調査

 スーツの中年男は刑事だった。階級は警部。彼は最初に自己紹介をしたような気がしたが私は緊張と不安でそれどころではなかった。とにかく私たちは順番に呼び出されて警部の事情聴取を受けることになった。事情聴取は、二階にある会議室のひとつを借りて行われた。

 海華の落下について話せることはほとんどなかったし、路地で警官に話したことの繰り返しにしかならなかった。しかし警部は事件そのものではなく黒髪眼鏡の行動について知りたがっていた。特に、黒髪眼鏡が現場を荒らした可能性について検証したいらしかった。

 彼女が何をどのように触ったのか、またその過程で話したことついて洗いざらい吐き出すことになった。一応これは任意の事情聴取だということだったが、扱いはまるで容疑者だった。海華の靴がなかったことや、ブレザーのボタンが取れていたことももちろん話した。

「あの……海華の靴は、見つかったんでしょうか」

 事情聴取が終わったとき、つい私は警部に疑問を漏らしてしまった。

 警部は不機嫌そうに私を睨み「余計なことを聞くな」と釘を刺した。私は頭を下げて謝ると、泣きそうになりながら部屋を出ようとした。

「ビルの裏に落ちていた。それがどうした?」

 ポツリと、後ろから警部の返答が聞こえた。

 会議室を出て一階のロビーに行くと、雫がソファに座って待っていた。さっきは脱いでいたコートをまた着ている。ぺしゃんこになったナップサックがソファに立てかけてあった。

 他にも黒髪眼鏡や守衛の姿がある。さらにその外側に警官が二人立っていた。あれは事情聴取が終わるまで関係者を帰さないように見張っているのだろうか。

 雫は私に気づくとソファから立ち上がった。

「文穂、大丈夫?」

「私は大丈夫。……それより雫こそ」

「うん、さっきまでちょっと気分が悪かったけど……」

「さて、次はわたしですね」

 黒髪眼鏡が立ち上がると、ちょうど奥から警官が彼女を呼びに来た。

 意気揚々と事情聴取に向かった黒髪眼鏡だったが、戻ってくるまでずいぶんと時間がかかった。私の事情聴取も長かったがそれ以上だった。

 彼女が戻ってきたとき、取り調べをしていた警部も一緒に降りてきた。彼女の方は普通だったが、警部の顔は憔悴しきっていた。警部はロビーにいる私たちを一瞥すると、こちらには立ち寄らずに廊下の奥へ消える。

 私の横に黒髪眼鏡が座った。

「まったく、あの刑事ときたら」

 憤慨していた。

「どうしたの? 何か言われた?」

「逆ですよ。あの人はわたしがせっかく親切で色々助言しているというのにまったく聞く耳を持ちません」

「あのねえ、子供の言うことなんかまともに取り合うわけないでしょ」

「子供か大人かは無関係でしょう。話している内容が正しいかどうかが大切なんです。しかしあの刑事は正しい理屈にも耳を傾けようとしません。警察の捜査は肝心なポイントを外しています」

「警察の捜査って、何であんたが知ってるの?」

「推測です。質問の内容から、警察が何を探ろうとしていて、何を知っているのかが分かります。まず海華さんの直接的な死因は墜落で間違いないようです。わたしが見た通り落下の衝撃以外の傷はなかったそうです。もしくは屋上の――」

「ねえ雫、喉乾いてない?」黒髪眼鏡が海華の話を始めた途端に雫の表情が曇った。「私、飲み物買ってくるけど、何がいい?」

「じゃあわたしはおしるこで」

「あんたには聞いてない。ていうかおしるこって――」

「あたし、お茶とか水とかがいい」

「分かった。買ってくる」

 私は立ち上がって、一階の奥にある自動販売機のコーナーへ向かった。

 廊下の一番奥の、薄暗く狭い場所に自動販売機が三つ並んでいた。一応探してみたがおしるこは販売されていなかった。雫の分の烏龍茶を買って、迷った末に黒髪眼鏡の分は買わなかった。

 自動販売機のすぐ横が、アクリル窓のパーティションに囲われた喫煙スペースになっていた。中央に分煙機と灰皿があり、そこで警部たちが煙草を吸っているのが見えた。

「梨野が国松を殺して飛び降りた」

 警部が小声で話していた。相手の顔は見えなかったが、おそらく部下の刑事だろう。

「屋上の血の足跡は、梨野が国松を殺した後についたものだ。午後六時四〇分ごろ、国松が守衛室から屋上の鍵を借りているのが確認できた。その後、梨野が屋上に行き、国松を殺害し、午後七時ちょうどに飛び降りた」

 まさか、海華が人殺しなんて――。わたしはペットボトルを持ったまま、息を潜めて刑事の話に耳を澄ました。

「ふひひひ。刑事さん、それはいただけませんね」

 後ろから声がした。振り返ると黒髪眼鏡が立っていた。彼女は私を通り過ぎて、そのまま喫煙スペースにいる刑事たちのところへ向かった。

「国松さんは腹部を滅多刺しにされて殺されていました。つまり犯人は相当な返り血を浴びたはずですが、海華さんは頭部からの出血はありましたが服にはまったく血が付いていませんでした」

「またお前か」警部がうんざりした表情で言った。「……背後から腕を回して腹を刺せば返り血はつかないだろう」

「海華さんの制服のボタンが取れていました。これは誰かと揉み合って取れたものだと推測されます。もし海華さんが国松先生を殺したのだとしたら――そして海華さんが自ら飛び降りたのだとしたら、揉み合った相手は国松先生だということになります。もし先にナイフを刺した後で揉み合ったのだとしたらそのときに血が海華さんの服に付くはずですし、逆に揉み合った後に背後から腕を回して刺したのだとしたら、そんな相手に背中を許すのは不自然です。どちらの場合もおかしい」

「それは――」

「国松先生を殺害した凶器はナイフでした。ということは事前に準備をしていた計画的な殺人ということになりますが、塾の帰りに待ち合わせの約束をしつつ講師を殺して心中するというのはかなり無理があるストーリーではありませんか? それに自分の意志で飛び降りた人の靴がビルの裏に落ちていたというのは……。靴だけが飛びすぎです」

「ええい、うるさい。素人が事件に首を突っ込むな」

「わたし、犯人を知っています」

 黒髪眼鏡の言葉に、刑事二人は声を失った。

「どういう、意味だ?」

 やがて、絞り出すような声で、警部が言った。

 黒髪眼鏡はふひひひひと笑う。

「言葉通りの意味です。ただし、いくつか確認したいことがあります。確認もなく、それを伝えることはできません」

「確認は警察がやる。お前は知っていることを話すだけでいい」

「知っていることを話す――簡単に言いますが、知っていることを話すと言っても、自分の記憶のすべてを言葉にして伝えられるわけではないでしょう。記憶は言葉にした時点で多くの情報を失ってしまうのです。人の思考は言語よりもずっと繊細で抽象的なもので、言語はそれをかなりの精度で表現できますがしかし完璧ではありません。また正確に言葉に変換したとしてもそれを受ける側の人間が同じ言葉に対して同じ意味を見出だせなければ言葉は誤読されてしまいます」

「待て待て、一体何の話だ」

 まくし立てた黒髪眼鏡を、もうひとりの刑事が制止した。黒髪眼鏡は続ける。

「ですから、もう一度現場を見せて欲しいと言っているんです。質問にも答えて欲しい。そうすれば、色々と思い出せることもあるだろうし、わたしが話すことにも自信が持てます。そうじゃなきゃ、記憶が曖昧な部分は適当に想像で補って答えてしまうかもしれない。刑事さんたちもそれじゃあ困るでしょう。欲しいのは正確な情報なんでしょうし。ね?」

「おいお前、遊びじゃないんだぞ」

「わたしはここの塾に通う生徒で、殺された二人と面識があります。わたしでなければ気づけないことがあるかもしれない――とは、思わないのですか?」

 警部と刑事は顔を見合わせた。

 その後もしばらく黒髪眼鏡と警部たちの問答が続いたが、最終的には警部たちが折れて現場をもう一度見せるということで決着した。見せるだけならタダだし、何か新情報が出てくれば儲け物、というくらいで、本気で黒髪眼鏡のことを信じている様子ではなかったが。

「ついでに、この子も一緒に立ち会ってもらいます」

「な、なんでわたしが?」

「第一発見者ですから」

 困惑する私の顔を見て、黒髪眼鏡は気持ち悪く笑った。



***


 雫をロビーに残して、わたしたちは屋上へ移動した。

 街の明かりがあるとはいえあたりはすっかり暗くなっていた。黒髪眼鏡は屋上にいた警官から懐中電灯を借りた。

 屋上に倒れていた死体はすでにそこにはなかったが、血の痕が生々しく残されていた。

 まず黒髪眼鏡は海華の靴が落ちていた場所を確認した。靴は屋上から見て、海華が死んでいた路地から九〇度向きを変えたビルの裏側に落ちていた。

 警部に靴の位置を確認したあと、次は屋上の足跡を観察した。両手と両膝をついて、舐めるように靴跡を観察して、屋上の縁まで移動した。

「そういえば」と、彼女が私の方を見た。「名前を聞いていませんでした。あなた、わたしとは初対面ですよね」

「……鵜野下(うのした)。そういえばわたしも、あんたの名前聞いてない」

「鵜野下さん、海華さんの死体を見つけたときのことを話してください」

 黒髪眼鏡は私の質問は無視して自分の知りたいことを訊いた。私は内心イラつきながらも、自分を抑えて海華の死体を見つけたときのことを話した。

 自分ではなるべく正確に話したつもりだったが、ところどころで黒髪眼鏡の質問が入る。塾が終わって帰るところから、黒髪眼鏡が路地に現れるまでの間の出来事を記憶の限り引き出された。黒髪眼鏡の尋問の手腕に感心しているのか、刑事たちも黙って見ているだけだった。

「死体を見たとき、何か不審な点はありませんでしたか?」

 最後の質問がそれだった。分からない、と私は答えた。

「屋上はいつも鍵がかかっていたと思いますが、誰が開けたのか見当はついているんですか?」

 次は私にではなく警察に対しての質問だった。

「……鍵を開けたのは国松だ。守衛室に鍵を借りに来たのを守衛が覚えていたし、記録にも残っている。鍵の貸出簿に」

「時間は?」

「六時四〇分ごろだ」

「鍵は見つかっているんですか?」

「国松のズボンのポケットに入っていた」

「国松先生を最後に見たのは守衛ですか? もちろん、生きている姿を、という意味です」

「七時になる少し前に、塾の生徒が廊下で国松と話している」

「具体的にはどれくらいですか?」

「生徒の記憶があやふやで、正確な時間は分からないと言っている。少なくとも午後七時より前だったのは確かだと断言していた。まあ、六時四〇分からそう離れてはいないだろう。その生徒は午後七時に友達から携帯電話に着信があるまで職員室で他の教師と話をしていた。それからも塾に残っていたが一人だったそうだ」

「ちなみにその生徒、誰ですか?」

「浅井陽向という――」

「浅井さん?」

 思わず私がその名前に反応した。警部と黒髪眼鏡が私の方を見た。何でもない、と手を振って私は黙る。

「浅井陽向は廊下で偶然会った国松に授業のことで質問しようとしたらしい。そしたら今急いでいるからと断られたそうだ。それで職員室へ」

「そうですか……」

 黒髪眼鏡は小さく呟くと、しばらく黙ったまま屋上を歩いた。屋上の端から、国松が倒れているあたりまで、ゆっくりと何度も往復する。その距離は六歩分。

「もういい、遊びは終わりだ! 時間を無駄にさせやがって」

 とうとう警部が怒鳴った。黒髪眼鏡に追いついて手首を掴もうとした。

「靴が遠くに落ちていたことがどうしても説明できないんです」そして黒髪眼鏡は唐突に語り始めた。「海華さんが落ちるときに脱げたのだとしたら飛びすぎです。すると、海華さんの靴をビルの裏に放り投げた別の人物がいるのではないか、と推測できます。必然的に、屋上に残っていた足跡もその人物の偽装ということになります。……犯人が靴の跡を偽装したのだとしたらその目的は何でしょうか? それは、殺害された順番を偽装するためではないでしょうか」

 黒髪眼鏡は両手を前に出すと、死体があったあたりに向けた。

「国松先生が屋上の鍵を開けたのは六時四〇分ごろ、しかし国松先生は屋上には出ずに引き返したとしたらどうでしょうか。このとき、浅井さんが国松先生を目撃します。そして午後七時ごろ、海華さんが屋上に来て、犯人によって靴を奪われた後で地上に突き落とされました。それを鵜野下さんたちが目撃した……。国松先生が屋上に入ったのはその後です。犯人は国松先生を刺殺し、靴で足跡をつけたあとで、それをビルの裏側に落とした……。わたしたちが屋上に来たのは七時三〇分ごろでしたから犯行は十分可能です」

「じゃあ犯人は誰なんだ?」

「そこが問題です。死亡の順序を入れ替えたことで犯人にどのような得があるのか……。結局死亡の順番を入れ替えたところで殺害の瞬間に犯人が屋上にいなければならないのは変わりません。少なくとも午後七時には海華さんが落下しているのですからそのとき屋上にいたのは間違いありません。国松先生が殺された時間が午後七時より前なのか、後なのかは変わるでしょうが……」

「もういい。それじゃ、結局犯人は分からないってことじゃないか」

「いいえ、犯人の特定まではもう少しです。ポイントはここにある六歩の足跡です。これがこの事件のすべてではないかと思います。勘ですが」

「お前、犯人を知っていると断言していたじゃないか」

「どうせすぐに犯人を特定できるんですから『知っている』と言ってもそれは誤差の範囲内でしょう」

 黒髪眼鏡は悪びれもせずに言い放った。なんという自信だろう。

「ところで、国松先生を殺害した凶器に指紋は見つかりましたか?」

「……取っ手に血を拭き取った跡が残っていた」警部の顔を伺いながら刑事が答えた。「指紋は残ってない」

 黒髪眼鏡はしばし思案したあと、「屋上に海華さんの鞄が落ちていましたが、中には何が入っていましたか?」

「そんなの、何の関係があるんだ」

「ひょっとして防寒具が入っていませんでしたか?」

「防寒具ぅ? ……たしか、マフラーが入っていたと思うが」

「そうですか」

 黒髪眼鏡はそっけなく答えた。やがて「ふひひひひっ!」と大声を立てて笑った。

「分かりました」

「な、何が?」

「何って、話聞いてなかったんですか。犯人ですよ。犯人が分かりました」


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