第二章 

「京子さんじゃない?」

 私は手にとって見ていた洋服を胸に当てたまま振り向く。

「本当だ。京子さんだ。久しぶりじゃない。」

 もう九月だというのに陽射しが強い。道路沿いがガラス張りの店内で、女らしい影が三つ見える。逆光で顔までははっきり分からない。

「久しぶり。元気だった?」

「うん。」

「卒業以来ね。今どうしてるの?」

 すぐそばまで近づいてきて、やっと分かった。でも名前まで思い出せない。高校のとき同じクラスメートだったのは覚えているが、仲良しなグループではなかった。卒業して服装やら化粧が派手になっているので少し頭が混乱する。向こう三人は私が誰かすぐに分かったところをみると、私って変わっていないのだな、と少し空しくなった。

 私がそんなことを考えているうちに隣のドーナッツ屋でお茶しようと話がまとまり、半ば強引に腕を取られて店を出た。

 この感じ。

 この感じがあまり好きじゃなくて高校のとき近寄らなかった。のんびりやの私とは違う人種だと悟って、特に話をするでもなく卒業した。団地妻となって週に一度お茶会かなんかを企画したり、ゴミ捨て場をおしゃべり場にするおばさんは、きっとこういう子たちの行く末なのだ。そしてそういう人たちから逃げて部屋に引きこもり、密室で育児ノイローゼになるのが私のような人間だ。

 店の入り口でその中の一人が私を先に通した。ごめんなさいねと顔をしかめて軽く頭を下げる。あ、この子。

「今、何しているの?四大だっけ?」

「頭良かったもんね。お父さんお医者さんなんでしょ?」

「ねー、柴崎って覚えてる?今この子と付き合ってるのよ。信じられないでしょ!」

「やあだ、いきなりバラさないでよ。」

 慣れた口調でさっさと注文し、プレートにこんもりドーナッツをのせて、席に着くなりしゃべる。よくしゃべる。ドーナッツ屋なんて入るの久しぶりだ。何を頼んでいいのか迷ってしまう。高校のときからある比較的シンプルなドーナッツがあったので注文した。他の三人を見るとなんとかマフィンやらチョコレートの上にカラフルなシュガーがかかっているものやらを器用な手つきでかじっている。一方私は、しどろもどろに手を汚しながら次の一口をどうかじるか、それとも千切って口に運ぶかいちいち考えながら落ち着かずにいた。

「みんな大学一緒なの?」

「そう。腐れ縁。学部まで一緒。」

 仲良しグループで同じ大学を受けてみな合格し、いまだに仲良しグループでいるというのは驚きだが、学部が一緒なのは頷ける。私たちのクラスは私立文系クラスだった。そしてクラスの三分の二が文学部へ進み、残りが法学部と英文学部に進んだ。確か彼女たちは文学部組だろう。

「京子さんは、相変わらず大人っぽいね。」

 唯一ショートカットで格好も白いTシャツにジーンズの子が言う。

 この子のことだけは良く覚えていた。背が高くて浅黒く、スポーツ万能で男の子のように髪が短い。でも不思議とセーラー服が似合っていた。他の二人に比べて口数も多くはなく、いつも聞き役に徹していて何となく仲良くなれそうな気がしていた。でも結局敷居が高くてゆっくり話せるチャンスは巡ってこなかった。

「広尾さんのほうが大人っぽいよ。私ずっと憧れていたんだよね。」

彼女は、え?と目を丸くする。そうよ。憧れていた。

「えー?浅香に?さすが不倫女王。」

「やめてよ、その言い方。」

 笑ってはいるが明らかにうんざりしているのが分かる。

 ああ、この子と話がしたい。

 こんな安っぽいドーナッツ屋を出て、どこか静かなお店へ行っておいしい紅茶を飲みたい。イヤ、この子とだったら公園でもいいわ。子供の声を聞きながらベンチに座って缶ジュースでも飲みたい。

 私は浅香のまつげが、うつむく度に黒い切れ長の目を覆うのをウットリと眺めた。

「…それでさ、シバッチたらさ、あと二キロ太ったら別れるって真顔で言うのね。この間みんなでバイキングに行ったじゃない?三陽ホテルの。帰ってきて体重計に乗ったら四キロも増えてるの。私、なに食べたのよ、四キロも!」

「知らないよ。何かすっごい食べてたよね。豚に見えた。」

「うわ、ひっどい。でさ、その夜シバッチ、何て言ったと思う?」

 急に話が振られた。危うく喉にドーナッツが詰まりそうになった。私はアイスコーヒーを飲みながら、聞いてないことがバレないように笑顔で首を傾げる。

「みーたん、もしかして赤ちゃんいる?」

「きゃーっはははは!やっぱ馬鹿な男だよー。」

 全然笑えない。彼のことをシバッチと呼び、ついでに彼が自分を呼ぶあだ名まで教えてくれた。帰りたい。

「そういえば、拓朗さんどうしているんだろう。」

 不意に浅香がつぶやく。

 淀んだ空気がスッと澄んで、そして冷たい汗が背中を流れ落ちた。喉をドーナッツがこじ開けるように通過していく。

「拓朗さんって、数学の?」

とぼける自分が悲しい。

「ああ、私この前見たよ。春野の大通りで。あのボロのゴルフまだ生きてるの。」

 春野の大通りは私のアパートのすぐ近くだ。でもボロのゴルフって言っていいのは私だけだ。アレはああ見えて、結構可愛いんだから。

「隣に女乗ってたよ。」

「うそ!」

 私と浅香ともう一人が身を乗り出す。

 私は最近拓朗さんの車に乗っていない。ひょんなところから情報って入るものだ。

「あの噂の子じゃない?」

「イヤ、よく見えなかったけど、あんなに痩せてなかった気がする。サングラスかけてたから分からない。」

「あ!そういえば私一年くらい前に結婚したって噂聞いたよ。思い出した。あの噂の子じゃないんだって。デキちゃったみたい。」

 はて誰の話をしているんだっけ。

「なんだ。じゃあ奥さんか。」

 浅香が急に興味を失ったようになって、イスにもたれる。

「へ、へえ。子持ちなんだ、あの人。」

 ここまで来ると私も強気になれる。拓朗さんの車に乗るとき、私はサングラスをかける。色素が薄いせいか陽射しが強いと季節関係なく目が痛むし物が見辛い。そして私は噂の女の子ほど悲しいかな痩せていないし、拓朗さんは結婚なんかしていない。勿論子供なんているはずがない。人の「この前」ほど時期が曖昧なものはない。

「みんな好きだったよね。拓朗さん。」

浅香がため息混じりに言う。

「うーん、かっこよかったもんね。」

手に付いたシナモンを紙ナプキンで拭く。余計べたついたので指をそっと舐めながら呟く。

「拓朗さんが?」

拓朗さんがかっこいいなんてちょっと意外だ。ワイシャツの皺やお尻は色っぽいと思うが顔なんて普通じゃないか。ちょっと笑うと可愛いけれど。それは、ちょっとだけだ。

「ねえねえ、告白したでしょう?時効だから吐きな。」

 身体に電流が走った様になり、顔が赤らむ。何で知っているのだ。拓朗さんの話が始まってから食がちっとも進まない。ドーナッツを持っては置き持っては置き。指を舐めてばかりいる。自分の鼓動の激しさで、身体全部が脈打っているように感じる。

 何て答えようかと一瞬考えた。けれど質問した子の目が私ではなく浅香を見ていることに気付いた。早まって「うん」なんて言わなくて良かった。

「したよ。そういう二人だってしたんでしょ?時効、時効。」

 浅香はケロッと白状し、他二人を指差した。なぜか私は含まれていなかった。

「したよー。当たり前じゃん。」

 もう一人も恥ずかしそうにうつむいている。

今彼女の頭の中で、シバッチが霞んで見えているはずだ。それはそれはもう見えないくらいに。

 私たちの学校では若い先生が多いせいか生徒と付き合っているという噂のある人が沢山いた。見ているとただの噂ではないらしいことも分かって、生徒から教師への告白もかなり普通に行われていた。あとから拓朗さんに聞いた話だが、何クラスの誰それは可愛いとかおっぱいが大きいとか、教師同士でも頻繁に話されていたというから私の通っていた学校はかなりおかしな学校だったのだ。

 それにしてもなぜ私には話が振られないのか。私も拓朗さんを好きだったし、告白もしたし、それを必死で隠すようなことをしたつもりはないのに。でもその理由も浅香の質問ですぐに理解できた。

「京子さんは?南高のかっこいい彼。まだ続いているの?」

「南高…。」

 タクちゃんのことだ。

「京子さんは南高に通う彼がいて、その彼も医者の家系でいいなづけだっていう噂があったよね。」

いいなづけ。何だかすごく久しぶりに聞いた。少し笑える。確か子供の頃憧れていた言葉だ。少女漫画で頻繁に使われて、幼いながらも好きな人と将来が約束されているって何て安心できるんだろうと羨ましかった。

「あー、彼はただの幼なじみ。隣なんだ、家。今でも仲いいけど。付き合ったことはないよ。」

本当は高校に入学した頃から少しだけそういう時期があった。キスもした。でも昔のことだし、彼女たちに話すのはとても面倒なので言わない。

「そうなの?すごい素敵だったよね。一度校門の前で京子さん待っているのを見たけど、学ランが似合ってて。」

「京子さんが関係ないなら紹介してもらおうかな。将来は医者だもんね?」

 医者の妻ってそんなにいいものなのかしら。うちのママを見せてやりたい。家庭の匂いなんてしないじゃない。休みだってバラバラだし、旅行だって行けない。寝てようが何だろうが急患を知らせるポケベルは鳴る。鳴る。鳴る。最近は携帯電話になったけど。私は絶対医者の妻になりたくない。日に一度は必ず家に帰ってくる人がいい。大好きな人が自分の待っている家を自宅と呼び、当たり前のように帰ってくる。当たり前のようにご飯を食べる。くだらないことで笑って、そして足を絡め合って眠る。

 かなり本気で頼み出した子を「北海道で彼女持ち」と諦めさせて、やっとドーナッツ屋を出ることになった。

 別れ際、他の二人が用を足しに店に戻ったので、私は浅香に今度二人で会いたいと言った。ちょっと驚いてたけどカバンからメモを取り出してメールアドレスと携帯の番号を書いて渡してくれた。彼女たちが、トイレが使用中だったから次の目的地まで我慢する、と言って戻ってきた。少し慌てた。その後私と三人は店の前を右と左に分かれて歩き出した。手を振って別れた後、もう一度振り返ると浅香が親指と小指を立てて耳に当てた。私は嬉しくて何度も頷き、前を向いて歩き出した。

 目当ての女の子から電話番号を聞き出せたとき、男の子ってこんな気持ちになるのかもしれない。嬉しくて足が踊ってしまうのだった。

本当は部屋に戻ってすぐ電話をしたかったけど、さすがにその勢いは恐がられるから明日にしようと思った。こんな思考までが男の子のようだと苦い笑いがこみ上げる。やっぱり女の子はもっと男の子の気持ちを察してあげなければならない。むげに「うち電話ひいてないの」などと言ってはいけない。

 浅香にもらったメモを開いて電話の横に置く。明日電話したら何を話そう。約束はいつがいいだろう。こんなときにやっぱりメールができるといいなと思う。相手の都合を考えなくても済むし、何てことない一言、例えば今日は楽しかったなんていう言葉だってポンと伝えることが出来る。でも私はパソコンはおろか携帯電話すら持っていない。強引な子は苦手なくせにとても寂しがり屋な私は、すぐ人とつながるラインを手に入れたら最後つなげずにはいられなくなりそうだった。アルバイトもしていないからその為に出て行くお金も捻出できない。かといってそのお金を手に入れるためにアルバイトに出るのも馬鹿みたいで気が進まない。誰かとつながっていたいがために、つながりを持ちたくない人ともつながるなんて、そんなのかったるい。

 風呂場に行って栓をして蛇口をひねる。内側に十センチほどしか開かない窓から隣の部屋の食器を洗う音が聞こえる。他人の生活の音って、どうしてこんなに切ないんだろう。

 濡れた足をマットでこする。それにしたって拓朗さんは薄情な男だ。あの留守電以来連絡がない。いつもそう。一歩私の部屋を出たら、私のことなど忘れてしまう。付き合い始めた頃は飛び飛びの電話が待ちきれなくて携帯電話を鳴らしたこともあった。でも校内にいるときは留守電にしてあるし、人と合うときは「会話中に電話が鳴るのって、わずらわしい」らしく電源は切ってある。他に女がいるとは思えない。単純に人に時間や行動を左右されるのが嫌いな人なのだ。だから急用でもない限りこっちから電話をするのはやめた。あ、そういえば一度学校帰りに変な男に付きまとわれて太ももをなで上げられ、部屋に飛び返っても震えが収まらず電話したことがあった。勿論留守電だったから何も言えず、ピーの後には鼻水をすする音だけが録音された。私のものすごい悲鳴で変な男は逃げたらしかったけど、もしかしたら再び後をつけられてアパートのそばにいるのかもしれないと思うと恐くてすぐ電気もつけられず、真っ暗な部屋でこれ以上小さくなれないというほど丸まっていた。驚いたことに拓朗さんはすべての雑務やら課外授業やらを放り投げて高速かっとばして来てくれた。とんでもない力でドアが叩かれたから変質者がきたと思って身をこわばらせた私の耳に「京子!京子!どうした?」という声が響いて、全身の力が抜けた。本当に歩けなくなった。私がなかなか出て来ないので死んだと思ったらしい。

 京子と呼ばれたのはそのとき一回きりだ。鼻水の音で私だと分かるなんてすごい!って喜んでいたら、携帯電話って相手の番号が出るらしい。だって携帯電話なんて知らないもの。


 でもそれ以来、私は拓朗さんを疑わなくなった。寂しくても、愛されているんだという実感がその隙間を埋めてくれた。そうよ。愛されてるの。だから寂しくたって大丈夫。拓朗さんは自分の世界を大切に生きている人なのだ。だから拓朗さんの大切な世界は私も大切にしてあげるの。土足で踏み込んだりしないのよ。たださすがに待つ女はしんどいので「待ち沼」にズルズル引きずり込まれるのだけは堪えたい。今日も街の大きな本屋さんで六冊も購入した本を取り出してベッドの上に広げる。ほら、こんなに本がある。

もうずっと隠していない煙草。私は彼のいない時間をこんなに楽しく過ごしている。


「それはおかしいわ。ごまかしだわ。」

 浅香は床にぺたりと座ったまま、手に届いた本のタイトルに顔をしかめる。

「その座り方やめなよ。骨盤が歪んで内臓が落ちて中年になったとき腹がポッコリだよ。」

「うそ。いやだ。」

 どこで会おうか、何を話そうか散々迷って電話したら何てことない浅香は私の部屋に行きたいといった。一人暮らしの女の人の部屋に行ったことがないから見てみたいのだと言う。一人暮らしの女の人の部屋は行ったことがなくとも、一人暮らしの男の人の部屋は行ったことがあるのね。でもそんなの当たり前過ぎて突っ込みにもならないから口に出さなかった。

 彼女が部屋に来てすぐ、拓朗さんとのことがバレた。少し前にお古のGショックを譲り受けたのだが、驚いたことに浅香はそれが拓朗さんのものであるとすぐに指摘した。

「好きだったんだもの。分かるよ。例えば時計じゃなくたって、ネクタイ一本だって分かるわ。それが片思いのすごいところだよね。」

とケタケタ笑う浅香とは対照的に、私はちっとも笑えない。だって私が拓朗さんのことで覚えているのはシャツの皺とお尻だけだから。そういうと浅香は余計に声を上げて笑った。

「そんなものなのよ。運命っていう流れに乗っていると。私は拓朗さんとはどうにもならないとどこかで感じていたの。だから必死で思って願って当たって砕けた。」

「私も在学中当たって砕けたよ。」

 浅香が口元を歪ませる。人の失恋話って楽しいものだ。

「私たちって運命だって言ったら、間髪入れず、それって口説いてるの?だって。」

「え…。」

「冗談だよって言ったら、冗談だよな?って念を押された。そんなにブサイク?自分では普通の人間だと思うけど。」

「は。あはははは。私なんかもっとひどいよ。興味がない、だよ?僕は君に興味がない。直訳かって思ったよ。英文どこにあるんだよって。」

 ああ、拓朗さんらしい。その口調。でも浅香が少し羨ましい。きつい言葉でも何でも、ちゃんと女性として見た上での「返事」だ。冗談だよな?なんて言われた私はあまりに可哀相だ。悪魔かなんかに好かれちゃった人のセリフだ。

 私はマロウティーにレモンスライスを添えて浅香の前に出す。

「うわー、何?綺麗な水色。これって紅茶なの?」

「マロウティー。お気に入りなの。ウスベニアオイっていうハーブのお茶。美白効果があるのよ。」

「へえ。だから京子って色白なの?」

「いや、あんまり関係ないと思うけど。それより、ね、レモン入れてみて。」

 浅香は真剣な顔でレモンをつまんでカップに落とす。スプーンで混ぜるとたちまち紫がかったピンクに変わる。

 浅香は子どもみたいにはしゃいで、私の分までレモンをつまみ入れてスプーンで混ぜた。その気軽さが好きだと思った。素直で無邪気で。浅香を駅まで迎えに行った帰りに買いこんで来た御菓子を丸テーブルに山のように並べて、数あるハーブティーを順に入れながらおしゃべりをした。不思議と煙草を吸う気にはならなかった。映画の話も男の子の話もとても気が合って楽しかった。けれど拓朗さんとの話をしたら、彼女はきっぱりとそれはおかしいと言った。

「何沼だか知らないけど、そこに引きずり込まれないように踏みとどまっているように見えて実はもうその、...何沼?」

「待ち沼。」

「待ち沼の中にいるのよ。」

「残酷なことをいうのね。」

 私が時間をかけてやっと築き上げたスタンスを間単に崩そうとする。明らかにムッと黙り込んだ私をみて、浅香は悲しそうに微笑む。

「聞いていいかな。その待ち沼におぼれたら、どうなると思うの?」

 待ち沼におぼれたら、おぼれたら、私は息も出来なくなるだろう。苦しくて苦しくて耐えられなくなって、そして自滅するか拓朗さんが逃げていくんだろう。彼は自分の生き方がある。いろいろなことをとても大切にしている。そういう人だからどんどん惹かれたのだ。この人を好きになることに限界なんてないのかもしれない。

「おぼれてしまったら、拓朗さんを失う。」

「そうとも限らないと思うよ。」

 少しイライラした。綺麗な顔で肩をすくめて、すべて知り尽くしているような口調でしゃべる。私はたまらなくなって煙草に火をつける。拓朗さんのことを少ししゃべりすぎた。

久しぶりに可愛い子を部屋に入れて、ハーブティーの香りを楽しんで、浮かれて事細かにしゃべりすぎたのだ。失敗した。すべてやり直したい。駅に迎えに行くところからすべて。そうしたら今度は上手くやる。

 浅香がトイレに立ったとき、ガチャガチャと鍵を開ける音がした。鍵を使ってこの部屋に入れるのは一人しかいない。私は慌てて煙草をもみ消して灰皿と箱をテーブルの下に隠す。

「あれ、お客さん?珍しいじゃん。」

 拓朗さんは玄関の見慣れないスニーカーを見て言う。

「あのさ、チャイム鳴らそうよ。」

「いや、京子ちゃんトイレ入ってるみたいだから可哀相かなって思って。」

 やたら大きなカバンを入り口にドサリと置いて、さっきまで浅香が座っていた場所にあぐらをかく。

 驚いたのは浅香だ。トイレの前に突っ立ったまま顔を赤くしている。

「拓朗さん、そこは彼女の席。こっちおいで。」

私はちょっとだけ意地悪な気持ちになってお尻をずらして隣に座らせる。

「こんにちは。お久しぶりです。」

 ちょっと上ずった声で浅香が言うと、拓朗さんは浅香の顔をじっと見て、生徒さん?と聞いた。何年も教師をしていると担任持った子以外ほとんど忘れちゃうんだ、と付け加えた。浅香は失礼しちゃう!と笑いながらも、明らかに傷ついた顔をしていた。

「今日はどうしたの?電話も無しに。」

 ずっと無しに。

「うん。何と丸一週間休み取れちゃったの。お盆で休んでいた先生がみんな出てきてさ、次はお前の番だって。」

「うそ!本当?一週間も?」

 この大きなカバン。うちにずっと泊まってくれるのかな。それともこれから旅行に行こうなんていってくれたりして。そこまで一瞬のうちに考えて、その後ゆっくり否定していった。拓朗さんはずっと仕事が忙しくてやりたいことが山ほど溜まっているはず。うちでのんびりするはずはない。第一部屋には拓朗さんのパジャマや下着、服だって少しはある。カバンを持ち込むなんておかしい。これから旅行に行こうなんて急に誘ったりする性格でもない。人が関わるときには必ず約束をする人だ。旅行を思い立った時点で自分の支度はさておき私に電話をよこすはずだ。何かを期待するのはやめよう。馬鹿みたいだ。しっかりしなければ。これから一週間、何をして過ごそう。楽しいことをしよう。うんと楽しいことを。

「実家に帰ってみようと思って。」

「実家って、確か群馬でしたよね。」

 さすが浅香。私の知らないことをよく知っている。というか、私って本当に拓朗さんのことを知らな過ぎやしないか?拓朗さんの好きなカモミールティーにお湯を注ぎながら、二人の会話を無感動に聞いている。そうしながらどこかで、もしかしたら自分も一緒に連れて行ってもらえるのではないか、という浅はかな考えが浮かんでしまうのも事実だった。

「しかし女の子の集会って、すごいね。お菓子屋さんだね。菓子メーカーは女の子には頭上がらないだろうね。なにこれ、変なお菓子だね。あ、結構美味い。」

「先生変わってなーい。」

 指をぺロッと舐めながら、拓朗さんが笑う。そんなところで色気を振りまかなくていい。

「あ、そうだ、京子ちゃん。俺この間ここにワープロ打ちしたプリント置いていかなかった?」

「あったよ。引き出しに入れておいた。」

 紅茶のタイマーが鳴り出す。カップに張っておいた湯を捨てて、紅茶を注ぐ。甘い香りがする。これ以上拓朗さんの言葉を聞きたくなかった。分かっているからさっさと行け。お土産注文して笑って手を振るから。

 お菓子をよけて拓朗さんの前にカップを置くと、プリントを頂戴と言った。私はおぼんを持ったまま引き出しを開けてプリントを取り拓朗さんに渡す。

「これこれ。良かった。これを生徒に届けてから行くんだ。」

「それでわざわざ寄ったのね。」

 なるべく嫌味に聞こえないように言ったつもりだったけれど、浅香がちらりとこっちを見た。そして口を開きかけた。

「せ…」

「お、もうこんな時間。帰宅ラッシュに巻き込まれたらイヤだから、これ飲んだら行くわ。ゆっくりしていってね。」

「だれのうちよ。私のうちだ。」

 拓朗さんは笑いながらズズッと紅茶をすする。何だか頭が痛くなってきた。首の後ろからこめかみ辺りまで。

「気をつけてね。拓朗さん、高速スピード出すから。ボロのゴルフが空中分解しないように。」

「漫画かよ。」

 紅茶一杯飲む間に何かしら気が変わらないかしらとテーブルの下の煙草を指でいじりながら思った。でも当たり前のように急いで飲み干して立ち上がる。立ち上がるときに私の頭をポンと叩いた。

「そんじゃあね。」

 いつものように手を上げて部屋を出て行く。

 あ、お土産頼むの忘れた。

 ドアが閉まり振り返ると浅香が拓朗さんのカップを見ながら首を傾げる。

「変じゃない?」

「何が?彼?いつもああよ。」

 私はやっぱりそのまま座ることができず、ベランダに出る。

「京子。変。」

 今日のゴルフは二回でエンジンがかかり、カシャンといつものように排水溝の鉄板を踏み鳴らして大通りへ出て行った。

 どっと疲れた。

 本当に疲れた。

 めまいがする。

 部屋に一人でないことが救いだ。さっきまで浅香にイラついていたけれど、その気持ちもどこかへすっ飛んでしまった。会えないことに慣れてきはじめた矢先に急に拓朗さんの顔を見て、ピンと張り詰めていた気持ちがゆるんだのだ。まとまった休みが取れて少し嬉しくなって、そして大きな落胆が襲ってきた。ほらね。油断は大敵なのだ。心の糸は決して緩めてはいけない。傷が付く。

「…お母さんみたい。」

「なに?」

「お母さんみたい。京子、拓朗さんのお母さんみたいだよ。」

 そう言われてみればそうかもしれない。彼の選択のすべてを受け入れて、その一方で自分を顧みない彼を諦めている。愛は感じる。自分は彼にとって特別なのだと信じている。でも受け入れながら諦めている。自分のあらゆる欲望を。そして、その上でこの愛が成り立っていると知っている。いつか息子が母親から離れていくように、拓朗さんも離れていくのだろうか。

「いっそのこと母親だったらよかったのよ。いつか他の女性のもとへ行っても、私は母親であってそれは変わることはないわ。」

「そうだね。愛する人の母親とか妹とかって立場が一番憧れるよね。キスもできないけど。」

 浅香が笑った。

 私は今日初めて自分があらゆることを諦めているのだと認めた。一度認めてしまうと色々な意味での重圧がずっと軽くなっていくのが分かった。私が私の中でそれを認めたところで、彼との関係が今すぐどうにかなるわけではないということも分かった。

 浅香は少し憎たらしいところがあるけれど、とても素直だ。素直だから憎たらしくなってしまうのかもしれない。私は素直さをどこかに置き忘れている。

 頬張るスナックは少し湿気ている。

「浅香だったらどうするの、こんなとき。」

「そうだな。昔の私だったら京子のように黙って手を振る、かな。でも今の私だったら怒るわね。ふざけないでよ、私はあんたのママじゃないわ!」

「本当?」

「気持ちのあり方は、ね。」

 私たちは再び声を上げて笑った。

 多分彼女もいくつかの恋をしたのだろう。

 不倫女王。あの言葉が頭をかすめた。

「ねえ、今日泊まっていかない?一人でいたくない。」

 自然と口から滑り出ていた。浅香の素直さを少し分けてもらったのかもしれない。心と口が直結したみたいでふわふわしていた。でもそれはしばらく味わっていない心地よさだった。

 今は何も考えたくない。私は拓朗さんが好きで、それはまるで庭に飛んでくる美しい鳥に魅せられたような恋だ。窓辺に座って、いつ飛んでくるかもわからないのにそこから離れなれない。ただ待っているのは辛いので、私は本をたくさん窓辺に持ち込み、鳥が去った後の楽しみのために煙草を覚えた。いつまでこうして窓辺に腰かけていられるのかは分からない。かといってカゴに捕らえたら、美しい鳥は空へ帰して欲しいと頼むだろう。そして私を恐れて二度とこの庭へやって来ない。

 でも今私は窓辺に座っている。まだ座っていられそうだ。鳥は私を信じて、好いていてくれる。美しい声で鳴いてくれる。幻のような声が蘇る。愛しています、と。

 その夜、いつも一人で眠るベッドで可愛い女の子とくっついて眠った。髪から嗅ぎなれたシャンプーの香りがした。

 眠気が訪れるまでずっとおしゃべりは続いた。浅香の恋人はいつでもどこでも連絡が取れる人で、彼にとって浅香の存在がすべてであると感じられた。「もう私が一番でない人はイヤなの。そういう恋をしたの。辛かったから、もうイヤなの。今の彼は私を宝物みたいに想ってくれる」と言った。でも羨ましくはなかった。私が好きなのは拓朗さんで、浅香の恋人ではないから。そう思えた自分が嬉しかった。浅香は、ずっと憧れて何かの度に思い出していた拓朗さんが、今日やっと雲の上の人から普通の男になったと言った。憧れはずっと尾を引くから面倒なときがあったそうだ。浅香も好きなのは彼であって拓朗さんではないということが分かったのだろう。

二人して欠伸が出始めた頃、初めて来た女の子の部屋はどうだった?と聞いたら、男と変わらないと言って笑った。

 笑いながらいつの間にか眠ってしまった。温かい眠りだった。


 次の日の夜、タクちゃんから電話が入った。

もう帰るのだが、その前にもう一回会いたいと言ってきた。実家まで足を運ぶのはかったるいからここまで来いと言った。

 タクちゃんを駅まで迎えに行くとブロックチェックのシャツにキャップをかぶった男の子がお姉さん二人に絡まれて困っていた。よく見るとタクちゃんだった。しばらく観察していたら、それに気付いたタクちゃんは少し怒ってしまった。

「なんだよ。人が困っているのに。」

「あ、困っていたの?鼻の下が伸びているから喜んでいるのかと。」

「バーカバーカ。」

 本当は嘘。だって私、思いっきり普段着にサンダルで、しかも一昨年に買ったやつでボロくて、助けに入ったところで「なに、この女、ダッサー」って目で見られるだけだし、タクちゃんはなんだかカッコいいし。お姉さんは化粧濃くて恐いし。

「キョンが引っ越したときにちょっと覗いたっきりだよな。コンビニ寄るべ。」

 タクちゃんはジーンズのポケットに両手を突っ込んでいる。キャップのツバで顔がよく見えない。拓朗さんよりタクちゃんのほうが背が高いんだ。

「変な靴履いてるね。」

「だって面倒なんだもん。スニーカー、紐結ぶの。」

「君ねえ、センセーに会うんだったら紐結ぶでしょ。頑張るでしょ。」

「先生とタクちゃんは違うもん。」

 狭い通りを派手な改造車がブリブリ音を立てて走っていく。二人で壁に張り付くようになって、空を飛びそうなその車を見送った。

「キョンは、そうだよな。」

「ええ?」

「キョンはいつも、好きな男以外見えない。」



 コンビニでお菓子を買おうと思ったら、お菓子はいらないとカゴから全部戻された。大きなペットボトルのお茶を一本。私の持ったカゴは役に立たなかった。

 天気が良くて、少し空気が乾いていた。

 塀の上で猫が二匹横になっていた。一匹が真っ黒で、もう一匹はブチ。鼻の横にほくろみたいに黒い点があってブサイクだった。笑ってしまった。

 ヘリコプターの音。タクちゃんが空を見上げた。やっと顔が少しだけ見えた。

「ねえ、いつも、そう?」

「なにが?」

「いつも私、好きな男の子しか見てない?」

 こうしてタクちゃんのことも見ているじゃない。

タクちゃんは空を向いたまま、目だけ私を見た。

「なあ、」

「・・・」

「キョンの部屋、まだ?かなり遠くない?」

 そんなことはない。確かに不動産屋で教えてもらった駅から八分ってのは嘘だ。実際は十五分ほどかかる。でも、遠くなんてない。

七分の差がなんなのだ。なんてことないのだ。いつもそう思いながら歩く。

 アパートまでの道を、タクちゃんはペットボトルの袋を振り回したり、口笛を吹いたり犬に吠えたり吠えられたりしながら歩いた。

 アパートが見えてきた。タクちゃんが再び怒り出した。

「なんだよ。あるじゃん。コンビニ。確かあったような気がしてたんだ。何で言わないの。お茶結構重いんだからな。」

「あれはコンビニじゃないの。コピー屋さんと煙草屋さん。」

「またそういう訳の分からんことを。」

 タクちゃんは部屋に着くと私より先に上がってベッドを背もたれにして腰かけた。

 私は窓を開けてからグラスを二つテーブルに置いた。ずっと使っていなくて白く曇っていた。もう一度台所に行って洗った。すごく綺麗になった。結構可愛いグラスだった。

「タクちゃんの彼女はさ、こんなに長く実家に戻って来てて寂しがらないの?」

 ペットボトルのフタがなかなか開かない。タクちゃんが火のついていない煙草をくわえたままそれを引き寄せてひねる。一回で開いた。

「俺の彼女はそんなにヤワくない。」

 寂しくないってこと?それともペットボトルのフタなんか簡単に開けちゃうよってこと?

「この間、さ、俺、変な顔見せた。」

「うん。」

タクちゃんは麦茶をグラスに注いで、そっぽ向いたまま私の前に置く。乱暴に置くから麦茶が少しこぼれた。何だかおかしい。

「…。帽子、取りなよ。」

「いい。」

「なに怒っているの。」

「別に。」

「ほら、怒っているじゃん。取りなって。」

「いい。」

「取れ。」

 私はタクちゃんのキャップに手をかける。その腕がものすごい力でつかまれる。指先までしびれた。

「いいって。キョン、しつこい。」

しつこいだって。すごく久しぶりに言われた。ううん、初めて言われた。しつこいだって。そんなのあんまりじゃない。ここを誰の部屋だと思っているの。私の部屋よ。主が帽子を取れって言ったらそうしなさいよ。

「いきなり電話してきて一人でプリプリ怒って帽子だって取らないし、ハゲたの?ついにキたの?それともなに?派手なお姉さんから守らなかったから怒っているの?ペットボトルが重かったから?私が変なサンダルはいていてイヤだったの?私がペットボトルのフタを開けられなかったから?私がっ、私が何もできないから?」

「キョン、」

 タクちゃんが私の腕を離す。白く手の後が残っている。

「なんなの?さっきから顔が、見えないじゃん。」

 何でこんなに、悲しいんだろう。

タクちゃんは両手で顔をこする。長く息を吐く。私はもぬけの殻になってタクちゃんを見つめる。

「俺、兄貴に似てるなって、今朝鏡見て、初めて思ったんだ。急にキョンと会うのが、恐くなった。」

 タクちゃんは帽子を取った。それを手で丸めて、うつむいて笑った。クセが付いて変な頭になっている。何よ、全然似てない。

「この前、夢を見たんだ。兄貴の夢。すごい全体が白っぽくて、特になにもないんだけど、兄貴がいて、俺もいて、普通に話をしているんだ。」

 タクちゃんが煙草に火をつける。煙草の先端がチリチリと赤くなっていく。

「兄貴がね、言ったの。お前は好きなことをしろって。」

「好きなこと?」

「そう。それからね、キョンに伝言。月儘に。」

「は?」

「月儘に。月に従えってことじゃないの?よく分からないけど。」

 月に、従え。

「そんで、おしまい。いつの間にか普通の夢になって階段上ったり下りたり、カメの甲羅が外れちゃったり、カエルが子ども産んでそのカエルの子ってのがすっごい小さいカエルだったり。変な夢みて目が覚めた。普通の朝だった。」

「…カメの甲羅は外れないよ。」

「知ってるよ。」

「…カエルの子はおたまじゃくし。」

「知ってるって。だから夢だよ夢!」

「なんで?なんで私の夢には出てこないの?タクちゃんばかりずるいよ。」

「・・・。」

 タクちゃんは黙って爪を噛んだ。

 カラスが鳴いて、少学校のチャイムが聞こえた。

 タクちゃんは麦茶を一気飲みした。

「彼氏、大事にしてくれるのか?」

 タクちゃんの視線が散らばった本にある。

「そりゃあもう、宝物のように。」

「そうか。何かあったら言えよな。」

 優しいタクちゃん。

私、本当は分かっていた。タクちゃんが帽子を取らない理由。駅に迎えに行ったとき、観察していたわけじゃない。びっくりしたの。びっくりして動けなかったの。あんまり春海君にそっくりで。実家の部屋で見るタクちゃんはタクちゃんなのに、違う場所でみたら春海君になってた。春海君に会えるなら、もっと素敵な格好をしてくればよかったと後悔した。

「春海君なわけないのにね。笑っちゃうね。」

 タクちゃんは私の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。

 危うく泣きそうになった。

「お前、幸せになれよ。」

「しあわせだよ。」

「こおんな本読ませる男なんかやめろやめろ。」

タクちゃんが座ったまま足で本を蹴飛ばす。

「キョンは好きな男以外、見えないからな。兄貴んときも、そうだったからなぁ。」

 月儘に、か。私の元恋人は、私の元恋人の口を借りてメッセージを伝えた。私が初めて好きになった人は、お月様になった。

春海君は子どもの頃から、ずっと私を宝物のように扱ってくれた。タクちゃんはいじめっ子で、私はいつもいじめられていたけれど、春海君が守ってくれるから平気だった。すごく好きだった。将来は医者になると言っていた。キョンも助産婦になって春ちゃんと結婚する。いつも言っていた。初めてキスをした夜は眠れなかった。だのに突然お月様になった。優しいおばさまと一緒に。京子ちゃん、大きくなったらおばさんのうちへお嫁にいらっしゃい。だのに私のことを置いていった。

「あ、懐かしいもの発見。」

タクちゃんがひざで歩いて本棚に近寄る。拓朗さんが持ってきたカラーボックス。読んだ本はしまいなさいって。でも読んだ本たちはそんなところにいたくないらしく、私の部屋で自由に寝転がる。そこにあるのは、けして開かない本。

「学中のアルバムー。」

 タクちゃんは懐かしそうにあぐらを組んでその上でアルバムを開く。

「こんなのアパートに持ち込むなんて、余程寂しがり屋なんだね、キョンは。」

 持って来てはいるけれど、開かない。卒業アルバムというのはそういうものだ。悲しい事があっても開かない。第一革の表紙ではない。もっと安っぽい。中学の思い出じゃ癒してもくれない。

「ひゃっひゃ、変な顔。これ。あー、コイツ、知ってる。この前会った。髭マンだった。あ、おれだ。」

 タクちゃんの顔写真は空にある。撮影のとき喪中で、その後もしばらく休んでいたから間に合わなかった。一人だけバックが薄茶色。

アルバムが出来上がって配られたとき、タクちゃんは「おれ、死んだやつみたい。」と言った。誰も笑わなかった。

 タクちゃんがあまりに懐かしいとはしゃぐから、そんなに見ていないのかと聞いた。

「あー。なんかどっかいった。」

 アルバムっていうのは大切なものでしょ、と言うと、だって中学のは癒されないし革の表紙じゃないから、と笑った。

タクちゃんは帰るとき、送らなくていいと言った。明日北海道に帰るらしい。変な髪になったから、と再び帽子をかぶった。

「俺ね、大学変える。医者にはならん。そう言ったら彼女が泣いた。ひっでー。」

お前は好きなことを…。

ああ、そうか。タクちゃんがなりたかったのは医者じゃない。医者になりたかったのは春海君だ。春海君が受けようと頑張っていた大学を受け、春海君の道を歩いてきたタクちゃんは、辛かったのかもしれない。そう初めて思った。

窓から覗くと、タクちゃんは満面の笑みで大きく手を振った。私も手を振った。

タクちゃんはもうタクちゃんにしか見えなかった。



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