Case2.魔王退治の最中だけど口紅が折れたから泣く

 パキン、と乾いた音がした。

 蒼ざめる彼女の前で、その紅色の塊にヒビが入る。ヒビはあっという間に広がって、一つにまとまっていた「それ」を崩壊させた。


「わー! 待って、待ってぇ!」


 慌てて彼女は手を伸ばして、砕け散った口紅を、地面に落ちる前に受け止める。一か月前に麓の街で買った口紅の、呆気ない末路だった。


「気に入ってたのにぃ!」


 ピンク色の髪を掻きむしりながら、女魔導士のティンクは叫んだ。

 彼女の悲鳴により、眠りから叩き起こされた旅の一行は、朝食であるパンとチーズを食べながら、女魔導士を見やる。十七歳の甲高い声で上げられた悲鳴は、未だ彼らの脳内に響いていた。


「だから、練り紅にしろって店員さんも言ってただろ。気取って棒紅なんか買うからだ」


 パーティを引きつれる剣士、トバスは面倒そうに言った。

 癖もないが艶もない茶髪を惰性で肩まで伸ばし、それを一つに束ねている。精悍な顔立ちであるが、眉が少し濃すぎるとは、彼に魔王討伐を命じた女王の言葉だった。

 ティンクより一つ年上で、年相応に生意気で、年相応に無知でもある。即ち、不機嫌な女に理論的なことを言ってしまうほどに。


「容器が可愛かったんだもん。それに手当も多く入ってたし」


 彼らが住まう大陸に『魔王』が現れたのは一年前のことだった。

 百年前に大きな戦争を終わらせてからと言うものの、平和に暮らしていた大陸各国は非常に焦った。

 軍隊は持っているが、その全てを魔王退治に回せるほど豪胆にはなれず、そもそも兵士の人権が声高に叫ばれて久しい昨今、兵士が一言「家庭の事情で」とでも言えば、強制は出来ない。


 困り果てた王たちは、上等なチキンとワインを揃えた晩餐会で額を突き合わせて考え込み、一つの名案に至った。

 兵士が魔王を嫌がるのであれば、魔王を嫌がらない勇者を作れば良い。

 勇者になりたいです、と名乗り出た者を筆記試験と実技試験により選出し、国家公務員としての資格を与える。福利厚生の充実、高収入、老後の年金まで補償された、云わば「若者が憧れる仕事」を王たちは規定した。


 目論見は大いに当たり、各国の腕自慢達が試験に押し寄せ、多くの勇者公務員が誕生した。

 勇者達は仲間を集めながら魔王に立ち向かうことを「業務」として与えられている。仲間も勇者と契約を結ぶことにより、準公務員扱いになるので人気は高い。


 ティンクは此処から少し離れた村で勇者一行に加わり、トバスと契約を結んだ。つまり、準公務員魔導士である。


「新しい化粧品とか買いたいじゃない。街の人は皆、あの口紅使ってたし」

「口紅如きで煩いんだよ。俺達は魔王討伐の旅の最中なんだぞ。化粧なんかしてチャラチャラと……」

「はぁ?」


 地を揺るがすような低い声が、ティンクの口から這い出た。

 事の成り行きを見守っていた、賢者と武闘家は思わず震え上がる。


「化粧したぐらいで倒せない魔王なんか、何しても倒せないでしょ。スッピンになったら魔王が倒せるなら、生まれたての赤ん坊でも仲間に入れなさいよ」

「そういう意味じゃない。心意気の問題だ。向こうの敵にだって洒落っけのあるのなんかいないだろう」

「じゃああんたは服を着ないで魔王を倒しなさい。あいつ全裸なんだから」

「服は必要だろ」

「女の化粧は服と同じだから」


 有無を言わせない響きだった。


「必要だからやっているものを、男が口出さないでくれる? サンダーバードを股間に直撃させて、家系図を完成させてあげましょうか?」

「それはやめろ」

「あーぁ、次の町に着くまでまだ日数あるし、どうしよう」


 ティンクは深々と溜息をつく。

 旅において女性が困る物として上がるのは「化粧品の不足」である。

 魔王探しの途中だろうが、魔獣退治だろうが、よくわからない武闘大会だろうが、化粧はしたい。それが女心というものである。


 他の勇者一行と会うたびに女性たちが化粧品の交換や情報収集をするのは、もはや当たり前の光景となっていた。


「ティンク殿は口紅などせずとも可愛いと思いますが」


 勇気を振り絞って、賢者カルナバルが言う。

 一行の中で最年長の三十五歳。故郷には妻と子供がいる。

 短く切った黒い髪と灰色の物憂げな目が特徴的で、アンニュイかつ既婚者の余裕が伺える雰囲気により、街の女にも人気があった。


 口紅のことで悩むティンクを慰めようとしたのも、彼なりの優しさだった。

 可愛いと言われて怒る女はいないと見越してのことだったが、その思惑は一秒後に叩き潰される。


「馬鹿じゃないの?」

「バ……っ!?」


 ティンクは半眼で相手を睨み付けながら、心底馬鹿にした口調で言い返す。


「私は口紅がないから、どうやってその不足を補おうか悩んでるの。ちゃんと話聞いてた?」

「えっ、ですが……」

「ムカつくわー。え、何? もしかして私がカルナバルのために化粧してるとか思ってるの?」

「そんなことは思っていませんが」

「よかったー。そんなキモイこと考えてた場合は、セクハラ事案として女王様に訴えるところだったー」


 そう言われてカルナバルは震え上がる。

 今の職業は賢者であるが、元々のカルナバルの職業は地方公務員である。準公務員であるティンクより安定した地位を持っている分、セクハラパワハラには人一倍敏感だった。


「賢者のくせに馬鹿なのかと思って心配したじゃない。紛らわしい言い方はやめてよね」

「はい……すみません」

「うーん、ユーズミの実で代用するかな。でもこの辺り生えてないし」


 ユーズミの実とは、低木種であるユーズミがつける真っ赤な実のことであり、別の草の茎から出る液体と混ぜると、口紅として使うことが出来る。

 どこにでもある木ではあるが、山の中だと生えている場所に偏りがあり、現在彼らがいる場所の付近には生えていなかった。


「やっぱり代用品が一つってのはちょっとねぇ。他にも探さないと」


 トバスは何か言いたげだったが、先ほどのカルナバルの華麗なる自爆を見たので、敢えて口を閉ざしていた。

 しかし、そんな中で今度は武闘家クエカが果敢にもその口唇を開く。


「ティンク」

「何?」


 話しかけられた途端に相手を睥睨するティンク。

 百戦錬磨の武闘家も思わず怯むほどの眼力だった。しかし、二十二歳の若さながら、村一番の武闘家として熊とも戦ったことがあるクエカは、気力を振り絞り彼女を見返す。


 癖のある青い髪と同じ色の瞳は、日に焼けた肌に対して主張が強く、クエカの顔は忘れても髪の色を忘れない者のほうが多い。


「その割れた口紅を、作り直すわけにはいかないのか」

「作り直す?」

「俺はよく知らないが、化粧品というのは基本的に粉末を何かで固めたものなんだろう? だったら口紅を細かく砕いて、何かで練り直せば元に戻るのでは?」


 その提案に、ティンクは唖然とした表情を作る。

 また何か地雷を踏んだかと思ったクエカは、思わず防御態勢を取った。

 しかし、その予想は外れ、彼に浴びせられたのは魔法攻撃ではなく称賛だった。


「クエカったら頭いい! そうだよね。なんで思いつかなかったんだろう。直しちゃえばいいんだ」

「その、何を使って直すのかはわからないが」

「流石クエカ。そこの使えない勇者とセクハラ予備軍賢者なんかとは違うね」

「セ、セクシャルハラスメントはしていません!」


 必死に否定するカルナバル。だがティンクは最早そんなことはどうでもよい様子だった。


「というわけで早速行くよ、皆!」


 急な掛け声に三人は顔を見合わせた。


「なんでお前が仕切ってるんだよ」

「大体何処に行くのですか」

「もしかして、口紅の材料か……?」


 女魔導士は満面の笑みで、クエカを両手の人差し指で指した。


「アタリ! 水につけると凝固して、温めると簡単に溶ける、ビッコラスの油を取りに行くの」

「おい、ビッコラスってこの山にいる大型魔獣じゃないか! 俺達のレベルじゃギリギリだぞ!?」


 止めようとしたトバスに、上空から大きな石が落ちて来た。

 脳天にそれをくらって蹲るトバスを、ティンクは鼻で笑う。


「そんなこと知ったことじゃないわね。ビッコラスに会うまでにレベルをあげればいいのよ。一人当たり二十匹くらい魔獣を倒せば問題ないでしょ」

「お前、本気で魔法ぶつけるなよ……!」

「私の本気は岩より強固なのよ。他に文句の、違った、異論はある?」


 賢い中年男と寡黙な若者は慌てて首を左右に振る。尊い犠牲は一つで十分だった。


「じゃあ元気よく、レッツゴー!」


 拳を振り上げて声を上げる魔導士に、哀れな男たちは力なくそれに倣う。もはや彼女を止められるのは、ビッコラスの死骸ぐらいだった。


 何故、口紅が折れた程度でこんな目に遭うのだろう。

 石に思い切り頭蓋を打ち付けた勇者トバスは、そう思って静かに一筋の涙を零した。


END

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勇者が五人死にました 淡島かりす @karisu_A

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