出会いの海で誓う永遠 (後)
「おぉ、ののかか」
お父さんと会うのは、あのお墓参りの日以来だった。ちなみにあたしが行方不明になっていたことは宮司さんが箝口令を敷いていたので、未だに海来神社の神職さんや社人の家の一部の人たちしか知らないらしい。
「どうしたの、お父さん。海来神社に何か用事?……それともあたしに会いに来たの?」
「いや……まあ、ののかの顔も見られたらいいなとは思っていたけれど………。実はな、父さん、今度神社に蒼真珠を使った飾りを奉納することになったんだよ。でも留め具のデザインのアイデアに煮詰まってて……それで気分転換に寄ってみたんだ」
ちらりと横目で窺うように見られて、あたしはとっさに持っていた紙袋でお腹を隠していた。普通の赤ちゃんの何倍もの早さで海来玉は成長するから、『和合の儀』をしてから三ヶ月ほどだというのにあたしのお腹はもうはち切れんばかりに大きくなっていた。宮司さんの見立てとポコちゃん自身の話からすると、あたしはもういつ赤ちゃんが生まれても不思議じゃない「臨月」って時期に入ったみたいなのだ。
でもこのおっきなお腹は、霊感や神力みたいな特別な力がある人にしか見えないらしい。普通の人には妊娠していないときのぺったんこのお腹にしか見えないので、あたしは海来神社の関係者以外には誰にも妊娠していることを知られずに普通に学校にも通うことが出来ていた。……体育だけは毎回見学だけど。
そんなわけでお父さんの前でべつに隠したりする必要はないんだけど、お父さんとお母さんにヒミツで妊娠していて、しかももうすぐ産んじゃいそうだってことがなんとなく申し訳ないような後ろめたいような気がして、それで思わずお腹を庇ってしまっていた。
「お、お父さんっ、今からお参りしていくんでしょ?お邸で麦茶飲んで行ったら?あ、お団子とかもあるし一緒に食べようよ!」
疚しいことがあるからこそ裏返ってしまう声で話し掛けると、お父さんはゆっくりあたしの後をついてきながら首を振る。
「……遠慮しておくよ。ののかは今、神事の最中だろう。いくら寝泊りさせて頂いている場所だからといって、『お邸』はののかの家じゃないんだ。ののかが勝手に部外者を入れちゃ駄目だろう」
もっともな意見なんだけど、神事のことになると厳格に一線を引くお父さんの態度があまりに他人行儀で、なんだかちょっとさびしい。
「…………そうだね。そうだったね………じゃあさ、せめて一緒に上まで行こう」
しょんぼりした気持ちであたしが先に石段を登ろうとすると、両手に持っていた荷物を全部、お父さんにひょいっと取り上げられる。
「え?……いいよ、お父さん。それくらいあたし持てるってばっ」
手を伸ばすけれど、お父さんはやんわりとあたしの手を避けて、荷物をしっかり持ったまま無言で石段を登っていく。一段一段、まるであたしを気遣うようにゆっくりと。だからあたしも黙ってお父さんの後に続いた。
「ののか」
「うん?」
「………前に、父さんと同い年の女の子が『海来様』の花嫁役に選ばれたって言ってことを覚えているか」
背中を向けたまま話すお父さんに、あたしは頷いてちいさく「うん」って答えた。
「そういえばそんなこと言ってたね。……でもそれがどうしたの?」
お父さんはそれからしばらく無言で石段を上り続け、でも中腹くらいに差し掛かると足を止めた。それからまるでなにか秘密を告白するときのように静かに口を開いた。
「その子はね、特別な子だったんだ」
「特別?」
「ああ。いたって普通の女の子なんだけど、いつも明るくて元気で、きれいで。………このあたりに住んでる男の子も女の子も、みんなその子のことが大好きだった。いつも人の輪の中心にいるのが彼女だったんだ。………けれどね、彼女を伴侶として迎えるはずの海来様だけは、なぜか彼女を遠ざけて『嫁にした覚えはない』なんて邪険にしていたんだ」
お父さんの口から聞く話だとは予想できなかったから、あたしはどきどきしながら続きを待つ。話しているお父さんの顔は、背中を向けられているから見えないままだ。
「社交的で朗らかだった直高様とは違って、息子の天高様は穏やかだけど人嫌いで有名でね。子供の頃から決して人に混じらず『お邸』に籠っているような方だった。だからみんな、お望みのままひとりにして差し上げた方がいい、その方が天高さまもしあわせなはずだと言って、天高さまと係わろうとする彼女を止めようと説得していたんだ。
………けどね、なぜか彼女は諦めなかった。どんなに冷ややかにあしらわれて無下にされても天高様のところに通い詰めて、たったひとりで天高様に向き合って心を開こうとしたんだ」
あたしの目には一度だけ記憶を辿って見た、少年時代の天高さんの顔が不意に思い浮かんでくる。とても利発そうでやさしげで、でもとても繊細そうな目をした男の子だった。
「彼女は人気者だったからね、彼女に冷たい態度を取る天高様に彼女が尽くそうとすることがみんな心底面白くなかった。でも天高様に手を出すわけにはいかないから、みんなで彼女を遠くへ連れて行ってしまおうとしたんだ。
………二十歳になったばかりの、粋がっただけでまだまだ青臭い子供が立てた計画だ。本気で二人を引き裂くつもりなんてなかった。彼女を彼女と仲の良かった女の子の車に押し込んで、そのままみんなとただ二、三日旅行にでも行ってしまおうとしたんだ。最後に仲間うちでそういうたのしい思い出を築けば、彼女が嫁いでしまうことも許せる気がしてた………だけどね………」
言葉を切って、お父さんは自分の右腕を見る。そこには手の甲から二の腕まで走り抜けた、今も縫い痕が生々しい大きな裂傷があった。これは昔、お父さんが若い頃に交通事故に遭って出来たものだと聞いたことがあった。
「罰が当たったなんて思わない。あの事故は免許を取りたての若造が、ただ大雨の中の不注意で起こしたものだ。神罰なんかであるものか。………だけどね、父さんたち以上にボロボロになって片手に後遺症を負っても、それでも笑顔で天高様の元へ帰っていく彼女を見て悟ったんだ。
周りから見たらどんなに許し難く理解できないことだとしても、他人には侵しえない絆というものがこの世にはあるんだったことを。『運命』だなんて言葉は相当に陳腐だと思うけど、そうとしか考えられない縁が確かにあって、それに無理に逆らおうとしても、決して誰も幸福になんてなれないんだ。………この土地にいると、そんなことを感じる」
お父さんの声が途切れて、途端に聴覚は蝉の声で埋め尽くされていく。
「………………あのね、お父さん」
何を言うべきなのか掛ける言葉もわからないのに、心がはやって呼びかける。すると背中越しにお父さんの笑う気配がした。
「それにしても結構重いな、これ」
手にぶら下げた紙袋を揺らしながら、お父さんが言う。
「葡萄が三房と大振りの桃が二つもあるなんて、持たされ過ぎだろう………大事な時期なんだから、こんな重いもの持って無理をするなよ」
「えっ」
思わず絶句して立ち止まってしまったあたしとは対照的に、お父さんはごく淡々としたまま進んでいく。
「……………ののか」
動揺のあまり返事すら出来なかったけれど、お父さんはいつもと何にも変わらない穏やかなお父さんのままに言葉を続ける。
「子供の幸せは、親が決めるものじゃない。だからののかは、自分でちゃんと選び取るんだよ?……それがどんな選択だったとしても、おまえが一生懸命考えて選んだことなら、父さんはちゃんと受け止めるから」
まるで自分に言い聞かせるように言ったお父さんが、突然立ち止まった。
「…………お父さん?」
お父さんは階段を見上げて眩しそうに目を細めていた。その視線の先を追うと、石段のいちばん上に誰かがいるのが見えた。真っ白な日傘を差した女の人だ。涼し気な花柄のワンピースを着ていて、日傘の柄に両手を添えるその佇まいもきれいな人。その人を見て、お父さんが懐かしげに呼びかけた。
「美弥ちゃん」
とてもお父さんとは同年代とは思えないそのきれいなおねえさんは、ゆっくりと石段を下りてくるとにっこり笑う。
「優一くん、お久しぶり。同窓会以来ね?ほんとうに豊海に戻ってきてくれたなんてうれしいわ。綾子さんはお元気?」
そのおねえさんのやさしい表情は、どこかあたしが会いたいその人を彷彿させる。思わず目を奪われていると、おねえさんもあたしを見た。
「そちらは優一くんの娘さんよね?思った通り、とてもかわいらしいお嬢さんだわ。……はじめまして、ののかちゃん。皆礼美弥子と言います。うちの日高と穂高がお世話になっています」
「…………日高くんの、お母さん………?」
とてもそんな歳に見えないのは、海来玉を宿したご利益のおかげなのか。思いがけない出会いに驚きすぎてそんなことを考えていると、美弥子さんは突然奇妙なくらい背筋をピンと伸ばして、遠くを見てカッと大きく目を見開いた。
「美弥ちゃん?どうしたんだ?」
「……………『ののかさん、向こうだ』」
まるで誰かが乗り移ったように、美弥子さんの口からとても女のひとのものとは思えない低い声が出てくる。でもそれは、低いだけじゃなくてあたたかで心地よい、深みがある声だ。美弥子さんは片手を日傘から離すと、まっすぐに伸ばせないからなのだろう、曲がった指で、遠くを指さす。
「『早く行きなさい』」
「…………え?」
指し示す先にあるのは、木立の合間から見える豊海の海。それを目に入れた途端、あたしの左手の薬指がちりっと熱を持って痛み出す。そして唐突に日高くんのことが恋しいと言う気持ちが溢れてくる。それははっきりとした予感となって熱い血潮のようにあたしの身体を駆け巡っていく。
海を見てどうしようもなくどきどきするこの感じには、覚えがあった。
「………ああ、ごめんなさいののかちゃん。ときどきね、夫の思念のようなものが、私の口を借りて何かを伝えようとすることがあるのよ。あの人は、ののかちゃんにどうしても『行きなさい』と伝えたいみたい」
美弥子さんの話を聞き終える前に、今上ってきたばかりの石段を下りていた。背後から聞こえてきたお父さんの「行っておいで」の声に背中を押されると、あたしは逸る心のままに足が縺れてしまいそうなくらいの勢いで石段を一気に駆け下りていく。予感があった。
--------あたしは海に呼ばれている。
夢中で下りていると、不意に『走っちゃダメだよ。俺が手を貸すから』という囁きが耳に聞こえてくる。その途端お腹がかあっと熱くなって、石段を蹴ったあたしの身体がふわりとなにかやさしい力に持ち上げられた。次に地面に着したときにはあたしの足は石段ではなく、遠くにあるはずの浜辺の砂を踏みしめていた。
視界いっぱいに広がるのは、真昼の強い日差しに照らされてきらきらと輝く、うつくしくて壮大な海。
薬指はさっきから熱いままで、まるで引っ張るように糸がきつく張っていた。あたしは足を止めることなく海に向かって突き進んでいく。沖の方を見れば、遠くに太陽の反射より眩しい蒼い光がちらついたのが見えた。あたしはもう濡れるのも構わず海に足を踏み出していく。
思えばここが、あたしたちの出会いの場所だ。
あのとき何も知らない相手なのに、あたしは日高くんに一目で恋に落ちて、ずっと忘れることが出来なかった。きっとそれはこれからも変わらない。あたしは何度だって日高くんと恋に落ちる。一生外すことが出来ない甘い楔を、あたしの魂の奥深くまで打ち込んでくれたのは日高くんだ。
薬指があたしの目にはっきりと見えるくらい光りだし、その糸が紡ぐ先にある蒼い光がものすごい速さで海の上を走り、波打ち際にたどり着いた。あたしの目の前で、その光の中から人が現れた。はっと息を飲むほどきれいな顔をしていて、やさしげな笑みをたたえたその人は、あたしを見て目を細めた。
「よかった。間に合ったみたいだ。随分、お腹大きくなったんだな。……………ただいま、ののか」
記憶の中の日高くんと少しも変わらない笑顔でそう呼びかけられて、熱いものが込み上げてきたあたしは夢中で日高くんの胸に飛び込んでいた。日高くんはそんなあたしをもう離すまいというようにきつく抱き締めて応えてくれる。ぴったりとくっついているとあったかくて、奥からトクトクと命が脈打つ音が聞こえてくる。ちゃんと生きている。これは間違いなく、生きた日高くんの身体だ。
それを実感した途端に、心臓が痛いくらいにぎゅうっと引き絞られて、感動が甘い痺れになって全身を駆け巡っていく。
「遅くなってごめん。……心配、いっぱいかけたな」
不安で、心配で、寂しくて、怖かった。でも日高くんが日高くんとして無事に戻ってきてくれたのなら、もう何も言うことはなかった。
「……ねえ、日高くん……」
「ああ」
「……………すきだよ………日高くんのことが、大好き…………」
おかえりなさいをいうよりも、よかったと安心するよりも先に、涙と一緒にそんな思いが溢れてくる。同じ気持ちであると訴えるように、あたしを抱き締める腕の強さがいっそう強くなる。
「俺もののかが好きだ。もうどこにも行かない。何があってもののかを離さない。必ず大事にする。だからずっと俺の傍にいてくれ」
まるで海来様の伝説のように、日高くんはあたしの手を恭しく受け取ると、それから乞うような目をして言った。
「結婚しよう。俺のすべてを永遠にののかに捧げる。だからののかも誓ってくれるか?一生俺の傍にいるって。……いや、『一生』じゃ足らないくらいのときを、ずっと俺といてくれ」
泣きすぎて頷くことしか出来ないあたしを見ると、日高くんはうれしそうに目を細めて。それからあたしを困らせるときに見せる、ちょっといたずらな笑みを浮かべて言った。
「ずっと会いたかった。…………俺は早く、ののかとキスがしたい」
恥ずかしいけれど、同じ気持ちでいるあたしは精一杯の勇気を振り絞って背伸びした。それから日高くんの頭を掻き抱いて引き寄せると、キスの代わりに自分のおでこと日高くんのおでことをコツン、とくっつける。至近距離で見る日高くんの目が、いっそうやさしげな形になってあたしの心臓は天井がないくらいにドキドキ高鳴っていく。
---------大好きだよ、日高くん。これからも、ずっとずっと。
好きな相手に好きだと伝えることが出来る喜びを。
その気持ちを受け止めてもらえるしあわせを。
そして同じ気持ちを返してくれる相手と巡り合える幸運を。
すべて噛み締めながら、あたしたちは抱き合い続ける。
何物にも代えがたい満ち足りた気持ちを共有したあたしたちは、この恋が永遠になりますようにと豊海の海に願い誓いながら、尽きることのない思いと一緒にいつまでもいつまでも出会いの浜辺で寄り添い合っていた。
≪了≫
神婚 ~まだ16歳だけど、神様に嫁ぐことになりました~ @kusi
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