『奇奇怪怪』




バケツをひっくり返したような豪雨。




真っ暗な空の中で、青光りしている稲妻が幾度も形を変えながら動き回っている。




橋の下からは怒り狂った川の轟音が鳴り響き、




嵐に巣くう雷神は、大雷という名の爆撃を落とした。





「......ごめんね......ごめんね......」





ーー少女は謝っていた。




......なぜ......なぜ......。






✳︎

✳︎





「ーーやあ。みんなが大嫌いな長ったらしい説明の時間が来たよ……僕の名前は平沢幸一、十八歳。趣味は小説を読むことだから、君とは気が合いそうだね、たぶん。服装は黒シャツに腕まくりをしてジーパンだよ、しかも髪型はコンサバ系で、長さは結構短いと思うよ。よくサラリーマンと間違えられるから印象は薄いと思う、目の下にクマできてるし。でも運動神経は良いほうだと思うよ、たぶん。友達は僕のことを幸ちゃんって呼ぶんだ、よろしくね」




「ーー学校が休みになってから少したった夏休みのある日。勉強に集中するため、と言う言い逃れの口実を作り、母さんと二人でばあちゃんの家に車で泊まりに行くことになった、現在進行形だよ。ばあちゃんの家は僕の家からだいぶ離れたところにある。とにかく田舎で木や川がたくさんあるから、首都のより空気が確かにおいしい。そしてその村のどこかに、村の物じゃないお地蔵様やお墓がたくさんあるんだってさ、村の人は誰一人その場所に行ったことがないらしい、なんとも胡散臭い話だね」




ーーいつか探し当ててやるか。

そう思い、幸一は悪童のような顔を浮かべた。




「母さん、今日の晩ご飯は何だと思いますか?」



「んー、カレーかしら」



「あぁ、カレーですか……ーーばあちゃんの家に行くと晩ご飯はカレーと決まっている。どうしてかと言うと幼い頃、僕がカレー大好き人間だったから、変わらずカレー何だと思う。確かに好きだけど……今はカレーより握り寿司が食いたい」



山越え谷超え、道なき道を車で走って約七時間。ようやく集落の一部がわずかに顔をのぞかせた。



外はすでに暗くなっており、しかし見事な満月で、月明かりが煌々と輝いている。



幸一は固まった首をほぐしながら、ふと後部座席に取り付けてあるテレビに目をやった。



『速報です。今日未明、バスで新潟県の山間へピクニックに出かけた教員二名、児童ら三歳から五歳を含む八人が行方不明となっており、このことに対して新潟県警は総員五十名で捜索にあたり、また保護者の対応につきましてはーー』



「幸一、あんたもそそっかしいから気をつけなさい」



「……行方不明のことですか?」



「はい」



錆びついた赤い橋を渡り、まるで蛇のようにグネグネに曲がった道を右へ左へと進んだ。次に、ツタに覆われたトンネルに入った。



幸一は高速で過ぎ去っていくオレンジ色の照明を見て、ふと中学時代の修学旅行を思い出した。




「ーーそういや。初恋って、いつだっけ」



トンネルを抜ければ集落は目前で、月光の光を反射して、ひかめく川の景色が綺麗な道の斜面を登り、ついに到着した。



「ついたわよー。おばあちゃんに挨拶してきなさい」



「はい。」



祖母の家はとても古く、また今にも倒れそうな伝統的で趣ある古民家で、家の中は清々しいヒノキの香りが充満していた。



故に幸一が学生としての疲れをリラクゼーションするには打ってつけの場であった。



「お邪魔します。」



「よう来たね、幸一の大好きなカレー作って待っとったよ」



「……ありがとう、おばあちゃーん」



幸一は荷物を降ろして茶の間へと入る。そこにはすでにカレーが用意してあったので。



たらふく食い、熱い風呂に入り、寝巻に着替え、ほてりきった体を冷まそうと扇風機を二つ左右対称に置き、



さらに飼い猫を膝の上に乗せながら、スイカを食べる。その容姿はまさに定年を迎えた翁そのもので、言わずもがな人生を謳歌していると言えよう。



「あら……幸一。ここにいたの、そろそろ寝なさいよ」



「いやです」



母は幸一を温かい目で見つめ、



「そんなワガママ言っていると、そのうちだんごどんが、幸一をさらいに来るわ」



「それは、肝が冷えます……ところで〝だんごどん〟ってなに?」



ふと母親の口から出たその不可思議な言葉が気になり、幸一は幾度も問い詰めた、しかし「寝なさい」の一点張り。挙句の果てに猫も取り上げられたので、腹いせに庭の灯篭に向け、スイカの種を五~六発お見舞いした。



ーー第二次反抗期。



そう思った母は息子の成長していく姿を、どこか儚げな表情で見つめた。しかし、



その光景を影からひっそりと見つめている者がいた、



ーー廊下の奥から只ならぬ気配がする。

そう感じた母は、ハッと身構えながらたじろぎをした。



「だんごどーん、だんごどーん、どっこいっくのー。」



突如として、暗い廊下から祖母が顔を覗かせた。重く、還暦ある声を絞り出しながら。



「うわっ。たまげた、おばあちゃんか……」



「だんごどんはね、わーるい子を見つけると、腰に巻いてある太~い荒縄を体に縛り付けて、だんごどんの家に連れ去り、食べてしまうのさ!」



「縄を?? 僕は皮と骨しかないですから、食べても腹の足しにはならないと思いますけど」



「連れ去ることに意味があるのさ。食べるのはおまけみたいなもんさね」



祖母の話が長くなることを察した幸一は、含み笑いを残し、寝床へと向かった。



翌朝。勉強しているのも暇なので、また適当な口実を作り。例の場所を探し当ててやろうと外に出ることにした。



リュックに詰められるだけの様々なアイテムを詰め、玄関を出る。と同時に、



「暗くなる前に帰ってくるのよー、動物に襲われないようにねー」



「ーーやかましいわ」



鋭い母の声に対して、幸一は小さくコクリとだけ頷き、その場を後にした。



家を出て右に進めば、そこからはもうコンクリートではなく。大自然そのもので、



坂を下り。青々とした木のトンネルで覆われた道を進む、爛々と輝く日の光を木々たちが遮り、取りこぼした日の光が、暗い空間に大小様々な木漏れ日を落としている。



「ーー木で出来た土管だ」



そしてどこからか聴こえてくる、トポトポという小川のせせらぎと鳥の声とが合わさり、幸一はまるで自分がおとぎ話の世界にいるような、不思議な感覚に襲われた。



そのとき。空想にふけっている人間を不思議な目で見つめながら、一羽の小さな小鳥が大らかに先を越していくではないか。



幸一は無性に腹が立ち、小鳥を追い越そうと一歩。足を前に出した、



すると小鳥は立ち止まり、低く。極めて小さな『アァ』と言うため息を漏らすと、幸一を見つめて……首をかしげた。



「ーー鳥畜生の分際で、それは挑発のつもりかい? よしきた。ちょっとだけからかってやろう。へへっ」



足の速さに自信があった幸一は、多少の情けをかけるつもりで軽く走った。しかし、



鳥、早い。瞬く間に差を開いて走り去って行くその姿はまるでつむじ風のよう。



小さな身体をより細くして、空気抵抗を極限まで減らしさらに加速してゆく、



もし奴が世界陸上に出場する権利を得ることが出来たのであれば、短距離走部門を総なめにしていたことであろう。



幸一は追う気力を失い、共に走ったひと夏の思い出として、走り去っていく奴の姿をスメートフォンで連写した。



上手く撮れているか、立ち止まり確認する。



「ーーあっ、かわい。」



満足そうな笑みを浮かべ。足取り軽く裏山に向けて、再び歩き出した。




✳︎

✳︎




それからと言うもの、どれくらいの距離を歩いたのだろうか、未だ出口は見えず。



日の光が、暗い空間に大小様々な木漏れ日を落とし続けている。



普段ならば十分足らずで通過できる道のはずなのだが、どうも様子がおかしい。



視野に入ってくる景色は、ついさっき見たことがあるものばかりで、



「ーーあれ。この枝ついさっきも……ん?」



気付けば、幸一の目前には先ほど会った小鳥がまたも大らかに。道の真ん中を我が物顔で闊歩しているではないか、しかし一つだけ変化があった。それは、




「ッッ!!! ……増えてるッッ!!!」




小鳥が二羽になっていた、上半身の揺れは一切なく、足だけを動かし。歩いている。幸一はその姿にそこはかとなく恐怖を感じた。



ーーここは……。

と考え、どこぞの山の神に神隠しをされているのだろうかと不安に駆られ。尋常ではない孤絶感を覚えた幸一は、その場から全速力で、一心不乱に走り出した。



しかし走っては小鳥が増えていく一方で、一向に出口が見えない。



「ーーあぁ。もうダメだ、これ」



一生この空間から出ることが出来ずに、飢えで死んでゆくのか、そのような思いを巡らせながら走り続けた。しかし、



ついには息が切れ、ゼェゼェと大の字になって寝そべった。



心身ともに疲れ果てた幸一の周りに、もはや増えすぎて数えるのも面倒な小鳥たちが、続々と集まって来ている。



「ーーそういえば、今日の占い。最下位だったっけ……たしかーー」



「夢と現実の違いから気持ちが空回り、自分を見つめ直す時間を作り突破口……突破する道がないわっ」



声に驚き、右往左往している小鳥の中から一羽。



頭の上に乗って来たかと思えば、鼻をかじってくるではないか。



「あ~、あぁ~……へへっ。幸一は食べても美味しくないよ~」



ーーもしや、腹でも空いているのか。



そう察して、リュックから一口サイズのサンドイッチを一つ取り出した。瞬間、



右往左往していた多数の眼差しは、サンドイッチのみに向けられた。



「!?」



驚き、その場から立ち上がって左側の木の根元にそっと移動した。



しかし小鳥たちの目は真っ直ぐに、滑らかに首だけを動かしながら。後ずさりしている幸一を見つめている。



「あっ、あげる」



そう言いながら姿勢を低くして、サンドイッチをポイッと投げた。しかし、



動かず。サンドイッチそっちのけで、まじまじと幸一を見つめている。



その姿はまるでハリボテか、またブリキ缶のようにも思えた。



「こっここれは、どう動いたら正解なんだ……」



どうしてよいのか分からず、その場で尻込みをしている人間に対して、



小鳥たちが一斉に。何かぼそぼそ、ひそひそと口を動かし始めた。



人の声のような、何か擦れた音のような。しかし上手く聞き取ることが出来ず、



ーー……これは鳴き声ではない。

そう推測した、もう一度耳を傾け、気を凝らしてよくよく聞いた。



「…………」



「…………」






「ーー……ッ!!?」



人の声。しかし、驚いたのはそこではなくて、祝詞のような。また経のような何かを唱えていることに愕然とした。そのとき、



「……ぬぁ!!?」

幸一は後ろに注意しておらず、されど誰が彼を責めるのであろうか。そこには、丁度大人二人分の池があったのだ。



そしてこの池思った以上に深く、微かに温かい。幸一は水中で身体を起こそうと必死になったが、不思議と力が入らず。



もがくことが出来ない。小鳥たちの声は水を伝い、大音量となって水中全体に鳴り響いている。



祝詞のような経を唱える小鳥たちの口調はより、一層と早口になっていた。そのせいか、水が重く感じ。ついには目も口も閉じられなくなってしまった。



「ーー水がッ。圧迫してくるッ」



だんだんと水の底に引きずり込まれていく。もはや這い出ることは不可能、ダメかと思った矢先。



途端に声が聞こえなくなり、体の自由がきくようになった、ーー瞬間、






『風さわぎ。宵の野原に佇むものや、梵鐘鳴らし、命を没す、我ら祈りの菩薩となりて、七つの御霊を鎮めよう。アメノウズメの名を借りて、ヤオヨロズの神々にいま一度。こうべを垂らし、その気を静め。御身を払いたまえ。清め給え……畏み畏み申す。ーー……奴を殺せ!!!』




✳︎

✳︎




「!!!」



ーー何が起きた。



一瞬、一瞬で周りの情景が変わった。意識が飛んでいたようにも思えたが、そして気付けば、小舟に乗っているではないか。



幸一は乱れた息を整えながら、辺りを見回した。



「今度は、大きな池か」



異様に長く広く、水路は緩やかに蛇行し続いている。



所々に藻や水草が生えていて、蓮の花までもが咲いていた。



水面は濃い霧で覆われており、その霧に濡れた枝の葉が露(つゆ)を持ち、ポツポツと池に雨を降らしている。



して。小舟はまるで意思を持っているかのように、ゆっくりと進み始めた。



「わけわからん……」



不安な表情と、重いため息とを重ね。降りる訳にもいかないので、



「ちょっと……少し休もう……」



そう言ってリュックを枕代わりに使おうと、自分の肩に手を当てた。



ーー濡れてない。

そんなバカな、と手のひらを体の至る所に当て、本当に濡れていないのかを確認した。



そう思い、頭の中で何度も「濡れていない?」と言うと、パンッと顔を叩き。水面に映る自分の顔を見つめた。そこには、




「は、は、は、顔ーー映ってないじゃん……」




顔が無い。ではなくした顔はいったいどこに行ってしまったのか。一つずつ触って確認をしてみる。




「ーー目、よし。ーー鼻、よし。ーー口、よし。顔ーーあるじゃん……」



はぁとため息をつき、小舟の横に肘をのせた。



幸一がなんとなく、水面に浮かぶ落ち葉を眺めていると、緑色に濁りきった水の中でなにやら一本の黒い影を見つけた。



それを見た幸一は最初「やたら太い根っこだな」と思っただけで、さして気には止めていなかったが、不思議なことに。その根っこは小舟にゆっくりとついてくるのである。



サメやらワニやらの水中生物が弱点の幸一にとって、水の中で動くものなどまさしく言語道断である。



「ーー……ウ、ウゴイテルっ」



心の中で。見てはいけないという気持ちと。しかし恐怖心を勝り。好奇心がふつふつと煮えたぎっていた、例えるならば。



沸騰した湯が土鍋の中で熱の逃げ場である穴を塞がれている。どうしようもないとはこの様なことを言うのだ。



「…………」



「…………」






「……チラッ」




ーー毛だ。

よく見れば、それは一目瞭然であったが。幸一は「ーー見間違い、見間違いだ。毛が動くはずがない……」と思いつつも、



「…………」



「…………」






「……ちらっ」




毛である。大蛇のような長い胴に、頭はなく、女の髪を彷彿させるそれはまさに妖の類。



ーー見てしまった。

そう思い、自分の心の弱さに落胆した。と同時に、小舟がギシギシと音を立てて揺れ始めたではないか。



何事かと動揺しつつも、揺れる小舟に振り落とされないよう、必死になってしがみついた。



ーー毛が起こした波だ。

と、直感した幸一は静かに。しっかりと船体をわし掴み、間違っても落ちてしまわないようにと、再度心掛けた。



そのまま、じっと身を潜めていると。やがて波は静まり。辺りは再び静寂に包まれ、



「…………」




「…………」






「…………」




ーー?



いなくなったのか、そう思い。危険だが立ち上がって確認をしてみる。



「…………」



「…………」






「ーー……ぅわ」




小舟の遥か後方、不自然に盛り上がった波がゆっくりと近づいてきている、



ーー終わった。

そう感じた幸一は、ただ。冷や汗をかくことしかできず、もし小舟が転覆させられたら……と思考を膨らませていた。



「…………」



目をつむり。そのときを待ったが、なかなか転覆しない。少しだけ目を開き、周辺を見渡す。



ーーあそこだ。

幸一は身を乗り出しながら、よくよくと見つめた。



ーー毛は水の中で数多もの赤い舌を出しながら、とぐろを巻いて、のたうち回っている。



「なんであいつは……」



そう言いかけて。なにかの影が幸一の視界に飛び込んできた。ハッとなり上を見上げ、



「ーー……鳥居??」



図太い鎖が千切れ千切れになっており、古い物なのか、漆が所々剥がれ落ちていた。



「あの毛はこの鳥居にひるんでいるのか」



「なぁ~んで……とりぃいがぁと……けにまにて……」



そのとき、突如として強烈な睡魔に襲われた幸一は、またも意識を失い。倒れた。




✳︎

✳︎




それからしばらくたち、どこからか聴こえてる鳥の声に起こされた。



『キィキキキキ』



「……うぅーん。頭は痛いってうわぁ……鳥だぁ」



『キィ! キキキキキキ』



どこからともなく、鳥が鳴く。



「ーー鳥はもういやっ」



『キキキキキ!!』



鳥は返事でもするかのように、甲高く鳴いた。



「……そう言えば、今年は酉年だったっけ。ーーツイてないな、末吉だったし。」



そうこうしているうちに、急になんだか肌寒くなり、跳ね起きる。



「ぃ~、寒っむぃ。」



そのとき、小舟が何かにぶつかり大きく揺れた。



「おろろ!!?」



何にぶつかったのか確認するために、後ろを振り向く。



「ーー......陸だ」



しかし、辺りをぐるりと見回せば、池の上に垂れ下がっている葉は程よく色づき。赤、黄、赤、赤。小舟周りの景色は、夏の景観とはかけ離れたものになっていた。



「……今の季節って、たしか夏じゃなかったっけ。」



と、若干。苦笑いまじりに、首元に手を当てながら言った。



考えている間もなく、今度は小舟が池に沈み始めたではないか。



けれども幸一は動揺することなく。軽くジャンプをして沈没するボートから脱出した。



「人間なれるもんだ……たぶん」



ボコボコと音をたてなが沈んでいく小舟は、最後には水面に渦を巻き、浮いていた紅葉の葉とともに沈んでしまった。



なにげなく水の中を覗いて見ると、まるで鏡のように透明でよく澄んだ水、けれども水底は青く、水面は青い空を写した。



「……あっこれいいな、写真撮ろう」



と、幸一はリュックからスメートフォンを取り出して、電源をつけた。



「電波は……まあ……ないよね」



そう言うと幸一は、わざと大きくため息をつき。このように、ぐったりと肩を落としたのであった。と同時に、



「これからどこに行けって言うのさ、こんなクマでも出そうな山の中に勝手にほっぽりだしてそのうえ、飢え死にしろと? はぁ? 絶対に無理。でも……でも冥土の土産として写真でも撮って行こうかな」



と、涙まじりに呟き。青い水底をカシャっと撮ると、あらたな風景を求めて歩きだした。



「ーー帰り方わかんないし、寒いし、眠いし、だるいし、最後くらい正直者でいよう。これからは生まれ変わったつもりで自分のこと俺って呼ぼう、僕って柄じゃないし……」



と愚痴りまくっている幸一を、一匹の鹿が丘の上から、じろりと見つめていた。



悠々と丘の、岩石の上から見つめる鹿の気配に気づき、幸一もじろりと見つめ返した。



「鹿ぁ、そんな目で見つめてもせんべいはやらんぞっ……ん?」



ーーあれは鹿なのか?



そう感じ、舐め回すように鹿を見る。



「…………」




「…………」






「……鹿だ」




しかし、感じていた違和感がすぐにわかった。それは、



ーー異様な筋肉。



そのあまりに美しく、またその異様さに。しかし、どこか品を感じさせる佇まいに、幸一が関心していた。そのとき、



一種の破裂音のような音が響き渡った。そのタンッという銃声にも聴こえたそれは、



鹿が一発。岩石を踏みつけたときに出た音だった。



「……あ、やば。せんべいーーじゃなくてプロテインのほうがよかったのかな……」



岩石は砕けてはいないが、辺りには飛び散っていった小石や火花から予測するに、どうも強烈な一発だったようだ。



「…………」



『…………』



「…………」



『…………』



ーー……沈黙。




幸一の体は完全に怖じ気づき、その場から全力で逃げ出した。



ーーここはおかしい。

と、何度も頭の中で繰り返し自分に言い聞かせた。



そこらかしこにある、素晴らしい渓流や滝には目もくれず走る、走る。



そんな最中、大人四人分ほどの洞窟が視界に入った。とっさに洞窟の中に飛び込んだ。が、



「はぁ……はぁ……はぁ……」



幸一は倒れこみ、上を見る。



「……はぁ」



「ーーッ!!!」



そこには、巨大な女の顔が貼り付いていた。髪をだらんと下に垂らし、どこか恨めしそうなその表情には。べっとりとした、赤黒い水を滴らせている。



幸一が発した、女のような「ぎゃあ」と言う声は、岩に跳ね返り。互いに作用し合い、相乗効果を生み出し、金切り声と言えるほどの進化を遂げた。



勢いよく洞窟から飛び出し、顔を真っ青にさせながら、石塊をぴょんと軽々飛び越えて、再度駆け出した。



やたら奇妙に曲がった木、謎の爪痕、滝に打たれる大ガマガエル。どこを見てもそんなものばかり。



ーーどこに逃げて、どこに向かって走っているんだろう。



と、そんな疑問を自分にぶつけては不安になり。走る速度はより一層と、速さを増していき、



「あれ……」



「ーーなんだ? 走っても全然疲れなくなってるぞ」



むしろ体を動かしていないと気持ちが悪い。そう感じさせるほどの何かがあるのか。幸一は走りながら思考を巡らし、知恵を絞った結果、



ーー死への恐怖。



そう直感するやいなや、足先を変え、山を目指して一直線。



クオリティ、顔つき、ドーパミン。それら三拍子は完全に幸一の支配下にあり、絶えず脳の奥から滲み出るそれはまさに麻薬の類。



「ーー山の上から見れば、村か何か見つけることがてきるかもしれないな、よし」



して、日はすでに傾き。鳥、虫、花、枝、水のすべてが橙色(だいだいいろ)に染められ、連なる山々は炎のように、落ちる滝は火の粉のような水を散らしている。



ふと。沈んでいく日を片目で見つめ、



「ーー母さん、きっと心配してるだろうな」

と思い、細く眉をひそめた。



山を登っていくにつれ、平坦な道が増えていき、どんどんと木の数が多くなってきている。



そのせいか、辺りはなかなか暗く。しかし、日はまだ落ちてはいない。



横から淡い光が射し。その微かな光の束が上下に、落ちる紅葉を照らしだしている。



「あ、映画のレーザートラップだ」



そう呟き、わざわざ夕日の光を避けて歩いた。



ーーどこかに近道はないものか。

と考え、周囲をぐるりと見回す、



何気なく見た林、その中に背丈ほどある藪(やぶ)を覗き見ると。運良く、獣道らしい獣道を発見した。



「んー。新しいな、これ」



そう言うと、地面に膝をつき。無造作に生えている草を触った。



幸一は途中。突き出た竹の葉に泥をつけられながらも、ゆっくりと慎重に進んだ。すると、



瞬間。ヒュウと言う風が藪をかき分け、幸一の髪をひと撫ですると、そのままどこかへ吹き抜けて行った。



ーーもしや出口が近くにあるのか。



そう感じ、立ち上がって小走りをした。



草をかき分けながら進むと、無事。藪を抜けることができた。



「さっきの風はここから来たのか」



ここだけ。周りの草木が整理されており。さらに右を見れば、左右対称に置かれている小さな灯篭と、石段が上に続いていた。



左を見ると、沈みかけている日が最後の光を放っている。



幸一はまた「はあ」とため息を漏らすと、



「……ここで死ぬか」



と言った。矢先、



どうも後ろからクスクスと笑い声が聞こえる、



幸一は「ーーあんまり楽しくない人生だったな」と思い。ゆっくりと振り向いた。




そこには、


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刻谷怪談 長谷川 笹の介 @Karakasaobq

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