七歩目の墜落
叶あぞ
墜落
チャイムが聞こえて、私はほっと肩の力を抜いた。生徒たちがざわつく中で、塾の講師が大声で課題の提出について説明している。はやる気持ちを押さえながら講師の言葉をノートに書き留める。
じゃあまた明日、と講師が言ったところで、教室の生徒たちは不可逆的に騒がしさを増した。
今は中学三年の冬休みを目前に控えており、講師曰く「高校受験のためには今がもっとも大切な時期」――だったが、似たような言葉を夏休みの特別講習でも聞いた気がするし、きっと年が明けても言われるだろう。
つい昨日まで寒い日が続いていたが、今日は朝から太陽がしっかりと照りつける温かい日だった。高校指定のダッフルコートは塾へ来る途中にぐるぐると丸めて鞄の中に押し込んだ。圧縮の足りないダッフルコートの塊を飲み込んだ鞄の輪郭が歪んでいた。
こんなに天気の良い土曜日を受験勉強に費やしてしまったのは健全ではないような気がする。そもそも私は受験勉強に対するモチベーションがまるでなかった。中学に進学するときはあんなに放任していた母が、一体何を吹きこまれたのか、高校受験を前にして突然熱心な教育ママに変貌していた。
とはいえこれまで受験競争とは無縁でいた私がいきなり週四日の塾通いを始めたところで「レベルの高い高校に入学する」ということ自体にまったく何の魅力を感じていないのだからこれは授業料と時間をドブに捨てているようなものだ。母は私に、良い高校に入学することの意義を必死に説いたが、私にとっては遠い将来のことよりも先週駅の近くに新しくできた喫茶店のパフェの方に関心があった。
というわけで今日の帰りは友達と喫茶店に行く予定だった。
最前列の席に座っていた幼なじみの
ブレザー、鞄、コートとすべて学校指定のもので固めた私とは違い、雫は冬だというのにデニムのショートパンツと黒のタイツを穿いて、体温を犠牲にして全身をお洒落に装飾していた。上は薄いブルーのシャツの上からコートを着ていて、首からは校則違反のネックレスをぶら下げていた。
「
「もち」私は笑顔で答えた。「パフェのためにお昼抜いてるからね」
「それ気合入りすぎでしょ」
雫は八重歯を見せて笑った。
「あそこのパフェ知らないの? 超でかいんだよ。そんで学生は五百円。そのために学生証も持ってきてるし」
「マジ? あたし何も持ってきてないんだけど」
「私が見せれば大丈夫でしょ」
雫から少し遅れてクラスメイトの
私と雫は小学校から、海華とは中学二年のとき以来の仲で、私にとって友達といえばこの二人の顔が真っ先に浮かんでくる。
その顔の一つが浮かない表情だった。
「あのー。すみません、わたし……」
「どうしたの?」
「ちょっと先生に相談することがあって、今日は行けないかもしれません」
「えー」
「すみません……」
海華が申し訳なさそうに謝った。海華が敬語なのは申し訳なさとは無関係だ。海華は敬語で話すのが癖になっているらしく、前に海華と両親が電話で話しているのが聞こえたときも彼女は敬語だった。多分、敬語以外の日本語が身についていないのだろう。
「先生って? 何かあったの?」
「えーと、授業で分からないところがありまして……」
雫に海華が答えた。
「えー。海華成績良いんだしこれ以上勉強しなくていいじゃん」
「いや、勉強しなくていいことはなくね?」
「勉強しているから成績が良いんですよ」
謙遜しないのは海華の美点のひとつだと思う私。
「まー行けないなら仕方ないね。喫茶店は逃げないし明日も営業してるし。海華とは明日行くってことで、今日は私たちだけで行ってくるね」
「え。文穂、明日も行く気?」
「喫茶店が閉店しなければ」
「わー。すごい決意。頑張って食べ尽くしてくれたまえ」
「雫も頑張るんだよ」
「だったら金を貸せ」
「明日ならわたしも参加できますね」
梨野家の財力なら喫茶店ごと買い取れそうだ。もちろんそんな無意味なことはやらないだろうけど。
教室を出ようとしたとき、私たちの前をクラスメイトの
「浅井さんも喫茶店行かねー? パフェ食べようよ」
陽向は扉を開けようとした手を止めて、私たちの方を振り向いた。
「はあ?」
嫌味っぽい声でそれだけを言って教室を出て行った。エレベーターとは逆の方に向かったから、多分自習室に行くのだろうと思った。
「……あたし、何かマズいこと言った?」
雫が泣きそうな顔で私に言った。あえて言うなら浅井陽向に声をかけたのがマズかった。
浅井陽向はとにかく性格が悪い。性格が悪いというのは言葉が不躾とか態度が無礼とかそういうことではなく、たとえば友達が多くて成績も優秀な、クラス内でもヒエラルキーが上位の人には露骨に媚を売る一方私たちのような「泡沫」クラスメイトに対しては見下す態度を隠そうともしない、そういう部分に由来する。
ということを教室を出て廊下を歩きながら雫たちに説明した。
「ええー。つまりあたし、どうでもいい人だって思われてるってこと?」
「あいつはそういう奴なの。君子危うきに近寄らず」
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
「勉強の成果が出たな、雫」
「諺の授業は受けてねえっつの。……ていうか、単に文穂が浅井さんに嫌われてるってだけじゃね?」
「なんで私が」
「だって文穂、浅井さんのこと嫌いでしょ?」
「向こうが私のこと嫌ってるんだよ」
「あちらも同じことを思ってそうですね」
「そうだよ。文穂が心を開かないからあたしも巻き添え食らったんじゃん」
「私のせいかよ」
雫が拳でぐりぐりと私の脇腹をえぐった。
そのとき、トイレから出てきた髪の長い女子とぶつかりそうになった。私が謝るよりも先に、その女子は私たち三人の間をするりと通り抜けて行ってしまった。眼鏡をかけていたのと、私と同じ学校の制服を着ていたのは確認できたが、顔は一瞬しか見えなかった。
「……何あれ」
「それじゃあわたしは職員室に」
エレベーターに向かう私たちは海華と別れた。
***
竹熊ビジネスプラザビルの四階と五階がすべて塾のフロアになっていて、自習室と教員室は五階にあった。
一階のロビーは暖房が効きすぎて暑いくらいだった。
ロビーで塾帰りの中学生に混じってスーツを着た会社員の姿が見えた。三階から一階にはそれぞれどこかの会社の事務所が入っていて、休日でもビルは平常運転だ。
通用口のそばに設けられた詰め所の中では、いつものように年老いた守衛がこちら側に背を向けてテレビを見ていた。
ビルの外に出ると冬だというのに空気が生ぬるい。まだ七時前だというのにもう街の看板がきらびやかだ。
「今日はあったかいね。昨日はマジ酷かった。凍え死ぬかと思った」
雫が伸びをしながら言った。すでにコートはナップサックの中だった。
「そんな格好で来たからでしょ。明日は寒くなるって言ってたよ」
「誰が?」
「天気予報」
「これ、冬用の服だよ」
「足、丸出しじゃん。それだったらジャージの方がマシ」
「ジャージだったら制服着るかなあ……」
そのとき雫の携帯電話が鳴った。ナップサックから取り出し画面を見て「あ、海華だ」と言った。
「はいはいもしもーし。どしたの?」
雫が立ち止まって通話を始めたので、わたしは手持ち無沙汰になりながら隣で待っていた。
「え、あー。分かった。じゃあ文穂と待ってるから、すぐにね」
雫は電話を切った。
「海華、来るの?」
「うん。なんか話がすぐ終わったから、やっぱり一緒に行くって」
「ふふふ、海華もしょせん勉強より甘いものなのだな。ういやつめ」
雫は携帯電話をナップサックに戻すと、通りのガードレールに体を傾けた。まだ海華が残っているはずのビルを見上げる。
「中で待つ?」
「塾以外の場所でたむろするなって先生に言われてたじゃん」
雫を気遣って提案したのだが真面目なことを言われてしまった。以前、塾帰りの子供がビルの休憩所で騒いでいたと他のフロアの利用者からクレームが付いたらしく、塾は生徒に対して速やかな帰宅か、さもなければ塾のフロアから外に出ないことを求めていた。
今から上に戻っても海華とすれ違いになりそうだし、ここは雫の言うとおり大人しく待つしかないだろう。今日が春のような気温で助かった。喫茶店に行ったらパフェよりもまず喉を潤すものが欲しいくらいだ。レモネードとか。
「そういえばさ」ビルを見上げたまま雫が言った。「さっき廊下ですれ違った人いたじゃん。髪の長い」
「ああ、ぶつかりそうになった……。知ってる人?」
「あいつ、あたしと同じクラスになったの。すっげー変なやつで」
「あんたも大概だけどね」
「休み時間にヤスリで小さい彫刻作ってたり、教室に入ってきた蛾を捕まえて標本にしたり」
「うわー。斜め上すぎる」
「クラス替えした最初の日に順番に自己紹介したんだけど、あいつさ、名前も名乗らずに『どうぞおかまいなく』ってだけ言って座ったんだよ。先生がソッコーでツッコミ入れてたけど。前からここの塾に通ってるのは知ってたけど、一回も喋ってないんだよねー」
「成績悪いの?」
「いや、けっこう良かった気がする。遅刻と無断欠席ばっかしてるけど」
「じゃあなんで塾通ってるの?」
「親に入れさせられたんじゃない? 三者面談の常習犯だし」
そう言って雫はけらけらと笑った。
私たちはしばらくそのクラスメイトの話で盛り上がった。私は携帯電話で何度も時間を確認していたが、一向に海華は出てこなかった。一度海華に電話をかけてみたが彼女は出なかった。授業前に音が出ない設定にしてそのまま戻すのを忘れているのかもしれない。
「海華、遅いね」
会話が途切れたところで、私がぽつりと漏らした。雫はガードレールから離れ、ナップサックの紐を掴みながらビルの前を何度も往復していた。
「一旦戻ってみる?」
「でも、もうすぐ来るって言ってたし」
私が提案しても、雫はそう答えて取り合わなかった。また私が携帯電話で時間を確認すると、ちょうど七時になったところだった。さすがに遅すぎる。
そのとき、ビルの前を往復していた雫の足が、折り返しの直後に止まった。
「海華……」
最初私は、海華がビルから出てきたのかと思った。しかしガラスの自動ドア越しに見えるビルの中に海華の姿はない。一体何を見たのかと雫の方を向くと、彼女が見ていたのはビルの中ではなく、ビルの脇にある細い路地だった。
私の立っていた位置からはビルに遮られていたので、雫の方に近づいて彼女の視線の先を確かめた。
――最初、それは何かの冗談だと思った。その光景はあまりにも非現実的で、馴染みがなく、滑稽さすら覚えるほどだった。
狭く埃っぽい人気のない路地の奥に、制服を来た女が、アスファルトの上にうつ伏せで倒れていた。自信はなかったが、それは梨野海華の背中に見えた。
ブレザーの黒い背中は汚れ一つなかったのに、肩まである黒い髪は頭から放射状に散乱して、頭部からの赤黒い流血と絡み合っていた。癖がなくて綺麗な髪。羨ましいと言って何度も触ったことのある髪。主が死んでも折り目を保っているスカート。マネキンのように綺麗な太腿と黒のソックスにピカピカの靴。梨野海華の死体。梨野海華の死体。
その現実を受け入れ始めると、笑いの感情がさっと引いて、そこには不安が残された。
「これ、これって、どうなってるの? 海華、死んでる、の?」
私は雫に言った。雫にそれを確かめて欲しかった。親友を助けるために、まず自分が駆け寄るべきだったのかもしれない。しかし私は、薄汚れた路地に広がる赤黒い血と、不自然にねじれた手足と首、それに見開いたままの目が――その光景のすべてが気持ち悪くて、とても私にはできそうになかった。
「警備の人……ビルの中に行って、警備の人呼んで来て。あと救急車!」
呆然とする私のすぐ横で、雫が大きな声を出した。
私は逃げるように走りだした。じれったい自動ドアが開くのを待って、守衛室の老人の元へ向かう。
守衛の老人は私たちがビルを出たときと同じように、通路側に背を向けてテレビを見ていた。私がガラスの窓を叩くと彼は怪訝そうな顔をこちらに向けた。
「何? どうしたの?」
「あの、私の友達が倒れて……血が出てるんです! 救急車呼んでください!」
守衛は呆けたように私を見ていたが、事態が重大であることは伝わったのか、慌てて机の電話機を取ってダイアルした。守衛を介して救急からいくつか質問があったので答えた。と言っても、私は海華に触れてもいないし倒れたところも見ていない。確信を持って答えられたのは、意識がないということと出血があるということだけだった。
通報を終え、守衛が受話器を置いたところで雫もやってきた。
守衛が警備帽子をかぶりながら私に尋ねる。
「その子はどこにいるの?」
「こっちです!」
私は海華のところまで守衛を案内しようとした。しかし雫は守衛室の前から動かなかった。
「雫?」
「ごめん、あたし……ちょっとトイレ」
そう言って、雫は私の返事を待たずにトイレの方へ歩いて行った。
「ううん、雫は休んでて」
背中に声をかけると、彼女は振り向かずに手を上げて応えた。
守衛を連れて、海華の倒れている路地へ向かう。倒れている海華を見て守衛が真っ先にやったことは、耳元で声をかけることだった。私も、まず最初にそうすべきだったのだ。と言っても守衛はずいぶんと及び腰だったが。
「あの……守衛さん。海華、大丈夫ですか?」
内心は大丈夫なわけないだろうと思いながら、海華に近づけなかった言い訳の代わりに質問する。
「いや……、これは分かんないねえ。あんま動かすとよくないかもしれんから、救急車来るまでこのままにしといた方がいいやろうね」
「救急車……どれくらいで来ますか?」
「どうやろう、このへんの道夕方混むから」
救急車が来るまでずっとここで待っていなければいけないのだろうか。しかし海華を置き去りにして守衛室で待つというのはあまりにも不義理だ。
「どうしました?」
背後から声をかけられた。振り返ると、塾が終わったときに私とぶつかりそうになった黒髪眼鏡の女だった。
「どうしました?」
私がすぐに答えずにいると、もう一度同じ質問を繰り返した。質問をしながら、私たちの間から、路地に倒れる海華を覗き込んだ。
「あの……」
「失礼」
黒髪眼鏡はあのときと同じように、私の横をするりと通り抜けて海華のそばへ近づいた。躊躇することなく海華の手首をつかむ。しばらく海華を見つめて佇んだ。
「死んでますね」
と、私たちに報告した。私は返事に窮した。守衛を見ると、彼もバツが悪そうに私を見ていた。
「それで」続けて言う。「どちらが殺したんですか?」
「ち、ち、違う! 私たちじゃない!」
「ではあなた方は?」
「……第一発見者」
「なるほど。そういうことにしておきましょう」
黒髪眼鏡は頷くと、私たちに背を向けて海華の体を調べ始めた。
うつ伏せに倒れていた海華の体を裏返す。
「額にある傷が致命傷でしょうか。頭がばっくり割れてますね。打撲以外に目立った傷は……特になし。傷の状態から見ると、顔を下に向けた状態で落下したみたいですね。とはいえそれだけでは事故なのか他殺なのか自殺なのか判断できませんが……。ところで、この死体に誰か触りましたか?」
「……触ってないと思うけど」
黒髪眼鏡が海華のことを「この死体」と呼んだのに腹が立った。
彼女は「そうですか」と返事をすると、私たちのことなど意に介さずに、今度は海華から一歩離れて周辺を観察し始めた。
「ところでこの人、普段から靴下だけで外を出歩く習慣があったわけではないですよね? あ、もちろん、生きているとき、という意味ですけど」
「え……?」
言われて初めて気がついた。海華の足は黒いソックスで、どちらの足にも靴は履いていなかった。
「気づいていなかったんですか?」
「その……死体を見るのは初めてで」
「そうですか」
「あんたこそ! 何でそんなに慣れてるわけ? ちょっと気持ち悪いんだけど」
「別に慣れているわけではありません。これでも少し興奮しています。どきどきが止まりません」
「ちょっと! 海華のことを何だと思ってるの!」
「なるほど。この方は海華さんというんですね」
黒髪眼鏡は呑気に頷いた。「この死体」と呼んでいたのは、単純に死体の名前を知らなかったからなのか。いやそれにしても、名前も知らない死体の検分を始めるというのは異常だ。
「それから気になるのは、ブレザーのボタンが外れていることと……これ、手袋ですね」
それぞれ指で示して、私と守衛に見せた。
学校指定のブレザーには前に二つのボタンが付いているが、海華の制服には上のボタンがなかった。最後に生きている海華と会ったのは授業が終わった後だが、そのときは制服にはちゃんと二つともボタンがついていたような気がする。もちろん、両足には靴を履いていたはずだ。
ボタンの次に黒髪眼鏡が示したのは海華の手だった。五本指の、手首の側にファーのついた灰色の手袋だ。昨日も一緒に塾から帰ったが、そのとき彼女がこの手袋を着けていたのを覚えている。
黒髪眼鏡は海華の手から手袋を脱がせた。指先までじっくりと観察する。両手の手袋を剥ぎ取り、中にある手を観察したところで、手袋を道路の端に放り投げた。
「あのちょっと君、あんまり触らない方が……」
守衛は今さらそんなことを言ったがもう遅い。黒髪眼鏡は守衛を一瞥したがまったく止める気がなさそうだった。
さらに海華のブレザーのポケットなどを探る。ボディチェックをするように腰や尻のラインに手を這わせる。
やがて遠くから救急車の音が近づいてきた。黒髪眼鏡は海華の体を、元の通りうつ伏せの状態に戻して死体から離れた。
救急車がビルの前に停車して、救急隊員が出てきた。そのままビルの中に入ろうとした救急隊員を守衛が呼び止めて、彼らを海華のところまで誘導した。
その場で、海華の死亡が確認された。救急隊員は海華の体を動かさなかった。動かす必要がないくらいにその死は明確だった。
警察が来るまであっという間だった。
現場は直ちに封鎖され、私たちは路地から追い出された。警官から事情聴取を受けたが、私が話せることなどたかが知れていた。
ビルの中に置いてきた雫のことを警官に話すと、その子からも事情を聞きたいと言われた。警官に請われて一緒にビルの中に入って彼女の姿を探したが見つからなかった。きっとトイレだろうと私が言うと、雫のことはこちらで面倒を見るから先に事情聴取を済ませるようにと言われた。そのため私は再びビルの外に出され、海華の死体がある路地まで連れ戻された。
事情聴取が終わってからは、担当の刑事が来るまでしばらく待つようにと言われて、私と守衛の二人はせわしなく動き回る警官たちを眺めて時間を潰した。
「ところで、屋上は調べましたか?」
私たちの横に並んで黒髪眼鏡が立っていた。彼女は別に第一発見者というわけではなかったので事情聴取は受けていないし、警官に足止めされることもなかったのだが、何故かまだこの場に留まっていた。
「屋上?」
私が聞き返すと、黒髪眼鏡の視線の先が、ブルーシートに覆われた路地からそのまま上に移動してビルの屋上に向けられた。
「海華さんは屋上から墜落死したと考えられます。もしこれが他殺なら屋上に犯人の痕跡が残っている可能性が」
「ちょっと待って。海華は殺されたってこと?」
「まだ断定はできませんが死体にいくつか不審な点がありました」
「……不審な点って?」
「屋上は調べましたか? 死体を見つけたときに、屋上に誰かがいるのを見ましたか?」
「いや……見てないけど……」
「ではわたしが屋上を見てきます」
「いやーあのねえ、ちょっと、警察が来てるのに勝手な真似は……」
守衛が制止しようとするのを無視して黒髪眼鏡は現場を離れようとした。私は彼女の背中に声をかけた。
「待って。私も連れて行って」
黒髪眼鏡は表情を変えずに頷いた。
私たち二人は守衛を残したままビルの中に入り、エレベーターで五階まで移動してから、階段を使って屋上に向かった。
階段の行き止まりにドアがあった。黒髪眼鏡がドアノブを捻ると、ドアは抵抗なく開いた。
「鍵はかかってませんね」
私の方を見て、黒髪眼鏡は確認するように言った。
黒髪眼鏡に続いて外に出ると、地上から自動車の走る音が遠く響いていた。そして視界には、大きく広がる真っ赤な血溜まりと、うつ伏せに倒れた人の背中が飛び込んできた。
横を向いた顔に見覚えがあった。塾の講師、英語を担当していた国松だ。下はグレーのスラックス、上は長袖の白いカッターシャツだったが、今は大部分が血液で赤黒く染まっている。
声を出せずに立ちすくんだ。
黒髪眼鏡はためらうことなく国松に近づく。しばらく周辺を観察してから、彼女は血溜まりに足を踏み入れた。手を伸ばして国松の手首を掴んだ。
「死んでるの?」
「そのようです」
そう答えて、国松の体をひっくり返した。血溜まりに伏していた面はすべてが赤黒かった。
「すみません、こちらに来てもらえますか?」
黒髪眼鏡が私を手招きした。死体のそばに行くのはかなり抵抗があったが、仕方なく彼女の方へ歩いて行く。腐ったような血の匂いに吐きそうになる。
「死因はおそらく失血死ですね。ここを見てください、腹部に四ヶ所の刺し傷があります。凶器はあそこに落ちているナイフでしょう」
死体を見たまま指で示した。言われるまで気づかなかったが、屋上の隅に血まみれのナイフが落ちていた。
「それと、足跡が残っています。ここから、向こうまで」
薄暗くて見えづらかったが、赤い靴底の跡のようなものが、死体の血溜まりから続いている。
突然、黒髪眼鏡は私の手首を掴んだ。私の喉から空気が漏れるような悲鳴がこぼれた。手を引かれて足跡に沿って屋上の端まで連れて行かれた。黒髪眼鏡が歩いた後に新しい血の足跡がついてしまっていた。彼女はそれに気がつくと靴の裏の血を床にこすりつけて拭った。
「見てください。足跡はここで切れています」
屋上の四方は手すりで囲まれていたが、その手すりの向こう側に最後の一歩が見えた。国松の死体は屋上の中央から路地の側に寄っていたため、足跡はちょうど六歩で屋上の端までたどり着いていた。
「この下は、海華さんの死体があった路地ですね」
「つまり……これは海華の足跡ってこと?」
「この足跡に見覚えはありませんか?」
「分かるわけないでしょ」
「この足跡の主が誰なのかはまだ断定できません。海華さんは靴を履いていませんでしたし――」
「どうしたの?」
黒髪眼鏡は屈んで床に顔を近づけた。ポケットから白い手袋を取り出して両手にはめると、何かを拾って手の平に乗せ、私の目の前に持ってきた。
それは、制服のボタンだった。わたしは海華の制服のボタンが一つなくなっていたことを思い出した。
黒髪眼鏡はボタンを、私の制服のボタンの横に持ってきて、二つを交互に見比べた。
「ふむ……」
納得したように頷くと、ボタンを元々落ちていた場所に戻して、屋上を広く見渡した。
その首の動きがある一点でピタリと止まる。黒髪眼鏡は私を残して屋上の入り口まで戻った。私は取り残されるのが心細くて慌てて彼女の背中を追いかけた。
ドアの近くに学生鞄が落ちていた。ドアを開けたところからは死角になる位置だ。学生鞄についている白ウサギのストラップに見覚えがあった。
彼女は学生鞄を手に取り、まずはその外側を調べた。すぐに電車の定期券入れに気づいた。定期券には「ナシノウミカ」の名前があった。
「そ、それ……海華の……」
そのとき、突然ドアが開いた。
びっくりしてそちらを見ると、スーツを着た強面の中年男が屋上に出てきた。
「おい君! そこで何をしている!」
中年男の後ろから制服の警察官がぞろぞろと登場した。
怖くなって黒髪眼鏡にすがろうとしたが、彼女の方は悪びれた様子もなく両手を見せて降参のポーズを取っていた。まだ調査が終わっていない学生鞄の方に未練がある様子だったが。
私と黒髪眼鏡は二人仲良く屋上からつまみ出された。
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