『人間的なもので私に無縁なものはない』

 なぜ資本主義は崩壊しな…大衆民主主義がなぜここまでの適応能……情報の非対称性が……帝国主義の終焉……米帝ですら、『帝国』というシステムに…利潤率の低下は何故起きない!?……資本主義における技術開発イノベーションの役割は…一体、資本主義の本質とは何…システムの新陳代……拡大するシステムに終わり……『歴史の終わり』は間違……

 

 マルクスとデグレチャフの論争に一旦区切りがつくと、劇場内にいる数多の共産主義者は勝手に議論をし始めた。論争が論争を呼び、古今東西のあらゆる理論が開陳される。


「……随分と五月蝿くなったな」

 デグレチャフが呟く。

「共産主義者の唯一無二の美徳は、勉強熱心なことだ。大抵、共産主義の道に入ろうとするのは生真面目な奴か、底なしのお人好しだからな」

 マルクスが答える。

「『25歳のとき左翼にならない人には心がない。35歳になってもまだ左翼のままの人には頭がない』。誰が言ったかは知らないが言い得て妙だな」

「前半は全くの同感だが、後半は同意できないな。案外左翼の方が世の真理をついているかもしれないぞ、デグレチャフ君」

「それについても、色々言いたいことがあるが……。しかし、こう五月蝿くては敵わん」

「それについては同感だ。おい、エンゲルス」

 舞台の袖に退避していたエンゲルスは、マルクスの手招きに応じて壇上に出てくる。

「なんですか、マルクス」

 また厄介事を頼まれるのか。エンゲルスはそう思って身構えた。

「私たちは劇場の外に出る。その間、劇場に残っている奴がオイタをしないように見ていてくれ」

「そういうことはマルクスがやったほうが……」

「私はそういうのは苦手なんだ」

「まぁ、それもそうか」

「……いや、事実だけど。事実だけど、ちょっとぐらい否定してくれない?」

「いや……まぁ、あの。昔を思い出して」

「マルクスは、基本的に人の話は否定から入るからな。嫌われて当然だ」

 デグレチャフがカラカラと嗤いながら言う。

「否定出来ないのが辛いところだ」

「とにかく、分かりました。適当に場を流しときます」

「頼んだぞ。あと、レーニン達は適当な頃合に開放してやれ」

「殺してないのがバレましたか」

「お前のことだろうから、処刑なんてできやせんだろう。でも、あいつらが入ってくると、折角の自由闊達な議論が封殺される可能性がある。その点については留意して適当にやってくれ」

 デグレチャフは一瞬ほくそ笑む。

 (もしや、チャンス到来なのではないか?魔女の釜の底から逃げ出せるこのチャンス。逃す訳にはいかない)

「そういうことなら早くここから出よう。お前が居ると、折角の自由闊達な議論が阻害されるからな」

「全くだ、デグレチャフ君。権威ある人間が居るだけで場が萎縮してしまうからな。真理は万人に開かれているべきだ」

 

 デグレチャフは勇んで劇場から出ようとし、マルクスはその後をついていく。

 (出口が見える。茜色の光……。外は夕暮れ時か?)

 劇場を出ると、そこは茜色の夕暮れが水平線に沈もうとしているのが見えた。周りは、広大な荒れ地が広がり、幾つかの無機的な建物が規則的に並んでいた。寒々しい風が頬に当たって吹き抜けていく。

 吹き抜ける風の方に視線をやると、フェンスと壁、そして『鉄条網』が見えた。

 それを見た途端、デグレチャフの脳裏に、ある映像が浮かんだ。

 (なんだ、ここは。どこかで私はこの光景を見たことがある?白黒の写真……いや、カラーだったか?そもそもあれは動画……?いや、そんなことはどうでも良い。私は一体どこでこの光景を見たのだ!?)

 一瞬思案に耽るデグレチャフにマルクスが後ろから話しかける。

「どこかでこの光景を見たことあるのではないかね、ターニャ・デグレチャフ君?」

「あぁ。しかし、どこで見たか全く思い出せん」

「……こっちに来給え」

 デグレチャフはマルクスについていく。しばらく歩いた後、なにやら出入り口らしきところに着いた。

「読み給え。この門の上に何が書かれているかね?」

働けば自由になるARBEIT MACHT FREI……まさか!!」


「あぁ、そのまさかだ、ターニャ・デグレチャフ君。ここは、その通りの場所だ。君が思い出したその通りの場所なんだよ。

 人類の汚点。負の世界遺産。排外主義の極地。ナチズムの実験場―――かの悪名高き絶滅収容所アウシュビッツだ」

「……なぜ、このような。なぜこのような場所に私達が居る?」

「神の思し召しだ。正確に言えば、ここはあらゆる収容所が複合されている。ナチス・ドイツの収容所だけではなく、ソヴィエトの収容所もここにある。ここは、強制収容所の博物館なんだよ。全体主義の成れの果てを展示しているわけだ」

「では、逃げることは叶わないと?」

「神はここでバトル・ロワイアルをしてもらいたいんだろうね。しかし、神が収容所を創造するとは、できすぎた皮肉だ。癪に障ることこの上ない。さて、ハイキングしながら議論を続けようではないか。そう、近代が齎した罪を傍目に見ながらだ」

「近代の罪ねぇ……」

 

 マルクスとデグレチャフは鉄条網に沿って、並んで歩く。端から見れば、背丈は変わらない少女二人が仲良く散歩しているように見えただろう。もっとも、その話の内容は少女に全く似つかわしくはなかったのではあるが。


「近代とは何か。デグレチャフ君。答えられるかね?」

「人類が繁栄した時代だ」

「間違いではない。では、今は?」

「今も絶賛近代の真っ只中だ。人類は繁栄の道を歩み続けている」

「間違いではない。現代も近代の延長線上に位置する。現代と近代の節目は一体どこか。歴史家でも解釈が分かれるところだ」

「時代区分など、ナンセンス極まりない。歴史を区切るという発想そのものが間違っているのではないか?」

「一理ある。しかし、そうは言っても、中世と近代は天と地ほど違う。近代と現代の区別は曖昧なのに対して、中世と近代の区別は比較的明瞭だ。なぜなら、中世と近代では考え方、いや、精神性というべきかもしれないが、そういったものに大きな認識の変化パラダイムシフトが存在したからだ」

「『近代的自我の発見』」

しかり。『我思う故に我あり』。デカルトによって成された主観と客観の分離。ここにおいて、観察する『我』と観察される『世界』が誕生した」

「『世界』は『我』に操作される客体となった。故に、『近代的自我』が環境問題の淵源だと指摘されるのはよくある話だが、それがどうしたのだ?」

「その通りだ。『近代的自我』の誕生は、観察を基礎とする『科学』を生み出した。そして、『科学』は確かに人類に繁栄をもたらしたが、其れと同時に環境破壊と隣にあるガス室をも生み出した」

「……まさかお前ほどの人物が反『科学』を唱導する訳はないだろうな?」

「まさか!!『科学』は迷信と神秘というアヘンを吹き飛ばす偉大な力だ。人類が幸せになるとしたら、それは『科学』によってでしかありえない」

「……すまない。そうだな、お前はそういう奴だったな」

「いや、良い。双方の立場を明らかにする必要がある。君も分かっているとは思うが、私も君も『科学』に対して絶大な信頼を寄せている。その意味で君と私は同じ土俵に立っている。決して私は凡百な反『科学』主義者ではないし、それは君も同じだろう」

「その通りだ。私は『科学』を決して否定するものではない」

「しかし、そんな我々でも一つ、考えなくてはならない問題がある」

「ほう。どのような?」

「なぜ『科学』は人類に繁栄と破壊を齎したか、だ」

「相反する傾向がなぜ『科学』によって齎されたか、ということかね?」

「然り。『近代的自我』を発見し、『科学』を発展させ、世界に冠たる『文明』を築き上げた我々が、なぜ強制収容所のような『野蛮』を生み出すこととなったのか。それが我々の考えるべき問題だ」

「それは、狂ったイデオロギーの為した罪ではないか?」

「いや、もっと根本的な問題があるのではないか?つまり、ナチズムやレーニン主義を生み出したのにはもっと根本的な問題があるのではないだろうか?」

「……そんなことは簡単だ。根本的な問題は人間にある」

「そう。その通りだ、デグレチャフ君。問題は人間に内在している。そこで、私は問題の解答を人間の心に潜む本能とか獣性とか、そんなものではなく、『理性』に求めたい」

「『理性』がこの『野蛮』を齎したと?」

「然り」


 デグレチャフは歩みを止めたが、マルクスはそんなこと気にせずに先へと進む。


「……暴論だ」

「……いや、これは正しい推論だ」


 マルクスは振り向いて答える。デグレチャフとマルクスの視線がかち合う。双方の澄んだ瞳は逸らされることもなく、只々相手のことを見据えていた。


「『理性』とは、何か。考えてことはあるかね?」

「無論だ。『理性』とは、人類が手にする唯一にして絶対の力だ。市場は究極的にはそれによって動かされている。つまり、『理性』は社会の最も根本を担う土台だと言って良いだろう」

「然り。『理性』こそが、人と獣とを区別する偉大な力だ。しかし、その偉大な力は『野蛮』を招き寄せることになる」

「なぜだ?」

「……歩みを進めよう。長くなる」

「……」


 マルクスはもう一度振り返って歩みをすすめ、デグレチャフはマルクスの背中を追う。二人の距離は一定で、端から見れば喧嘩をしている少女のようであった。


「『理性』は二つに別れる。カント的な用語を借用すれば、一つは『純粋理性』。二つは『実践理性』だ。本来のカント哲学に立ち入ると面倒くさいから、ここでは一応、『純粋理性』は計算能力や推論能力、『実践理性』は是非の判断能力とでも考えて欲しい。例えば、難しい数式を解く科学者や、無防備な女性を襲わない男性のことを、我々はどちらも「彼は理性的だ」と言ったりするだろう?」

「確かに、我々が日常的に使う『理性』概念は大まかに分けて二つの意味に別れるな」

「よろしい。ところで、ここで専ら問題にしたいのは『純粋理性』の方だ。なぜなら、『科学』を発展させてきたのは、女性の寝込みを襲わない男性ではなく、晦渋な数式を解いてきた科学者だからだ」

「わかった。話を続けてくれ」

「私の理論を批判的に発展させたフランクフルト学派は、現代において『理性』が道具的な立場へと貶められていると喝破した」

「つまり?」

「つまり、現代では『理性』の『純粋理性』としての側面だけが、強調されることとなった、という訳だ。『純粋理性』は勿論ながら価値判断を含まない。つまるところ、『理性』の『純粋』的な計算能力や推論能力だけが持て囃され、それこそが重要であるとされたのだ」

「その結果が『野蛮』を招いたと?」

「然り。価値判断を失った『理性』は道具と化し、毒ガス室を生み出した」

「ふむ。いかにもな理論だな。しかし、『いかにも』でしかない。なぜ、そのような現象が起きたか説明していないぞ?」

「『啓蒙の弁証法』。アーノルドとホルクハイマーが書いた本に答えが書かれている。『啓蒙』、つまり理性を教え広めようという運動は近代から始まったわけだが、その目的は究極的には迷信と『神話』の破壊だった。『くら』き者を教え『ひら』く。そうして啓蒙思想は『科学=純粋理性』と相携えて『神話』をほぼ破壊し去った。しかし、その後に残ったのは、皮肉なことに、『理性』という『神話』だった。世の人々は一様に『理性』を教え込まれ、我々の思考は画一化された。斯くて、『純粋理性』が地表を覆う。創造主に代わって、人間が『神話』を完成させた瞬間だよ。卑俗な例えをすれば、聖書は『7つの習慣』にその座を譲ったという訳だ」

「抽象的な理論だな」

「あぁ、抽象的だ。しかし、示唆に富む。この理論からすれば、君の様な資本主義的な人間、つまり『純粋理性』的な人間は神話の子ということになる。ところで実際、資本主義的精神を持つ人間というのは中世においては存在しなかった。百歩譲ってそんな人間が居たとしても、それは社会の大勢を占めていたわけではない」

「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』」

「然り。マックス・ヴェーバーは私の流派とは全く違うが、資本主義的な精神が近代以降に生まれたという指摘は私と共通している。ロビンソン・クルーソーのような人間は中世には存在しなかった。つまり、拡大再生産という文化が存在しなかったのだ。なんでも、今に至っても後進国の人々はその傾向があるらしいがね。長く働いてもらおうと思って時給を上げたら、長く働くどころか労働者は休みを増やしたらしい。理由は、今までの月給で生活できるから、と言うものだったようだ。君なら、喜び勇んでがむしゃらに働くだろう?」

「勿論だ。自身の売りうる労働力が余っているのだから、それを使わないのは『純粋理性』的に考えて不合理だ」

「分かってもらえたようだ。では、結論を言おう。『理性』は『野蛮』を招く。故に、『純粋理性』の塊である資本主義が『野蛮』を招くような傾向を持つのは当たり前だろう?」

「それは論理の飛躍だ。資本主義はアウシュビッツのような『野蛮』を生み出さない」

「確かに、アウシュビッツは生み出さないかもしれない。しかし、資本主義はそれとは違った『野蛮』を招く。例えば、君のよく知っている言葉だと、外部不経済、或いは倫理的な問題であるところの遺伝子組み換えやデザイナーベイビーなんかが分かりやすいかね?利益の追求は、甚大な環境破壊や倫理的な問題へとそう遠くない未来に帰着するだろう」

「それは、資本主義の問題ではないのでは?」

「一理ある。資本主義を導入していないはずの全体主義国家もそうした問題を引き起こしてきた。しかし、いずれにせよ、『純粋理性』がそうした問題へと行き着くことに、異論はあるまい?」

「ない。妥当だと考える」


 マルクスは歩みを止めて又振り返った。マルクスとデグレチャフは付かず離れずの距離を保ったまま、相手を見据える。


「しかし、それでも資本主義はそれ自身、大きな問題を孕んでいると考える」

「……どのような?」

「今までは、私の後輩であるフランクフルト学派の考えだが、今から言うのは私の考えだ」

「わかった。どうぞ、言ってくれ」

「資本主義経済の特徴に一つとして、『貨幣』の使用が挙げられる。ところで、『貨幣』とは何かを考えたことはあるかね?」

「商品と商品とを交換する際の煩雑な手続きを簡略化したものだ」

「(……実際は違うが、あまり専門的な話をしてもついてこれないだろう。まぁいいか)然り、その通りだ。しかし、今日において、貨幣はその本来の役割以上の役割を果たしてはいないかね?貨幣とは、ある商品を手に入れる為のものであるはずなのに、今日では、商品よりも貨幣が圧倒的に重要だと見做されていないか?」

「何が言いたい?」

「貨幣は商品に先立って存在したわけではない。貨幣は商品の後に生まれたはずだ。それが、どうしたことか。貨幣が勝手気ままに振る舞い始め、人々はそれに従わされているのではないか?」

「人間が携帯電話を使っているのではなく、携帯電話が人間を使っている、というのに似た話か?」

「然り。貨幣が唯一の価値尺度となり、時には人間の生死を左右することとなった。全てのありとあらゆる商品、現象に値段がつけられて序列化される。人間も又然り。人間すら貨幣という世にも不思議な仕組みに還元される。貨幣が森羅万象に価値を与える。嘗て神が森羅万象に価値を与えていたように。斯くて貨幣は神となった。『貨幣の物神化』という現象がここにおいて誕生した訳だ」

「いや、仮にそうだとしても、貨幣は人間を平等にする効果がある」

「興味深い。反論を聞こう」

「貨幣を手に入れる手段は、資本主義世界においては様々な方法が考えられる。尤も、お前はその前提には反対だろうが」

「勿論だ。生産手段を有しない『労働者』が貨幣を手に入れる手段は限られている。しかし、話を続け給え」

「貨幣は神だと言ったが、それはある意味正しい。なぜなら、貨幣はあらゆる価値から自由だからだ。価値中立だと言い換えてもいいだろう。価値の尺度であるがゆえに、貨幣そのものは他から価値を与えられない」

「続け給え」

「貨幣の多寡によって価値が決定されるのならば、勿論のことながら人間の価値は貨幣の多寡をによって決定される。ところで、人間は生まれながらに不平等だ。容姿が劣る者、体力の劣る者、知能の劣る者、出自の劣る者など様々な人間が居る。しかし、貨幣はそれらの劣ったものに対して平等だ。例えば、容姿が劣るものは芸人として、体力の劣るものは知能労働で、知能の劣るものは体力労働で、出自の劣るものは才能によって価値を獲得するかもしれない。つまり貨幣は人間を平等とする」

「同意する。しかし、この考えは、どのような人間でも絶対に貨幣を稼ぐことが出来るとの前提に立っている。私の『剰余価値説』が正しいとすれば、この考えは机上の空論にすぎない」

「しかし、私の考えは否定はできない。そうだろう?」

「然り。私の『剰余価値説』そのものに疑念が付されている以上、君の考えは否定できない。そこで、貨幣には否定的な面と肯定的な面があるとの認識が最も『理性』的であると思うがどうかね?」

「同意する」


 一つの結論に至ると二人の口元は綻んだ。初めて二人の『純粋理性』によって、妥当な結論が導き出されたからである。デグレチャフがマルクスに歩み寄り、二人は並んで歩み始めた。


「では、次は資本主義の資本主義たる所以、つまり市場に眼を移そう。君は泣く子も黙る市場原理主義者リバタリアンだ。ところで、なぜ君はそこまでして市場に拘るのかね?」

「簡単な話だ。市場は最も効率的で、尚且つ最も自由な制度だからだ。尤も、お前が言うように、効率性が故に資本主義そのものが自壊に至りかねないという批判はもっともな部分があるだろうが」

「では、市場とは自由な制度である、というのを集中して考えよう。ところで、自由とは何かを考えたことはあるかね?」

「勿論だ。自由とは何かに邪魔されずに、己の為したいことを為せることだ」

「では、人間が空を飛べないのは、不自由ということになるのかね?」

「もちろん違う。自由とはそのような荒唐無稽なものではない。ここでの自由とは、専ら、『~からの自由』だ。つまり、私は『消極的自由』のことを言っている」

「ということは、『消極的自由』と『積極的自由』の区別を聞いたことがあるな?」

「勿論ある。アイザイア・バーリンの『自由論』は我々自由主義者リベラリストの必読書の一つだ」

「よろしい。では君の得意な分野ということだから、私は私の立場をかなぐり捨ててありとあらゆる理論を総動員して議論をしよう。これが最後の議論だ」

「わかった。誠心誠意お相手する」

「では、概念の整理をしよう。『消極的自由』とは何か?」

「市民的自由だ。『国家からの自由』と言い換えても差し支えない」

「然り。一般人が自由とは何かを考えた時、最も代表的なのがこの『消極的自由』だろう。具体的には、生命や身体の、或いは所有権に基づく私的財産の不可侵だ。自由主義者リベラリストが伝統的に守護しようとしたのが、こうした『消極的自由』であることは間違いない。しかし、自由にはもう一つの自由がある。代表的なのはルソーによって唱えられた『積極的自由』だ。さて、この内容は?」

「自己実現、或いは自己統治による自由だ。『国家への自由』と言い換えても差し支えない」

「然り。一般人が最も混乱するのがこの『積極的自由』だろう。具体的には、参政権が挙げられる。つまり、自分を統治するのが自分でなければ自由とは言えない、という訳だ。他者による法律ではなく、自己が定めた法律に服従するのでなくては、自由であるとは言い難い」

「しかし、歴史的には、『消極的自由国家からの自由』は『積極的自由国家への自由』によって破壊されてきた」

「然り。ナチス・ドイツがその例だ。民主主義という政体は自分で自分が服従する法律を決めるのだから、『積極的自由』を満たしている。しかし、その『積極的自由』はユダヤ人などの市民的自由、つまり『消極的自由』を破壊した。だからこそバーリンは『積極的自由』よりも『消極的自由』の重要性を指摘した」

「妥当な結論だ」

「然り。否定はしない」

「以上の議論を参照すれば、市場は『消極的自由』の体現者だ。つまり、市場は最も自由な制度である。一方、計画経済は『積極的自由』と容易に結びつき、『消極的自由』を破壊するだろう」

「計画経済に対する指摘はそのとおりだと言わさせてもらう。しかし、市場が自由を体現すると考えるのは時期尚早だ」

「なぜだ?カール・マルクスよ」

「例えば、生産手段を有する『資本家』と生産手段を有さない『労働者』との間には隔絶たる差がある。『消極的自由』という概念はそうした差異を無視した議論だ。つまり、『消極的自由』という考え方は、人間を国家から独立させれば、そのまま人間は自由になるという些か楽観的な見通しを前提としている。『労働者』は『資本家』と比べて自由にはなれない可能性が高い。利用できる資源があまりにも違いすぎるからだ」

「『労働者』が自由になれないとしたら、それは自己責任だろう」

「家が貧乏なせいで教育を受けていない者が『自由』になれないとしたら、それは自己責任だろうか?そこにある自由とは、飢える『自由』でしかないのではないか?」

「違う。それは私の意図するところの自己責任ではない」

「ならば、理論の修正が必要だ。特に自己責任論の変更が必要だろう」

「『新自由主義ニュー・リベラリズム』か」

「然り。しかし、君が元々住んでいた日本では、この言葉は混乱した使い方をされているようだから整理しとこう。君の立場は新自由主義は新自由主義だが、より厳密に言えば『再興的自由主義ネオ・リベラリズム』だ。一方、ここで私が言おうとしているのは、君が言うように、本来の意味であるところの『新自由主義』だ」

「歴史的には、『古典的自由主義』から『新自由主義』へ、そしてその後に『再興的自由主義』が登場した」

「記号的に言えば、AからBへ、そしてその後にA’が来たことになる。『再興的自由主義』を新自由主義と呼称したから話がややこしくなってしまった。確かに『古典的自由主義』と対比すれば、『再興的自由主義』は新自由主義と呼べるが、既に『新自由主義』が存在するのだから、わざわざ『再興的自由主義』を新自由主義と呼称するのは下策としか言いようがない」

「直訳文化の辛いところだ、許してくれマルクス」

「まぁ、君が分かっているなら良い」

「ところで、その『新自由主義』、つまり個人の自由を最大化するためには、国家がある一定度の仕事をしなければならないという理論だが、それはまさしくシカゴ学派総帥によって拒絶された考えだ」

「然り。M.フリードマンは国家が個人に介入することに対して反対した。しかし、『新自由主義』の視点は捨て去られるべきではない。フリードマンですら、教育の重要性は否定できなかったからな。尤も、彼は公教育へ競争原理を持ち込むことを主張したのだがね」

教育バウチャー制度学校選択制は理に適っている」

「否定はしない。今の公教育の堕落っぷりを見れば、それが有効な解決策のように見えるのは確かだ」

「市場が問題を解決することがあるというのは認めてくれるのだな?」

「あぁ、認めよう。システムの維持に関して、競争原理は決して悪というわけではない」


 デグレチャフが歩みを止める。それに続いてマルクスも歩みを止める。デグレチャフはその時気づいた。このまま延々と議論を続けても答えが出ないということに。

 (今まで出た答えは、私とマルクスの折衷案でしかない。マルクスは論破されず、私も論破されない。まるで千日手。このまま議論しても延々と埒が明かないのではないか?)

 その通りだった。両者の立場は違っていたが、しかしどちらかが間違っているというわけではなかった。両者とも一定の理性的言い分が存在した。


「カール・マルクス。私たちはいつまで終わりのない議論をすればいいのだ?」

「なんだ、そんな簡単な事もわかっていないのか……って。そうか、君は元来、サラリーマンだったな。よろしい、答えてあげよう」


 マルクスは姿勢を正し、虚無ニヒルじみた笑みをデグレチャフに向ける。デグレチャフはそのような類の笑顔を見たことがあった。それは大学の教授がよく見せる笑顔であった。世の真理を垣間見ようとして、其れが叶わない哀れな人種が見せる、どこか疲れた笑顔。マルクスの笑みはまさにそのようなものであった。


「――答えは出ない。もう一度言う。答えはでない」

 

 自信満々にマルクスは答える。さも、それを楽しんでいるかのように。さも、答えが出ないという事実そのものに喜びを見出しているように……。結果と答えを常に求めていたデグレチャフにとって、そのような考えは怠け者か、或いはマゾヒズム的な性的倒錯に罹った気違いが抱くものだと思っていた。


「すまないね。私は『学者』だから、こんなことは心身に染み付いているが、君のようなサラリーマンには荷が重かっただろう」


 (いや、変態には違いないか。簡単な事実を失念していた。『学者』は皆変態なのだ。しかし、変態になることに対して自由主義者の私は否定できないが、だからといって答えが出ないという結論を受け入れる訳にはいかない。今、私に求めれれているのは結論なのだ。単純明快で反論不可能な勝利。それこそが今必要なのだ)


「……なに?答えが出ないだと?」

「あぁ。社会科学とはそういうものだ。特に価値判断に関わる部分はな。しかし、そうは言っても一応法則はある。『弁証法』という法則だ。君という『定立』と私という『反定立』とが『綜合』、つまり答えを生み出す。あるのはそれだけだ。この過程は延々と繰り返される。ゆっくり、なれど着実に。真理にたどり着くには不毛な旅を歩まねばならない」

「では、不毛な旅をずっと続けろと?」

「……ターニャ・デグレチャフ君。一つ君に知ってほしいことがある」

「なんだ?」

「私は『理性』が『野蛮』を招くと言ったのは覚えているかね?」

「ああ、覚えている」

「しかし、私達の議論を通じて、つまり弁証法を通じて『野蛮』は回避される様に思われないかね?」

「……何が言いたい?」

「つまり、『理性』は重要な力を持つ。それは、『否定の力』だ。もっと分かりやすく言えば、『問う』という力だよ」

「『理性』は『理性』によって修正可能だと?」

「然り。もっと言えば、『理性』は『理性』によってしか『否定』されない。つまり、君の『理性』が私の『理性』によって『問う=否定=修正』された。ターニャ・デグレチャフ君。このようなことを聞いたことはないか?『確信した正義とは、悪である。正義が正義たり得る為には 常に自らの正義を疑い続けなければならない』。努々ゆめゆめ忘れることなかれ。君の『理性』で自分の『理性』を『問う』ということを……。さて、終幕だ」


 一瞬デグレチャフは呆気にとられる。


「終幕?」

「そうだ、終幕だ。もう私が伝えられることは伝えた。そういうわけで、そろそろ良いんじゃないか?神様よ」

「マルクス……?お前は何を言って……」

「全ては仕組まれたことだ。そこで、君にこれを授けよう」


 マルクスは手を振りかざす。すると、天空の遥か彼方から、奇妙な赤色の槍が飛んでくる。複雑に根本が交叉した二股の槍が地面に突き刺さる。デグレチャフはこの槍を見て、これが何なのかをすぐに察した。なぜなら、それは自分が住んでいた国で見ていたアニメで出てきた有名な槍であったからである。


「これは……まさか『ロンギヌスの槍』?」

「詳しいことは抜きにしよう。私は半分神でね。『共同幻想』を弄くれば、これぐらいは造作ない」


 デグレチャフは混乱する。一体何が起きているのか。デグレチャフは全く理解できなかった。


「マルクス!!お前は一体!!何を言っている!?」

「神を殺せ、ターニャ・デグレチャフ君」

「狂ったか、カール・マルクス!!??」

「いや、正気だ。世界はもうこれ以上の制度疲労に耐えきれない。内部崩壊が始まる。君ならば分かるはずだ。柔軟性を失い、硬直化した組織を再編成するためには何が必要かが。創造的破壊。これは、いわば新陳代謝なんだよ。世界という体系システムのね」

「待ってくれ、事情を……説明してく――」


 マルクスは狼狽するデグレチャフを無視して淡々と説明する。流れは止められない。廻る運命の車輪を止めることはもはや不可能だった。


「――ところで、神が信仰心から成る『共同幻想』だとすれば、次の神は何から成る『共同幻想』なのだろうか?」

「なにを――」

「――信仰心の次は何か。それは簡単だ。現代は近代の延長にある。とすれば、答えは一つ。新たに『神話』になったのは何だったかね?――」

「やめろ!!!それ以上言う――」

「そう、『理性』だ。『理性』が信仰心に代わって『共同幻想』、つまり神となる。とすれば、次の神は分かりきった話だ。私でないとすれば、それはもう決まったようなもんだろう」

「やめろ!!そんな非科学的な話は聞きたくない!!!」

「聞き給え、ターニャ・デグレチャフ君。効率性と理性の化物にして近代の権化!世界精神にして時代の趨勢!!運命にして悪魔長サタンよ!!!お前が、次の神となるのだ!!!!これは、最後の審判なのだ!!!!斯くて、世界は再生される!!!!」

「なぜ、なぜこの私なのだ!!!」

「これは運命なのだ!!!!もはや、理由などはどうでも良い。始まりなどはどうでも良い!!!お前はもう、後戻りできない地位になってしまったんだ!!!」


 終末のラッパが鳴り響く。夕日に照らされ、神々の軍勢が降臨する。神々の黄昏ラグナロク。世界の終焉と再生が、今まさに成されようとしていた。


「仔らよ」

 

 主の声が響く。それに合わせ、地上の大小様々な砲が火を噴く。T-34戦車隊と那由多の如き歩兵が天使の軍勢に突撃し、阿鼻叫喚の地獄が繰り広げられる。デグレチャフの鼻腔に懐かしい匂いが燻ぶる。硝煙と鉄、そして肉が焦げる匂い。

 戦争の匂いであった。砲煙が夕日を遮り、天使と中国兵の死体が積み重なって山となった。


「始まった。滅びと再生だ。デグレチャフ。お前が引導を渡せ。その槍を投げるだけで全てが終わり、全てが始まる」

「私に存在Xになれというのか」

「あぁ。そうだ。お前が存在Xにならねばならない」

「なぜ……なぜだ?」

「Xになるのは誰でも良いんだ。ただお前は世界の趨勢を表すのにあまりにも適任だったというだけの話。とうか恨むならば、運命を」

「運命……?運命だと??」

「そうだ。神ですら運命の囚われ子に過ぎない」

「私は断じて認めない。認めないぞ。運命?運命??そんなものに従う気はないぞ!!!」

 

 デグレチャフが激昂する。しかし、状況はどうしようもないほど決定されていた。場は既に整っていた。そして、デグレチャフはその場を壊すほどの力を持ち合わせていなかった。デグレチャフは壇上で最後まで踊らざるを得なかったのである。

 そこで、デグレチャフは復讐を誓う。神をも囚える運命に。


「仔よ。運命の囚われ仔よ。どうか、儂を殺してくれ」


 主は地上に降り立つと、夕日を背景に両手を広げてデグレチャフの前に立った。十字架に貼り付けられたイエス・キリストを彷彿とさせるその姿を見て、デグレチャフは盛大に舌打ちをする。


「なぜ、お前は運命に抗わなかった」

「仔よ。儂は万能ではない。儂は神ではあるが、だからといって何事も為しうるわけではない」

「軟弱者が。そうか、ならば世界のために、そして私が運命に復讐するために死ね」


 デグレチャフは槍を投げる。放たれた槍が主に刺さると、主は光となって消えていく。


「ターニャ・デグレチャフよ。それで良い。『問う』ことを知ったお前なら、世界を任せられる。嗚呼、我が仔らよ。愛しい我が仔らよ。どうか!どうか!!仔らの未来に光あれ!!!」


 主はそう言い残すと光となり、消えていった。マルクスとデグレチャフを閉じ込めていた空間は崩壊し、そこは光あふれる天上界となった。

 戦の匂いは消え去り、デグレチャフは一人になった。しかし、デグレチャフの後ろから拍手の音がする。デグレチャフが振り向くと、そこには毛むくじゃらの男が立っていた。いかにも偏屈に見えるこの人物は、さも旧友かのようにデグレチャフに馴れ馴れしく話しかける。


「おめでとう。神になった気分はどうかね?」

「最悪の気分だ」

「だろうな」

「私は私のできることをするだけだ。そう、今までのように」

「働き者の神の誕生か。社畜のように働かされる天使が可哀想だよ」

「お前も働いてもらうぞ」

「図書館の司書ならやらんこともない」

「いや、お前は私に諫言かんげんする役割を与える」

「なるほど。よろしい。そういうことなら、喜んで引き受ける」

「頼んだぞ、カール・マルクスよ」

「人間的なもので私に無縁のものはない。さぁ、運命の正体を衆目に晒すその時まで、君が滅びないように、君を批判し続けてやろう。君が神に為した役割を引き継いでやろう。制度疲労を防いでやろう。なに、あと数世紀はまだ天上界に居れるだろうしな。気兼ねはいらん」


 世界は終焉し、そして再生した。

 『理性』の果て。近代の延長に生きる我々は何を遺し、そしてどのように生きるのか。現代の『神話』であるはずの『理性』すら疑問符が付される今、我々は『大きな物語』を失った。繁栄と自由を楽観的に信じられる時代は終わったのである。


「では、議論を続けようではないか、ターニャ・デグレチャフ君。終わりのない議論を続けよう」 


 斯くて、答えの出ない、長くて辛い議論が始まる。議論のその先に何を見つけるのか。人類がどのような道をこれから歩むことになるのか、それはまだ分からない。

 現代が創られる。そう、私達の手によって―――さぁ、議論を続けよう。





☆☆☆☆☆☆☆

・コメンタリー

 以上で完結です。最後が尻切れトンボになってしまったのが心残りですが、まぁ、そこはご寛恕を。もっとデグ様と周りのギャップを際だたせるような構成にすればよかったと反省しています。でも、相手がマルクスなので、そこら辺はどうしようもなかったと思ったり……。周りが有能ばかりだと話が作りにくくて困った困った。


 話の内容は、ターニャ・デグレチャフは理性による共同幻想となり、信仰心による共同幻想たる神に反する存在、つまり悪魔長サタンとなり、神を打倒する、というものです。一方、理性によって半共同幻想となっているマルクスは、自身の理性によって、理性による共同幻想であるデグレチャフを反論し続けるという役割をこれから果たすことになります。因みに、マルクスが最後にロンギヌスの槍を召喚したのは、決してマルクスの独断と言うわけではなく、主とマルクスの策略によるものです。マルクスは、その半共同幻想という性格上、主とデグレチャフの間に立って、いわば審判としての役割を果たした、という設定になっています。

 

 結局、私がこの話で示したのは、『理性』は破滅的な未来を招きかねないという事実と、その未来は『理性』によってしか回避され得ないということです。

 『理性』は『理性』によってしか否定されない。なぜなら、我々は『理性』以外に『理性』に対抗できる手段を持ち得ていないからです。

 例えば、『理性』によって生じた環境破壊を解決するためには、「自然は大切だ」なんぞという感情的な訴えではなく、「自然を破壊すれば多様性が喪失し、ひいては我々人類種の滅亡を招く」という『理性』的な訴えでなければ意味がないでしょう。このことは現代が抱えるあらゆる問題にも当てはまります。格差、紛争、遺伝子技術による倫理的な問題は『理性』によってしか、有効な解決を為しえません。

 我々が認識しなければならないのは、『理性』の存在が問題なのではなく、我々は『理性』以外の普遍的で有効な判断基礎を持ち得ていないという問題なのです。そして、悲しいかな。数多の知識人の努力にも関わらず、我々人類は『理性』以外にそうした判断基礎を終ぞ見つけられませんでした。

 つまり、我々の現代的な任務とは、『理性』で『理性』を問うことなのです。つまり、感情的にならずに、理知的に議論を続ける。明確な答えが出ないとしても、議論を続ける。まぁ、私が伝えたいのはそんなところです。これを伝えたいが為に、マルクス当人ではなく、フランクフルト学派に逃げてしまったのをお許し頂きたい。ごめんね。

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幼女VS共産主義 理性の狡知 @1914

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