後段

 今でこそ、妹に口では敵わない兄だが、幼い頃は、それこそ兄バカと言われても仕方がないほど、世話を焼いたものだ。妹の好き嫌いを一番把握していたのは俺だった。だから思い出せ。妹の数少ない、好きなお菓子は何だったか。


 ふらふらと棚を移動しながら、レジの方まで来た。するとレジの横に買い忘れはないですか、とばかりに、レシピのメモや調味料の小袋が掛かっている。そこに混じって『卵ボーロ』の文字と、子どもの関心を惹くような動物の絵柄が、縦に綴られたビニル袋に載って、伸びている。


 卵ボーロ。その見た目は、抜群に子ども向け。卵と牛乳の組み合わせ、そしてうっすらとバニラの香りに、つなぎの小麦粉かなにかも入っているはずだ。


思い出すのは、口に入れた途端に溶け出す甘い表面に、噛むと簡単に崩れるポロポロ感。唾液を含んで初めて生まれる食感の違いが、たまらなく魅力的なのだ。俺も子どもの頃に食べたきりで、大人が食べても美味く感じるのか、ちょっと分からない。


ただ、子どもの俺がそれを好きだったのは、妹が食べていたからだ。機嫌が悪ければ、泣いてばかりの妹に訪れた、束の間の静寂。それは卵ボーロのおかげだった。


 

 小さく丸い、薄黄色の球体は、本当に幼児の指先ほどの大きさで、そこに、上下を示す、うっすらと美味しそうな焼き跡が付いている。パンなんかに付いている、あの何故か食欲を刺激する、茶色い跡だ。妹が一個ずつ、それを指で拾い上げては、口に入れる。その変化する食感と、ほのかな甘さに夢中になっているのか、それとも、その食べる動作に面白みを感じているのか、その両方だと見えた。


 残念なことに、『お兄ちゃんも食べる?』などとは、訊いてはくれなかったが、俺はその分、こっそりと横から拾って食べていた。なにぶん、赤ん坊の域を出ないほど幼い頃である。食べる妹の口の端からは、きらきらと涎が溢れ、俺は母から預かった涎吹きで、それを拭ってやった。


 美味しい、食べたい。その証拠だと思えば、なんでも可愛い。ただ気を付けて拭わないと、食事が中断されたと言って怒られる。その力加減が難しかったのを覚えている。俺は回想に顔が笑うのをこらえつつ、迷わずたまごボーロの袋をレジへ置いた。



***


「ただいま帰りました~」


何をいったものかと思いつつ、出た言葉はこれだった。



「おかえりー、遅かったね。沙代里、寝ちゃったよ」


「あぁ、そっか、そりゃ悪いことをした」



お絵描きも半ばで力尽き、ソファでそのまま寝てしまったらしい。子どもが寝ていると、起きている時の様子とあまりに違うので、こちらもかなり気を遣う。



「で、なに買ってきた?」


妹が当然のように手を差し出すので、俺はガサガサとビニル袋を探って、卵ボーロの袋を差し出す。


「お前、これ好きだったよな」


「ん、あー、これね。よく覚えてんね」


妹はまんざらではないように、しげしげとその袋を眺めた。まさか、今でも好きだろうか。


「沙代里~、おじさんがボーロ買ってきてくれたよ~」


妹は、姪を起こす声量でそう言いつつ、ボーロの袋を開けて、小皿に中身を並べた。


「別に起こさなくても…」


母親の声で重い瞼を擦りつつ、姪は起き出していた。


「いいの、いいの。あんまり寝かせすぎると、夜起きちゃうから」


妹が持って行ったボーロに、姪が目を輝かせるのが分かる。俺はなんだか気恥ずかしくなり、選択は間違ってなかったと、内心ガッツポーズをする。


「で、お兄ちゃん、それ以外に何、買ってきたの?」


「え?」


手を洗いに行こうとして、引き留められる。妹は俺の買い物袋を開け、「あー」と不満げに俺を見る。


「な、なんだよ」


「お兄ちゃんて、たまにすごく子どもっぽいとこあるよね」


そう言って妹は、俺の買ってきた駄菓子の包みを、袋の中からほいほいと取り出し、呆れた顔で俺を見上げる。


「いやあ、なんか懐かしくなって、つい…」


「つい…ね」


まるで、自分まで子どもに戻った気分だ。親になった妹と、そうでない俺。経過した時間分、自分の身に起きた変化は、何だったろう。


つらつらと考えていた俺が部屋に戻ってくると、妹が紅茶を淹れていた。


「俺ももらっていい?」


「いいよ」


そう言って、妹が空のマグカップを差し出す。


「さんきゅ」


少し苦い気もするダージリン。現在の妹は、これを砂糖なしで飲む。


「あぁ、俺も歳くったな」


「なに言ってんの、やめてよ。お兄ちゃんが老けたら、私まで老けた気がする」



妹はそう言って笑い、耳を掻いた。その少し荒れた指先。育児疲れか、寝不足の証らしい目元の薄いくま。時間が与えた変化は違っても、同じ時間が流れたんだと、妙な感慨にふけった。


「ありがたいな」


「なにが?」


「いや、いろいろ」


リビングに目を向ければ、姪の沙代里が、いつかの妹と同様、お菓子に夢中になっている。これ以上の幸福はないなぁと思えば、感謝の言葉も自ずと出てくる。


あぁ、温かい。




                                    Fin.


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おつかいを頼まれて ミーシャ @rus

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