小さなヒカリ

沖方菊野

第1話

 冷や汗が滲む。呼吸を整えようと静かに息を吸い込むが、それは結局何の意味もない。ただ、肺がもっと酸素と安心を求め、限界まで広がろうとするだけだ。苦しい。生まれて一度も知ろうとしたことはなかったが、窒息で死んでいく人間とは、こんな気持ちなのかもしれない。そんなことを考えながら、私はふと笑みをこぼした。どうやら私にはまだ、それを考える余裕があるようだ。いっそ、生への執着なんて失くしてしまうほど、気が狂ってくれれば良いのに…。そうすれば少なくとも、今ある、この永遠に終わりのないような苦痛と恐怖から解放される。なのに、つくづくと損に出来た人間だ。私も、こいつも。そんなことを考えながら、隣にしゃがみ込む小さい同級生を見つめた。背が低いくせに体格だけは一角で、イケメンで、ナルシストで…。

 私はこいつが嫌いだ。側に近寄られるだけで、遠くから手を振られるだけで、苛々する。そして何故か、胸がキュッと締め付けられて、もう訳がわからないからこそ、一層増して嫌いなのだ。そんな鬱陶しい苛々野郎と何故、よりにもよって一緒なのだろう。私は、惨劇と呼ぶに相応しいこの事件が起こった時のことを思い出す。

 今日は祝日で大学の授業もなかったのに、私と苛々野郎とそれから大親友の、りり子は学校にいた。たった三人しかいないサークルの人数を、如何に増やすかということを話し合うためだ。今考えれば、別にわざわざ学校に来なくとも良かったのだ。そういえば、誰が言い出したのだろう。まぁ、それはどうでも良いか。とにかく事件は、そんな祝日の人も疎らな日に起こった。あれは、ちょうどお昼時だった。私達のいた、10階にまで聞こえてくるような悲鳴や叫び声が聞こえたのは。流石に、ただのはしゃぎ声ではないと認識した私達は、静かに席を立ち入口へ向かう。先頭に立っていた私は、恐る恐るドアを開け、又、静かにドアを閉めた。

「ちょっと。何してるのよ」

真後ろのりり子が、再びドアを開けようと伸ばした手を、私は制する。

「どうした」

 苛々野郎が心配げな面持ちで私を見上げる。

 その問いに答えようと、口を開きかけた時、館内放送が響き渡る。

(生徒の皆さん、校内に不審者が入りました。直ちに校外へ避難してください)

あまりにも無責任で、慌て怯えたような声が現実味をおびさせる。

「まさかとは思うけど」

「違うよな」

二人が引きつった顔で私を見上げ、安堵を得ようと言葉を求めるが、私の口から、彼らを安心させるための言葉を発してやることはできない。

「不審者って刃物を持って、エレベーター付近にいたら間違いないですか」

彼らはその言葉を聞き終える前に、一斉に非常階段へと続くドアの方へ走り出す。私は呆気にとられながら、二人の後ろ姿を見つめる。ドアを開けながら振り返った二人は、私に向かって怒鳴り声を上げた。

「何やってんだ、早く来い」

「んなとこに突っ立っててどうすんのよ」

 そんなに大きな声を出すだろうか、普通、この状況で。そんなことを思いながらも、私は彼らに続いた。

 九階に降りた私たちは、階段から駆け上がってくる煙と、焼けるような匂いに、そのまま階段を下ることを躊躇い、エレベーターを使う。この状況で密室に逃げ込み脱出しようなんて、馬鹿なことをしたと気付いたのは、六階でエレベーターが故障し、外に追い出されてからである。何の危険にも遭遇せず、脱出を続けていた私たちは、冷静でもあり、少しその状況を楽しんですらいた。だから辺りを確認もせず、六階に走り出てしまったのだろう。廊下を走り抜け階段へ向かおうとしたとき、丁度教室からナイフを持った黒ずくめの大柄な男と出くわした。男は私たちを目にするやいなや、ナイフを振りかざし襲い掛かってくる。咄嗟のところでかわし乍ら、走って階段まで逃げ切ったところで、私はようやく自分が苛々野郎に、手を引かれて逃げていたことに気が付いた。

「おい、りり子がいねぇ」

ハッとして振り返るが、そこにりり子の姿はない。

「戻らないと」

「馬鹿か。戻れるわけねぇだろ」

「でも…」

「りり子はずる賢い。だから逃げ切れてるよ。それに、悲鳴一つ聞こえねぇってことは、大丈夫だってことだ」

 彼は、小さいくせに私の前に立ちながら、どんどんと手を引いて階段を駆け下りていく。

 そうして二階まで降りたとき、苛々野郎が足を止めた。背が高い私は、こいつのせいで前方が見えなくなる、なんて言うことはなく、そこになにがあるのか、はっきりと視界に捉えてしまう。

 数人、否、数体の死体が階段の段差に一体ずつ並べられていた。

 体中の毛穴が開き嫌な汗が噴き出るのを感じる。生臭い匂いに頭が回らなくなり、私は無意識に苛々野郎にしがみつく。呆然としていた彼は、震える私の手を強く握った。

その時、携帯電話のバイブがポケットを揺らす。着信の相手はりり子である。私は慌てて通話ボタンを押す。

「もしもし、りり子。無事だったの」

「あたりまえでしょう。それより、今どこなの」

「今、2階の階段の踊り場にいるの、こっちにこれそう」

「大丈夫よ、すぐに行くわ」

 私たちは死体の側の踊り場に身を潜めた。苛々野郎は廊下を見張り、私は階段から耳を研ぎ澄まし、犯人の気配を探る。重い沈黙の中、唐突に彼が口を開く。

「なぁ、クリスマスの予定は」

「はぁ、こんな時に何を…。」

「どうせ一人なら、俺とパーティーしようぜ」

「からかわないで、こんな背の高い女とクリスマスなんて、そんな冗談言うところが嫌いなのよ」

 私はしかめっ面で彼を見つめる。何故だか彼の顔はいつもより悲しげにも見えたが、私のしかめた顔を見ると、彼は優しい笑顔を浮かべた。いつものように口喧嘩でも始めてやろうかと、突っかかろうとした時、彼は引き攣った表情で私を廊下側に引っ張った。体勢を崩しながら、罵声を浴びせるが何故、そうされたのか、私はすぐに理解した。

「あーあ。おしいなぁ。小さい勇者が大きいお姫様を救うなんて、童話としてはセンスの欠片もないわ」

 ナイフを持って、下品に笑うりり子が踊り場にいた。そのナイフからは真っ赤な血が滴っている。苛々野郎が血が流れる腕を押さえながら、私を庇うように立ちはだかった。

「何の冗談だよ」

「退屈しのぎ、金持ちはこんな遊びでないと満足しないのよ。友達ごっこのあとは、破壊して感傷に浸るの。素敵でしょう。」

力の抜けた私を、彼は強い力で引っ張り、そのまま引きずるような形で走り出す。

甲高い笑い声を背中で聞きながら、私たちは廊下を駆け抜ける。前方からナイフを持った数名の男が、嫌な笑みを浮かべ、こちらに歩いてくる。もう駄目だと諦めかけた時、私の体は右に強く引かれ、そのまま窓際に押し込められた。そこは、廊下にある小さな踊り場のような場所だ。息つく間もなく、私は体を窓の外のでっぱりに押し出された。建物を囲む妙なでっぱりである。振り返ると苛々野郎が、私をじっと見つめ笑った。

「そこをつたって、逃げろ」

「あんたも……。」

「二人で逃げたら時間を稼げねぇだろ」

「そんなことない」

「あのさ、俺…。やっぱ何でもない。良い男は別れ際に何も言わねぇからな」

 彼はそう言うと、窓を勢いよく閉め、鍵をかけた。同時に彼の近くに犯人とりり子が迫ってくるのが、窓越しに見える。彼は窓際の隅に置かれた消火器を噴射させた。私の視界は、乳白色の霧のようなもので遮られ、もう何も見えなかった。

 その後、私はそこをつたって、警察が集まっている所に向かい助け出され、病院に搬送された。警察の突入が遅れたのは、入り口付近で清掃員及び警備員に足止めされたからだそうだ。彼らはりり子にお金で長い間、餌付けされ、一種の信者に近いものであったと聞いた。

 

 私は今、病室のベットで、看護師から渡された形の崩れた箱を見つめている。あの日、病院に搬送される際に、私のポケットから落ちた物だと渡された。見覚えのないそれの蓋を、私は無意識に開ける。中にはクロスの中央に、小さなビジューが付いたネックレスが入っていた。その下には汚い、見覚えのある字で「メリークリスマス」と、書かれたメッセージカードが置かれている。

 窓から入ってきた陽の光が眩しいせいだろうか、ネックレスも汚い字も、ぼやけて、そして滲んで見えなくなっていく。一体、いつの間に仕込んだのだろう…。私を窓から押し出した時だろうか。気付けなかった。何も。もう少し早く、今のように素直になっていれば、こんなにも切ない別れは無かったかもしれない。少なくとも、あの時、あんなにも悲しそうな顔をさせることはなかったのだ。伝える相手がいなくなった、行き場のない、吐き場のない言葉達が、私の目から零れていく。そんな私を、陽に照らされて輝く小さな光が、優しく見つめてくれていた。

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小さなヒカリ 沖方菊野 @kikuno

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