8. 彼が殺し屋の弟子をやめたワケ

2014年6月25日 外灘区の裏路地の公園


 ボンネット・バスの車中。少年が後部座席で寝息を立てている。デスクでは、鴉がタークと対局していた。

 タークとの試合においては、ほんの些細なミスも許されない。チェッカーの真理が描く軌跡をわずか一ミリ踏み外せば、それが即敗北につながる。繰り出される一手一手が全て、最終戦を見据えた勝利への布石でなくてはならないのだ――針孔に糸を通すような、細い細い綱渡り――対局が進むにつれ、鴉は着実に神経をすり減らされていた。脳がこれまでにないほどフル稼働し、頭の中の血が沸騰するような熱さを覚える。

 鴉は、目の前で火花が散ったような錯覚に陥った。

 鴉は背もたれに身を預け、目をつむり、目頭を強く抑えた。姿勢を直し、再び瞼を上げると、そこは既に、ボンネット・バスの室内ではなかった。

 視界は、青一色に染まっていた。

 鴉は、しんと冷たい海の底に迷い込んでいた。それほど深くない。はるか先まで透明に澄んで広がる水の世界の中、光の網がゆらゆらと揺れている。白く儚げで、水の中に消えていきそうな容姿をした少女が小首を傾げ、虚ろな目をこちらに向けてくる。

 ――幻覚か――いや、違う。

 ――薬中の戯言と思ってたんだが、存外、馬鹿にできたもんじゃない。

 光の網の一部が浮き上がり、一筋の帯となって軌跡を描いた。その先に、タークの黒い駒の姿がある。ついさっきまでその駒は、精巧な罠に守られ、そびえ立つ要塞のごとく拠点を陣取っていたように思えた。だが今は、仲間から取り残された雛鳥のように、寂しげで、何処か頼りなく見える。

 ――見つけた――綱渡りの先、たった一つの終着点。

 鴉は、獲物に標的を定めた猛禽類を思わせる、攻撃的な笑みを浮かべた。


「……なるほど、今日は、キてるな」

 

* 


 朝日が昇る手前、空が薄っすらと白くなる頃、少年は目を覚ました。

 運転席の方向に目を向けると、数千枚はあろうかというメモ用紙の群れ――チェッカーの棋譜を記したものだ――が床に散らばり、紙の渦をつくっていた。その中心で、鴉がうつぶせに倒れこんでいる。憔悴しきった様子だが、口の端は、いつも通り邪悪に吊り上がっていた。


「えっと、先生、大丈夫ですか」


 鴉は寝返りをうつと、天井の照明から目を守るように、そっと手を顔に載せた。目の端で少年をとらえると、笑みをますます深くする。


「……画面、見てみな」


***


User Name “The Turk”

Win “526978”

Lose ”0”

Draw “1”

Rating “------”


***


 少年は見開いた目でディスプレイと相対し、固まってしまった。唾をごくりと飲み込むと、ゆっくりと鴉に向き直る。


「先生、タークと引き分けたんですか」

「……ああ。これで一歩、タークのステージに近づいた……チェッカーの真理と、人間の知性を超えた存在と、同じ土俵で戦えたんだ」

「嬉しそうでね、先生」

「……ガキのころから、ずっとずっと、欲しかったんだ、人を超えた存在と肩を並べるだけの力……思えば、あの時から俺は、何にも変わってなかったな」


 少年は、困ったような笑みで首を傾げた。

 ――先生はずっと前から、十分すぎるほど、超人の領域に足を踏み入れてたと思うけど。

 ふと、少年は奇妙な感覚を覚えた。彼の目の前で、鴉の姿と、幼い子どもの面影が重なったのだ――大人の姿と子どもの姿が混じり合う――凶悪な才能に恵まれ、夢みたいな憧れを実現させる力を持っていたが故に、大人になれなかった子ども――なんだろう、変に既視感がある。

 鴉は気だるげに、しかし満足そうな顔つきで、上半身を起こした。


「……今回の件、お前には世話になった」


 鴉が、彼にしては珍しく、愛おしそうな視線を少年に向ける。


「……そうだな、今ここに誓おうじゃないか……お前が一人前になるまで、ずっと、俺が面倒見てやるって」


 鴉は、似合いもしない澄んだ笑みを浮かべると、少年の頭をポンと撫でた。少年は、ぼうっと、眠りから揺り起こされたような目で鴉を見据える。

 瞬間、少年は、はっとしたように目を見開いた。

 ――この人の笑顔――背筋が凍るほど怖いのに、どこか無邪気で、子どもじみた笑み――見ているだけで吐き気を催す不気味さを備えながら、どこか憎めない、不可思議な愛嬌をたたえた笑み――どこかで見たことがあると思ったら。

 少年は、ぱあっと顔を輝かせた。


「そっか、なんで思い出せなかったんだろう」


 ――口の中に水を含んでるようなねちっこい話し方とか、かなり特徴的なのに。

 鴉が不思議そうに首を傾げた。


「……どうかしたのか?」


 この質問の答えは、少年が梟たちのもとを立ち去る原因――この二人が先生と生徒としての間柄を失う原因になってしまった。鴉は少年の答えに激昂して教育係の役目を放棄し――さらには少年を暗殺すべく、銃と爆薬と電脳を駆使して追い回すことになる。このバスを出発点にした鴉と少年の追いかけっこは、裏路地の悪党たちを巻き込み、やがて上海の闇社会を揺るがす大事件へと発展していくが――それはまた別のエピソードである。


 あたたかな空気の中、少年は無遠慮に鴉を指さし、ひとかけらの邪気もない笑顔で言った。


「先生の笑い方、『バットマン』の、ヒース・レジャーが演じたジョーカーにそっくりですね」

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『うさぎ強盗には死んでもらう』番外編――『鴉と深海の盤上遊戯』 橘ユマ @karamanero

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