魔術師

 案ずるより産むが易しというやつなのか、想像よりは簡単に終わった。僕はこの手の大規模な殺人事件に巻き込まれた経験が今までもあるけど、そのときは大抵、推理を披露してから犯人に襲われるまでがワンセットだったので、なんか拍子抜けした気分だ。

 クローズドサークルは全滅が花。しかしその花は、随分高嶺にあるらしい。

 警察は通報から一時間もかからず架空島に到着した。後でこっそり聞いた話、二日目に宇津木さんの遺体を発見した段階で、坂東さんが知り合いの刑事に連絡はしていたらしい。つまり待機状態だったのだ。主人であるロッタちゃんの意志は最大限くみ取りながら、常識的な判断を下す。使用人であり保護者という一風変わった立場にあるあの人は、こうやって彼女を守り続けていたのだろうか。

 上陸した警察は数人だった。坂東さんが刑事に伝えた情報は本当に最低限だったらしく、彼らは宇津木博士が死亡したということまでしか知らなかった。もうちょっと伝えてやれよとは、さすがに思った。

 事件の概要も彼らは知らなかったため、まず数人の刑事で現場保存と一通りの聴取をし、その間に必要な機材と人員を手配するという方式にしたようだ。鑑識と機材が搬入されたのは午後三時過ぎで、そのとき僕はもう、長ったらしい事情聴取から解放されて暇をしていたので、遊戯室でロッタちゃんとボードゲームをして遊んでいた。

 犯人である道明寺さんについてだが、容疑を否定も肯定もしないらしい。とにかく、身柄の確保が最優先ということで、架空島にあったクルーザーの一台を使用し本土に送還された。

 一応は事件の関係者であるゲストは、しかし全員が今日中に帰れるとのことだった。有力な容疑者が既に身柄を確保されているというのもあるが、須郷さんもすぎたさんも著名人なので、逃走の心配が少ないというのは大きいだろう。特にすぎたさんはテレビへの露出が多いから、下手に逃走する危険は少ないと見られたらしい。高校生でしかも被害者、容疑者共にほとんど接点を持っていなかったことから、僕と帳も関係者の中では重要視されずにすぐに解放となった。

「八時にクルーザーを出します。師崎港に着くころにはもっと遅い時刻となりますので、そこからみなさま、それぞれ車でお送りいたします」

 そう呉さんに言われて、すぎたさんと須郷さんは息をついた。帰れる算段が立っているというのは、それだけで安心できることなのだろう、たぶん。

 僕は荷物を整え、書斎に置いていた遺書を破り捨てて、それから帳を探した。館にはいないようなので、外まで足を延ばす。

 なんとなく居場所は分かっていた。あいつの考えることとか、好みとか、そういうのは分かるのだ。探偵と助手なのだから。

 向かったのは、『鷲の座』付近の階段から下りられるビーチ。階段を下りていると、海から上がってくる人影がちらりと見えた。もう既に日は落ちて、辺りはどっぷりと闇に浸かっている。『鷲の座』の室内から漏れる光が唯一の照明として、砂浜と彼女の濡れた白い素肌を照らしている。

「あら? どうしたの、こんなところまで来て」

 帳は、二日目に着ていたのと同じ、黒い水着を着ている。風が吹くと、腰に巻いたパレオが捲れて、健康的な太ももが露わになった。

「違う……」

 健康的? 僕は帳に、そんなイメージを抱いたことなんてない。というか架空島に来てから、タロット館に来てから、僕はことごとく『普段とは違う帳』を見ていたが、それは違う。

 普段と違うんじゃない。

「どうしたの?」

「それはこっちの台詞だ」

 怪しい点はいくらでもあった。

 一日目の夕食、道明寺さんは僕の左利きを指摘して「どうやら左利きはあたしと君だけみたいで」と言った。僕の隣に左利きの筈の帳が座っているにも関わらず。

 帳の客間に掲げられた『女教皇』のアルカナ。僕の客間に掲げられたのは正位置の『戦車』で、招待状の背面も正位置の『戦車』だった。僕が見た帳宛ての招待状が正位置の『女教皇』を指し、すぎたさんの招待状が割り振られたアルカナ通り逆位置の『死神』を指している以上、客間の『女教皇』を逆位置にする合理性はない。

 二日目、僕が監禁された『魔術師』の客間にはLANケーブルの差込口、つまりネット環境があった。ロッタちゃん曰く「わたしたちの部屋」にしかないはずの、外部との接続手段が。

 極めつけは、腕時計。

 今目の前にいる彼女は、腕時計をしていない。僕が渡した、女教皇をモチーフとするあのリストウォッチを。

 持ってくるのを忘れたのではないだろう。二日目に、まさにこの場所で、一時的に外していると発言した。しかし彼女は実際のところ持ってきてなどいない。荷物の一覧表に腕時計は無かった。

 この矛盾。どうして起こるのか。それは二日目のあのときの会話を思い出せばすぐに分かる。

 こいつは話を適当に合わせたのだ。まさか当該リストウォッチが、重要なアイテムだなんて思わなくて。思えばあのときの会話は、微妙にかみ合わないところがあった。

「随分、回りくどいことしてくれたな」

 架空島に、タロット館にいる彼女は、夜島帳じゃない。

 左利きではないから。正位置の『女教皇』を与えられていないから。例のリストウォッチをしていないから。

 右利きで、おそらく『魔術師』のアルカナを与えられていて、リストウォッチを持っていなくて、姿かたちがそっくりな彼女は。

「久しぶりだな、錦」

 僕が知る唯一の、名探偵。

「ふうん。気付かれるとは思わなかったわ。完璧なつもりだったのに」

 夜島錦は、悪びれることなく笑みを浮かべた。

「でも、回りくどいってほどではないでしょう? ちょっとしたイタズラよ。双子の兄弟が入れ替わるようなものじゃない。『ステップファザー・ステップ』を読んで思いついたのよ」

「よく言うよ。お前が一番知ってるんじゃないのか? 一卵性双生児の外見が似るのは先天的な要因より後天的な要因が強いと言われている。『似たもの夫婦』ってのは、結婚によって生活環境が似るから生まれるんだ。九年前に瓜二つだったのだってほとんど奇跡に近いのに、それ以来会っていないどころか生活環境が違ったお前と帳が偶然そっくりだなんてあり得るか。お前が、ずっと合わせていたんだろう」

「ふふっ。どうかしら。九年間会っていなかったっていうのは間違っているけれどね。ほら、ロッタちゃんは言わなかったかしら。帳がたびたび、このタロット館に来ているって。実はわたし、失踪して三年くらい経ってから、ここに御厄介になってるの。だから実のところ、わたしと帳はそこそこの頻度で会っているわ」

「…………」

 少しずつ、見えてきた。「きっとあなたの望む人にも会えるでしょう」と帳は、七月に言った。それは宇津木さんでもなければ他の作家先生でもなく、錦のことだったのだ。

「そこそこの頻度で会ってる割に、演技はギリギリだったな。利き手を間違える時点でお粗末だし、一日目の夕食時に話した話題もアウトだ。直近の四月と七月に事件を解決してるのに、どうして数年前の事件を引っ張って来たのかと思ったら」

「そうね。帳にはこのこと、話してなかったから。しかし利き手が違うのは驚きね。帳、右利きじゃなかった?」

「どうだか」

 錦は大股で一歩、僕に近づいた。息と息とがかかりそうな距離。彼女の肌のぬくもりが、伝わってきそうな近さ。

「名探偵、まだやってたのね」

「お前が帰ってこないからな。帳にせがまれる」

「嘘つき」

「何が」

「あなたが好きだからやっているんでしょう」

「何が、好きだって?」

「名探偵と呼ばれることが。それと、帳のことが」

「…………」

「帳のこと、好きなんだよね」

「だったらどうなんだ?」

「わたしのことは?」

 錦の体重が、僕にかかってくる。左足を少し後ろに下げて、受け止める。彼女の両腕が僕の背中に回って、体と体が密着する。

「わたしのことは、好きじゃないの?」

 心臓の鼓動が聞こえる。どっちのだ? 僕のか、錦のか。

 あるいは帳のか。

「すぎたさんに言われたよ」

 たぶん僕は気づかないフリをしていただけだ。錦が失踪したのは、僕が名探偵としての役を奪ったからじゃない。少なくとも、それだけが理由ではないということを。

「僕が悪いってさ。まあ、それはその通りなんだろうけど、僕は探偵か否かということに固執して、もう一つは見落としていたらしい」

 男と女という、もっと根源的な生命の本質を。

 だからか。客観的な推理をするに(推理する必要すらないが)、錦はどういう因果か、僕を……。

「わたしは愛してる、あなたを。他でもないあなたを。あなたはどうなの?」

 どっちを選ぶのか。

「九年前は、どうして帳を選んだの?」

「……別に、どっちを選ぼうという気があったわけじゃない。知らなかったし、気づかなかったんだ。お前は知っているだろう。僕が、名探偵なんかじゃないってことくらい」

「そうね。もう九年も昔の話よ。とっくに全部、終わってる」

 だから今、始めたい。いっそう絡みついてくる、両腕。こいつ、こんなに力が強かったか? いや、帳はもともと病弱だから弱いんだ。錦は健康そのものだったから、九年前の時点から僕より強かった。

「他でもないお前が言ったんだぞ。僕は帳のことが好きだって。僕自身はよく分からないけど、万が一本当にそうだというのなら、僕はここで首を縦に振るはずがないだろう」

「あなたはどっちでもいいのよ。見てくれる誰かがほしいだけ。それが帳からわたしに代わっても、現にあなたは何も思わなかったじゃない」

「それは……」

「わたしは帳を知っている。我儘なのも、傲慢なのも、高飛車なのも。あなたがそれを全部受け入れてしまうのも。でも、もういいのよ? あなたがそれを受け入れる理由はもう、どこにもないじゃない」

 確かに。

 僕は錦という『探偵役』の代わりとして、帳の横にいた。錦がいる今、『探偵役』を続ける意味はない。そして僕が錦の隣に立っていたとしても、帳に何か問題があるわけでもない。

 元の鞘に収まるだけだ。ちょっとだけ、僕と錦の距離が近くなって。

 それが正しいルート。合理的解答。

「僕は――」

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