終幕

出会いの海で誓う永遠 (前)


 まるで降り注ぐように蝉の声が響いていた。頭上から照り付ける日差しは痛みを感じるほどに強く、ハンカチで拭っても拭っても額から汗がこぼれ落ちていく。


 季節は真夏。


 豊海村は海に面していてその周囲を山で囲われているから東京の暑さよりもだいぶしのぎやすいけれど、それでも正午の日差しはチリチリと痛いくらいにあたしの肌を焼いていた。


「ふぅー。………熱っいなぁ」


 おじいちゃんおばあちゃんのお墓参りが済むと、あたしは次に水子地蔵の前に来る。その赤ちゃんのような可愛らしい顔のお地蔵さまの前で手を合わせると、花屋さんで買った白百合と持ってきたお菓子をとお供えする。


「ちっちゃん、今日はね、鯛焼き持ってきたよ。これね、日高くんの好物なんだって。この間穂高くんに聞いて、さっき響ちゃんと一緒に作ってみたんだ。よかったらお友達と食べてね?端っこカリカリで結構おいしく出来たんだ、ちっちゃんにも気に入ってもらえたらうれしいな」


 話し掛けても、応えてくれるあの淡くてやさしい光はもうあたしの傍にはいない。でもこの静謐な墓地にいると、他の場所にいるときよりも動物や植物やありとあらゆる生き物のささやきが、吹く風や遠くの波音にまぎれて聞こえてきて、その無数の命がこの地上に廻り廻っていることが感じられる。

 ちっちゃんとのお別れにはいまだに胸がちくりと痛むけど、だからあたしは前よりももっと前向きな気持ちでその一言を言うことが出来た。


「じゃあねちっちゃん、今日はこれで帰るけど…………“またね”?」


 あたしは転ばないようにゆっくり立ち上がると、まん丸におおきく膨らんだお腹を手で支えながら、豊海の市街地へと続く野道をゆっくりと下りていった。






 夏休みも折り返し地点を過ぎた八月の半ば。深い深い海の底で日高くんと別れてから、もう一ヶ月半も過ぎていた。


 あれからあたしと穂高くんが豊海村に帰ってきた後は、とにかく大騒ぎだった。『地上』でも『あちらの国』でもないあの場所で過ごした一晩のうちに、地上ではもっとたくさんの時間が流れていたようで、響ちゃんの話によるとあたしは二週間も行方不明になっていたらしい。だからあたしが貝楼閣に戻って来たのを見つけると、梅さんは大粒の涙を零しながら駆け寄ってきて、何度も「よかったよかった」を繰り返しながらあたしをぎゅっと抱きしめてくれた。

 そしてその場に一年以上も行方知れずになっていた穂高くんがひょっこり顔を見せると、梅さんは驚きと喜びのあまりに腰を抜かして失神してしまった。


 それからは宮司さんや響ちゃん、それに海来神社じゅうの神主さんや巫女さんたちが駆けつけてきて、歓喜や驚きの悲鳴をあちこちで上げ合い、とにかくとんでもない大騒ぎになった。でもお祭りムードの周囲を他所に、穂高は帰還したその日のうちからごく淡々と海来役としてのお務めを再開した。

 やっぱり日高くんのことにすごく責任を感じているらしく、無理をしないでと言ったあたしにも穂高くんは「今は何かをしていた方が気がまぎれるんだ」とさびしげに笑っていた。それに「日高が帰ってくる場所を守るのは、今の僕が日高にしてやれる唯一のことだから」だとも言っていた。


 その穂高くんは、今日も朝から漁協に出向いて安全・大漁の祈祷をして、午後は秋祭りの打合せのために商店街の組合さんの会合、それから的屋の管理をする村の青年団の方にも顔を出すらしい。折角響ちゃんと再会できたというのに、連日なかなか会う時間を作れないほどの忙しさだ。どうしてもそれが気の毒に思えてならないあたしは、今日も『花嫁御寮』という立場を利用して響ちゃんのことを朝早くから貝楼閣に呼びつけていた。

 お節介だってわかってるけど、表立ってデートの約束することが出来ない穂高くんと響ちゃんに、ちょっとでも会う時間が出来たらいいなって思って勝手にしたことだ。さっきの鯛焼きも、実は穂高くんが出掛ける時間ぎりぎりまで、あたしと穂高くんと響ちゃんの三人で一緒に作ったものだ。



「響、おまえ見た目と違って意外と料理は大雑把なんだなぁ」


 あんこが豪快にはみ出た鯛焼きを見て笑う穂高くんに、そのとき響ちゃんは顔を真っ赤にして拗ねた顔をしていた。


「………そうよ、私はお掃除とか雑務をこなすことしか能がないから………どうせ私はのんちゃんみたいに料理上手じゃないわ」


 穂高くんはそんな響ちゃんを見てくすぐったそうに目を細め、出掛けるまでの僅かな時間も離れ難そうに響ちゃんをやさしく見詰めていた。そんなふたりの姿を見てると、いつもあたしの方までほんわかとしあわせな気持ちになれるんだけど。でも正直、ちょっとうらやましかった。



『ののか、今日の飯うまかった』

『ののか、あんまり無理しなくていいから』

『ののか、今日は山間に野百合が咲いていたんだ』



 日高くんとの思い出の詰まった貝楼閣にいると、日高くんのことばかり思い出してしまうから。何を見てどう過ごしていても、そこに日高くんがいた痕跡を求めて、心が勝手に日高くんの姿や声や仕草を思い出してしまうから。日高くんのいない貝楼閣で過ごすのがつらくて、すごく人恋しくなってしまう。だからほんとうは、毎日のように響ちゃんに来てもらっているのは、穂高くんのためだけじゃないのだ。



「………さびしいなぁ………」


 小高い野道を歩いていると、木々の合間から豊海の海がちらりと見える。心はすぐにその海の底にいる日高くんまで飛んで行って、穂高くんたちと一緒にいるときには絶対言わないでいる本音がついぽろりと口から漏れてしまう。


「穂高くんと響ちゃん、ほんと仲良しでお似合いだなぁ……あたしもあんなふうに日高くんと笑い合いたいな……あー。………………会いたいなぁ……」


 切ない気持ちが込み上げてくるのを抑えられなくて、あたしは左手の薬指に触れていた。そこにあるはずのあたしと日高くんを繋ぐ見えない糸を探っていると、まるであたしのさびしさに呼応するように急にお腹がかあっと熱くなって淡く輝きだす。その淡い光はゆらゆらと揺らめいて、あたしの斜め上あたりにふわりと広がり、半透明の男の子の姿を浮かび上がらせた。


「あっ………ポコちゃんっ」


 現れた彼にあたしが呼びかけると、彼はなんとも複雑そうな顔をする。凛とした目鼻立ちがうつくしいこの男の子は、あの海の底の儀式であたしの前に現れた、あたしのお腹の赤ちゃんだ。この少年の姿は海来玉の力と母と子の縁が見せているもので、やっぱりあたし以外の他の誰にも見えないらしい。

 ポコちゃんはまるで不在の父親の代わりとでもいうように、ときどきこうしてあたしの前に現れてくれることがあった。ちなみに最近内側からお腹を元気にポコポコ蹴ってくるから「ポコちゃん」ってニックネームを付けたんだけど、どうも気に入らないみたいで、呼び掛けてもいつも微妙な顔をされてしまっていた。


「ポコちゃん、今日思ったよりずっと暑いね?ごめんね、お腹の中はもっと暑いのかな?貝楼閣に付いたらたっぷり麦茶飲んで涼むから、ちょっと待っててね!」

『ちょっと、走るなってっ』


 ポコちゃんはあたしを見下しながら、窘めるように言う。


『急がなくていいから。こんな斜面で転んだら大変だろ?夏場は草が生い茂って足が引っ掛かりやすいし、そうじゃなくても母さん、そそっかしいところがあるんだから』


 どっちが親なのか分からないやりとりに、あたしは心の中で笑てしまう。日高くんがいないさびしさで落ち込みそうになっても、ポコちゃんが話し掛けてくれるとなんか不思議と元気になれた。ポコちゃんがあたしと日高くんを結びつける存在だってことに勇気づけられるのだけど、それだけじゃなくて大好きな人の面影があるポコちゃんの顔を見てると、胸がなんだかぎゅうっと温かくなって力が沸いてくるのだ。


 でも顔立ちはあたしより日高くんに似ているけれど、性格はたぶん伯父である穂高くんに近いであろうポコちゃんは、あたしを見てにやりといたずらな笑みを浮かべる。


『だいたいさ、墓参りに来たがる気持ちも分かるけど、そのお腹でひとりでこんなとこまで来るのが間違ってるよ。無理して動いて、人気のないこんな山の中で産気づいたらどうするんだよ?』

「えっ………ポコちゃん生まれそうなの!?生まれるの!?……わあ、どうしよう、早く帰って鶴子さん呼ばないとッ」

『だから走るなってっ!違うからっ!!………まったくさ、そんなに大きなお腹でバタバタ動いたりして、俺が父さんより先に生まれてきたらどうすんだ』

「だめだめだめ!ポコちゃんが日高くんより先に生まれちゃうのはダメだよっ。だって日高くん、きっともうすぐ帰ってきてくれるはずだから」

『…………そういえばさ、父さん、帰ってくるとき赤ん坊の姿じゃないといいね。さすがに母さん、俺と父さん両方育てるの大変だろうし』


 ポコちゃんの冷静な一言に、汗だくの背中が一瞬にしてひやりとする。それは何度もあたしが危惧したことだった。いや、たとえ赤ちゃんの姿で生まれ直してくるのだとしても、日高くんがこの世界にいてくれるならすごくうれしいことなんだけど………。大変とかそういう問題以前に、そんな状況になることは出来るだけ想像したくなかった。初恋の彼を自分の手で育てるとか、紫の上も真っ青なそんな超展開はまだ十六歳のあたしには荷が重すぎる……。


「だ、大丈夫だって!きっときっと日高くんはあたしの知ってる日高くんの姿で帰ってきてくれるはずだから!そう信じてるのっ!」


 ………いや、信じたいって言ったほうが正しい。


「だからお願い、ポコちゃん。それまでお腹で待ってて!」

『わかったよ。だったら母さんは、なおさら無理をしないこと。いいね?お腹が張らないようにしないと』

「………あ……うん、わかりました……」


 あたしは渋々ペースを落として野道を下っていく。どうやらポコちゃんは将来かなりしっかりした男の子に育つようで、まるであたしの方が子供みたいに諭されてしまうことがこれまでにも度々あった。


「そういえばポコちゃん」

『何?』

「ポコちゃんってさ、まだ赤ちゃんのはずなのにあたしと同じかそれ以上の精神年齢だけど、まさかそんな感じのままで生まれてくるの?」

『まさか!今のこの姿って、あくまでも海来玉がまだ赤ん坊の俺を土台にして作った幻みたいなものだからさ。たぶん生まれてくるときには全部忘れてまっさらなフツウの赤ん坊としてうまれてくるはずだよ。だから安心して?』

「……へえ……そうなんだぁ………」


 いきなりあたしよりもオトナな思考回路の男の子のママになることは、プレッシャーというか、想像もつかないことだったから、ほっとしたような。でも完全に忘れられてしまうなんて、ちょっぴりさびしいっていうか、残念なような。


「今だけ限定なんだ、このポコちゃんとお話し出来るの」

『でも俺がオトナになったら、今母さんと話していることとかぼんやり思い出すことがあるかもしれない』

「そっか。そういうの、ちょっといいね。……………ねえ、ポコちゃん。日高くんもさ、生まれ直してくるとき、全部忘れちゃってたりしないのかな………?」


 これもずっとずっと胸の中にあった懸念。たとえ魂は日高くんのままでも、体は一から作り直されているのだ。記憶が引き継がれることなく、全部きれいにリセットした状態で生まれてくる可能性もなくはないんじゃないかって。……そんなこと、不安に思ったってあたしにはどうすることも出来ないんだから、考えない方がいいのはわかっているんだけど。


「…………ごめん。今のなしなし!聞かなかったことにして!」

『確かに記憶がなくなること、ないとは言い切れないかもしれない。それにもし思い出すことがあっても、前世の記憶を思い出すような、薄皮一枚隔てたような、うまく自分の記憶としてなじみ切れない違和感を覚えることがあるかもしれない』


 口元に指を押し当てて考えるポーズをしたポコちゃんは、あくまで悲観でも楽観でもない冷静な意見をくれる。でもその後であたしを勇気づけるためのとびきりの笑顔を見せてくれた。


『でも大丈夫。父さんがもし忘れてしまっても、記憶なんかに頼らなくても母さんとは必ず引き合う運命だから。……俺の身体にはそんな遺伝子の記憶が廻っているんだ。それがちゃんとこの目に見える。だから大丈夫だよ』


 それだけ言うと、ポコちゃんの姿は急にゆらりと揺れて消えた。たぶんお腹の中でお昼寝を始めたんだろう。胎児は一日のほとんどを寝て過ごすっていうし。


「いつもありがと、ポコちゃん」


お腹越しにいとおしいその子を撫でると、あたしは駆け足にならないように野道を進んでいった。






「おや、ののか様じゃありませんか」


 海来神社までの道をこそこそ目立たないように歩いていたつもりなのにまた呼び止められてしまって、無視するわけにもいかないあたしは振り向いた。すると青果店の店主のおじさんは、にこにこしながら店先に並んだ旬のくだものを手に取った紙袋にどんどん詰めていく。


「丁度よかった。今日は甘くて粒の揃ったいいブドウが入ったんですよ。こっちの桃もデカくてうまそうでしょ?甘い果汁をたっぷり果肉に蓄えてて、丁度食べごろなんですよ。食欲の沸かない今の季節にぴったり、どうぞ持って帰って召し上がってください」


 おじさんはぐいっとあたしに紙袋を押し付けてくる。


「ありがとうございます。……あの、お代はあとで『御用聞き』の村江さんが………」

「何をおっしゃるんですか!いいんですよ、お金なんて!これはアタシがののか様や穂高比古に召し上がっていただきたいだけなんですから。どうぞどうぞ、持って行ってください」


 心からの気遣いだと分かっているから断ることが出来ずに、あたしは和菓子屋さんからいただいたお団子や、八百屋さんでいただいた無農薬野菜、それにお肉屋さんでいただいた特製和牛コロッケなんかを抱えながらも、くだものの入った紙袋をお礼を言ってありがたく受け取った。


 あたしや穂高くんが海来神社の手前にある参道前商店街を歩くと、必ずこんなふうに店主さんたちから山のように厚意の品を頂くことになる。それが申し訳なくていつもは鎮守の森から大きく迂回する道を通るのだけど、今日は暑さに負けて近道であるこの商店街通りの方に来てしまったのだ。いただいたものはどれも本当においしそうなんだけど、とても穂高くんとふたりだけで食べきれる量じゃない。


「響ちゃんのお務めが終わるころに、社務所におすそ分けに行こうかなぁ………あ、そういえば右狐と左狐もたまには甘い物が食べてみたいって言ってたよな……」


 独り言をぶつぶつ言いながら歩き続け、海来神社の真正面にある大鳥居の前に差し掛かったときだった。あたしとは反対方向から誰かが歩いてくるのが見えて、あたしは思わず声を上げた。


「あっ………お父さんっ」


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