っていた布団を離す。少し、手汗がにじんでいた。
「私、ちゃんと蓮くんのこと助けられたんでしょうか」
「……充分だ」
よっしー先輩は、真剣な眼差しで、窓の外を見つめた。
蓮くん、家から抜け出して私を迎えに来たんだよね。素直に嬉しかった。
「あいつはたぶん、大丈夫だよ。家を抜け出せたんだ」
先輩はまだ、私と目を合わせない。
「充分、強い」
噛み締めるように、強く、だけど、どこか切なさの込められた声だった。もしかしたら、私に聞かせるためじゃなく、自分に言い聞かせるための独り言だったのかもしれない。悔しいのは私だけじゃない。よっしー先輩だって、本当の弟のように蓮くんのことをかわいがっていた。蓮くんも、唯一信頼を寄せる人だった。二人には、堅い信頼関係があった。それなのに、こんなことになってしまうなんて。
「様子見てくる」
大きく息をついてから、先輩はドアを開けて出て行った。重い扉はむなしく、ドス、という音と共に閉まった。それを見届け、行き場を失くした私の視線は病室の中を彷徨う。そして目に留まったのは、スクールバックとすっかりぐしゃぐしゃになってしまった紙切れ。それと、花瓶には一輪の花。……紫色のアネモネだ。きっとよっしー先輩がそこに挿したのだろう。
紫色のアネモネの花言葉は、「あなたを信じて待つ」蓮くんは、私を信じて待ってくれた。私は、本当に蓮くんを助けることができたのかな。
ベッドから降りて机の方に歩み寄り、スクールバックを手に取る。ユキワリソウのストラップと、シュシュ。蓮くんが私にくれた、宝物。
蓮くん、信じてるよ。立ち直ってくれること。
携帯を開くと、アネモネの花言葉を調べたサイトのまま閉じていた。ごめんね、もっと早く、気がつけばよかったよね。
急に勢いよくドアが開き、肩がびくりと跳ね上がった。入ってきたのは、お父さんだった。
「実羽! 大丈夫か!」
お父さんに強く抱きしめられ、私はゆっくりと答えた。
「うん、大丈夫。私は、大丈夫だよ」
お父さんは、心配そうに、そして少し寂しそうに私を見た。
「本当に、大切な人だったんだな」
大切な人。うん、本当に大切な人。お父さんの温もりにホッとしながら、うなずいた。本当に、本当に大好きな人。お父さんの声は、泣きそうだった。それくらい心配させてしまったのだ。私は何も言えず、その背中に手を伸ばすだけだった。
目の前で交通事故が起きた。その光景は、しっかりと脳裏に焼きついている。だけど……あんなことがあったけど、私は後悔してないよ。自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
だけど、心の中でそれに素直にうなずけるはずもなかった。
悔しいよ。あんなことが起きたんだから。
今度はゆっくりと、ドアを開ける音がした。
「初めまして、伊東です」
よっしー先輩だ。先輩は軽く会釈をし、また寂しそうな笑顔を見せた。お父さんもそれにつられるように、頭を下げた。
「実羽の父です。どうも、ありがとう」
そしてすぐに私のほうを向く。
「伊東くんがお父さんに連絡してくれたんだ。事故のあと、救急車を呼んだのも彼だ」
よっしー先輩、私たちのためにいろんなことをしてくれたんだね。先輩を見ると、やはり力なく微笑んだままだった。
「先輩、ありがとうございます」
私の背中を押してくれた。私に自信をくれた。くじけそうになったとき、手を差し伸べてくれた。蓮くんのことも、同じように支えてあげていたのだろうか。
窓の外は、少しずつ暗くなり始めている。
そうだ、きっと大丈夫。いつまででも、私は蓮くんを待つ。蓮くんが待ってくれたように、私も待つ。
「実羽ちゃん。蓮に会うか?」
「……大丈夫なんですか?」
「ああ」
そうやってうなずくと、先輩はドアを開けた。お父さんを見ると、無言だったけれど、うなずいてくれた。それが、「行きなさい」と言っているように私には見えた。
目の前の現実と向き合えと、そう言っているような気がした。
大きく息を吸う。
私は、よっしー先輩について行った。
「俺さ、やっぱ嘘はつけない」
先輩の唐突な言葉の意味を、私はなかなか理解することができなかった。
「蓮、まだ目覚ましてないんだ」
ドクン、と心臓が大きく鳴った。嘘でしょ? 脈を打つスピードが早くなった。
「実羽ちゃんを安心させようとしたんだ。だけど、余計俺が落ち着いていられなくなって。好きな人に嘘つくなんて、俺、最悪だ」
蓮くんがまだ目を覚ましてない。よっしー先輩の言ったことを、すぐに信じられるはずがなかった。嘘だったらいいのに。
蓮くん、いなくならないで。いなくならないよね?
まだ、伝えてないのに。
よっしー先輩はガラス越しに一つの部屋を覗き込んだ。中からは機械音が聞こえてくるだけ。そこに横たわる、血の気のない蓮くん。本当に、目を覚ましていないんだね。まだ、話すことも、触れることもできないんだね。
右足には、包帯が巻かれていた。それが痛々しくて、思わず目をそらしそうになった。どうして蓮くんばかり、あんなに苦しまないといけないんだろう。蓮くんは充分苦しんできたはずなのに。
「ごめん、実羽ちゃん」
隣を見ると、先輩は悔しそうに唇を噛んでいた。
「蓮くん……」
こんなことになるなんて、思わなかった。蓮くんが私にくれたメッセージ、もっと早くに気がついていれば、こんなことにはならなかったのかな。
蓮くんが花言葉に詳しいことは分かっていたはずなのに。蓮くんが好きだと言っていた花を、もっと早くに調べるべきだった。辛いよ。苦しいよ。
失うことがこんなに怖いなんて。
壊れそうなくらい悔やみ、泣いた。
それからは毎日、中庭に行って花壇を見ていた。紫色のアネモネを見ると、涙がこぼれそうになるけど、必死で耐えた。蓮くんは私を信じてくれていたのに、救えなかったことが悔しくてたまらなかった。
教室の中も、今までの盛り上がりはなかった。それほどの人気者だったんだなと、改めて思う。蓮くんはいつになったら戻ってきてくれるの? それを思っているのは私だけじゃない。先生だって、クラスメイトだって、ダンスクラブのみんなだって、もちろんよっしー先輩だって、思ってる。だからこそ、口に出しちゃいけないんだと思う。
授業が始まっても、誰も騒がない。
「おー、おまえら静かだな」
先生は、繕うように笑顔を浮かべながらそう言う。
「なんだ、どうしたんだ?」
先生だって、理由くらい分かっているはずなのに。みんな、分かってるはずなのに。誰も、答えない。答えちゃいけないのだと、暗黙のルールは完成していた。
しかし、ある日の休み時間、男子がポロリとこぼしたのだ。「やっぱり蓮がいないとつまんねえよな」と。それは教室中に伝わり、やがて沈黙を呼ぶ。今度は中心グループの女子が涙を流し、それが同じグループの女子に伝わっていった。次の授業は理科で、入ってきた先生はすぐに全てを察したらしく、注意をせずにその光景を眺めていた。蓮くんはよく、学級委員や実行委員に参加していて、先生からの評判も良かった。学校中の誰にとっても、蓮くんは大切な存在だった。
だからこそ、みんなの心の中にぽっかりと穴が開いてしまったのだ。
学校は、モノクロの世界に変わってしまったのだ。
中庭から見える色とりどりな花でさえ、色を失ったように見えるのだ。
蓮くん、早く帰って来て。
味気のない日々は、過ぎるのも遅かった。
相変わらず朝早くに家を出る私を、お父さんは心配していた。そして、よっしー先輩も。だけど、私はそれをやめなかった。というより、それをやめられなかった。蓮くんに、早く会いたい。ただ、それだけだった。
あの事故から、もうすぐで二週間が経とうとしていた。二週間がこんなに長いと思わなかった。毎日、下校したあと病院に向かった。持って行く花は、花言葉で選んだ。この日はサンダーソニアを手に、病室へ走った。花言葉は、「祈り」や「純粋な愛」だ。先週はオシロイバナを持ってきた。花言葉は、「あなたを思う」
結局その日も、蓮くんは目を覚まさなかった。私はその次の日も中庭に向かった。すると、ベンチには人影。私の足音を聞いてか、その人は立ち上がる。期待はずれだった。蓮くんより、はるかに背が高い人。
「よっしー先輩」
どうしてここに? 私が聞く前に、先輩は優しい笑顔を見せた。その笑顔に、少し安心する。
「いつもここで会ってたんだってな」
聞かなくても、それが私と蓮くんのことだというのは分かった。
「実羽ちゃん?」
目を大きく見開き、私を見る。それから、やっと自分が泣いていたことに気がついた。
「先輩。蓮くん、本当に戻ってくるんですか? いなくならないですよね? 私、蓮くんがいなくなったら……私、どうすればいいんですか?」
何言ってるの。何、先輩に迷惑かけてるの。だけど、涙は止まらない。
先輩はそんな私を、悲しげな表情で、蓮は大丈夫だと訴えるようにじっと見つめた。そして、何を言うわけでもなく、優しく抱きしめてくれた。
私はただ、その温もりの中で涙を流し続けた。
その日の放課後、携帯の着信音が鳴ったので、私は中庭のベンチに腰を下ろした。画面には、「よっしー先輩」という文字。
画面に触れ、耳元に近づける。
「実羽ちゃん! 今どこにいる?」
「いつもの中庭です」
そう答えると、すぐに電話は切れ、まもなく息を切らしたよっしー先輩がそこに来た。息を整え、それから口を開く。
「あのな……」
先ほどまでの真剣な表情とは対照的な、優しい笑顔だった。
「蓮が……」
その笑顔と、その言葉だけで充分だった。言わなくても分かるよ。
世界はもう、色づき始めている。
会いに行くよ。
蓮くん。
今度はちゃんと伝えるからね。
エピローグ
ふわりと純白が舞う。ドアがノックされ、振り返る。
「どうぞ」
すると、ドアがゆっくりと開く。数年前まで引きずっていた右足も、今では事故の前と変わらず歩けるようになった。同じように純白のタキシードをまとった彼は、これまでのどの日よりもかっこよく見えた。
「きれいだよ」
「蓮くんこそ、かっこいいよ」
蓮くんが笑うから、私も笑顔を返す。あの事故から、すでに十年が経とうとしている。高校を卒業すると、蓮くんとよっしー先輩はルームシェアを始めた。蓮くんは親戚から逃げるように、よっしー先輩は少しでもバイトに行きやすいように。私は変わらず、お父さんと一緒に暮らしながら、保育士の仕事を始めた。
「実羽」
蓮くんは私の手をそっと包み込むように握る。
「これだけは言いたかった。いつも支えてくれてありがとう。俺、実羽がいなかったらダンサーなんてとっくにあきらめてた。少し遠回りしちゃったけど、俺はあの日のこと、全然後悔してないよ」
蓮くんは優しく笑う。足が治る前から、蓮くんは感覚を忘れないように腕や左足を動かすようにしていた。そして長いリハビリの末、歩けるようになると、すぐに全身を使ってダンスの練習を再開させた。そしてついに、ダンサーの夢を叶えた。私こそ、蓮くんが支えだった。蓮くんがもしあの日、いなくなってしまったのなら、私はこんな風に前に進めなかった。蓮くんがいなければ、今の私はいなかった。
コン、とドアが鳴る。
「はい」
そろりと開いたドアの隙間から顔をのぞかせたのは、よっしー先輩だ。先輩は少しでもお母さんに楽をさせたいと言い、近くの大学に進み、今は高校教師だ。かつては蓮くんや先輩がいたダンスクラブの顧問をしているらしい。生徒に大人気なんだと蓮くんが言っていた。高校のときと変わらない温かい笑顔を見せながら、先輩が後ろに隠していたものを私たちのほうに差し出す。フラワーアレンジメントだった。
「結婚おめでとう」
「ありがとうございます!」
かわいらしいかごを受け取る。隣で、蓮くんも喜びを隠しきれず、にやにやと笑っている。この花は確か……思い出そうとする私より先に、蓮くんが口を開く。
「ストックとデンファレ、センニチコウ。花言葉はそれぞれ、愛の絆、お似合いの二人、それから、色褪せぬ愛」
蓮くんはよっしー先輩ではなく、私のほうを見ていた。わざわざ花言葉まで調べて、花を選んでくれたんだ。よっしー先輩は、いつだって人のことばかり考えている。よっしー先輩は微笑んで私たちを見ていた。これまでのことが途端に思い出されて、じわりと涙がにじむ。ここまでの道のりは決して簡単なものではなかった。
「よっしーにはお世話になったよね、ありがと」
「本当に、ありがとうございます。先輩のおかげでここまで来れました」
早くも泣きそうな私に気がついたのか、蓮くんが私の頭に手を乗せる。こんなの、もっと泣きそうになるのに。
「じゃあ、俺はそろそろ行くな」
よっしー先輩は私たちを見て微笑む。先輩が出て行くと、蓮くんは私に向き直った。
「本当に、やっと……やっと、ここまで来れたね」
やっと。蓮くんの言葉にうなずくと、ぽろりと涙がこぼれた。ああ、せっかくきれいにメイクしてもらったのに落ちてしまう。蓮くんが私の涙を拭う。
「実羽、幸せになろう」
「うん、これまでの苦労の倍、幸せになろうね」
蓮くんが笑ってうなずく。幸せになろう。これまでの分も、あなたが苦しんだ分も。何があっても、ここまで来ることができたのだから、この先もきっと大丈夫。蓮くんが私の手を握る。ここに確かに生きているのだと、実感することができる。
そのぬくもりを手のひらに感じ、思わず強く握りしめる。もう消えてしまわないように。生きていることを確かめるように。
そして、この愛が色褪せぬように。
強くなれ サトミサラ @sarasa-mls
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