03
金貨五枚でどうだ!
などと叫ぶ男に連れられてやってきたのは、街中にある一軒家。
よほどの見栄っ張りか、もしくは本物の金持ちか、案内された場所は見るからに豪邸でした。
「随分と大きな家なんですね」
「まあね。俺、これでも結構有名な画家なんだよ」
「お名前を訊いても?」
男は頷きながら、正面玄関の扉に手をかけます。
「クーロンだ」
「……ああ。あの」
「おっと。俺の絵を知っているのか」
「ええ。凄く奇抜な色遣いをする人ですよね」
「ふん……照れるな」
そういえば奇抜と奇怪って類義語なんですよね。
「どうしてあんな風な色遣いをするんですか?」
「そりゃあ、俺には世界がああいう風に見えているからだよ」
「はあ、そうですか」
「どうでも良さそうだな……」
「てっきり、もっと変な人が描いているのだと思いました」
「変な絵を描けるやつが変な奴とは限らないよ」
「そうですね。まあ、変な絵を描く人が自らを変な人間と自覚しているとも限らないのですけれど」
「はは……手厳しいな」
彼は目を細め、乾いた笑いを漏らしていました。
そして扉は開かれます。
家の中を更に案内され、私は彼のアトリエへと招待されました。
無駄に広い一室は絵具の匂いに紛れて、鮮やかな草花の香りが通っています。窓辺にあるカーテンが風に煽られ、昼間の光にきらめきながら揺れていました。
壁にぴたりとくっつくように大きな作業台が置かれており、絵具や用途のよく分からない瓶などが散乱しています。
彼は部屋の隅からカンバスを取ると、イーゼルにそれを掛け、座りました。その様子だけ切り取ってみるのならばまさしく売れっ子の有名画家という佇まいですが、背後に散乱している失敗作の数々が奇妙な哀愁を生み出していました。
描いたものが全て成功するわけではない、とゴミになった絵たちが語りかけてくるかのようです。
「さて、どうしようかな……あ、とりあえず窓辺に立ってみてくれる?」
「はい」
言われるがまま、私は彼が示した先に立ちます。ちなみに棒立ちです。
「……あの、不自然だから何かポーズをとって貰えると有難いんだけど」
「はあ」
ポーズと要求されても特に良いものが思いつかなかったので、両手を挙げてみました。
「駄目だ。不自然すぎる。もっと自然な感じで頼む」
「こうですか?」両耳を塞いでみました。
「駄目だ。もっと別ので」
「こうならどうです?」両目を塞いでみました。
「もっと駄目。次」
「これでどうでしょう」今度は口を塞いでみました。
「うん塞ぐことから離れようか」
「なるほど」面倒くさくなった私は窓枠に腰掛けました。
「いいね!」
「ほう」
これでようやく満足ですか。そうですか。
「じゃあ、そのまましばらく動かないでくれ。今から描くから」そして彼はぼろぼろの鉛筆を取り出し、カンバスと私を交互に睨み始めました。
「どれくらい間、動かなければいいですか?」
「描き終わるまで」
「だから、どれくらいですか」
「すまないが今描いているんだ。集中できないから黙っていてくれ」
「…………」
なんなんですかこの人……。
それからどれほどの時間が経過したのか私は覚えていません。一時間だったか、それとも三時間ほど経ったのか、ひょっとしたらもっと経っていたかもしれません。
窓辺に腰掛けながら外を眺めるだけの時間というものは想像以上に暇で過酷でした。
「——よし。少し休憩しようか」
と、鉛筆を置き、軽く伸びをしたクーロンさんの言葉は、私には死刑宣告にも聞こえたものです。
「……え、まだやるんですか?」
私の問いかけに彼は当然と言わんばかりに頷き、
「まだ半分くらいしか出来ていないからな。君も疲れただろう。どこかその辺に座っていてくれ。飲み物を取ってくる」
と、部屋から出て行ってしまいました。
…………。
ひどく疲れましたが、それよりも気になるのは彼の絵の出来栄えです。私は彼が直前までへばりついていた場所まで歩み、カンバスを覗き込みました。
「……ほう」
そこには窓辺に佇み、憂いを込めた表情でどこか遠くを眺める魔女がいました。書きかけですが綺麗です。一体このモデルは誰でしょう?
なんて冗談を心の中で漏らしてから、私はカンバスから足を引き、アトリエの中を散策しました。
床の上に重ねられた失敗作たち。私がいた窓辺。用途のよく分からない品々。それと、机の上に散乱している絵具たち。
なんだか、趣深いものですね。
天才と呼ばれる画家の苦悩の日々がこの一室に詰め込まれているようです。
「…………?」
ぼんやりと室内を見回していると、ふと、机の上にぽつんと置かれているグラスに目が留まります。何も考えずに手にとってみれば、入れられていた血のようにぬめり気のある液体がたぷんと揺れ、こぼれた一滴が縁を伝って手に流れました。
飲み物かもと思って匂いを嗅いでみましたが、明らかに飲めそうな匂いではありませんでした。むしろ絵具くさいような。
これ、一体何でしょう。
「むう……」
しかし頭をひねったところで絵画に関する知識の浅い私に答えなど出るはずもなく、「出来損ないの絵具でしょうか」という結論に至りました。
彼が戻ってきたのは、ちょうど私がグラスを机の上に置いて、手を拭おうとしたときのことです。「やあ、おまたせ——って、おいおい大丈夫か」
カップを二つ持って戻ってきた彼は、私を見るなり目を丸くしていました。
「……? 何がです?」
「何が、じゃないよ——」彼はやや慌てながら、扉も閉めずに小走りでカップをその辺に置くと、部屋の中を右往左往し始めました。「血が出ているじゃないか。ああ、そうだ。確かこの辺りに止血できるものがあった筈だ——」
「…………?」
血?
「もしかして刃物にでも触ったのか? すまない。この部屋は散らかっているからな……」部屋の隅から布切れを引っ張り出してきた彼は、それを私に手渡しました。「ほら、これで止血してくれ。まあ傷は浅くないみたいだけど……、痛くないか?」
私はそれを受け取り、
「あの、別に血が出ていたわけではないですよ」
と、手についていた液体を拭いました。
そして、きょとんとしているクーロンさんに私は言います。
「すみません。机の上にあったグラスが気になって、触ってしまったんです。中に入っていた液体が手についてたみたいですね」
「…………」彼はほんの一瞬だけ顔を歪めました。「あ、ああ。そうなのか……。早とちりしてしまったみたいだな」
「ええ——すみません。勝手に触ってしまって」
「いや。それはいい。怪我がなくて何よりだ」
「……ええ」
手を拭い終えると、布切れには液体が微かに染み込んでいました。手にも痕は残っていません。綺麗に拭き取れたようです。
私は、
「ところで、どうして私が怪我をしていると思ったんですか?」
「え、えっと、そりゃあ……どうしてだろう……、血と似てたからかな」
「あれをですか?」
私は机を指差しながら、再度言います。
「あれと血を、見間違えたんですか?」
私が指差した先に——机には、血のようなぬめり気のある、真っ黒の液体がグラスの中で微かに揺れていました。
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