月、儘に

RYO

第一章

 拓朗さんは煙草を吸うとき必ずマッチを使う。

 ヘビースモーカーの拓朗さんがいるとき、私の部屋はいつもマッチの香ばしい香りで充満する。

 私は煙草の匂いもマッチの香りも好きだ。ついでに言うと拓朗さんの汗の匂いが一番好きだ。

 高校を卒業して以来、ほとんど忘れかけていた片思いの相手に二年ぶりに再会したとき、やっぱりこの人なんだわ、とため息が出た。私の運命の人はこの男なんだわ。だって浮き上がって見えるんだもの。人込みの中で、簡単に見つけたんだもの。


「京子ちゃん。コピー屋さんに行ってくるね。」

 拓朗さんは数式のいっぱい書かれた用紙を持って靴を履く。

 ワンルームだからベッドに横になったままでもその様子が見える。

 コピー屋さんだって。

 拓朗さんは左隣のコンビニをコピー屋さんと呼ぶ。それ以外に利用することがないから。でもこの間は煙草屋さんって呼んでいた。コピー屋さんが煙草屋さんもやっているくらいにしか思っていないのだろう。

「京子ちゃん。」

 一度出たドアから顔だけこっちに向ける。

「今日こそお掃除しようね。一緒に。」

「はい。」

 拓朗さんが私のアパートに通うようになってから、私の部屋は男臭くなった代わりに綺麗になった。この間遊びに来た子なんか

「どっちが住んでいるの?あんた?それとも男?」

と聞いた。

 勿論住んでいるのは私。でもヘビースモーカーで綺麗好きな男は、くわえ煙草で掃除する。そしてよく物を捨てる。この間なんか押入れの奥から中くらいのダンボール箱を出してきて、この中身はなんですか?と聞くから、わかりませんって答えたらそのままゴミに出された。彼いわく、わからない物はいらない物らしい。捨てられた後、はて、あの中身は何だったっけと一瞬思い出しそうになったけれど、恐くなって止めた。だってもうないんだもの。

 拓朗さんが出て行った部屋は急に寂しくなる。ずっとひとりで暮らしてきたのに、ちょっと部屋に裏切られた気分だ。

 灰皿の中身を捨てて、机の上を拭く。ベッドの上のグチャグチャになった大判タオルも適当にたたんでおいた。以前の私の部屋に比べれば見違えるほど綺麗になったのに、拓朗さんは来るたびに片付けろと言う。でも私は返事ばかりで片付けない。掃除は苦手なのだ。苦手なのを拓朗さんは知っていて、必ず最後にはやってくれる。母親みたいな人なのだ。私の彼は。

 ちょっと動いたらとてもくたびれたので私はベッドに横になって大判タオルを足で引き寄せて身体に巻きつける。

 夏休みももうすぐ終わってしまう。

「どこも行けなかったな。海にも、プールにも。」

 そんなところ行きたくもないけれど、つぶやいてはみたい。

 拓朗さんは今、高校三年生の担任をしている。進学校だから追い込みの時期だ。ほとんど毎日学校へ通っては数学の課外授業をしている。大学生の私は長くて退屈な夏休みを過ごしているから全くかみ合っていない。ような気がする。気がするだけだ。

 運命の再会の後、私の部屋をすっかり居心地のいい空間にしてしまうと、拓朗さんはよくやって来るようになった。金、土は大体泊まってくれる。だから私は、整頓されて自分の物がどこにあるか分からなくてウロウロすることが度々あっても許すことにした。

「ただいま。おうおう。」

 後ろ手で鍵を閉めながら、拓朗さんはアシカのような妙な声をあげる。

「何なの、それ。」

「見事に部屋が変わってないなーと思って。驚きの声なの、これ。おうおう。」

「何か腹立つんだけど。十分かそこらで何をどうしろって言うの。」

「あ、開き直った。」

「机拭いたよ。タオルもたたんだし。」

「あ、居直った。おうおうおう。」

 拓朗さんは笑いながらアシカだかオットセイだかの声を出して、コピーの束をテーブルに置くとベッドに上がってきた。

「たたんだの?これ。」

言いながらタオルの端をつまむ。

「そうよ。たたんだの。それで今寒いからまた巻いたの。」

「寒いの?」

「うん。」

「クーラーを止めなさい。」

 ベッドサイドのリモコンでクーラーの電源を切りながら口付ける。

 胸がぎゅっと痛くなる。

 拓朗さんとのキスは何回しても全身が縮むような錯覚に陥る。

 私が片想いしていたころ、拓朗さんはクールな数学教師だった。色が白くてメガネをかけていて、特別かっこいいわけではなかったが手が綺麗だった。指が長くて細くて関節がゴツゴツしていた。そして体形が良かった。お尻が小さくて腰の辺りのワイシャツのしわがすごく色っぽかった。

 この人を自分のものにしたい。

 私は心からそう思った。

 そうあれは高校三年の夏。


「ねえ先生。私たちって、運命なのよ。きっと。」

 恥ずかしげもなく、セーラ服から出た太い足を組んで私は言った。放課後すれ違った拓朗さんを呼び止めて教室で分からない数学の問題を教えてもらっていたときに、ポロっとこぼれ出てしまったのだ。

「それって口説いているの?」

 顔色ひとつ変えず、拓朗さんは言った。

 ショックだった。

 自分の馬鹿さ加減もショックだけど。

 もう少しうろたえてくれてもいいのに。

 赤くなる顔を必死で隠し、冗談を装ってその場を去った。もう追いかけるのは止めようと思った。

 それから少しして、拓朗さんは両親が離婚した女性徒と付き合っているという噂が流れた。私もその女生徒と拓朗さんが放課後の教室で二人っきりで話しているのを見かけたから、そうなんだなぁと思った。私は自分の両親が、特別仲がいいわけではないが健在で、それなりに裕福なのを少し恨んだ。その噂も消えぬまま卒業して大学生になり、拓朗さんのことは忘れていた。何人かの男の子の腕の中を通り抜けてきたけれど、彼らがワイシャツを着たときの皺があまり色っぽくなくてがっかりした。そういうときだけ拓朗さんを思い出して少し切なくなったりした。


「あ、俺帰るわ。明日早いんだよね。」

 拓朗さんは急にガバっと立ち上がる。

 都内にある拓朗さんの部屋はここから車で小一時間かかる。拓朗さんの部屋から学校まで電車で一時間半。毎朝六時には部屋を出る拓朗さんの起床時間は朝五時だ。

 それにしたってまだ六時。外は明るい。もう少しゆっくりしていってくれてもいいのに。

 でも私の思いは言葉になって口から滑り出たりしない。

「あら、残念。」

 なんて少し上ずった声で言うのが精一杯だ。

 拓朗さんが帰る気配を見せたとき、真っ先に私は頭で考える。

 この部屋に一人になったらまず何をしよう。

 拓朗さんの嫌いな今流行りのポップスを大音量でかけて、暑がりな拓朗さんは夏には絶対つからない湯船にたっぷりお湯を張って、バラの香りのソープで全身を洗ったらベッドに寝転んで長編の恋愛小説の続きを読もう。きっとページをめくるたびに空気が動いて、私の身体からバラの香りがただようのだ。

 「そんじゃあね。」

 通勤にも愛用しているリュックを肩に背負う。伸ばした背筋。金曜に着てきた背広の上着を片手に持って、ほら、あの皺。また胸がきゅんとする。

 少しだけ日に焼けた腕をつかんで、帰らないでと泣いたらどうなるんだろう。

 でもそんなことはしない。それは拓朗さんが一番嫌がる行為だもの。それが分かっているから、私はそんな馬鹿なことはしたりしない。たとえ目の奥が熱くなっても、拓朗さんがドアの外に消えるまでは笑ってやり過ごす。これから始まる私だけの楽しい時間を思って。

「そうだ、京子ちゃん。俺来週来ないから。なんかやること溜まっちゃって。」

「うそ…。女だな?」

「そう。美女との約束があってね。全くモテる男は辛いよねん。」

 そう言って拓朗さんは軽く手を上げると出て行った。

 私は台所の戸棚を開け、フライパンとなべの間からメンソールの煙草を取り出す。口にくわえてとびっきり愛らしいライターで火をつける。五千円もしたパールピンクのライター。一時間も迷った末に買ったものだ。

 煙を深く吸い込んで吐き出す。

 乾いた身体の隅々に行き渡り、心底幸せだと思った。

 回した換気扇から、駐車場のエンジンの音が聞こえる。二回、三回キュルキュルと回転してやっと動き出したエンジン。拓朗さんのゴルフはもうかなりくたびれていて、エンジンも一回ではかからない。でもそれがまた可愛いらしくて買い換えようとしない。男っていう生き物は、常に劣っているものに「可愛さ」を見出すものらしい。それに気付いてから「可愛いね。」と言われる度にエンジンのかからないゴルフを思い出してちっとも喜べなくなった。男の「可愛いね」は「バカだね」に等しい。

 私は台所に立ったまま、再び煙を大きく吸う。

 今なら間に合うだろう。ベランダに出れば大通りへ続く並木道を走って行く拓朗さんの車が見えるはずだ。

 私はノースリーブから出たムズムズするムチムチした腕を手のひらで摩る。カシャンと排水溝のゆがんだ鉄板の上を車が通る音。駐車場を出たな。思わず煙草を流しに放り投げて、ベランダに裸足のまま走り出る。拓朗さんの車は並木道の遥か遠く、大通りを左折したところだった。

 こういうときに、馬鹿なことをしたなと思う。大人しく煙草を最後まで吸って、考えていた楽しいことをさっさと始めればいいのに。何だって車を見にベランダに出たりするのだろう。私は汚れた足を軽く払いながら部屋に戻った。夕陽が差し込み始めた部屋にあるのは、拓朗さんの匂いだけだ。

 どうして帰る間際にあんなことを言うのだろう。来週は来ないなんて。もっと早く行ってくれればそれを理由にもう少し引き止めたのに。一緒にいる時間を有意義に過ごせたのに。コピー屋さんや煙草屋さんに行くときに金魚のフンになることだってできたのに。それに今日こそお掃除をしようねって言った。一緒にって言った。そんな時間、なかったじゃない。

 いや、でも、いずれにしてもこうして帰っていくのだ。その時間は必ずやってくる。拓朗さんは軽く「そんじゃあね」と言って部屋を出て行くんだ。だとしたらベタベタした時間は余計自分を苦しめるからいらない。

 そうだ。あくまでもクールでいなければ。

「クールウーマン。」

 私はポップスを大音量でかけて、再び煙草に火をつける。

 幸せだ、と思った。



月曜日は死んだように眠って過ごした。少しでも可愛く見せようと二日間見開いていた目が仮死状態になったから。二度寝、三度寝を繰り返し、四度寝しようかどうしようか迷ってムックリ起き上がった。もう夕方だった。

 私はご飯も食べず、顔も洗わず、勿論掃除機もかけず、驚いたことにトイレにも行かずそのままベッドの上で三分の一程読み進んでいた小説を開いた。

 恋愛小説っていい。この一冊、長くても二冊であるまとまりを持って幕を閉じるから安心する。私の恋も小説みたいに早送りできたらいいのに、と思う。あれこれゴタゴタしても何らかの結末があって、本を閉じれば固体となってそこに存在する。ただ「ある」だけだ。続きがないというところもいい。延々と続く恋愛小説なんてものがあったら、私は絶対読まない。自分の人生でも手一杯なのに人のことまで覗き見たいと思わない。

 大きな段落ごとに煙草に火を付けて、やっと読み終えたときには夜の十時を過ぎていた。

ベッドの上で伸びをして背中を掻いて、ねこみたいに縮こまって寝返りを打ち、結末がハッピーエンドでなくて良かったと思った。

 幸せな恋愛小説を読むと、無性に拓朗さんに会いたくなる。会って頭を擦り付けて喉を鳴らして、爪をたてて背中やら首やらを掻いてもらいたくなる。だから私の部屋には悲しい物語が山積みになっていくのだ。この間遊びに来て誰が住んでいる部屋かと聞いた友人は、同時に床に並べてある本のタイトルを見て、何かあったのかと真剣に聞いた。

 何もない。

 多分彼女が言うところの「何か」が起こらないために、私は見るからに暗く落ち込みそうなタイトルの本をむさぼり読むのだ。

 結局私はそのまま眠りについた。人間眠ろうと思えば幾らでも眠れるものなんだなと感心しながら。


 次の日。私は久しぶりに電車に乗った。

 実家に帰ろうと思ったのだ。一時間半も電車に乗る。暇ってすごい。私を親孝行な娘にしてくれるのだから。

 改札を抜けると親子連れやカップルで賑わっている。駅前広場で商店街主催のイベントをやっているらしい。暑い中パンダだかタヌキだか分からないような薄汚れた着ぐるみを着た人が色とりどりの風船を手に持ち子供たちに配っている。

「赤じゃなくてピンクがいいの」と駄々をこねている子の脇を通り過ぎてバス停に向かう。「コレはね、いい赤なんだよ。普通の赤じゃないんだよ。すごいんだから」と母親が言っているのが聞こえた。

 バス停も混んでいて三台見送った。何度も帰ろうかと思ったけれど、久しぶりにおばあちゃまの顔が見たいと思ってねばった。そんなだから家に着いたのはお昼をとうに過ぎていた。

「コンニチハ。」

 自分の家に入るのにこのセリフもどうかと思うがお正月以来帰ってきていないのでただいまというのも気恥ずかしい。

 引き戸を開けると長い廊下が見え、奥から母親が顔を覗かせる。

「あれ、いたの?」

「あら、京子ちゃん。」

 突然やってきた娘に、母は驚いたふうもなく前掛けで手を拭いた。

「突っ立ってないで上がんなさい。京子ちゃんのためにスイカを切ったところ。」

「だれのためだって?」

 私は脱いだ靴をキチンとそろえる。よそへお呼ばれでもしない限りそんなことはしないが、おばあちゃまに見られたらお尻をたたかれるので、これだけは忘れないように部屋を出るときから肝に銘じておいた。

 居間に入ると、私のために切られたと見せかけたおそらく母が一人でむしゃぶりつこうとしていたスイカが盆の上に直接のっていた。

母はもう一枚食器棚からお皿を出してくる。

「…だれのために切ったって?」

 塩を振りかけてあぐらをかいて食べるスイカは久しぶりだった。一人で暮らしているとスイカなんて食べない。

「あんたはまたそんな格好をして。おばあちゃまが帰ってきたら尻に紅葉だね。」

 私は左右に開いていたひざを胸の位置まで上げる。正座をすれば今度は母に怒られるのだ。母は正座をしてきたから自分のひざは象のように肉がたまっているんだと言って幼いころから決して正座を許さなかった。今私はまっすぐでまあ綺麗な足をしているが、それは母のおかげだろうか。

「おばあちゃま、また赤ん坊引っ張りに行っているの?」

「昨日新月だったからね。忙しいのよ。」

「何時ごろ行ったの?」

「今朝。五時ごろかな。初産だからまだまだかかるよ。」

 母は私の前にお茶を置くと向かいに腰を下ろしてスイカをかじる。小太りで歩くより転がった方が早いような母。多分ひざの肉は正座のせいじゃない気がする。

「私が帰るまでにおばあちゃま帰って来れるかな。」

 縁側に黒い子猫が座っている。また生まれたか。ヤヤちゃんは美猫だからモテるんだろうな。でもモテるがゆえに子沢山ママになっちゃって、猫って少し可哀相。

「なあに?泊まって行かないの?」

 母はペッペと種を出しながら言う。

「汚いって。ほら、あー、皿。皿から出てるよ。」

 どうしようかな。おばあちゃまが今夜いてくれるならおばあちゃまの部屋で眠ろうか。でも昨日新月だったなら、あと二日は赤ん坊ラッシュだろう。そうか。新月だったんだ。知っていたら今日来なかったのに。最近月を見ていない。もうしばらく。だって月よりも拓朗さんを見ているほうがずっと好きなんだもの。

「ママは?今夜いるの?」

「夜勤。」

なんだ、いないのか。ママもおばあちゃまも赤ん坊引っ張りに行ったら、私はこの古くて大きな屋敷に一人になってしまう。やっぱり帰ろうかな。

「隣の拓海君、帰って来てるよ。」

「ホント?泊まっていくわ。」

「はは。」

 母は笑った拍子にむせて咳き込んでいる。

 タクちゃんか。久しぶりだな。私はウキウキしながらスイカを平らげて早速タクちゃんの家のチャイムを鳴らした。


「おうい。」

 頭の上から声がして見上げるとタクちゃんが満面の笑みで見下ろしている。玄関の真上がタクちゃんの部屋なのだ。

「久しぶりー。上がってこいよ。」

 久しぶりに入ったタクちゃんの部屋は高校の頃と少しも変わっていなかった。さすがに好きだったアイドルのポスターははがされていたけれど、その部分だけ白く壁から浮いて見える。元の壁の色ってこんな感じなのね。タクちゃんも高校のときから愛煙家だから、その部分以外は茶色く変色してしまっている。昔、興味本位でタクちゃんの煙草を手に取ったとき怒られたっけ。絶対吸っちゃだめって。

「本当に久しぶりだな。」

 早速ベッドに腰掛けて、タクちゃんは煙草に火をつける。

「お正月に来たんだよ。でもいなかった。」

 小学校の時から使っている勉強机。そのイスにお尻を落ち着かせて懐かしい気持ちになる。この勉強机はうちとタクちゃんの家とで小学校の入学時に一緒に買ったものだ。イスや机の高さが調節できて長く使える物だといっていたけれど、私は高校入学と共に新しいおしゃれなテーブルを買ってもらい、この机は捨ててしまった。9年も使ったのだからもう充分だと思っていたけれど、いまだにこうして健在しているのを見ると新しい物に目移りした自分が悪い子に見えてくる。

「ああ、正月は向こうで友達と過ごした。ってことは、去年の夏休みか。キョンと会ったのは。」

 キョンって呼ばれてちょっと赤くなる。小中と、私はキョンちゃんって呼ばれてた。なのに高校に入ると京子さんになって、大学でもそれは変わっていない。友達はみな「さん」付けで呼びたくなる顔だと言う。つまり私は老け顔なのだ。

「そうだね。一年だね。タクちゃんグンと大人っぽくなったね。」

 そう言いながらタクちゃんの足元から頭の天辺までマジマジと眺める。

 男の子ってすごい。

 たった一年なのに関節がゴツゴツして明らかに男の人に近づいている。チビチビって馬鹿にしていたタクちゃんは、今や私をぐんと追い越して見上げるまではいかないがそれに近い感じだ。

「北海道はどう?」

「んん。寒い。流石雪国。積雪は半端じゃないよ。食い物だってみんなが言うほど美味くない。」

 そう言いながら立ち上がって、鞄から小さなアルバムを取り出して見せてくれた。みんなで飲み会をしている写真。スキーをしている写真。校門前で格好つけている写真。最後に女の子と顔をくっつけて腕を伸ばしている写真。タクちゃんは私がページをめくる度に、これはどこそこのスキー場でとか、これは同じ学部の先輩で、これはサークルの飲み会で、ここは学校近くの居酒屋で、などと細かく説明してくれたが私はほとんど聞いていなかった。だって知らないし、これから先も知ることはないだろう。なのにタクちゃんは私の一番関心がある人については何も言わなかった。だから私が聞いてあげた。

「この顔が大きい人は彼女?」

「相変わらず失礼だな、お前。」

「彼女?」

「そうでしょ。でなきゃこおんなことしないよ、俺は。」

 こおんなことって、顔をくっつけることだろうか。相変わらず硬い奴だ。今時こんなの彼女である証拠にならない。

「美人だね。」

「美人だよ。」

「顔大きいけどね。」

「…。」

 タクちゃんと付き合う子は大変だと思う。だってタクちゃんは顔がすごく小さい。一歳の時タクちゃんのママがメジャーを持ってうちに駆け込んできた。「頭囲が平均よりすっごく小さいの。他は普通なのよ。病院行ったほうがいいかしら」と涙ながらに語るタクちゃんのママに、「病院じゃなくてタレント事務所に連れて行きなさい」と答えたというママの話を聞いてから、タクちゃんと一緒に写真に納まるのを極力避けてきた。タクちゃんと一緒に写真に納まったら、顔の大きい人になってしまうのはもうしょうがない。

 再びベッドに戻って、タクちゃんは何本目かの煙草に火を付けた。

「お前はどうなんだよ。去年は何か変な男に引っかかったって言ってなかったっけ?」

 言葉と一緒に煙がポクポクと上がる。

「ああ、そうだっけ?」

 忘れてしまった。でもタクちゃんのおかげであの嫌な顔を思い出した。絶対靴下を脱がない男。あの靴下の中身は何だったんだろう。足ではなかったのかもしれない。

 私はイスからお尻をずらすように床に座り、ハイハイをして小さな丸テーブルの上にあるタクちゃんの煙草に手をかける。

「吸うの?いつから?」

 タクちゃんはライターを手に持って火をつけてくれた。

 キョンは絶対吸っちゃ駄目。なんじゃなかったっけ?

「半年前。」

「ふーん。じゃあ今の彼氏は半年前から付き合っているヘビースモーカーってところか。」

「そんなところだ。」

 少しの沈黙。

 やっぱり高校のときとはいえ、かつての恋人の恋人は気になる。お互いに。

「でもそのヘビースモーカーの恋人は、私がヘビースモーカーであることを知らない。」

「嫌がるの?」

「ううん。多分平気。でも彼が帰ったあとの楽しみが一つ減る。」

「なんだ、それ。」

 そうだ。楽しみが減る。減ったら困る。

「そういえばタクちゃんって彼に似ているかも。物持ちがいいところも、今時珍しい黒髪も、理数系の頭もさ。」

「理数系?どこの大学なの?」

 タクちゃんは煙草をくわえたままスナック菓子の袋を開ける。

「イヤ、高校。」

「高校生?」

「イヤ、教える方。」

 ポテトチップをつまんで頬張る。少し恥ずかしい。

「あ!あれか?」

「そう、あれ。」

 片思いしていた頃、よくタクちゃんに話していた。そのほとんどが満たされない気持ちからくる愚痴だったけれど。

「へえ。分からないものだね。キョン、あんなに泣いたのに。」

 そうだっけ。そんなに泣いたんだっけ。

 玄関の閉まる音がして、誰かが階段を上がってくる気配がした。慌てて煙草をもみ消す。

誰だろう。タクちゃんがここにいるんだから、この家に上がってこれるのはただ一人。

「コンニチハ。」

 ドアが開くと同時に、私は満面の笑みで挨拶する。少し頭の薄いメガネの顔が覗く。

「おお!京子ちゃんじゃないの。久しぶりだね。元気だった?」

「ええ。おじさまもお元気そうで。」

 失敗した。社交辞令だってばれた。だっておじさまの顔は明らかに憔悴しきっていて、目なんかただでさえ細いのに更にまぶたが落ちて病人みたいだ。

 おじさまはきょとんとした後、あはははと声を上げて笑う。

「冗談言うなよー。これがお元気そうって顔か?昨日夜勤でさ。朝帰ろうと思ったら急患が立て続けに入って。参っちゃうよ。今からおじさん寝るけど、ゆっくりしていってね。」

 ドアが閉まる音。私はきつく抱きしめていた両足をゆるめ、ほっと一息付く。同時にもう一度ドアが開いたので再びだらしなく開いた脚を抱く。タクちゃんは声を忍ばせて笑っている。

「久男さん、京子ちゃんが帰ってくるから早引けなのかな。」

 久男ってだれだっけ?ああ。

「いえ。今日は突然来ちゃったんです。知らないと思いますけど。」

「そう?さっき病院ですれ違ったらこれから帰るってニコニコしてたよ。鼻歌なんか歌っちゃって。ケーキかなんか買ってくるかもしれないよ。」

 それじゃ、と軽く手を上げて、今度はしっかり扉が閉まる。同じ仕草と言葉を使っても、拓朗さんがするのとはこうも違うものか。

「よかったな。会うの久しぶりだろ?」

 タクちゃんは横になって枕元の雑誌を開く。

「何で私が来たときに限って帰ってくるのよ。」

 イヤ、待てよ。

 アイツは知らないはずなんだ。わざわざママが教えたとは思えない。

「帰ってこないな。」

 タクちゃんが顔を上げる。

「帰ってこないよ。女だ。」

 タクちゃんの苦い笑い。

 いい年して看護婦の尻追っかけて、たまの休みも帰ってこない。恋が始まると鼻歌を歌い、飽きてくると仕事ばかりするようになる。いずれにしても私やママの元へは帰ってこない。ママが帰ってくるなって言ったら、そのようにいたすと言って平気で出て行き、少し経つと何事もなかったかのように居間に腰かけて茶をすする。

「そういう男だ。久男という男は。」

 そして私のパパだ。


 タクちゃんとはその後コレといって話らしい話はしなかった。二人で寝転がってグングンと暮れていく空を見ていると幸せだった。カラスが飛んでいくと「あ、カラスだ」と言った。ドロロンと地響くと「雷かな」と言った。そしてタクちゃんが欠伸するのを見て私も欠伸をし

「そろそろ帰るわ。カラスもみんな家に帰ったみたいだし。」

と言った。

「送るよ。」

「どこに?」

タクちゃんは少し冷えてきた部屋の窓とカーテンを閉める。薄暗い中でタクちゃんが半そでの上着を羽織る。

「明日、灯篭流しがあるんだよ。行かないか?」

「灯篭流し。」

「久しぶりだろう?」

「そうね。」

 最後に行ったのはいつだろう。そうだ。中学三年のとき。

 真っ暗な水面に映る等間隔に吊り下げられた堤燈の明かり。出店の焼きとうもろこしの香ばしい香り。満月の不気味な輝き。顔に当たっては逃げていく小さな虫。

 押しても押しても、大きな流れに乗らず戻ってくる灯篭。

 何度も何度も、私は腕を伸ばしてそれを押したっけ。泣きながら。

「行こう。一緒に。」

「タクちゃんと行くのか。色気ないね。」

 タクちゃんが私の頭をごつく。

「痛いなー。相変わらずお手が早い。」

「その言い方やめろよ。」

 私たちは笑いながら別れた。

 タクちゃんは数歩も離れていない私の家まで送ってくれた。


その夜、やっぱりパパは帰ってこなかった。ママも私が戻ってすぐ病院に出かけて行った。私は久々に自分の部屋のベッドで、少し埃臭いタオルケットに包まってデジタル時計の日付がぱらりとめくれるのを見ていた。ぐっと気温が下がり身震いしてきたからトイレに行って、ママの部屋から毛布を持ってきて上にかける。部屋のテレビはアパートにもって行ってしまってなかった。ギシッと天井が軋む音がする。がらんとした部屋から出て、本当はすぐにでも居間に飛んで言ってテレビの電源を押したい。でも私は待っていた。おばあちゃまを。おばあちゃまの部屋は玄関入ってすぐのところにあり、私はその隣の部屋だ。居間は玄関から続く長い廊下の突き当たりにあるから、そこにいたのではおばあちゃまの帰りを知ることはできない。

 おばあちゃまが居間を覗くことはめったになかった。ママとおばあちゃまはとても仲が悪いのだ。血がつながっていても人間色々あるらしい。だから私は血のつながりという言葉を使って表現するあらゆることを信じていない。

 午前二時を過ぎた頃、おばあちゃまが帰ってきた。少しうとうとしていた私は全く気付かず、おばあちゃまが布団をしいて押入れの襖を閉める音で目覚め布団を跳ね除けた。

「おばあちゃま。」

 そっと襖を開ける。

「…。京子?わあ、京子だ。どうしたの?帰ってきたの?」

 おばあちゃまは疲れた顔をぱっと輝かせて飛びついてくる。

 私も目を瞑ってそのあたたかい胸に顔をうずめる。ぽってり太っているのに背中をさすると骨に触れた。やせたのではない。年を取ったのだ。

「お茶飲む?いやあ正月以来だね。髪が伸びて大人っぽくなったね。」

 私の肩や腕をぽんぽんと叩いて、小さな卓上ポットから急須にお湯を注ぐ。朝方沸かしたお湯はもう湯気も立たない。当然お茶の葉も開かないが、おばあちゃまの部屋で飲むと不思議と嫌ではなかった。

 新しい畳の匂いがする。草の匂い。よく見ると畳ではなくござを新調したらしかった。

「疲れているんでしょう?もう寝たほうがいいんじゃない?」

 本当はそうされては困るのだが一応聞いてみた。答えは分かっている。

「いいの。赤ちゃんのエネルギーをもらってきたところだ。京子の顔を見たら余計生き返った。」

 幼い頃から幾度となく繰り返されてきた会話。同じ徹夜でもタクちゃんのお父さんやパパのような外科医と違って、疲れた部分を確実に新たな命のエネルギーで埋めることができる。そしてそのエネルギーを自分のエネルギーに変えていくのだ。現におばあちゃまは七十を超えると言うのに背筋も伸びていて、実にちょこまか動く。重い計りやら血圧計やらを持ってどこへでも飛んでいくのだ。壊れそうな白い軽自動車に乗って。幼い頃あの車には天使の羽が生えていると聞かされた。私はいまだにそうなのではないかと思うのだ。

 おばあちゃまはお茶をすすりながらお産の話を始めた。私は久しぶりに聞くその話にうっとりと耳を傾けた。

 どんなに辛いことや嫌なことがあっても、おばあちゃまがその日手を貸してきたお産の話を聞くと心が温かくなる。話の中で数え切れないほどの赤ちゃんがおばあちゃまの手に滑り降りて柔らかな産声を上げた。そのたびに私の中の普段静かな波が大きなうねりを伴って体中に流れていく。私は女なんだ、と思う。その波は女の部分なんだ。いつか母となったとき、子供の顔を見るたびにこうして激しく揺さぶられるのだろう。

 少しだけ開けた窓から涼しい風が入ってくる。いつも、夏は突然終わる。

「なかなか下りてこないのよ。手を入れて頭を撫でてやった。早くおいで。ママがしんどくなっているよって。でも下りてこない。」

「お母さんは?」

「もう嫌だ、もう嫌だって口癖になっちゃうくらい繰り返してた。」

 それはそうだろう。経験した人はみな鼻からスイカを出すようだと言う。鼻からスイカが出てきたら私だってもう嫌だ。

「やっとやっと出てきたら、そりゃもう今時珍しく大きいの。4012グラム。」

「ええ?よん…。」

 それは本当に鼻からスイカではないか。伸ばした両足をじたばたさせる私の手をポンと叩いて、おばあちゃまがニヤリと笑う。聞かせどころの始まりだ。

「驚いたのはね、ちっとも会陰が切れていないの。その赤ん坊は自分が大きいのを知っていて、ゆっくりゆっくり、ママを傷つけないようにゆっくり出てきたんだよ。」

 会陰とは、赤ちゃんの出口。つまりはあそこのこと。

「なあ?赤ちゃんに任せていたら何にも心配ないの。自分でようく考えて、出てきたいように出てくるんだから。」

 おばあちゃまは満足そうに頷く。二十時間もぴったりと付き添って背中や腰をさすり続けただろうに文句の一つも出ない。それどころか頑張った母親と赤ん坊を心から称えている。

「もしもさ、私に赤ちゃんできたら、おばあちゃまに頼もう。」

「当たり前。ママに頼んだら駄目よ。病院はリスクのある人だけ行くの。元気な妊婦さんは家で産む。家族の誕生なんだから。みんなでお迎えするんだよ。」

 ママはおばあちゃまと違って病院に勤務する助産婦だ。どんなに長いお産でも勤務時間が終われば交代するし、妊婦さんに付きっ切りになったりしない。

 おばあちゃまは昔小さな助産所を開いていた。体重計と診察台、それも脚を開くような形のものじゃなく、保健室にあるようなベッドと、赤ちゃんの大きさや重さなどを再現した人形。その位しか私には記憶がないが、しょっちゅうお腹の大きな女の人たちが来てはお茶菓子を食べながら談笑していたので覚えている。いつしか病院出産が主流になり、妊婦が大きな病院へ「安心」を求めて流れていった。ママはほら見たことかと、今時超音波で赤ちゃんの姿も見られない古い助産所で産む人はいないと言っていた。ママとおばあちゃまの仲の悪さはその頃から余計と酷くなったように思う。

 そのことを思うとき、私は不思議でならない。ママも私同様幼い頃からおばあちゃまの話を聞いて来たはずなのに、なぜ病院に勤務するのだろう。ママの勤める病院は沢山の科が集まった大病院だ。出産に夫が立ち会うこともできない。出産なのにまるで手術でもするかのような格好で医者が医療器具を握る。薬も使う。多分今日おばあちゃまが手を貸してきたお産だって、薬を使って陣痛を強くし、絶対二十時間も待っていないだろう。そして切れなくても済んだ会陰にハサミを入れる。私でさえ病院は嫌だと思うのに、なぜママはおばあちゃまのように「お産婆さん」にならないのだろう。

「ママと二人でもう一回助産所やったらいいのに。最近自然出産をって言う声が多くなっているみたいだし。」

 私の言葉にダメダメとおばあちゃまが首を振る。

「自然自然って言いながら、超音波の写真が欲しいだの、綺麗なお部屋がいいだの、母子別室にしてくれだのって言うのよ。産むときだけ自然だったらいいと思っている。今のままでいいの。今日の人もね、初めてなのにお月様の勉強をして、苦しみながらも今干潮だからこれから段々強くなるね、もうすぐかなって言うんだよ。私はそういう人が好きだ。自宅で出産するって決めた人はお産をしっかり勉強するから好きだ。」

 そういうものか。

 人は満潮に向かって生まれ、干潮に向かって死ぬと言う。その波が大きく激しいのが「満月」と「新月」なのだ。

 死ぬ。いつか私も月の引力に身を任せて死んでいくんだわ。

「明日、拓海と灯篭流しに行くんだ。」

「灯篭流し?そういえば春海君、七回忌だよね。何もした様子はないけど。」

 春海君…。

 もう七年も経つんだ。

 タクちゃんのお兄ちゃん、春海君は私たちより三つ年上で、高校三年の夏、タクちゃんのママが運転する車で事故に遭い死んだ。

「京子?恋人は、できたの?」

「何?急に。」

 面と向かって尋ねられると照れる。笑ってごまかそうとしたけれど、おばあちゃまがいつまでも私の目を見て離さないので仕方なく答える。

「いるよ。いいのが。もうすぐ三十路の。優しくて正直な人だよ。」

 おばあちゃまが安心したように笑ったので、今夜のお話はそこで終わりにした。

 欠伸をしながら部屋を出ると、真っ暗な廊下の窓に丸い光が見えた。月かなあと思って近づいたら玄関の外灯が映りこんでいるだけだった。

「そうか。新月だもんね。」

 何だか胸に嫌なものがこみ上げてきて、憂鬱になった。



電車に乗って目的地に着くと、浴衣姿にヨーヨーや金魚、焼きそばの空パックを握り締めた人たちで混雑していた。

「まるでお祭りだね。おしまいには花火も上がるしね。」

 タクちゃんはそれには答えず受付の前に立つと灯篭を二つ買ってポケットからメモ用紙を取り出し戒名を書いた。

「汚い字だね。」

「うるせー。」

 それを再び受付へ戻し、発泡スチロールの台へ紙製の灯篭を組み立て、中のロウソクに火を灯してもらう。その一つを私によこした。春海君のだった。タクちゃんはさっさと川辺の方へ歩き出す。ぼうっと明るく浮かび上がった戒名。ロウソクが風もないのに激しく揺れている。私はその炎から目が離せなくて、歩きながら何度もつまづく。

「なんか、いやだ。」

 思いの外大きい声が出てしまった。タクちゃんがバッと顔を上げて少し後ろの私を見る。

「…だって、春海君、紫が好きだったのに。こんなピンク。」

 紙製の灯篭は、赤や黄、紫や青、緑など実にさまざまな色があったが、春海君の灯篭はそれこそ派手な強いピンクだった。

「しょうがねーだろ。」

 タクちゃんはそう言うと少しだけ笑った。

 ズラリと並んだ出店。等間隔の堤燈。昔とちっとも変わっていない。

 少しめまいがした。でも頑張って歩いた。

 川辺から川面に向けて渡した簡易橋がいくつもあり、適当なところで橋を渡り先端の方へ行く。川上からいくつもの温かい光を抱いた灯篭がゆっくり流れていく。

 私はそれを見ていた。

 タクちゃんも見ていた。 

 みんな魂が乗っているのかしら。空に帰るために。せっかくお盆で遊びに来たのに、なんでこんなものに乗せられて帰されるんだろう。そもそもお盆に亡くなった人の魂が帰ってくるというのは本当なのだろうか。

 灯篭を流し終えて立ち上がった人と軽くぶつかった。

「あ、ごめんなさ…」

 川面から顔を上げて、私は足元からずるずると溶けていくような気がした。

 タクちゃんが泣いていた。

 無表情のまま頬を涙が伝う。

 その粒に、抱えているロウソクの光が映りこむのを見て思わず目を逸らした。

「またな。」

 それは辛うじて聞こえるか聞こえないかほどの小さなつぶやきだった。

 タクちゃんがかがんで水面に灯篭を置き、台をそっと押す。すーっと尾を引いて大きな流れに向かってゆっくり進むのを見て、私も慌てて同じようにかがんで台を押してやった。春海君の灯篭はゆっくり母親の後を追って、静かに、けれどあっさりと私の手を離れた。

 いつかのように、何度も何度も戻ってきたりはしなかった。


 次の日、アパートに戻ってくると留守電のメッセージランプが点滅していた。再生すると拓朗さんだった。

「あれ?もしもし?いないの?只今高速運転中。眠くなったから電話したんじゃありません。絶対違うのだ。」

 思わず吹き出す。雑音が多くて聞き取り辛い。耳を澄ませる。

雑音しか聞こえなくなった。電波が悪すぎると今度電話が来たとき文句を言おう。そう思ったとき

「愛してます。そんじゃあね。」

 誰もいないのに思わず部屋を見回す。不覚にも耳まで真っ赤になってしまった。

 電話口ではなくスピーカーから流れ出たその言葉は、甘ったるくてくすぐったくて、しばらくその場から動けない。

愛していると言われたのは初めてだった。そんな言葉を知っていたのか。意外だな。そう思ってニヤけたつもりがしゃくり上げていた。見開いた目から次々と熱い涙がこぼれてくる。

「あれ?おかしいなー。」

 わざとらしく自分に言ってから、私は子供のように声を上げて、泣いた。

 





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