『資本主義的私的所有の終わりを告げる鐘が鳴る』


マルクス主義とレーニン主義の違いを滔滔とうとうと説かれた所で、結論は変わらない。共産主義は結局、実現不可能だという厳然たる事実は覆せない。

レーニン、スターリン、毛沢東、ポルポト。全てが共産主義の負の歴史だ。あいつらをマルクスが消したところで、私の優位は揺るがない。


確かに、自由主義的民主主義リベラル・デモクラシーと資本主義の組み合わせは、最悪の統治システムであるというのは認めよう。もっとも、これまでの全ての統治システムを除いての話ではあるが。


つまり、歴史は私の味方だ。


……そもそもだ。効率性故に資本主義が自壊する?


愚かな。そんな訳はない。ソヴィエトのように非効率が故に滅ぶことはあるだろう。しかし、効率的が故に滅ぶことが果たしてあり得ようか。

効率性こそが世をあるべき姿にする。

神の見えざる手がもたらす調和。パレート最適が世に齎され、斯くて世界は安寧と幸福、そして繁栄と自由を手に入れる。


資本主義こそが、そして市場こそが、天国へと至る道なのだ。神の国エルサレムが降りてくる。信仰によってではない。合理性によってのみ神の国は降りてくる。天国は神によって与えられるのではない。天国とは我々が掴みとるものなのだ。


それだというのに、マルクスは何を言い出すのだろうか?

無神論者であることは評価しよう。

しかし、それだけだ。マルクスは地上の楽園を作り上げようとする我々市場原理主義リバタリアンの崇高な物語を邪魔するというのか。


しかも、資本主義は自壊するなどという狂った理論で。


「さて、政治理論を一掃したところで、私の経済理論の話をするとしよう。まずは舞台を整える。こう仮定する。舞台上には次の二役が居るものとする。つまり、機械などの生産手段を有する『資本家』と機械などの生産手段を有しない『労働者』の二役だ。尚、両役は合理的に自らの行動選択を行うとする。以上の仮定に疑義はあるかね?」


ほう。腐っても、世界中の知識人を魅了した『資本論』の作者だ。流石に理論構成は緻密だ。抽象的な経済モデルを提示することで、この世に存在するありとあらゆる資本主義よりも純粋な資本主義を構築。しかる後に、その問題点を指摘する、というわけか。


しかも、仮定に何か問題がないか一々聞いてくるつもりなのだろう。


真に不本意ではあるが、この会話は私が常に求めてやまない理性と知性に満ちた文明人に相応しいものだ。相手がカール・マルクスでなければ、なんと素晴らしきことだろうか。


「ない。妥当な仮定だと考える」

「よろしい。では、幕を上げて舞台を動かそう。まず、『労働者』は自らの生存の為に、金が必要だ。しかし、『労働者』は生産手段を有しない。そこで、『労働者』は自らの『労働』を生産手段を有する『資本家』に売ろうとするだろう。一方、申し出を受けた資本家は商品を生産するためにその申し出を受諾するだろう。ここにおいて、『労働者』と『資本家』との間に『労働力』の売買契約、つまり雇用契約が結ばれることとなる。さて、以上の推論に疑義はあるかね?」

「ない。妥当な推論だと考える」

「では、次にすすもう。以上の推論において、曖昧な点がある。それは、雇用契約の内容についてだ。『労働者』は自らの生存の為に『資本家』に『労働力』を売ろうとする、と私は推論した。ここにおいて、果たして『労働者』は、いくらで自らの商品である『労働力』を『資本家』に売ろうとするだろうか。さて、以上の問題に正統性はあるかね?」

「ある。以上の問題は解決されるべき問題だ」

「よろしい。では、この問題に答えよう。仮定により、『労働者』は合理的な人間である。であるとすれば、『労働力』の対価は自らの生存に必要な額が最低限となるだろう。例えば、ある労働者が一日生存するのに10ドル必要だとすれば、一日の労働力の対価は10ドルが最低限のラインとなる。ここまでの推論に何か疑義は?」

「ない。妥当な推論だ。一日の生活費すら賄えない給料で働こうとする労働者は存在しない」

「よろしい、話を続ける。さて、次は『資本家』に焦点を当てる。『労働者』と『労働力』の売買契約を結ぶ時、『資本家』からすれば、できるだけ『労働力』の対価は『労働者』の生存にとって最低限のラインに近づけたいはずだ。以上の例だと、給料を10ドルに近づけようとするだろう。この推論に何か疑義は?」

「ない。人件費を削減しようとするのは、経営者の常識だ」

「よろしい。では、ここで以上の例に仮定を追加する。労働者が一日の労働で生み出す商品の価値は15ドルとする。この仮定に何か疑義は?」

「……今のところない。話を続けろ」

「……よろしい。以上の例において、『資本家』は『労働者』に日給12ドルを支払う雇用契約、つまり『労働力』の売買契約を結ぶことになる。以上の帰結に関して何か疑義は?」

「疑問がある。『労働者』が一日15ドルの価値をもつ商品を生み出すのならば、『労働者』に支払われるべきは日給15ドルではないか?正当な成果には正当な報酬が支払われるはずだ」

「もっともな疑問だ。しかし、その疑問は『資本家』のことを忘れているから起きるに過ぎない。『労働者』が一日15ドルの価値をもつ商品を生み出すとすれば、もちろん『資本家』がそれを売って手に入るのは一日15ドルだ。そこで労働者に一日15ドルを支払ってしまえば、『資本家』はすっからかんだ。つまり『』が存在しない。『資本家』は『利潤』なくして存在できない。なぜなら、『資本家』は、『利潤』を獲得し、その『利潤』を機械などの生産手段に投資しなくては、他の『資本家』に近い将来シェアを奪われ、倒産の憂き目に会うだろうからだ」

「納得した。話を続けてくれ」

「よろしい。以上の推論により、『労働力』の対価は、『労働者』が生み出した価値よりも低く抑えられる。ここにおいて、『労働者』が生み出した価値と『労働力』の対価との差額が、『資本家』の『利潤』となる。斯くて、労働者は本来ならば受け取っておかしくないその『利潤』を『搾取』されることとなる。収奪者の誕生の瞬間だ。以上の例だと、15-12で3ドルの『利潤』が『搾取』される。さて、以上の帰結に何か疑義は?」


なんということだ。これは、妥当な帰結だ。

サラリーマン時代の経験からして、この帰結は妥当だ。人件費は常に低く抑えたいというのが会社の本音。だから、できるだけ長く働かせて、できるだけ給料を低く抑えようとする。ブラック企業が巷に蔓延る日本の惨状を思えば、このマルクスの帰結は何ら間違ったことを言ってはいない。


しかし……。

それを『搾取』というべきなのかは疑問だ。そもそも、価値は商品に投下される労働量によって決定されるのか?


価値というのは、需要曲線と供給曲線の交点で決まるはずではなかったのだろうか?


大学時代に、もっと経済学史を熱心にやっておくべきだった。学者ではなく民間を志望していた私にとって、過去の学説を熱心に勉強するだけの誘因インセンティブは存在しなかった。合理的選択に基いて、一夜漬けの試験勉強で済ましてしまったのが悔やまれる。もっとも、人間の合理的推論を撹乱する存在Xの介入がなければ、経済学史なぞというのは必要なかったのだが。


「以上の説明は私の理論の根幹を成す『剰余価値』についてのものだ。覚えておけ、資本主義の犬め」

「マルクス。お前の論理には少しばかり気になるところがあるが、概ね正しいと認めてやろう」

「……概ねね。そうか。なら、よかった。さて、話を続ける」

「まだ、その先があるのか?」

「言っただろ?私は資本主義の崩壊を見せると。まだ資本主義は崩壊していないぞ?今の話は前提を話したにすぎない。つまり、『利潤』の源泉は『労働者』からピンハネしたものだということが明らかになっただけだ。さて、ここで舞台を更に進行させよう。『資本家』は効率化を図るため、高性能な機械生産手段を導入するだろう。以上の推論に何か疑義は?」

「ない。効率化は資本主義の重要な要素だ」

「よろしい。では、より高性能な機械を導入すれば、『労働力』は少なく済む。つまり、『資本家』は『労働者』を解雇して市場に放出するだろう。以上の推論に何か疑義は?」

「ない」

「よろしい。では、市場に『労働者』が溢れれば、『労働力』の対価はより切り詰められるだろう。例で言えば、12ドルの対価が11ドルに切り詰められる。労働者の暮らしは更に苦しくなる。以上の推論に疑義は?」

「ない。代わりにいくらでも労働者が居るならば、わざわざ高い給料を経営者は支払わないだろう」

「よろしい。では、ここにおいて、『利潤』の源泉であるところの『剰余価値』が、『労働者』の数自体が少なくなったことで、必然的に少なくなる。つまり、『資本家』の『利潤』は切り詰められる。この帰結に疑義は?」

「ある。なぜ、新しい機械を導入しておきながら『資本家』の『利潤』が少なくなるのか?」

「例えば、ある機械が、正常に動く期間中に、生み出すことが出来る全価値を1万ドルとする。すると、機械の価値は1万ドルと考えられる。ここで、『資本家』は1万ドルの価値を生み出す機械を1万ドルで購入することになる。つまり、機械はこの時点では『利潤』を生まない。『利潤』を生むことが出来るのはこの時点では『労働者』のみなのだ。しかし、既に推論したように、『労働者』の絶対数は機械の導入によって少なくなる。つまり、『資本家』の『利潤』は低下することとなる。もちろん、このことは『資本家』が『労働者』と機械を用いて生み出した総価値は以前よりも増えるものの、その総価値の内の『利潤』の割合は低下することを意味する。つまり、『利潤率』の低下が引き起こされる」


……話がわからなくなってきた。

なぜ、機械そのものの価値は機械が生み出す価値と等しいのだ?1万ドルの価値を生み出す機械は、普通は1万ドル以下の価値なのではないか?


「質問がある。なぜ、機械そのものの価値は機械が生み出す価値と等価だと考えられるのだ?」

「話は簡単だ。それだけの価値でなければ、機械を『資本家』は売らないと考えられるからだ。この機械は1万ドル価値を生み出す。であるならば、『資本家』は1万ドル以下の価値では売り払わないだろう。『資本家』の行為は正当だ。しかし、君の着眼点は間違っていない。話が進めば、君の指摘は正しくなる」

「……分かった。話を続けてくれ」

「うむ。では、話を続ける。『利潤率』が低下したところで、『資本家』は歩みを止めない。なぜなら、歩みを止めてしまえば、他の『資本家』との競争に敗北するからだ。こうして、競争の結果、ある『資本家』は倒産したり、他の『資本家』に吸収される。ところで、こうした『資本家』の動きの裏で『労働者』は機械に取って代わられ、工場から締め出される。賃金を得ることができない『労働者』の消費は限りなくゼロに近くなる。斯くて消費は減退する。減退する消費を奪い合うため、『資本家』の競争はますます激しくなる。以上の推論に何か疑義は?」

「ない」

「話を続ける。ここにおいて、君の指摘どおりのことが起きる。熾烈な競争の果てに機械の値段は吊り下げられることとなる。つまり、『資本家』は1万ドルの価値を生み出す機械をそれ以下の価格で売り払わざるをえなくなる。ここに新しい『利潤』が無理やり生まれる。加えて、なりふりかまってられない『資本家』は更に『労働力』の対価を切り詰めるだろう。ここにおいて、更に消費は減退する。以上の推論に何か疑義は?」

「……ない」

「よろしい。ここで、状況を整理しよう。『資本家』は低下しつつある『利潤率』を機械の導入と、『労働力』の対価を切り詰めることによって、ある程度は回復させる。しかし、無慈悲にも前進は続く。競争による更なる機械の導入で『利潤率』はもう一度低下する。ここで『資本家』は更なる機械の導入と『労働力』の対価の切り詰めで『利潤率』を回復させようとする。この運動は延々と繰り返される。しかし、この運動の裏で、仕事を失った『労働者』の消費は減退を続ける。競争はますます激しくなる……。つまり、『労働力』の対価の切り詰め、労働代替的な機械の導入、剰余価値をもたらす『労働者』の減少、消費の減退、よりキチガイじみた競争の勃発、危機の発生、一時的な回復。これが延々と繰り返される。しかも、発生する危機は繰り返しの中で大きくなる。以上の推論に何か疑義は?」

「……ない」

「よろしい。結論を言おう。ここにおいて、劇は終幕を迎える。機能不全に陥った資本主義は崩壊する。他ならぬ、自らの効率性によって。機能しなくなった資本主義は『労働者』によって打破される。なぜなら、窮乏に追い込まれた『労働者』は『資本家』によって教育・組織化されているからだ。基本的な技能の習熟と組織化の経験は、『労働者』を団結へと導く。『労働者』は失うものは何もない。そう、自らを縛る鎖以外は。斯くて、資本主義的私的所有の終わりを告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」


なん、だと………?莫迦な……。莫迦な。莫迦な。莫迦な。

資本主義が本当に終わりを迎えてしまったではないか!何故だ!そんなわけがないだろう!?効率性を至高の価値とする資本主義が何故破滅への道を突き進まねばならぬのだ!?このような不条理があり得るか!!!


「そんなに、驚くことかね?ターニャ・デグレチャフ君?そんなに、自分が信じていたものが突き崩されるのがショックなのかね?」


どこだ、どこに間違いが!?何処かに間違いがあるはずだ!!


「何処かに間違いがないか。きっとどこかが間違っているはず。感情的にならずに、私の理論を理論で反駁しようとする態度。まったく文明人らしい対応だ。その態度には敬意を表するよ、ターニャ・デグレチャフ君。諦めずに、私の理論を疑い続けているそんな君に一つヒントをやろう」

「余裕ぶりよって、この赤い悪魔め」

悪魔サタン……ねぇ。一体、私と君のどちらが悪魔に相応しいことやら。まぁ、よい。ヒントだ。ある命題から導き出される帰結が間違っている場合、三つの可能性が考えられる。一つは、推論が間違っている可能性。二つは、前提が間違っている可能性。三つは、推論も前提も間違っている可能性。ここでは、推論に関しては君は逐一同意してきた。つまり、推論に関して誤謬は考えにくい。とすれば、有力なのは前提が間違っている可能性だ」

「……つまりは」

「そう、私の理論の前提は『剰余価値説』、つまり価値は投下される労働の量によって決定されるという理論だ。ところで、君は恐らく無意識的に私の理論を論破する理論を知っている。そう、君が生きていた現代では、高校生でも知っている理論だよ」

「……価格の均衡点」

しかり。良く知っているじゃないか。その通りだ。君がよく知っているマクロ・ミクロ経済学の理論そのものが私に対する反論となる。つまり、商品の価値は、商品に投下された労働力によってのみでは決定されない、という反論だ。君が学んだブルジョア経済学では、商品の価値とは供給曲線と需要曲線の交点だとされる」

「それでは、『剰余価値説』はブルジョア経済学によって論破されると?」

「論破というほど論破ではないが、重要な指摘ではあるだろう。まぁ、私自身言いたいことはいっぱいある。ブルジョア経済学では、なぜ価格が均衡するのかは明確には答えられない。供給曲線と需要曲線の交点などというので説明された気になってもらっては困る。一方、私の理論なら、価値は投下された労働力という指標で決まると明確に説明できるのだがね。まぁ、兎にも角にもひとつ言えるのは、私の理論には相当大きな疑問符が付されている、ということだ」


何が狙いだ、このマルクス。

何故自分の理論の弱点をさらけ出す?私を論破するのではなかったのか?これでは、みすみす自分から論破されに来ているようなものではないか。何か別の狙いがあるのか?


「なぜ、自分で自分の弱点を曝け出すのだ?」

「フェアではないからだ。そもそも、私は学者で、君は一介のサラリーマン、いや、軍人というべきかな。まぁどちらも『労働者』には違いないがね。ともかく、差がありすぎる」


なんと……。なんとマトモな学者なのだ。自らの勝利をかなぐり捨て、真理に頭を垂れる態度。学者と呼ぶのに相応しい。しかし、私の知っているマルクスはもっと、傲岸不遜で、どうしようもないニートだったと思うのだが……。なにが、マルクスをここまで良識的な学者にしたのだ?


「お前の口からそのような良識的な言葉が出るとは思わなかったぞ」

「ふんっ。うっさいな。色々あるんだよ。賽の河原で最新の新聞、書籍、論文などを毎日毎日差し入れられてみろ。嫌でも、現実を見ることになるだろうさ。賽の河原にチャウシェスクの子供たちが流れてきたときなんかは地獄だったよ。私にとっての鬼の責め苦とは、私の追随者がしでかした破壊と暴虐の情報だった。今では糞ったれの神に感謝すらしているよ。本当に私は酷いことをしたよ、まったく」

「どういう意味だ?」

「そのままの意味だ。私の現役時代は酷いものだった。反対者はクソ味噌に反論した。それはもう、徹底的に。それだけに、私は多くのミスを犯した。現役時代、私は娘、息子の多くを殺してしまった。今思えば、私の不寛容さが、後の悲劇を用意したのかも知れん」

「……」

「私の理論は反復され、反省され、そして悪用された。私が資本主義制度の終わり後を書いていれば、もしかしたらあんなことにはならなかったのかもしれない。しかし、これは決して言い訳ではないのだが、私の理論には悪い面だけではなく、良い面もある。私が示した資本主義そのものに対する批判は今も引き継がれている。トマ・ピケティの『二一世紀の資本Capital in the Twenty-First Century』。彼は私の『資本論Das Kapital』を読んではいないらしいが、書名からして私のことを意識しているのは確かだ。彼は私と同じ様に資本主義そのものに対して分析を加えた。r資本収益率 > g経済成長率。金持ちはさらに金持ちになって格差は拡大する。私以降、資本主義に対して大きな疑問符が付されている。資本主義に対する科学的批判の先駆者。その功績ぐらいは認めてもらわねば不公平というものだよ」


マルクスとの討論を通じて、一つわかったことがある。

こいつはどうしようもないほど不器用で、そして真理の為なら非効率なことを平気でしでかすような人間だ。私の会社にいれば、真っ先に肩を叩かれるような人間だ。上司の顔色を伺い、常に求められる以上の成果を叩き出す。マルクスは、そんな典型的なサラリーマンである私とは正反対の人間なのだ。


しかし、だからこそこいつは『学者』として信頼に足る。

資本主義に対する科学的批判の先駆者。マルクスにその称号を与えるのは、決して間違いではないだろう。


「……今のお前であれば、その功績を認めるのは吝かではない」

「よろしい、資本主義に対する疑義の眼は認めてくれるということだな?」

「あぁ、認めよう。尤も、資本主義はこれからも続いていくだろうが」

「よろしい、では話を進めよう」

「えっ」

「え?こんな、イイハナシダナー、で話を締めようと思っていたのか?」

「これ以上に何か議論すべきことが?」

「もちろんある。資本主義の解明のためには、資本の動きを見るだけではなく、資本主義が人間に及ぼす影響を見なくてはならない。もっと言えば、資本主義の本質である合理性と理性が人間に何を齎すのかを考えなくてはならない。さて、近代が人間に何を与えたのか。それを見ていこうではないか」



☆☆☆☆☆☆☆

・コメンタリー

 本当は、マルクスは『剰余価値説』に入る前に、『価値』に対して延々と難しい分析をしています。本編ではそこをバッサリ無視してしまって、しかも重要な貨幣論も省略しています。まぁ、剰余価値説が資本主義の崩壊を導くところを理解していればどうにかなりそうな空気はある気がする。


 さて、皆どうだったかな?案外、マルクスはマトモなことを言っているなぁと思ってもらえただろうか?

 マルクスの最大の功績は資本主義そのものに対して、重要な示唆を行ったことにある。実は、マルクスより前の経済学は資本主義そのものを問うようなことはせずに、寧ろそれをそういうもんだとして成り立っていた。自分の立っている土台に対して無頓着だったんですな。それが、マルクスの登場からそうも言えなくなった。否が応でも資本主義を見つめる視点が提供されてしまった。そういうわけで、資本主義を我々が今考えることが出来るのはマルクスのお陰だったりする。

 やったね、マルクス!!皆の誤解がだんだん溶けていっている気がするよ!!


Tips:

自由主義的民主主義リベラル・デモクラシーと資本主義の組み合わせは、最悪の統治システムであるというのは認めよう。もっとも、これまでの全ての統治システムを除いての話ではあるが』……元ネタは「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」というウィンストン・チャーチルの言葉です。チャーチルらしい皮肉めいた言葉ですねぇ。

 因みに、私は、チャーチルがある絵を批判したときに、「絵描きではない貴方がそのようなことを言う資格はあるんですか?」と記者に言われたときの言葉が好きです。彼いわく、「私は卵を生むことはできないが、卵が腐っていることは分かる」。


『資本論』……誇張抜きで、人類の歴史で聖書の次ぐらいに重要な本。二〇世紀、ひいては現代の行方を運命づけた本でもある。今でこそ、マルクスのことを勉強している人間は減ったが、昔は知識人と目される人々は彼の理論を少なくとも齧ってはいた。ソヴィエトの崩壊でマルクス経済学の権威は地に落ちたが、それでもまだ頑張っている人はいる。数理マルクス経済学をしている方々には、近代経済学をギャフンと言わせるぐらい頑張って欲しい。応援はしているぞ!!

 内容は非常に難解。ビックリするぐらい難解。これを一読して内容が理解できるのであれば、この世の書物は大体理解できるだろう。社会科学系の本の中では最上級の難解さであるのは間違いない。資本主義そのものに対する偏執的とさえ言える分析によって歴史に残る書物となった。よくマルクス主義は『科学』ではないと言われるが、『資本論』に限って言えばそんなことはない。これが『科学』ではないのならば経済学とか科学じゃなくなってしまう。まぁ、あまりにも哲学的で科学的ではない箇所もあるけれど……。でも、そこが案外社会を見る上では重要だったりする。

 ところで、マルクスの『剰余価値説』は今ではすごい批判されるが、彼の理論の基礎の基礎である『労働価値説』は当時的には、寧ろ一般的だった。経済学の父のアダム・スミスも労働価値説を採用していたし、その後継者達も『労働価値説』が正しいと思っていた。そういう意味では、意外かも知れないが、マルクスは正当な経済学の流れを汲んでいた。といっても、少し後になって時代は価値に対して新しい理論を生み出した。「経済学者は冷静な頭脳と温かい心を持たねばならない」との言葉で有名なアルフレッド・マーシャルが、需要と供給によって価値が決定されると主張したのだ。まぁ、言われた見ればたしかにそうだよね、という理論をマーシャルは定式化することになり、彼の教え子であるケインズとかにその理論は引き継いでいくことになる。マーシャル達の流派が、より現実の世界の説明に適しているということが薄々分かり始め、『労働価値説』ではなく『需要と供給』が正当な経済学としての地位を確保するようになった。

 因みに、現代経済学では傍流の傍流に追いやられているとはいえ、マルクスの理論は重要な真実を予言したり、示唆してみせたりした。一つは景気の循環というものの発見であり、二つは「労働者」の爆発的増大だ。マルクス以前の経済学はなぜ景気が循環、つまり好況と不況が訪れるのか明確な答えを出せずに居た。一応、マルクスは景気の循環が資本主義の内部に潜む現象であることを示唆した。また、実はマルクスが『資本論』を著した時は、賃金労働者というのはまだ少数であったし、大企業というのも例外的存在だった。それがマルクスの理論は賃金労働者が社会の多数を占め、大企業が世界を席巻することを予言してみせた。これらの事実は現代に生きる我々にとってすれば当たり前かもしれないが、マルクスは未だ訪れざる現象を言い当てたということになる。あと、実は現代において、AIとかロボット技術の登場が資本主義の終焉を齎しかねないと主張されている。というのも、賃金を得られる労働者が少なくなるからだ。マルクスが言うような、消費の減退が招かれるというわけだ。そこでベーシック・インカムを導入して消費の減退を回避すべきではないかと真剣に議論されている。本編で言うと、『剰余価値説』は間違っているが、後半の部分は事実の一端を示唆したことになる。現代になってマルクスの示唆が現実味を帯びてくるという摩訶不思議なことが起こり始めている。現代事情は複雑怪奇なり。

 そういう訳で、決してマルクスは頭のおかしいことを言っていたわけではない。寧ろ彼は世界でも最高峰の学識を備えた正真正銘の学者であった。ありとあらゆる書物を読み漁り、十年かけて『資本論』を書き上げた。古今東西の思想を吸収し、資本主義に対して執拗に分析を加えた。マルクスは資本主義に対する分析の先駆者であり、『資本論』は資本主義と格闘した重要な古典であることは間違いない。資本主義というものを考えるにあたって、彼の思想に踏み入らないという選択肢はおそらく存在しないだろう。

 とかいって、まだ私も『資本論』を読めてないのは秘密である。だから、以上で間違いがあったら自分で見つけてね!!


『チャウシェスクの子供たち』……『チャウシェスクの落とし子』とも。漫画のブラック・ラグーンで出てくるヘンゼルとグレーテルの元ネタ。産めよ増やせよ、というルーマニアの独裁者チャウシェスクの政策が産んだストリート・チルドレンを指す。一万人以上のストリート・チルドレンが首都の地下で過ごしていると言われている。もうそろそろ大人になっている頃だが、彼らの多くがHIVや結核を患っているらしい。ルーマニアの闇である。今でも爪痕が残っているようだ。

 因みに、チャウシェスクは公開処刑された。一九九〇年近くになって公開処刑とか野蛮すぎィ!とか思わなくもないが、これは、チャウシェスクが育てた敏腕子供スナイパーの戦闘行為を辞めさせるためだったという。子供兵士とか、ちょっと洒落になりませんよ……。


『マルクスの不寛容』……マルクスは自分の敵対者に対してクソ味噌に反論するのが最早趣味というか性分であった。年中無休ダンガンロンパである。因みに、マルクスの協力要請に対するプルードンの返事が非常に示唆的なので、長いけど引用する。

「もし貴兄が望むなら、社会の法則を、そしてこれらの法則が生じるゆえんとそれらを首尾よく見出すための手続きとを、一緒に探ってみましょう。けれども、ア・プリオリ[先天的]なドグマを全て粉砕した後には、後生ですから、今度は自分たちが人々に別な教義を叩き込んでしまうことは、夢にも見ないでおきましょう。……あらゆる意見を明るみに引きずり出そうという貴兄の考えには、私は心から拍手を送ります。立派で生真面目な論争をしましょう。博識と卓見を備えた寛容さを世に例示してやりましょう。けれども、とにかく我々は運動の先頭に立っているのだから、我々自身が新たな不寛容を生み出さぬよう、心がけましょう。また、たとえ論理の宗教、理性の宗教であっても、我々が新興宗教の使徒を気取るのはやめましょう。ともに集い、あらゆる異議を奨励しましょう。あらゆる排他性とすべての神秘主義を駆逐しましょう。疑問が尽きたとは思わぬようにしましょう。議論がひとしきり出回った場合にも、もし必要なら、やり直しましょう――雄弁と皮肉――を含めて。これらの条件をお認めいただけるなら、喜んで貴会に加えていただきましょう。けれども認めてくださらなければ、答えはノーです」

 至って理性的で良識的なこの返答に、マルクスは辛辣な返答をする。プルードンは『貧困の哲学』を著していたが、マルクスはなんと『哲学の貧困』という本でプルードンに応酬した。非寛容性ここに極まれり。共産主義国家を見て、マルクスの非寛容性が受け継がれていると考えるのはあながち間違った見方ではないだろう。


『二一世紀の資本』……一時期話題になったトマ・ピケティの本。マルクスが抽象的な理論を積み上げて結論を導き出したのとは対照的に、彼の本は歴史的な事実を積み上げて結論を導き出した。なので、一般人でも頑張れば読める。頑張ればだけど。

 ところで、重要なのは決してトマ・ピケティは資本主義が駄目だとは言っていないことだ。マルクスは資本主義とか無理無理と言ってたけど、トマ・ピケティはそんなことはない。今の資本主義は中間層を没落させて貧富の格差を拡大させるという欠点があるから、全世界で富裕層に対する課税をしましょうや、と彼は主張している。マルクスから見たら、そんなん絵空事ですがなって嘲笑するに違いない。というか、そんなことしようとすれば、課税権を国家よりも上位の存在に移譲しなければならなくなるので、国家主権が滅んでしまうことになる。いや、それマルクスが夢見た共産主義社会やんけ。ちょっと、荒唐無稽過ぎますよぉ~

 そんなこと言いつつ、結構重要な本だと個人的に思う。マルクス主義ですら抽象的な推論とかいう頼りない武器で資本主義の喉元に短刀を突き刺せれたのに、トマ・ピケティに至っては武器そのものが事実だから資本主義は逃げようがない。あり得るとしたら事実、つまり資料が間違っているという可能性だが、それは今のところ見つかっていないようだ。

 これは、国家主権さんヤバイですよ!!どうするんですか!?主権捨てます?それか、(望み薄だけど)外交でなんとか解決しますか??

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