とりとめのない散歩

@sakamono

第1話

 休日の土曜日、夕方になると坂井宗一朗は、文庫本と財布をポケットに突っ込み、いそいそと一人暮らしのアパートを出る。酒場で酒を飲みながら小説を読むのが、数少ない楽しみの一つだった。ほろ酔い加減で小説を読むと登場人物に感情移入しやすくなり、一層物語を味わえるというのがその理屈で、実際飲みながらこぼれる涙を止めることができず、しばらく顔を伏せ、身動き一つせず感情の昂ぶりをやり過ごしたこともある。店員に「気分が悪いんですか?」と訊ねられたほどである。酒を過ごしてしまい、翌日にその内容を覚えていないという事態もよくあるのだけど。

 新井薬師の境内を横切って薬師あいロードに入る。薄暮も過ぎた午後六時。生活の細々したものや食材を売る店、飲食店が並ぶ商店街は、行き交う人たちの活気に満ちていたけれど、数日続いた真冬並みの寒さが緩み、秋の終わりにしては暖かで、行く道はどこか間延びした空気が漂っていた。「今夜はどんなふうに飲もうか」商店街を抜け、早稲田通りを渡るところで信号待ちをしながら宗一朗は考えた。

 信号を渡り、ふれあいロードに入る。JR中野駅の方向から流れて来る人が多い。宗一朗は目的の店に真っすぐ行かない。まずは宵の口の浮かれた空気を味わう。左右に並ぶ飲食店を眺め、店の中をのぞき込み、店の前にあるメニューで酒の種類やツマミを吟味する。見回せば通りには、さざめきながら歩く人たち、カップル、小走りで急ぐ人、会社帰りの勤め人風、宗一朗と同じように一人で店を物色する人、人、人。その一人一人の気分がこの通りの宵の口の空気を醸しているのだ。その空気を存分に味わって歩くうちに気が変わり、目的と別の店に入ることも、まれにはあるけれど大抵はいつもの店に入る。三十分以上そぞろ歩いた後、宗一朗はいつもの居酒屋「むくろじ」へ入った。

 席に通されるとすぐに、生ビールと鮭ハラス焼き、薩摩揚げを注文する。注文の品を復唱する店員の「あなたのことは何も知らないけれど、ウチの店によく来てくれるお客様だということは分かっていますよ」という笑顔に、曖昧に常連未満の笑みを返す。店員がその場を離れると宗一朗はポケットから取り出した文庫本を開いた。

 生ビールを三杯飲んだ後、芋焼酎のロックに切り替えて馬刺しを頼む。いつもの注文である。「むくろじ」の馬刺しは安くてうまい。宗一朗が本を読みやすいという理由の他に、この店を気に入っている理由の一つだ。そのような飲み方をする宗一朗は長尻で二軒目にハシゴするようなことはなかったけれど、今日は事情が違っていた。

 一週間前の、土曜日の夕方は冷たい北風が吹いていた。背中を丸めて足早に早稲田通りを歩く宗一朗が、空腹を刺激する芳しい匂いに顔を上げると、路肩に一台の軽トラックが停められていた。焼き鳥の移動販売である。給料日前でフトコロの寂しかった宗一朗は、その日は家飲みにしようと決めていた。「今夜のツマミは焼き鳥に決定」独り言ちて近づくと、客と思しき女性と話し込んでいた主人が顔をこちらに向けた。「ネギ間、ハツ、ぼんじりを塩で。レバー、つくね、皮をタレで。全部二本ずつ」注文を聞くと主人は焼き上がっていた串を炙り直し始めた。ガードレールに腰かけ、文庫本を開いて待つ。こんな時宗一朗は「自分は活字中毒なんだろうなあ」と思う。

 人の気配に顔を上げると主人と話し込んでいた女性が傍らに立っていた。「お兄さん、今夜は焼き鳥をツマミに家で飲むんだ?」話しかけられた。「はい、そうです」思わず敬語になったのは明らかに年上に見えたからだ。自分より十は上に見えるから四十半ばくらいか。とすれば年のわりに均整の取れた体型をしている。口調にわずかに東北のイントネーションが感じられた。肩ほどまでの長さの髪をひっつめていて、頭の形がよく分かる。まん丸の形の良い頭だ。宗一朗は頭の形の良い女性が好きなのだ。

 主人に代金を払っているとその女性は「ご飯もしっかり食べてる? 死にそうな顔してるわよ」と言いながら主人から受け取った焼き鳥を手渡してくれた。そういえばこの一ヶ月は仕事が忙しく連日終電帰りだった。言われて思い出す。「今度遊びに来てね」と言って小さな紙片を差し出す。「スナック ビアンカ 向井美也子」と書かれている。名刺だった。

 二杯目の芋焼酎を飲み終わったところで残る馬刺しは二切れとなっていた。酔いも回り細かい活字を追うのも億劫になってきた。宗一朗は思案する。名刺までもらったのだからあの店「ビアンカ」に行かねば。スナックというところがどういう店か、行ったこともなかったので、漠然としたイメージしか持たなかった宗一朗は、考えを巡らす時間の分、もう一杯飲もうと芋焼酎のロックをお代わりした。

 実は昨日の会社帰り、名刺の住所を頼りに店の場所を確かめていた。「ビアンカ」は昭和新道の一角にあった。昭和の風情を色濃く残すその通りは、肩を寄せ合うように間口の狭い店が連なっていた。店からもれる喧噪を聞きながら、この通りを歩くのが宗一朗は好きだった。けれど店に入ったことはない。店はどれも店主と客、客同士の距離が極端に近い小さな店ばかりで、臆してしまって入れない。「ビアンカ」もそういった類の店であることは、その佇まいからして間違いない。どうしよう。しかしあの魅力的な丸い頭をまた見たい。できることなら触ってみたい、などと益体もないことを考えている自分に気づいて、宗一朗は笑いがこみ上げてきた。「心の底では行くと決めているんだな。代り映えのしない生活に、ささやかな彩りを」宗一朗は、そううそぶくと勘定を済ませて店を出た。

 午後十時。夜も深くなりつつある。「むくろじ」の前の路地をそのまま真っすぐ歩く。昭和新道と交わる角に「ビアンカ」は、ある。ドアノブに手をかけ、そのまま押して中へ入る。「いらっしゃい。 あら?」華やいだ声が宗一朗を迎えた。

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