04

「……ふう」

 深いため息をついたのち、描きかけの絵が立てかけてあるイーゼルの前に腰を降ろした彼は、観念した様子でした。

 よもや隠し通すことは不可能であると悟ったのでしょうか。

「これ、絶対に誰にも言わないでくれよ?」

「ええ。言いません」そもそも言う相手などいないのですけど。

 そして、彼は語ります。

「俺、色が見えないんだ——生まれた頃から、色というものが俺の目には映らないんだ。空も海も森も、何もかもが全て黒と白と灰色だった。けれど、これが普通だと思っていた。最初に疑問を持ったのは子供の頃だ。友達が同じ色のものを『赤』『青』なんて区別していたんだ。一体何を言っているんだ? なんて思ったものだよ」

「……ふむ」

「自分には色が見えていない。他の人が見えないものが俺には見えない。その事実に気づいたときは結構なショックだったさ。今となっては過去の話だけどな」

 彼は目を落とし、床を見つめます。

 そして、たっぷり時間を取ったのちに、言葉を続けました。

「見えないからといって見えないことを周囲に告白したりはしなかった。普通を装った。見えていないものを見えているように演技したんだ」

「…………」

 見栄っ張り、だからでしょうか。

「まあ色が見えないからといって、普通に生活しようと思えばできるものだ。苦労したことといえば、絵を描くときだった——俺は小さな頃から絵を描くのが趣味でね、色が見えないことが分かってからも、辞める気にはなれなかった。だからあくまで趣味として、俺は絵を嗜んだ。評価されようなんて微塵にも思ってなかったんだがな……」

「評価されまくりですよね」

「そうなんだよ。おかしなことにな、俺の絵は評価されたんだよ。俺の絵を見たこの国の連中は、『独創的だ!』とか『奇抜な色遣いだ!』って騒ぎたてたんだ」

 これもまた見栄っ張りだらけの国ならではのことなのでしょうか。あるいは本当に独創性が評価されたのか——。

「要するに、適当に色を混ぜて描いていたら、あれよあれよという間に有名画家になってしまったということですか」

「ま、そういうことになるな。……それで、だからこそ、今困っている」

「……? なぜです? 見たままのものを描いているだけで大金が入ってくるのなら、それほど美味しい話は無いじゃないですか」

「簡単そうに言うけどな、でたらめな色合いを作るのだって簡単じゃないんだよ。有名になればなるほど、作品が増えるほど批判も増える。色のバランスがおかしかったり、本当に見たままの風景画になってしまったり、とかな」

「……ふむ」

「だから最近、新しいことに挑戦しようと思っててね——さっき君が持っていたアレを使って、白黒のみの絵を描こうと画策してるのさ」

「アレ……」私は机に目を向けました。「あのグラスの液体、何なんです?」

「墨汁だよ。あれを水で薄めたりすることで、俺が見た景色をそのまま絵にすることができるんだ」

「……ああ」

「あれで新しい絵に挑戦しようと思うんだけど、どう思う?」

 いや、どうと言われましても……。

「二つ描いて決めたらどうです? 今までどおりの絵と、墨汁とやらを使ったものの二種類」

「馬鹿め。俺が同じ絵を二つ描いても違いが分からないだろうが」

「…………」確かに。

「まあ、誰に何と言われようと、今回は墨汁で書くつもりなんだけどな」

「…………」

 墨汁とやらで描いた絵にしようと既に心の中で決めていたならなぜ私に意見を求めたのでしょう。わけがわかりません。相談事に来た女子ですか。

「この絵が完成して、公表したとき、初めて俺の本当の実力が分かる気がするんだ。本当に俺は実力があるのか、それとも単に、偶然によって祭り上げられただけの哀れな奴なのか——」

 つまりは、この絵は、彼なりの挑戦ということなのでしょうか。

 見栄っ張りだらけのこの国で、まがい物だらけのこの国で、真実の評価を得るためにもがいているということなのでしょうか。

 だからこそ、彼の目に映る世界を、見えたままの姿を描きたいと考えたのでしょうか。

「さて、休憩もこの位にしておこうか」

 彼は言いました。暗に「とっとと所定の位置に戻りやがれ」と申しているようにも聞こえました。私は命ぜられるがまま、窓辺へと歩み寄ります。

 その途中で、カンバス描かれた私を真剣に見つめながら鉛筆を彷徨わせていた彼は思い出したように顔を上げ、

「ああ——そういえば、君の本当の髪色は何色なんだ?」

 と訊ねてきました。

 彼の問いに、私は答えます。

 窓辺に腰掛けながら。

「あなたにも見えてますよ」

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彼の眼に映る世界 白石定規 @jojojojougi

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