推理

 黒髪眼鏡は海華の死体があった路地に私たちを連れて行った。ロビーを通るときに黒髪眼鏡が雫も一緒に来るように誘って、私たちは五人になった。

「足跡が偽装であることは、靴が落ちていた場所の不自然さから推論することができます。しかしその目的が分からなかった。……とりあえず靴のことは置いておきましょう。屋上に足跡があったことで、この事件はどのように見えたでしょうか。それは当初警察が考えていた筋書きである、海華さんが国松先生を殺害して自殺した――というシナリオです。逆に言えば、犯人は事件をそのように誤認させるために靴で足跡をつけたのです」

 私たちの前を歩きながら、舞台女優のように説明する。

「ところで、わたしは海華さんの死体を見て、靴以外にもおかしな点があることに気づきました。海華さんが手袋を着けていたことです。今日はこんなに暖かいのに海華さんはどうして手袋を着けていたのでしょうか。実際、屋上に残されていた海華さんの鞄の中にはマフラーが入っていました。朝、マフラーをつけて家を出たはいいものの、今日は予想以上に暖かかったのでマフラーを鞄に仕舞ったのです。しかしそれならなぜ手袋も一緒に片付けてしまわなかったのでしょうか」

「末端冷え性?」

 私がぼそりと呟いたが、その場にいた全員から無視された。

「ということは、海華さんが手袋をつけていたのは防寒のためではなかった。その目的について考えると、この事件の本当の構図が見えてきたのです」

「もったいぶるな」と、警部。黒髪眼鏡はそれを片手で制した。

「わたしの考えを言ってしまうと、海華さんは指紋を残さないようにするために手袋をつけていたのです」

「指紋? それは……」わたしは、半ば彼女の返事を確信しつつ質問した。「何に?」

「もちろんナイフです。つまり、海華さんは国松先生を殺そうとしていた。しかし実際には海華さんは国松先生を刺していません。ナイフには指紋を拭き取った痕が残っていたそうですが、もし海華さんが刺したのだとしたら、ナイフを拭き取る理由がありません。指紋なんか付くはずないのですからね。つまり、海華さんは国松先生に逆襲されて屋上から突き落とされたのです。……時系列に沿って説明しましょう。六時四〇分に国松先生は屋上の鍵を開けます。おそらく海華さんと待ち合わせていたのでしょう。海華さんは国松先生をナイフで刺し殺そうとしましたが、抵抗され失敗し、逆に海華さんが屋上から突き落とされます。これが午後七時」

「ちょっと待て。屋上の靴跡はどうなった」

「午後七時の時点では海華さんは靴を履いていたのです」

「それはおかしいよ。だって私が見たときは――」

「わたしが海華さんの死体を見た時点ではたしかに靴は履いていませんでした。しかし最初に死体を見たとき、すなわち守衛を呼ぶために鵜野下さんが死体から離れる前はどうでしたか? 靴があるのを確認しましたか? 鵜野下さんにそれを意識する余裕がありましたか?」

 私は雫を見た。彼女も一緒に海華が落ちてきたところを目撃しているのである。しかし雫は能面のような無表情で、遠くの地面をじっとみつめたまま動かなかった。

「雫……?」

「鵜野下さんが守衛を呼びに行っているとき、少しの間だけ雫さんが海華さんの死体と二人きりになった時間がありました。靴はそのときに雫さんが持っていったのです。おそらく鞄の中に隠したのでしょう」

「嘘。嘘! なんで雫が」

「もちろん、そのあとで国松先生を殺して、屋上に海華さんの足跡をつけるためです」黒髪眼鏡は平然と答えた。「血の足跡によって、死の順番は国松先生が先で海華さんが後だと警察は判断しました。しかしその錯誤こそが足跡の目的だったのです。実は逆で、先に死んだのは海華さんで、その後で真犯人により国松先生は殺害されたのです。つまり、雫さんによって」

「そんなの無理だよ! だってそのあと雫は――」

「わたしがここに来たときはもう雫さんはいませんでしたよね。わたしがここで海華さんの死体を調べていたとき、雫さんは海華さんの靴を持って屋上に行き、そこにいた国松先生を刺したのです」

 雫は反論しなかった。私が呼びかけても無言を貫いていた。

「元々、雫さんは海華さんと共謀して国松先生の殺害を計画していたのでしょう。もちろん実行犯は海華さんで、雫さんの役割は海華さんのアリバイを証言することです」

「アリバイ?」

「この路地はめったに人が通りませんからね。国松先生の死体を落とした海華さんが鵜野下さんたちの前に姿を見せたあとで、雫さんはたった今落ちてきたと言って死体を発見すればいいのです。そうすれば、死体が落ちてきたときに一緒にいた海華さんと雫さんは容疑者から外れることができます」

 黒髪眼鏡が雫をちらと見た。

「ところが、国松先生の死体が落ちてくるのを待っていた雫さんが見たのは海華さんの死体だったのです。雫さんはすぐに何があったのかを察します。見上げれば海華さんの死体を見下ろす国松先生の姿が見えたのかもしれません。とにかく雫さんは鵜野下さんを路地から遠ざけることにしました。そしてすぐに足跡のことを思いつき、靴を鞄に隠してから、守衛室の前にいた鵜野下さんと話してから屋上へ行きました。そして屋上にいた国松先生を、屋上に落ちていた海華さんのナイフで刺し殺したのです」

「ずいぶん推論が多いみたいだけど、そんなの想像だけならいくらでも言えるでしょ」

 雫が口を開いた。私や海華に軽口を叩くときのような軽い口調だった。

「あんたが話したことのうち、納得できたのは『足跡が偽装』ってことくらいで、あとはちょっと無理があるんじゃね?」

「国松先生の死体の状況を考えれば刺殺の瞬間には大量の血液が吹き出したと思われます。警部が指摘したように、国松先生の背後から腕を回して腹部を刺せば、返り血を浴びずに刺すことができます」

「だから――」

「しかし正面から返り血を浴びなかったとしても手には血がついたはずです。ところで雫さん、今日はこんなに暖かいのにどうしてずっとコートを着ているのですか? 海華さんと同じですね。ただし、雫さんは袖についた返り血を隠すためのコートです。……すみませんが、コートを脱いでいただけませんか? 大丈夫、今夜は暖かいですよ」

 黒髪眼鏡は優しく言った。私は雫と黒髪眼鏡を交互に見た。

「雫……そんなわけないよね?」

「弁護士を呼びます」

 私にではなく、もちろん黒髪眼鏡でもなく、警部の方を見て雫は言った。



***


 事件から半月が経った。私は塾の廊下で黒髪眼鏡と再会した。

「どうも」

 普通に挨拶して通り過ぎようとした彼女を私は引き止めた。

「雫、お父さんが雇った弁護士がついたんだって。……裁判は長引きそうだって警部の人が言ってた」

「そうですか。しかしまあ、服に着いていた血液が国松先生のものと鑑定されましたから、苦しい戦いになるのではないでしょうか」

 そっけなく感想を述べた。犯人を特定した先のことまでは興味が及ばないのだろう。

「……雫、なんで国松先生を殺したんだろう」

「それは海華さんの復讐のためでしょう。おそらく、最初に殺害の動機があったのは海華さんの方ではないでしょうか。雫さんは実行犯ではなかったわけですし」

 海華は死んでしまったし、雫も刑事の取り調べに対しては無実を主張し続けているので、海華と国松先生の間に何があったのかを証言できる人間はいなかった。

 そのことに関して私もさんざん警察から質問を受けたが。

 私は海華や雫から何も聞いていなかった。何も。

「私、塾辞めようと思ってた。他にやることもないからだらだら来てるけど……」

 理由はなかったが、そんな弱音を黒髪眼鏡に吐き出していた。

 他に吐き出せる相手もいなかった。二人いた親友はどちらも遠いところに行ってしまった。結局喫茶店には行けなかったし、あの日が嘘だったみたいに近ごろはずっと寒い日が続いている。あの暖かさがなければ雫も捕まることなく、今でも私の親友でいてくれたのだろうか。

「あまり気に病まないでください。よくあることです」

 あんなこと、二度とあってたまるか。

「高校に入ったら何がしたい?」

 ふと、黒髪眼鏡の将来に興味が湧いた。

「部活に入りたいですね。もっと面白い謎をいっぱい探したいです」

「そんな部活あるかな……」

「なければ自分で作ります」

「他の部員は?」

「自分で捕まえます」

「……捕まる人が可哀想」

 名前も知らない、未来の部員に同情した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

七歩目の墜落 叶あぞ @anareta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ