二人の秘密
咲部眞歩
二人の秘密
一人になりたい。
そう思って晴れの日はよく海に来る。少しずつじりじりと照りつける太陽と、少しずつ違う音を繰り返す波。多くの人が楽しんでいるけれど海と砂浜はぼくだけを包み込んでくれるような感覚。ぼくはそれが好きだ。誰もぼくに関心を持たない。大勢の中のぼくをしっかりと実感できる。
何時間でもここにいることが出来る。このまま時が止まればとすら思う。頭の中ではいろいろなことがぐるぐると渦巻いているけど、それが形になることはない。ただ渦巻いているだけ。答えを出さなくていい。応えなくていい。心地よい疲労感。
「……こういうこと、あるんだね」
はっきりとその声が聞こえた。他の大勢の笑い声や叫び声のようなざわめきとは違う。ぼくだけの世界に誰かが足を踏み入れた証拠。後ろを振り返るとクラスメイトの女の子が立っていた。
仮の世界と現実との間にいるようなぼぉっとした感じのままぼくは、「やぁ」と小さく答えた。少し間をおいて、「座っていい?」と訊くので黙ってうなずいた。
「いつも明るくて、クラスの女の子からも人気のあなたみたいな人でも、こうして一人で物思いにふけるんだね」
ぼくは初めて彼女と話した。教科書の朗読などで彼女の声を聞いたことはあったけど、そのときの印象と少し違う。柔らかい匂いがする。
「きみはいつも一人だね。だから今日も一人なの?」
彼女はクラスの誰とも話さない。いつも黙って机に座って本を読んでいる。最初は声をかけていたクラスメイトも反応がないとわかるとそのうち相手にしなくなった。みんなは、「あの子はなぜ誰とも話さないのだろう」と疑問に思っている。だけどそれはみんなにとって小さな問題で、それよりは昨日みたテレビや新しい遊びの方が大事だから彼女のことが話題にあがることはほとんどない。ただみんな、思っているだけだ。
「海が好きなの。大勢の人がいて、ここに立つことでわたしも大勢の中の一人だと感じられるから」
それはぼくと反対の理由だ。
「……ぼくは逆だ。一人になりたくてここに来る」
言った途端、しまったと思った。これはぼくの誰にも知られたくない秘密だったのに。意識がぐいぐいと現実に引き戻される。
「クラスにいるあなたからは想像もできない言葉だね。わたしはあなたが、みんなの中心にいるのが好きだと思ってた」
「好きだよ。さっきのは嘘だから」
「大丈夫。わたしは誰とも話さないから」
知られたくない、という思いがバレたのかと思いあらためて彼女を見た。彼女は黙って海をみつめている。普段の暗く、無口な彼女とは全然違う。さっきの声と同じで、表情は優しく陽の光がとてもよく似合う女の子だった。
「……どうして誰とも話さないの?」
誰もが疑問に思っていること。小さいけれど訊くには勇気がいることをぼくはきいてみる。今なら自然とこの質問ができた。彼女は嫌な顔をするかなと思ったけれど、笑いながら答える。
「人と話すのが怖いの。わたしが言ったことで誰かを傷つけるんじゃないかとか、嫌われるんじゃないかと思ったら、話すことができない。本当は話したいのよ、こんな風に」
本当は話したい、ということはぼくにとって驚きだった。ぼくに限らない。きっと誰もが驚くだろう。心がざわざわする。誰も知らない彼女の理由をぼくは知った。気持ちが高ぶってくる。
「話せばいいじゃないか。誰もそんなことを思わないよ。今だってきみは普通に話している。どうして怖いのさ。ぼくにはよくわからないな」
ビーチボールがぼくらの方に転がってきた。大人の男女で女性たちがボールの先にあるぼくらに気付いて、「かわいい!」と声をあげる。彼女は立ち上がるとボールを取り身体に対してまだ少し大きいビーチボールを思いきり彼らの方に放り投げた。女性たちが手を振ったので彼女も手を振りかえしている。ゆっくりとこちらに戻ってきた彼女は本当に楽しそうに笑っていた。
「いつかわたしたちもああいう風に遊ぶのかな?」
「そりゃね。ぼくらだっていつかは大人になるから」
再びぼくの横に腰かけた彼女は大きく息を吐き出した。
「わたしね、本をたくさん読みなさいって親から言われたの。だから小さいころから絵本とかたくさん読んだ。本を読んでいたら褒められたからそれが嬉しくてもっと読んだ。でもね、そうしたら思ったの。本の中には、自分の言葉で他人を傷つけちゃう人がたくさんいるでしょ。大事な人でさえたった一言で傷つけてしまう。それはすごく怖いことでしょ? いつか自分もそうなるかもしれない、と思ったらいつの間にか人と話せなくなってた。
だからあなたのことは、とても羨ましく見ていたの。あなたみたいにいろんな人と話したいなって」
そんな理由で、という言葉が出てきかけたけれどぼくはそれを飲み込んだ。ぼくにとってはそうでも、彼女にとってはそんな理由じゃないだろうから。
「でも違ったみたい。今のあなたは教室にいるときのわたしと同じ、たった一人。だから思い切って話しかけてみたの。もしかしたらわたしと同じかもしれないって。勇気、いたよ」
「ぼくは……ちょっと似ているかもしれない。ぼくは父さんに、誰とでも仲良くしなさいって言われ続けた。それが大人になればとても役に立つし、仲良くできないのはお前の努力が足りないからだって。だからぼくはどうすれば嫌われないかということを考え続けた。気が付いたらいつの間にかぼくは友達がたくさんいて、家にもたくさん友達が遊びに来るようになったよ。それを母さんから聞いた父さんはすごく喜んで、いつもよりもっと優しくなるんだ。ぼくもそれが嬉しかった。
だけどいつからかよくわからなくなっちゃった。本当のぼくがどこにいるかわからないんだ。嫌われないように笑って、言葉を選んで、みんなが喜ぶことを言う。これは、仲がいいって言えるのかな? それこそ本の仲の仲良しはケンカもするよね。それにこうやって、お互いの悩みとかを話したりする。ぼくにそういう友達はいない」
話終えて、彼女はしばらく黙っていた。ぼくは自分の秘密を話したことで、すっきりした気分と不安とが微妙に混ざり合った微妙な気持ちになっている。
ぼくは彼女の次の言葉を待っている。この秘密は誰にも知られたくないと思っていた。でもいまは違う。彼女は勇気を出して秘密を話してくれた。その勇気に後押しされてぼくも秘密を話した。ぼくと彼女だけの秘密の共有。これはすごくドキドキすることだった。
「うん、やっぱり似ていると思う。わたしたち、両親に認められたいんだね。いい子だねって褒めてもらいたい。でもそれでどうしていいかわからなくなっちゃった」
「そうだね、そうかもしれない。きみはどうするの? ぼくはきみがクラスのみんなと話すべきだと思うよ」
「わたしもあなたは別に無理をする必要はないと思う。でも、それが出来る?」
「……出来ないと思う」
いつの間にかぼくは、大勢の中で彼女と二人きりになっていることに気が付いた。思ったことをなにも考えずに話している。嫌われるかもしれない、という思いはない。そして、ドキドキし続けている。クラスの話したことのない女の子とこんな風に話すことが、こんなにもドキドキすることだとは思っていなかった。
「だよね。わたしもそう。だから、さ」
そこで彼女は言葉をきった。唇を少しだけ噛んで、言おうかいうまいか悩んでいるようなそんな表情。ドキドキがさらに増して不思議な気持ちが心の中に湧き上がる。胸がキュッと締め付けられて、むずむずする。
「……また、ここで話しましょうよ。わたしは友達とお話しすることに慣れるの。あなたは思っていることをなんでも言えばいい。それは、とても素敵な時間だと思わない?」
照りつける太陽のせいか、彼女の頬は少しだけ赤くて、瞳が少しだけ潤んでいる。
「大人みたいな言い方だね、素敵な時間なんて。クラスのみんなはそんな言い方しないよ」
「小説でこういうセリフがあったの。やっぱり本を読むことっていいことだね。人と話さないわたしでもあなたを驚かせることが出来たんだから」
ぼくは、「うん、そうしよう」と答えた。ドキドキが張り裂けそうだ。彼女も今日一番の笑顔でうなずいた。やっぱりクラスの誰も知らない、ぼくだけが知っている彼女の表情。
勢いよく立ち上がった彼女はお尻の砂を払うと振り返り、口の前で人差し指を立てた。
「ねぇ、今日のことは秘密だよ」
「わかってる。きみの秘密は誰にも言わないよ」
すると彼女は首を横に振った。
「違う。わたしとあなたが二人でこうして話したこと!」
彼女は街の方に向かって駈け出した。そして少し先で止まって振り返ると、大きな声で言った。
「だって! 他の女の子がやきもちやいちゃうじゃない! 抜け駆けだってさ!」
風が吹く。彼女は長いストールをなびかせて、再び街の方に駈け出した。
二人の秘密 咲部眞歩 @sakibemaayu
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