エピローグ
女教皇
八月十日。僕は市内で一番大きな図書館にいた。目的は言わずもがな、受験勉強だ。たった四日とはいえ、奇怪な事件に巻き込まれたのだから、その分の遅れは取り戻さなければならない。
夏休み真っ盛りだが人はあまりいなかった。まだ夏休みも前半だから、勉強するより遊びたい人が多いのだろうか。
時間が気になって、腕時計を見る。そこでようやく、僕は腕時計が壊れているのを思い出した。結局、電池を買い替えてみたりしたが直らなかったのだ。それなのに、癖でたまにつけてしまう。
「休憩するか」
一旦、外の空気でも吸うことにした。
そういえば、あれから、道明寺さんは自白したらしい。自分が、宇津木さんと新藤さんを殺したのだと。
「物証は集まりそうですか?」
「どうだろうな。誰かさんが荒らしてくれたもんだから、保存状態が悪くて困る」
昨日、電話で知り合いの刑事と話した。僕くらい事件に巻き込まれるようになると、刑事に知り合いの一人や二人はできるものだ。熱血漢だが万年平の人なので、コネというにはあまりにもわびしいものだが。
「だが、何とかなるだろう。実はちょくちょく、鑑識から上がってるんだ。まだ確認は取れんが、いくつかは有力そうだ。お前は生意気で出しゃばりなガキだが、腕が確かなのは所内の連中みんな知ってんだ」
「僕も知ってますよ。みなさんはスコットランドヤードよりは優秀な警察官だって」
「うっせえ。ああ、そうだ、動機についてなんだが、どうもお前が睨んでいたのとは方向性が少し違うみたいだな」
「はあ」
「道明寺の話によると、何て言ったか、最新刊が盗作された……だのなんだの。新藤と須郷とすぎたがやったのなんだの」
「もうちょっと要領よく話せませんか?」
まとめると、須郷さんとすぎたさんの盗作騒ぎが事の発端だったらしい。例の、須郷さんとすぎたさんが四月に出した短編集である。盗作だと騒がれたのは収録された短編のひとつだが、それが実は道明寺さんの新刊――『白紙のラブレター』を盗作したものだったという。
「えっと、つまり、道明寺先生の短編を須郷先生とすぎた先生が盗作したんですか。そして同時に出して、モロ被り……。お二人の盗作騒ぎに実は、道明寺先生という被害者がいたんですね」
「どうも、そうらしい」
事情が飲み込めたところで、ロッタちゃんにも電話した。
「須郷さんが道明寺さんの作品を盗作した際、新藤さん経由で作品が回ったんだとさ。だから新藤さんも殺害ターゲットに」
まあ、宇津木さんの次に殺害されたのは、やっぱり今までの恨みもあったらしいが。
「そうですか。ありがとうございます。わざわざご連絡していただいて」
「いや、大した手間じゃ……。そういえば、錦は?」
「実は、どこかへ旅に出てしまったようなのです」
「ようなのです?」
架空島から出るには、クルーザーが必要だ。だから錦が出奔したとして、その事実は推測でも何でもなく、確定的に知ることができるはずだが……。
「ええ。二日前、帳さんのお宅に向かうとかで、森がクルーザーで本土に送ったんです。それが帳さんに聞いたところ、錦さんは帳さんのお宅には……」
「なるほど」
また失踪か。
「ところで、錦と組んで一泡吹かせてくれたね」
「あ、あはは」
ロッタちゃんは震えた声で笑う。本当にいつでも楽しそうだな、この子は。書斎のスクラップノートにあった記事、その真偽を聞いてみようかなとも思ったが、やめることにした。
彼女は今が楽しければ、それでいいだろう。
「でも、ちゃんとフェアにしようとしたんですよ。ですから、『女教皇』の絵を逆位置に」
「分かってる。たぶん、ロッタちゃんがそうやって働きかけてくれなかったら、絵の向きは変わってなかっただろう。錦は、本気で僕を騙すつもりだったんだから」
「そうですね。でも、だったらどうして、利き手を間違えたりしたのでしょう? 後で錦さんから聞きましたが、わたしも猫目石先輩と同じで、何だかお粗末だなと思いました」
「お粗末にさせた、陰の立役者がいたんだよ」
あいつがやってくれたんだ。我儘で、傲慢で、高飛車。でも、誰よりも僕と錦をよく知るあいつが。
外に出ると、太陽が頭を焼いた。町中の空気はアスファルトに焼かれて淀んでいる。外に出ない方が正解だったのかもしれないな。
空を見上げる。太陽が高い。耳に届くのは人々の歩く靴音、車のエンジン音。波の音はどこにもない。
帰って来た。不釣り合いな非日常から、僕にこそよく似合う、ありきたりな日常へ。
「瓦礫くん、こんなところにいたのね」
どこからともなく、声がした。唐突だけど、いつものことだ。そう驚いてもいられない。視線を上から前に向けると、帳がこちらに向かって歩いてきていた。
太陽の眩しさで滲んだ視界が、徐々に元へ戻る。ノースリーブの黒いマキシワンピースに、落ち着いた輝きを放つゴールドのミュール。曝け出された白い腕がどこまでも、艶めかしい。
実は架空島から帰って以来、帳と会うのは初めてだった。
「どう? 錦には会えた?」
「まあな。お前のお陰で、最低限の恥を晒すだけで済んだよ」
「何のことかしら?」
「よく言うぜ」
帳は、たぶん分かっていた。錦が僕に対して何を思っていたのか、どう行動するのかを。だから先回りで手を打った。錦と会うときは利き手を偽装。僕があげたリストウォッチのことなどおくびにも出さず、四月から七月と直近の事件にも触れなかった。
お陰で、錦を彼女であると見破れた。
「……お前と錦は、違うんだよな」
「何か言った?」
「いや」
帳と錦は、別人だ。僕にとって『どっちでもいい』存在なはずはない。
ちょっとした事実の集積。今までの、僕の思いと、彼女の言動。すべてを組み合わせれば見えてくる答えがある。
「用件は何だ? またぞろ、ロクでもないことか?」
「ええ。少し、興味を惹かれる事件があってね」
「じゃあ、行こうか」
「行きましょう」
僕たちは並んで歩きだした。どちらが前でも後ろでもなく、互いに求めるような横並び。それは今までより少しだけ近くて、不意に手の甲が触れ合う距離。
どちらが求めるでもなく、僕たちは手をつないだ。
彼には不釣り合いな冒険 紅藍 @akaai5555
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