デスマスク

ツヨシ

本編

 はちがつ じゅういちにち  はれ



おかあさんが、しんだので、ゆいごん? で、ですますくを、つくりました。

ぼくは、おかあさんのかおに、しろいものを、ぬりました。

てが、べたべたしました。

しらないおとこのひとが、だいたい、ぬりました。

ですますくが、できました。




 はちがつ じゅうににち  はれ



ですますく、おうちにあります。




母親が死んだのは、岡村清一が五歳のときだった。


愛する人が死んだ場合、その実感がわかないという人は、珍しくない。


それは、愛する人が死んだというまぎれもない事実を、頭が拒否しているからである。


その死を認めたくないのだ。


しかし岡村の場合は違った。


五歳ならば大人ほどではないにしろ、〝死〟というものをほとんど理解しているはずだ。


普通は。


岡村が、大好きな母親が死んだという実感があまりわいてこなかったのには、他に大きな理由があった。


デスマスクである。


あまりにも母親に生き写しのデスマスク――デスマスクだから、当然なのだが――を見ていると、母親が生きてそこにいるような気がしたのだ。


それが母親の死を認めたくないという気持ちを増幅させ、デスマスクを生きている母親として認識させた。


ただ、いくらまだ小学校にあがる前の子供とはいえ、デスマスクと生きた母親の区別が、つかないわけはない。


錯覚である。


その錯覚は、当時の岡村清一少年の心に、強く刻み付けられたことは確かなことだった。




いい大学に入ったからといって、偉くなったわけではない。


人間的に見れば、そんなものは大きな意味を持たない。


自分はあくまで自分である。


しかし、世間はそうではない。


いわゆる一流大学卒と高卒――まれに中卒もいる――とでは、世の中の見る目がまるで違うのだ。


よく言う、肩書きがものを言う、というやつだ。


少なくとも大隈孝夫はそう考えている。


有名大学を卒業すれば、就職はもちろんのこと、結婚までもが有利だ。


勝ち組になれると。


そんな理由で、一流と呼ばれる大学を目指して猛勉強をし、見事に合格した。


あとは無事に卒業して、いい会社にもぐり込めばいいのだ。


ただ、一流大学の名はだてではない。


二流私立大学なら遊んでいても卒業できるが、ここではそういうわけにはいかない。


高校のときは、全同級生のなかで一番の成績であるのがあたりまえだった大隈も、この中ではただの人だ。


在校生の全員が、高校時代は、クラスか学年で一番だったのだから。


ここに来て産まれて初めて、自分と同等、あるいは自分よりも上、という集団に出会ったのだ。


しかも、自分よりも上と思われる人間のほうが、明らかに多い。


となれば、留年せずに卒業するためには、勉強しかない。


ところが授業内容がかなり難しく、ついていくのがやっとだ。


このままではぎりぎり「可」か、あるいは「不可」になってしまう。


「可」が多ければ問題ないのだが、「不可」との境界線があいまいで、留年せずに卒業する自信がない。


たとえ留年したとしても、八年間は保障される。


八年もかければ、卒業できる自信はある。


しかし、世間の目は、留年したという事実を追及するだろう。


それでは、なんのために無理をしてこの大学に入ったのかが、わからなくなる。


そこで大隈が目をつけたのが、同じアパートに住む同級生の、岡村清一という男だ。


天才、秀才の団体の中でも、大隈の知っている限りでは、一番抜きんでている。


こいつを味方につけない手はない。


幸いなことに、取っている講義も、かなり重複している。


大隈は、授業でわからなかったことを、ひんぱんに岡村に根掘り葉掘り聞きまわっていたが、この男のいいところは、それでもいやな顔一つせずに親切ていねいに教えてくれることだ。


頭はいいが、お人よしで世間知らずのボンボン。


大隈にとって、これほど都合のいい相手はいない。


前期のテストの山すら、大部分当てているのだ。


「先生の性格や癖を考えて推理すれば、だいたいわかるよ」


と岡村は言う。


そのくせ今目の前にいる大隈のことは、皆目わかっていない。


自分が大隈にいいように利用されているだけだ、という誰が見てもすぐにわかる事実に、まるで気がついていないのだ。


大隈は、母親にずっと甘やかされて育ったお坊ちゃん、という印象を受けていた。


勉強を教えてもらうのは、いつも大隈の部屋である。


本来なら、教えてもらうほうが顔を出すのが筋なのだが、岡村は携帯で呼び出せば、いつでものこのこ出てくるからだ。


お金は出さないが、時間と労力は惜しまずに使ってくれる。


おまけに、なんの見返りも要求しない。


一種のアッシーみたいなものか。


――便利な奴がいてくれて、助かったぜ。


大隈の呼び出しはほぼ毎日のように続いたが、岡村がそれを断ったことは、ただの一度もなかった。




ところがある日、岡村は来なかった。


断られたわけではない。


何度電話しても、携帯に出ないのだ。


そのころには、呼べば出るのが当然だと思っていたので、出ないことに腹を立てて大隈は、何度もしつこく電話をかけたが、無駄な努力だった。


――いったい、なにをやってるんだ、あいつは。この俺が、わざわざ呼び出してやっているというのに。ふざけるな!


岡村の部屋まで、そう遠くはない。


大隈は部屋を出た。




岡村の部屋の前に行き、ドアをノックする。


返事がない。


ためしに携帯をかけてみると、部屋の中から聞き覚えのある着信音が聞こえてきた。


岡村の携帯の着信音である。岡村が大隈の部屋にいるときに、岡村の携帯が鳴ったことがあるので、覚えていた。


流行の若いアイドル歌手の、幼い歌だ。


大隈はその時〝岡村にはお似合いだな〟と思ったものだ。


しかし岡村は、やはり出なかった。


――携帯を部屋に忘れて、どこかに出かけたのか?


もともとここの学生は、夜遊びに出歩くということは、あまりしない。


勉強に追われてそれどころではないからだ。


そのなかでも岡村は特にしない。


それはほかの人とは違い、勉強のためという理由からではなく、ただ単に〝遊ぶ〟という行為自体、やらないと言ったほうが正しいだろう。


今まで人なみに遊んだことが一度もないように、大隈には思えた。


だから岡村が夜に部屋にいないという状況は、大隈の知るかぎりでは初めてだ。


ためしにドアを開けてみる。


思いに反して、それは開いた。


――ひょっとして、中で死んでるのか?


予想もしてなかったこの事態に、いつもよりも大げさな事柄に、思考が吸い寄せられる。


どちらにしても、中に入ってみるしかない。


部屋とはいっても、大隈と同じ間取りのワンルームだ。


いないことは、すぐにわかった。


一応、トイレといっしょになったユニットバスも、見てみる。


そこにもいない。


――携帯忘れて、鍵もかけ忘れて、出て行ったのかよ。困ったやつだ。


ここにはもう、用はない。


大隈は部屋を出ようとした。




数日間は誰も気がつかなかった。


しかし、ドアの前に新聞が溜まっているのを大家が不審がったのをきっかけに、ちょっとした騒ぎになった。


大隈孝夫が行方不明。


同じアパートの住民全員に訊いたが、誰もなにも知らないと言う。


大学にも問い合わせてみたが、すくなくともここ数日は授業に顔を出していない、との返事だった。


合鍵で中に入ってみれば、いつもどおりでとくに変わったことはない。


もしやと思って実家に聞いてみたが、両親もなんのことだかわからない。


「うちの子に、なにかあったんですか?」


不安そうな声の母親に、わかっていることを告げると、そちらに行く、と言い出した。


思った以上に大事になりそうだが、もちろん止めることはできない。




数日後には、大学でも話題になった。


大隈の両親が騒いだこともあり、警察沙汰、新聞沙汰になったからだ。


入り口の前に残っていた新聞から推測すれば、大隈が行方不明になってから十日後のことである。


岡村が一番親しいという話は、当然出た。


大隈はその性格によってか、みんなの嫌われ者となっていたからだ。


親しいのは岡村一人だけであると。


岡村は「なにも知らない」と言い、警察のほうも、「なにも知らない」と聞いて、本当になにも知らないんだなあ、とこれほどまでに思える人物も珍しい、との見解となって、捜査線上から岡村の名前は消えた。


嫌っている人物は多かったが、深い付き合いのある人間が岡村以外にいないので、殺すほど――行方不明者は、そのほとんどが殺されている――憎んでいる人物もいないと思える、ということになり、どこかで事故か事件にでもあい、そのまま死んでしまったのだろう。


両親の前では口が裂けても言わないが、警察はそう考えていた。


もちろん捜索は続けます、と、お約束します、と、つめよる母親にそう告げたが、そんな気はほとんどなかった。


現実に死体がころがっているとか、そこまでいかずとも被害者が入院しているとか、そんな事件がいくらでもあるのだ。


警察は暇ではない。


同級生達の間でも、大隈の失踪と岡村を結びつけるものは、誰もいなかった。


岡村がひたすらおとなしくてお人好しであることは、全員承知の事実だ。


大隈が岡村を利用していたことも。


ただ、岡村がそのことに気付いておらず、たとえ気がついていたとしても、大隅をなんとかしようというような悪意も度胸も持ち合わせてはいない。


それが、二人を知る人間の共通した意見だった。


岡村は岡村で、自分がたまたま外出していた時間に大隈がいなくなったことを、気にやんでいた。


――僕があの日あの時間、いつもどおりに部屋にいたなら、大隈はあんなことにはならなかったのかもしれない。


自分を責めていた。


どこまでも果てしないお人好し。




岡村はその日、実は彼女の部屋にいた。


おとなしくて気弱で、そのうえ人のよいまだ十九歳の女の子。


岡村とよく似ている。


類は友を呼ぶというべきか。


地元のスーパーで働いている。


遠野奈々子と言う名前である。


二人が知り合ったのも、そのスーパーだ。


きっかけは岡村の一目ぼれ。


男女のことは、かなり鈍い部類にはいる遠野も、岡村の遠慮のない、というより、今まで女の子に興味を持ったことのない岡村の、さりげなさのかけらもない行動や表情に、さすがに気付き、気にはしていた。


まわりの同僚たちからは、変な奴、と見られていた岡村ではあるが、遠野の岡村にたいする印象は、実はとてもよかったのだ。


似たもの同士だからである。


ある日、岡村にしては清水の舞台から飛び降りるほどの度胸を持って、まだ夕方から従業員用の駐車場で隠れて彼女が出てくるのを待ち、声をかけた。


返事は一発でOK。


さっそくデートということになり、その日のうちに行われた。


とはいっても、深夜営業のラーメン屋で、ラーメンを食べただけではあるが。




余韻に浸り、心を躍らせながらアパートに帰った岡村は、自分の部屋の鍵がかかっていなかったことに気がついた。


――確かにかけたはずだが。


記憶違いかもしれない。


今日は出かける時、頭が奈々子であふれていた。


いつもの思考状態ではなかった。


慌てて室内を調べたが、貧乏学生のアパートには泥棒も入らないことを、確認しただけに終わった。


携帯も机の上に置き忘れて、そのままになっている。


見れば大隈からの着信が、何十と残っている。


遠野奈々子の携帯番号を聞いたが、岡村ならその程度の数字は簡単に覚えられるので、その時自分の携帯に打ち込もうとはしなかった。


そのため今まで気がつかなかったのだ。


――ああ、今日も二人で勉強するつもりだったんだな。悪いことをしたなあ。もう遅いから、明日あやまっておこう。


岡村はそう考え、その日はそのまま眠りについた。


その夜、大隈が消えたのだ。




遠野奈々子は、生まれて初めて男性を好きになった。


幼いころから、酒乱の父親の暴力に苦しみ続けられてきた一人娘は、りっぱな男性恐怖症の女性として育っていた。


男性がそばにいるだけで、とても気になる。


怖い。


しかしこの世の中、半分は男なのだ。


学校でも両隣は男子だったし、道を歩けばいくらでもうろうろしているし、家に帰れば父親が鎮座している。


母親は、とうの昔に死んでいる。


奈々子がもの心がつくその前に、父一人、娘一人となっていた。


その唯一の身内が近所でも評判の酒乱とあっては、不幸なことだが、もはやどうしようもない。


さすがに学校などでは気持ちを抑え、まわりにばれないよう気を使っていたが、男性の存在そのものを非常に意識していたことには、かわりがない。




高校一年のとき、特に奈々子が恐れる男子がいた。


有地義純という男の子だ。


背が高くてスタイルがよく、しかもかなりのイケメン。


おまけに明るくおしゃべり好き。スポーツも万能で、クラスの女の子たちから憧れの眼で見られていた。


ただ、一見、元気でいいやつにも見えるのだが、有地の評判は、女の子に比べると男の子の間では、良いとは言えない。


女の子の一部の人間も、そのことはうすうす感じてはいたが、それが広まることはなかった。


有地は、表の顔はともかく、裏ではかなりあくどいことをやっていた。


気の弱い男の子から金をまきあげる。


女の子にちょっかいをだし、飽きたらぼろ雑巾のように捨てる。


万引きなど、日常茶飯事。


習慣にすらしていた。


体が大きくて運動神経が発達していたおかげで、けんかも強かった。


いや、有地の場合は、けんかとは言えない。


自分よりも弱い男子に対して、一方的に暴力をふるうのだ。


けんかとはとても呼べないそれを、有地はずっとけんかだと言い張っていた。


僕はけんかもつよいんだ、と。


それは、好意を持つ女の子の目から見れば、白馬に乗った力強いナイトと写ったものだ。


有地の裏の面は、全員までとはいかないが、かなりの男の子が知っていた。


しかし、女子の間ではほとんどその話がひろまらない。


仮に男子が女子に有地の悪口を言うと、もてない男の中傷と受け止められる。


そんなことが何度かあった結果、女の子の間では「有地さんの嘘の噂を流す、いやな男がいる」と話が定着し、男の子の間では「有地の悪口を言うと、いやな男のレッテルを貼られる」と話が定着していたからだ。


当然、有地の陰口を女の子に言う男子は、今や一人もいない。


しかし奈々子は、有地の暴力性、悪意といったものを、ひと目で見抜いていた。


あの父親に育てられて、背中など外からは見えないところの生傷が絶えない生活を、ずっとおくってきたのだ。


そういうことには人一倍敏感になっている。


そして、あまりにも意識をしていたために、逆に「遠野は有地が好きなんだ」という噂がたったほどだ。


人間が意識するものは、好きなものか、嫌いなものだ。


それを全く違うふうにとられたらしい。


それに、最初に奈々子の噂を流した張本人は、有地に想いをよせていた、有地を狙っていた女の子である。


自分が目をつけていたものを、横取りされたくないという感情が働いたのだろう。


自分が好きだから、奈々子も好きなはずだと思い込んでいたのだ。


人間が他人の性格や思考を勘違いする場合、そのほとんどが、自分が基準である。


人の噂や悪口を言っているつもりでも、まるで自覚がないままに、結局自分自身のことを言っているのだ。


その典型的な例、世間ではあまりにもよくあるパターンではあるが、奈々子の受けた精神的ダメージは、計り知れない。


男の人が怖くてしかたがない奈々子が、これほどまでに怖いと思った男性は、父親以外では初めてだったのだ。


そんな男と同じクラスになったことだけでも、かなりの痛手なのに、その男が好きでストーカーのごとく狙っているだなんて。


たとえ勘違いだとしても、あまりにも酷すぎる。


奈々子は、文字通り寝込んだ。


心の深い傷のために、布団の中に逃げ込んでいる奈々子に対しても、父親は容赦しなかった。


布団の上から殴る蹴る。


それでも布団から出てこない奈々子にたいして、布団をはぐり、熱いお湯をぶちまけ、どこで拾ってきたのかわからない猫の死体を、顔面に押し付けた。


数日後、我慢しきれなくなった奈々子は、父親を刺した。台所の包丁で。


幸い父親は命をとりとめた。


そのことがきっかけとなり、父親の日常的な暴力が明るみにでて、奈々子は施設に送られることとなった。


施設では、今までになく平穏に過ごせることが出来た。


あの父親の顔を見ないですむし、奈々子の精神状態を考慮してのことだろう、男性とほとんど接することのないように気を使ってくれたからだ。


だがいつまでも、男の人が怖くて仕方がない、ではこの地球上では生きていけない。


薬物投与、カウンセリング、催眠療法まで試みて、ようやく、少しはまし、な状態になった。


スーパーのレジの仕事をするようになったのも、精神科医の薦めである。


大勢の男性と接するが、特定の人と長く接したり、マニュアル以外の会話をする必要がほとんどない仕事。


リハビリの一環である。


「このまま続けていれば、男の人と普通に接することができるようになり、そのうちに、一生をともに暮らしていけるようなすてきな男性も現れますよ」


と言う女医は、バツ二の独身だった。


そのスーパーのレジで、岡村と知り合ったのだ。


岡村は、奈々子が見た瞬間、全く怖いと思わなかった初めての異性であった。


それは、数年にわたるさまざまな治療の効果もあっただろうが、それ以上に岡村の、あくまでも優しくおだやかな人柄によるところが大きかった。


その日、奈々子は生まれて初めて神に感謝した。

 



二人の仲は、深まっていった。


とはいっても、超がつくほど奥手の二人である。


数ヶ月間、並の恋人以上にお互いの愛を確かめ合っていたのだが、それは全て精神的なものである。


今や、何十回とデートを重ねているにもかかわらず、まだ手も握ったことがない。こういうカップルもいるのだと、汚れた世間に理解させるのが困難なほどの、おとなしさ、純粋さである。


それなのに、肉体的接触がまるでないまま、お互いに、将来はこの人と結婚するのだと、本気で考えていた。


特に少々世間ずれしている奈々子は、「この人とは生まれる前から赤い糸で結ばれているんだ」と、完全に信じ込んでいた。




デートといってもそのほとんどが、岡村のアパートで、二人で過ごす、というだけのものだ。


その日も、奈々子が岡村のアパートへ行き、二人でいた。


二人とも同じ空間にいるだけで、十分なのだ。


「今日の晩御飯、何がいい?」


奈々子が訊く。


幼いと言っていいころから、暴君の父親のために料理を含めた家事いっさいをこなしてきたのだ。


ちょっとでも不味いと、暴力を振るう父親のために。


おかげで、奈々子の料理の腕前は、十九歳にしてかなりのものになっている。


「なんでもいいよ、奈々子の作るものなら」


岡村は本気で、なんでもいい、と言っているが、奈々子はできれば「あれが食べたい、これが食べたい」と言ってもらいたかった。


そのほうが、より心を込めて腕をふるえるというものだ。


ただ、なんでもいい、という言葉の裏に、岡村の優しさを感じていた。


それが奈々子には嬉しい。


「じゃあ、作るから、待っててね」


急ぎ台所に立つ。


しばらくして、奈々子は「あっ」と小さな声をあげた。


「どうしたの?」


岡村が駆け寄る。


「いや、なんでもないの。ただ……ドレッシングが、もうきれちゃって」


「なあんだ、そんなことか。びっくりした。僕が買ってくるよ」


「……でも」


「奈々子はこのまま料理を続けてね。すぐに帰ってくるからね」


「……うん、早く帰ってきてね」


岡村は微笑むと、部屋を出て行った。


岡村がいなくなった途端に、この部屋が冷え冷えとしたものに変化したと、奈々子は感じた。


とにかく急に。


考えてみれば、この部屋に一人でいるのは初めてのことだ。


岡村のいない寂しさが、実際にはありえない気温の低下として感じてしまったのだろうか。


寒い。


――とにかく岡村さんが帰ってくるまでに、料理をある程度進めとかないと。


包丁を手にとる。その時、


コトン


と音がした。なにか軽くて硬いものが、床の上に落ちたような。


――なにかしら?


奈々子は振り返った。




岡村が帰ってきた。


近所のスーパーまで、歩いて四、五分といったところか。


その短い距離を、岡村は生きも帰りも走った。


急ぐのはあたりまえだ。


それは奈々子が待っているから。


「奈々子、ただいま」


返事がない。


部屋を見わたす。いない。


ユニットバスの中も。いない。


「奈々子? 奈々子?」


岡村はなんども愛しい人の名を呼んだ。




岡村が大学に姿をみせなくなって、一ヶ月ほどがたった。


それを気にしている人物が、数は少ないが、何人かはいた。


原口もそのうちの一人だ。


原口は、内向的な性格で気が弱く、いじめられっ子の部類に入る人間である。


その原口がいじめていたのが、岡村だ。


久しぶりに見る、自分よりも下の存在。


久しぶりに見る、いじめても問題のない人間。


顔を見れば暴言を吐き、身体じゅうを小突きまわし、時にはお金を巻き上げたりしていた。


普段は心が不安と恐怖で占められ、おどおどしている原口が、遠慮なく心おきなく自由に振舞える唯一の人間が、岡村なのだ。


近所の、とくに隣の部屋に住む男の証言によれば、なんでも結婚――まだ大学一回生のくせに――まで考えていた彼女に逃げられて、それ以来部屋にひきこもっているそうだ。


たまの買い物以外、部屋から出てくることがないらしい。


――女だって? それがどうしたというんだ。俺のために、姿をあらわせ。おまえは俺にいたぶられるためだけに、この世に生まれてきたんだ。自分が生まれてきた義務と責任を、果たすんだ。


もうこれ以上我慢がならない。


原口は今まで岡村のアパートに行ったことはなかった。


行かなくてもむこうは律儀に、毎日のように大学に顔をだしていたのだ。


わざわざこの俺様が出向いて行くまでもない、と考えていたのだが、今回は違う。


アパートに押しかけて、引きずり出してやる。


原口は駐輪場へ向かうと、原付にまたがった。




岡村のアパートに着いた。


部屋に来るのは初めてだが、人に聞いて知っている。


二〇三号室。


岡村はそこにいる。


階段を一気に駆け上がり、一直線に部屋の前まで来た。


「おい、岡村、いるんだろう。開けろ!」


ドアを力の限り叩いた。


と言いたいところだが、そこにはかなり遠慮と言うものが含まれていた。


基本的には気が弱い原口である。


大きな音をたてて、まわりの住人から文句を言われることを恐れたのだ。


返事がない。また叩く。


やはり返事がない。


何回か叩くうちに、その勢いはだんだんと減っていく。


叩くことをやめて、しばらく様子を見る。


いないのか、それとも居留守を使っているのか。


原口はドアノブに手をかけた。


開いた。


ドアノブに手をかけてはみたものの、開くとは、まるで頭になかった。


「おい、入るぞ」


まわりの手前もあって、一応一声かけてから中に入る。


部屋には誰もいなかった。


ユニットバスや、成人男性が中に入るにはかなり苦しいと思われる小ぶりなクローゼットの中も覗いてみたが、やはりいない。


――鍵も掛けずに外出したのか? あいかわらず、抜けたやろうだぜ。


棚を見ると、数枚のCD、数十冊の本、数枚のDVDが見える。


――これでももらっておくか。


売ればたいした金額ではないが、いくらかにはなる。


部屋の隅に転がっていた紙袋の中に、それらを全部詰め込んだ。


――これでいい。とりあえず今日のところは、帰るか。


原口は外に出ようとした。


その時、なにか音がした。




岡村は部屋の鍵を開けようとして驚いた。


鍵が開いている。


そんなはずはない。


確かに閉めたはずだ。


この前、鍵をかけ忘れていた時は、頭が奈々子だらけの状態だったが、今日はそうではない。


岡村は記憶力がよかった。


特に大事と思えることは、写真か映画のように記憶しておくことができる。


普通の人にとっても戸締りは充分大事なことだが、岡村にとっては、普通の人以上に大事なことだった。


それは、本人もはっきりとは気がついていないことだが、自身の自己防衛本能からきている。


弱く頼りない自分を守るために。


それなのに、鍵が開いている。


誰かが開けたにちがいない。


それしか考えられない。


おそるおそる中に入る。


すると、ちょっと前に服を買った時にもらった紙袋が、ぱんぱんにふくらんだ状態で、部屋の中央にどんと置いてあった。


中を見ると、本やらCDやらDVDやら。ぎっしりとつまっている。


――どろぼうだ。


部屋を隅から隅まで調べる。


部屋の中にあるものは、一冊の本から一本の鉛筆にいたるまで、全て記憶している


。だが、なくなったものはなにもない。


通りでもらったポケットティッシュまで、そのままだ。


ビンに詰めてある五百円玉。


けっこうな金額になるはずのそれも、あいも変わらずにパソコンモニターの後ろにある。


ただ、紙袋にあれやこれや入っているだけだ。


もちろん岡村には、自分で詰めた記憶はない。


――いたずら? なんのために? それに、どうやって鍵を開けたんだ?


なんにしても不気味である。


しかしなくなったものは、なにもない。


警察に届けるまでもないような気がする。


岡村は、とりあえず大家にだけは報告しておこうと思った。


それ以上の面倒なことは、御免だ。




最初は猫だった。


アパートの斜め前に一人で住む中年女性の飼う猫。


近所でも評判が悪い。


およそ猫がやるような悪いことなら、なんでもやる猫だ。


当然のことながら、飼い主であるその女性も、猫ともどもに評判が悪かった。


その女性は、近所の住人たちとよくもめているようだが、自分は大学の一回生でここに来て間がないし、勉強とアルバイトが忙しくて、近所つきあいなどほとんどしていない。


猫女に関しては、名前もしらない。


家に表札すらないし、話したこともないからだ。


猫がどうなろうと、しったことではない。


ただここ最近気がかりなことの第一位、勉強に支障をきたすほど頭を悩ましている出来事のきっかけは、あの猫だった。


ある日、アパートの前にある自動販売機でジュースを買おうとしたところ、二階の廊下に黒い猫が見えた。


あいかわらず猫とは思えないほどに丸まった巨体で、のたのた歩いている。


アパートは入り口の前が廊下で、そのまえに鉄柵があるだけで、外から廊下も入り口も丸見えの、そのへんによくある構造だ。


その猫は真っ直ぐ前を向いて歩いていたが、自分の部屋を通り過ぎた直後、ふと立ち止まった。


岡村の部屋の前である。


なぜ止まったのかは、わからない。


ただその時気がついたのは、部屋の入り口の戸が、少し開いていることだ。


猫はその隙間から中をうかがっているようだったが、そのまま部屋の中に入って行った。


すると、その戸が音もなく閉まった。


不思議なこともあるもんだ。


岡村はたった今、出かけて行ったのだが、ジュースを買おうと部屋を出た時、隣の岡村が部屋の鍵をかけ終えて駐輪場へ向かって行くところ、自動販売機の前に立った時に、バイクで走り去るところを見た。


それなのに戸が開いていて、おまけに猫が入った後、その戸が閉まったのだ。


風はほぼ無風だ。


このあまりに頼りない風で、戸が閉まったとはとても思えない。


ジュースを手にとり、岡村の部屋へと向かう。


最初にドアノブに手をかける。


やはり鍵はかかっていない。


「ごめんください」


念のために一声かけて、中に入る。


戸を開けたとたん、黒猫が飛び出してくることも予想していたが、玄関あたりに猫は見当たらなかった。


そのまま戸を閉めた。


猫が逃げないように。




確かに猫が部屋に入り、確かに出て行ってはいない。


それは間違いない。


隅から隅まで徹底的に探した。


あのでかい猫が入れそうにもない、家具と机の間の狭い隙間まで探してみた。


もちろん風呂やトイレの便器の中までも。


一つしかない窓も、鍵がかかっている。


なのに猫はどこにも見つからない。


――なんで、いないんだ?


最初に考えた可能性、中に誰か人がいるかもしれない、ということも否定された。


誰もいないし、猫もいない。


こんなことが、ありえるはずがない。


しかし、現にこの部屋には、猫は存在していないのだ。




数日後には、同級生の大隈が岡村の部屋を訪ねている。


呼び鈴があるのに、いつも外から遠慮なく「おい、俺だ!」と大きな声で言ってから部屋に入るので、よくわかる。


安アパートの防音設備は、あまりよろしくない。


その時、岡村は留守だった。鍵をかけ忘れたのか大隈が中に入り、そのまま静かになった。


しばらくして岡村が帰ってきたが、テレビの音が短い時間流れただけで、再び静かになった。


その日以来、大隈の姿を誰も見かけなくなったのだ。


猫と同じく、岡村の部屋で消えたのか? 


そんな気がしてならない。


さらに岡村の彼女まで消えている。


その日は、大隈の時よりもドラマチックだ。


まず岡村の彼女が来て、そのあと岡村が一旦外出して帰ってきた。


そのとたん、岡村が「奈々子! 奈々子!」とわめき散らす声が聞こえ、そうこうしているうちに大家が現れ、最後にはパトカーの出動となっていた。


そのうちに、自衛隊でも来るんじゃないかと思ったほどの、大騒ぎだった。


メガネをかけたまるで華のないあの女も、あの日以来、姿を見ない。


あと一人が、原口だ。


岡村にいつも付きまとっていた、いじめっ子だ。


いじめる相手は、たとえ世界中を探したとしても、岡村一人しかいないんじゃないかと思われるほどに、気の弱い男だ。


こいつも岡村の部屋に入っていくのを、偶然に見た。


岡村は留守だったが、やはり鍵をかけ忘れていて、原口が難なく部屋に入った。


その後、岡村が帰ってきて、聞こえる限りは、そのまま何事もなかったような感じだったが、その日から原口も消えてしまった。


猫一匹と、人間三人が岡村の部屋で消えている。


この短期間に。


しかし警察は、岡村には目をつけてはいないようだ。


が、考えるまでもなく、一番怪しいのは岡村だ。


あの部屋には、なにか特別なしかけでもあるのか? 


岡村は、あんな顔――虫も殺さない、という表現があるが、今までの人生において、岡村ほどその表現がぴったりな人物は見たことがない――をして、サイコな殺人鬼かなにかなのか? 


考えれば考えるほど、怪しい。


――いつか、あの仏の顔の裏を暴いてやる。


そう、思った。




なんと、明日から岡村が泊まりがけの合宿に行くと言う。


岡村が受講しているゼミの合宿だ。さっそく大家のもとに向かう。


「あのう、すみません」


「なんですか?」


「岡村君がゼミの合宿に行くんですが、留守の間、僕に部屋の管理をまかすそうで。それで、合鍵を貸してくれませんか」


「いいですよ」


机の引きだしを開け、手を突っ込んでごぞごぞしていたかと思うと、一本の鍵をとりだした。


もともと人を疑うことを知らない、大家にはむいていない大家だ。


それに普段の言動から、大家の信頼は充分に得ている。


いつも岡村と仲良くしていることは、大家はもちろんのこと、アパートの住人みんなが知っている。


親友同士と評判だ。


表面上は。


普通の大家なら、いや普通の人間なら、岡村に聞いて確認をとるということをするが、この人はしないだろう。


確信がある。


――明日は思う存分、岡村の部屋を調べてやる。




朝早くに、岡村は出て行った。


だが、慌てることはない。


明日の夜までは、帰ってこない。


周りの目もあるし、やるなら今晩だ。




夜を待った。夜は毎日確実に訪れる。


さっそく合鍵で部屋に入ろうとした。


すると、鍵はすでに開いていた。


――おいおい、泊まりがけで出かけるのに、鍵をかけ忘れたのか。まったく、のんきなやつだぜ。


策をこうじて手に入れた鍵が無駄になったが、やることはかわらない。


最初になすべきことは、岡村の部屋に入ることだ。


部屋に入って考える。


入る前から考えていたが、今になってもなにをどう調べたらいいのかが、いまひとつ明確ではない。


が、部屋は狭いし、時間はたっぷりある。


部屋の両側には、別の部屋がある。


そのひとつは自分の部屋だ。


壁は薄く、とても人一人隠せるような幅はない。


もしあったら、今まで気がつかないわけがない。


おそらく、外から見てもわかっただろう。


奥の窓のある壁も除外。そんな幅はない。


一応念のために、窓を開けて上から見てみたが、やはり薄い。


これでは人どころか猫も隠せない。


玄関側も同様の理由で、候補から外す。


あとは床下と天井。


床は壁ほどではないが、やはり可能性は低いだろう。


ここは二階だ。下にも部屋があり人が住んでいる。


一応安物のカーペットをはぐって、床板を調べる。


下の住人にあやしまれない程度に軽く叩いたり、持ち上げたり出来る隙間がないか捜したりしたが、やはり何もないようだ。


最後に残った天井。


――たしか押入れの上から天井裏にいけたはずだが。


押入れの布団や衣類を出す。


中に入り天板を押し上げると、開いた。


中は雑然として埃まみれ。断熱マット? や電気類の配線? や短い柱などが見える。


一応、横にすれば、人一人くらいは隠せそうだ。


それでも問題は残る。


人間三人は岡村が殺して一旦ここに押し込み――それでもかなりの重労働だ。岡村の、あの小さくて女の子のようにか弱い身体で、はたしてそんなことが出来るのか? ――その後で人知れずどこかに運び去ったという可能性も、なくはない。


しかし、猫はどうした? 


猫は部屋に入った途端に消えたのだ。


それは、この目で確認している。


それなのに、誰もいない部屋に入った猫を一瞬で消し去るようなトリッキーな仕掛けは、どう見ても存在しない。


――おかしいなあ。


もう一度、調べる。


結果は同じ。さらに調べる。やはり同じ。


疲れ果てて、床にへたり込む。


その時、突然、声が聞こえた。


「しつこいわねえ、あなたも」


女の声だ。


若くもなく、中年でもなく、ましてや子供や老人のものでもない、年齢が欠落している声。


しつこいのは確かだ。


だが問題はそこではない。


あの声は、この部屋のいったいどこから聞こえてくるのか。


それが問題だ。


激しく部屋を見わたすが、もちろん誰もいない。


誰もいないことは、さんざん確認したばかりだ。


――空耳? にしては、はっきりしすぎている。


頭で思っただけだ。なのに返事があった。


「空耳じゃないわよ」


恐怖のボルテージが一気に上がる。


慌てて外の出ようとした時、足になにかが当たった。


それは、ついさっきまで間違いなく本棚の上にあったはずの、木の箱。


高さはあまりないが、大きな雑誌でも楽に入るくらいの大きさのある箱。


それがころがっていた。


――なんで、……ここにある?


見えない誰かが開けたかのように、ふたがふわりと開いた。


中には顔があった。白く、石膏でできたような女の顔。


作り物にしては、あまりにも現実感をともなっている。


――デスマスク?


デスマスクにしか見えない。


そのまま見ていると、白い顔の眼が開いた。


まぶたが開き、まっ黒な瞳がこちらを見ている。


――えっ!?


ふたに続き、デスマスクがふわりと浮いた。


そのまま壁に張り付く。



 今度は、口が開いた。


「清ちゃんは、私のもの。私だけのものなのよ。その清ちゃんにちょっかいをだす人は、この私が許さないわ」


白い顔が突然、壁いっぱいに大きく広がった。


人間よりも巨大な顔が、こちらを見ている。


小さめの口の端が、左右同時に耳まで裂け、上下に大きく開いた。


子牛くらいなら飲み込めそうな空間が、そこにはある。


あまりのことに、動けない。


また、なにかが聞こえてきた。


女の声ではない。


女の声ではないが、女の口の中から漏れてくる。


その口の中は、岩山とも洞窟の中ともとれるような、暗く湿った場所。


あちらこちらで、火炎放射器のように、火が吹き上がっている。


その中央あたりにある巨大な穴の中に、何十、いや何百何千という裸の人間が、ひしめいているのが見えた。


そこから漏れる、大勢の声。


絶望に満ち満ちた、弱々しい呻き声の大合唱。


その群れの上を、人型でコウモリの羽を持ち、長いしっぽの生えたものが、いくつも飛んでいる。


明らかに、この世のものではない光景。


――なんだ、ここは? ……ここは、まるで……。


いきなり女の口から飛び出してきたものが、胴体を一周し、その先端が、口をふさいだ。


ねばねばして生臭いものが、表面からしたたりおちている。


舌だ。


顔の大きさに見合った太さを持ち、ヘビのように長い舌に捕まっているのだ。


恐怖のあまり、思わず両手をふり回すと、右手がなにかにぶつかった。


反射的にそれをつかんだ瞬間、舌が強い力で引っ張った。


身体が顔の目の前に来るのと、それを全身全霊で振りまわしたのが、ほぼ同時だった。


それは白い顔の眼と眼の間に、勢いよくぶつかった。


「ぎゃっ!」


小さく鋭い悲鳴が響いた後、舌の締め付ける力が弱まった。


舌を振りほどきながら、すでに床に転がっているそれを見る。


それは、椅子だった。覚えている。


前に岡村が、丈夫でしっかりした椅子が欲しい、と言って、リサイクルショップで購入してきたものだ。


大きくて古く、最近の椅子では見られないほどに、硬くてがんじょうな椅子。


舌はいつの間にか、口の中にしまわれたようだ。


見れば白い顔の中央を、一直線に亀裂が走っている。


ただ完全に割れてしまっているわけではない。


急いで椅子を拾い上げると、再度眉間めがけて、両腕が抜けるほどの勢いで振り下ろした。


最初、なにも反応はなかった。


が、薄く見えた亀裂がはっきり濃くなったかとおもうと、ぴきぴきと耳にいたい音を響かせながら、デスマスクが二つに割れた。


そして、ゆっくり空中を水の中にいるかのように漂っていたが、だんだんと小さくなり、床にふわりと落ちた。


後は床の上に、割れた小さなデスマスクが、ころがっているばかりとなった。




ふと我に返ると、自分の部屋で一人、座っていた。


頭が、ぼうとしている。


今しがた、なにかとてつもなく大変なことがあったような気がしてならないのだが、ほとんどなにも思い出せない。


思い出したのは、先ほど岡村の部屋に行ったことだ。


なぜかそれはよく覚えている。


そこでなにかが、あった。


間違いない。


が、そこでなにがあったのかは、はっきりとした記憶がない。


その部分が、かなり欠落している。


誰かと会ったような気もするが、会話もしたような気もするが、よくわからない。


――なんだろう? ……あとで岡村に聞いてみるか。


岡村の部屋でなにか話を聞いたのなら、そこには岡村しかいないはずだ。


なぜ記憶が、こんなにも不思議な状態になったのかは、岡村に聞けば、すべて解決するような気がする。


なにもかも思い出すだろう。


でも今、岡村は部屋にいるのだろうか? 


どこかに出かけているような気がしないでもないが……。


それにしても、さっきから気になってしかたないのは、目の前の壁にかかっている、奇妙なあれ。


女のリアルな白い顔。


デスマスクというやつか? 


でも、なんでこんなところに、自分の部屋の壁にかかっているのか?


――……どこかで見たような、デスマスク。


その時、デスマスクの眼が開いた。




岡村が合宿から帰ってきたとき、玄関の鍵が開いていた。


――おかしいなあ? 絶対に閉めたはずなのに。


もう警察はもちろんのこと、大家にも言う気にもなれない。


なにごともなかったかのように、部屋に入る。


部屋に入るなり、本棚の上にある箱に、手をかけた。


机の上に置き、ふたを取る。中には白い顔。


「ママ、ただいま」


「おかえり、清ちゃん」


デスマスクが返事をした。はっきりと。


「じゃあ、いつものあいさつだよ」


 岡村は、デスマスクに顔を近づけると、その口に、口づけをした。



     終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

デスマスク ツヨシ @kunkunkonkon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ