エピローグ、または反逆者の行方。

 ヘルカの鐘槍が反逆者の肉塊を貫いた。巨体から噴き出した汚れた血が、穂先に付けられた鐘に溜まっていく。絶叫が細くなり、止まり、躰が前に崩れていった。

 反逆者は地響きとともに倒れ、その肉の内側から、ゆるゆると血が流れ出た。


「あっちは、大丈夫かね」


 ヘルカはガラス窓の向こうで顔をしかめ、破壊されたテラスの奥を見つめた。

 彼女の周囲には、反逆者の死体が原型をとどめたまま、数多転がっていた。やはり反逆の種を植えられた場合は常と異なり、人の姿に戻らないらしい。


 ヴァリスがテラスの奥に消えたあと、戦況は一変した。少年が去り際に叫んだ、同士討ちを誘え、という言葉は、たしかに中庭を抜け、ヘルカの耳に届いていた。

 怪我人が多く、また武具の数が足りなかったことでが、結果として功を奏した。

 

 重い鎧を着こんでいなかったヘルカたちは、反逆者どもの足元を駆けまわることできたのだ。一体を倒すまでにてこずったのは事実だ。しかし、倒れた死体は、すぐに他の反逆者の動きを制限した。

 そして死体に足を取られた反逆者など、ヘルカにとっては恐るるに足らない。たった一つの巨大な死骸が、戦場を、グルーズの狩場へと変貌せしめたのだった。


「ヘルカさん!」


 ネウの声だ。ネウは息を切らせてヘルカの傍に寄ると、すぐさまに司祭服の切れ目に手を突っ込み、まくりあげた。胴に巻かれた包帯に、血はついていない。油に浸した赤い外套、そして包帯が、上手く血を防いでくれたらしい。

 ネウは息をついた。


「よかった……」

「良かないよ」


 ヘルカは、兜のバイザーに飛んだ血を、手甲につけられた布で拭った。


「泣きたくなるほど傷が痛い。火酒は、ちゃんと持ってきてるのかい?」

「あ、あります! けど、そんなに飲んだりしたら、血が――」

「ちゃんと塗ってくれたじゃないか。それにヴァリスがしっかり結んでくれたおかげで血はほとんど止まってた。あとは少なくなった血を、巡らすだけさ。それには、酒が一番いいんだよ」


 そう言って、ヘルカは肩に鐘槍を引っ掛け、手を差し出した。

 ネウは難しい顔をして、肩からかけていた大きな鞄を開き、火酒の履いた小瓶を取り出して、蓋を開け渡した。


「ここまでで十分です。後は私たちが――」

「冗談じゃないよ!」


 ネウの手から小瓶をひったくり、ヘルカは怒鳴った。


「まだヴァリスの手柄を見てないんだ。見るまで、私は帰りはしないよ」


 窓付きのバイザーを跳ね上げ、火酒を呷った。眉間に皺が寄った。

 しかし、せき払いを一つして、もう一度呷った。そうして、全部飲み干してしまったのか、瓶を投げ捨てた。瓶が反逆者の死体にぶつかり割れて、小さく鳴った。


「大丈夫さ。そんなにヤワじゃないよ」


 ヘルカは居城の門扉に槍先を向ける。


「さっさと入ろう。ヴァリスめ、一つ叱ってやらなきゃならない」

「叱るんですか?」

「そう。さっさと首を取って、助けにくると思ってたからね」


 ヘルカは、ぴくりと眉を寄せ、腹の傷を押さえた。しかし首を振って、ネウと男たちを引き連れ、居城の門扉をくぐった。

 暗い城内が、男たちが掲げる松明によって照らしだされた。


 城内に残るゼリの手の者はごく僅かなものだった。中庭で繰り広げられた凄惨な戦闘を見て、戦意を失ったらしい。男たちが念を押して兵士たちの手に縄をかけ、外に連れ出していく。一部は大司教を救出するため、地下牢へと向かった。


 ヘルカとネウは数人だけを引き連れて、階段を駆け上がった。

 廊下に飛び出したヘルカは、首を左右に振った。右手に壊れたテラスが、そして左手奥には、分厚い扉がある。


 開かれた二枚扉の内一枚の、その先。

 倒れた人の姿が一つ。少年だ。

 ヘルカは目を見開き、唾を飲み込んだ。

 月明かりに照らされた玉座の前、血だまりの傍に転がっているのは、ヴァリスだ。


「ヴァリス!」


 ヘルカは弾かれたように名を叫び、部屋へと駆け出していた。


「ヘルカさん!?」


 ネウの声を背に受けて、盾も、そして鐘槍も投げ捨て、廊下を走る。床にぶつかった鐘槍と盾が、虚しくガランと鳴った。


「ヴァリス! ヴァリス!」


 部屋に飛び込んだヘルカは少年の名を連呼し、小さな躰をひっくり返した。

 仰向けになったヴァリスの躰には、大きな切り傷が残っていた。

 ヘルカは、細い首の下に手を回し、ヴァリスの顔を引き寄せた。


「ヴァリス! 聞こえるかい!? ヴァリス!」

 太くなった赤黒い血管が、顔に浮き出ていた。肌の血の気が失われ、いつもヘルカが見ていた肌が白くなり、生気が見えない。

 これまでヘルカが何度も見てきた、反逆者となる寸前の、人ならざる肌の色だ。


「ヴァリス! 目を開けろ! ヴァリス!!」


 ヘルカがヴァリスの躰を揺さぶると、ゆっくりと瞼が開いた。この二年の間、ヘルカが毎日のように見てきた黒い瞳からは、光が失われている。反逆者の目と同じような、穴のような昏さを見せている。


「ヘル、カ……?」


 ヴァリスの声は、低く、重く、血が絡みついたかのように濁っていた。

 ヘルカは泣いているかのような声で叫んだ。


「ヴァリス! 大丈夫かい!?」

「ヘルカ、ゼリ、は?」


 ヴァリスは、とぎれとぎれにそう言った。

 ヘルカが首を振って、ゼリの姿を探す。血だまりに転がるゼリは、不気味な笑顔を浮かべたまま、死んでいた。

 ヘルカは、ヴァリスに笑顔を見せた。


「大丈夫さ。よくやったよ。倒したんだ」

「良かった」


 ヴァリスは笑顔を浮かべた。


「ヘルカ。頼みが、あるんだ」

「なんだい? なんでも言っておくれよ。なんだってしてやるさ」

「僕を、殺して。反逆者に、なる、前に」


 ヘルカの顔が歪んだ。


「何言ってんだい! 帰るんだ! 故郷に帰るんだよ! ヴァリス!」

「僕は、あ、あぁ」


 ヴァリスの声が、さらに濁っていく。反逆者の声に近づいていく。ヘルカの姿を見て気が抜け、肌を這いまわる血管がうごめきだした。


「ヘルカさん! 離れて!」


 ネウが、ヘルカの鐘槍と盾を手にした男ともに、二人に駆け寄った。男の一人が、槍の穂先をヴァリスに向けた。


「ヘルカ殿! 離れてください! 反逆者になります!」

「なるわけない! ヴァリスは! 化け物になんて、絶対にならない!」


 ヘルカは男を睨みつけ、再びヴァリスの躰を揺すった。


「ヴァリス! 目を開けるんだ! 死なせない、絶対に死なせないからね!」


 うつむくヘルカは泣いていた。二人で作ったガラスの窓に、涙の滴が落ちる。

 ヘルカは歯を食いしばり、バイザーを跳ね上げた。

 男たちはヘルカの姿に怯えでもしたらしく、穂先をヘルカにも向けた。


「ヘルカさん! 落ち着いてください! まず、考えないと!」


 ネウがヘルカの傍に寄り、辺りを見回した。

 床には折れたヴァリスの短剣の刃と、ゼリの剣が転がっていた。


「ヘルカさん! グルーズの短剣を!」

「反逆者になど、してたまるものかっ……!」


 歯を食いしばり首を巡らせたヘルカは、折れた短剣を手に取った。


「次はどうする! ネウ!」

「反逆者の種です! 鞄の中には無かった! ヴァリスさんは、まだ反逆者の種を持っているはずなんです!」

「反逆者の種……そうか! 気を張るんだよヴァリス! もう少しだけ我慢しろ!」


 ヘルカは折れた短剣を握り、ヴァリスの裂けた革鎧の胸元を、大きく切った。手を差し込んで引き裂くと、赤い布の塊があった。ヴァリスの返り血を浴びただろう包みを開くと、血を吸った反逆者の種が、不気味に脈動していた。


「これ、どうする? 飲ませるのか?」


 ヘルカの声は震えている。膝の上に目を落とすと、ヴァリスが荒い呼吸を繰り返している。迷っている時間はなさそうだった。

 ネウが振り向き、男たちに問うた。


「儀式では、種をどう扱ったんですか!?」

「た、種は――」


 ヘルカとネウの剣幕に怯んだか、男たちはたどたどしい口調で告げた。


「飲み込ませたり、躰に傷を作って、埋め込んでいました。植えつけるとか――」

「ヘルカさん! その種を!」

「分かってる!」


 男たちの返答が終わらない内から、ヘルカは種を手に取った。

 反逆の種を植えたところで、始まった変化が止まるのかは分からない。しかし、賭ける以外の選択肢はなかったのだろう。

 ヘルカを反逆の種をつまみ、ヴァリスの頭を揺すった。


「ヴァリス。聞こえるかい?」

「ヘル、カ?」

「いまから、仕置きを据えてやる。死ぬほど痛いだろうから、覚悟するんだね」


 泣きそうな声でそう言ったヘルカは、ヴァリスの左肩に巻かれた包帯を、引きちぎった。そして手甲を外し、手の腹を、ヴァリスの口に押し込んだ。


「ネウ! 種を!」

「わ、分かりました!」


 ネウは革の手袋に手を通し、ヴァリスの治りかけた傷に、グルーズの短剣を突き刺した。血が溢れ出し、ヴァリスの喉が、反逆者とよく似た叫びを上げた。歯が食いしばられ、ヘルカの防血服に包まれた肌を傷つける。

 しかしヘルカは痛みに顔を歪めることもなく、囁くように言った。


「耐えてくれ、ヴァリス」


 ヘルカはネウに顔を向け、うなづいた。

 うなづき返したネウが、反逆者の種を、ヴァリスの左肩に植え付けた。

 絶叫があがった。

 切り開かれた矢傷に押し込まれた種は、急速に肥大し、根を伸ばす。左肩の内側へと伸びているらしく、皮膚が蠢いた。太くなった血管が強く拍動し、肌を押し上げ波打った。根は血管に沿って走りでもするのか、顔に浮いた血管までも震えていた。


「止まれ……!」


 祈るようにつぶやいたヘルカの手を、ヴァリスが強く、噛んでいた。ややもすれば防血服ごと食いちぎりそうにも思えたが、不思議と、ヴァリスはそうしなかった。


「止まってくれ……っ!」

「ヴァリスさん!」


 ヘルカとネウが呟くようにそう言った。

 しばらく間そうしていると、ふいに、ヴァリスの顎から力が抜けた。

 顔に浮き出ていた血管の脈動が、徐々に弱くなっていく。肌に少しずつ血が通いはじめ、肌色を取り戻していく。右の目からも、濁りが失われた。植えられた種が大きくなるにつれ、血管が元の太さを取り戻していった


「ヴァリス……!」

 ヘルカは相棒の小さな躰を抱きしめ、涙を流した。



 

 王都、大教会の居室にて。

 ヴァリスは、天蓋付きのベッドの上に寝かされていた。彼の首には、腕が巻き付いている。すぐ横で静かに寝息を立てている、ヘルカの腕だ。


 ベッドの脇に置かれた椅子では、ネウが、こくり、こくり、と船を漕いでいる。手もと近くのサイドテーブルの上には、折れたグルーズの短剣が置かれていた。


 ゼリを打ち倒した日から、すでに三日。

 目覚める気配すらみせないヴァリスだったが、顔に浮きだした血管は、多少目立たなくなっていた。肌の色も、いまだ異様に白いままとはいえ、人に近づいている。しかし奇妙なことに、人に戻りつつあるのは右半身が中心で、種を植えた左半身の症状は遅々として直る兆しがない。


 当初、その姿を恐れたグルーズの信徒たちは、殺すべきだ、とネウに進言した。

 ネウは提案を拒否する代わりに「もし反逆者の産声を上げたのなら、即座に自分が殺す」と、宣言した。彼女がそう宣言したのは、とうに体力を使い果たしていたヘルカが、半ば昏倒するかのように眠りに落ちてしまったからだ。


 結果として、二人の番はネウが務めることになった。とはいえ、ネウにしても疲れ切っていたことには変わりなく、さらには三日間、ヴァリスの額の汗を拭い、時おりうめくヘルカの傷を診てと、甲斐甲斐しく世話を続けていた。

 そのうえで、いま微睡みつつも、なお二人を見張っているのだ。


 水桶を持った男が一人、部屋に入ってきた。

 物音に目覚めたか、ネウが顔をあげた。素早く折れた短剣を手に取り、隠す。


「まだ起きませんか? ヴァリスさん」

「ええ。でも、きっと大丈夫です。グルーズ様がついておられますから」


 男は水桶をベッドの脇に置き、ネウの顔を見つめた。


「顔色が悪いですね。代わりましょうか? 躰に障りますよ?」

「いえ。お二人を見守るのは、私の使命ですから」


 ネウの使命、という単語に、男は眉を跳ね上げ、姿勢を正した。


「それでは、よろしくお願いいたします」

「はい。あなたにも、グルーズの加護がありますように」


 そう言って、ネウは、部屋を出ていく男の背を見送った。

 胸に片手を当てて、ほぅ、と、短く息を吐きだす。握っていた折れた短剣をサイドテーブルに戻すと、ベッドの上から声がした。


「ネウ。大丈夫かい?」

「ヘルカさん!? 起きてたんですか!?」


 弾かれたように首を振ったネウに、ヘルカは柔らかく笑ってみせた。


「起きてた、というより、今起きたところさ。さすがに、まだ傷が痛むね」

「当たり前です。縫ってから三日ですよ? 心配していたんですから……」

「鍛え方が違うから大丈夫だと思っていたけど、なかなかうまくいかないもんだ」


 ヘルカは自嘲するかのように口の端を上げ、隣で寝ているヴァリスの頬をなでた。

「やっぱり起きていないか。でも、少し戻ったみたいだ」

「起きなかったのはヘルカさんも一緒ですよ。私がどれだけ心配したと思っているんですか?」


 ネウは小さくため息をついて、濡れた布を絞り、ヘルカに手渡した。

 受け取ったヘルカは、ヴァリスの額に浮いた汗を拭いつつ、サイドテーブルの上に置かれた短剣に目を向けた。


「それで、さっきのはなんだったんだい?」

「なにがですか?」

「その短剣さ。隠して握っていたろ?」

「やっぱり起きてたんじゃないですか……」


 ネウは扉を開いて覗きこんで、椅子に座りなおした。


「彼らは、まだヴァリスさんのことを、恐れているようなんです」


 ネウの暗い声に、ヘルカは鼻を鳴らして、ヴァリスの髪を指先で梳いた。


「まったく。臆病な連中だよ。なぁ、ヴァリス? こんなに可愛い寝顔だってのに、失礼な話だと思わないかい?」

「仕方ありませんよ。この三日間で随分落ち着きましたけど、その肩の、種は……」


 ネウの視線の先には、ヴァリスの左肩がある。

 巻かれた包帯の下には、反逆の種が剥き出しになり、根を張っているのだ。

 植え付けてしばらくの間は、種は傷口から全身に回り、なにかを吸い取っているかのようだった。巻いていた包帯が自然と赤く染まっていくことから、血を吸い出していたのだろう。


 しかしどういうわけか、ある時から、拍動が止まるとともに成長しなくなった。以降は巻かれた包帯が血で汚れることもなくなっている。とはいえ、その不気味な赤黒い瘤は信徒たちの神経に障ると思われ、包帯の下に隠していた。信徒たちの心に刻まれた反逆者とゼリへの恐怖は、未だ収束していないのだ。

 ヘルカは、ヴァリスの左の頬に浮き立つ血管に、指先を這わせた。


「まぁね。私だって、これがヴァリスじゃなかったら、殺していたかもしれない」


 左の腕をヴァリスの首の下に差し入れ、胸に手を置いた。


「もう少し、もう少し早く終わらせていれば、こんなことには……」

「ヘルカさんが落ち込んで、どうするんですか。ヴァリスさんはこうして息をしています。きっと目を覚ましますよ」

「……そうだね。たしかにそうだ。私が弱気になったらダメだね」

「そうですよ。こういうときには、冗談を言う、でしたっけ?」


 ヘルカは唇の片端を上げた。


「そう。こういうときには冗談を言う。私がそう教えた。でも実は、初めて会ったとき、ヴァリスがあんまりにも怯えていたもんでね。安心させようと思って、それこそ、冗談を言っただけなんだ。だから実は、意味なんてないんだよ」

「それ、ヴァリスさんは知ってるんですか?」


 ヘルカは首を横に振った。


「まさか。特に意味なんか無い、なんて知られたら、何を言われるか分からないだろ? それにもう、習慣みたいにしてしまった。いまさら言えないね」

「ヴァリスさんなら、『知ってたよ』とか、言いそうですけどね」


 ネウは、ヴァリスの声色を真似て、そう言った。

 だからヴァリスは、


「知らなかったし、ショックで泣きそうだ」


 と、返した。


 ふいに部屋に響いた枯れた声に、ヘルカとネウは驚き、声の主に目を向けた。

 目を開けたヴァリスが、苦笑いを浮かべていた。


「ヴァリス!」「ヴァリスさん!」


 ヘルカはヴァリスに抱き着き、ネウは椅子を蹴倒して立ち上がった。


「ヴァリス! 起きるのが遅いんだ。この寝坊助め」


 そう言って、ヘルカはヴァリスに頬を摺り寄せた。

 ヴァリスは柔らかくくすぐったい感触に苦笑し、喉をさする。


「無理言わないでよ、ヘルカ。いま僕は、この酷い声に泣きそうなんだよ」

「声が高いのが嫌だって、ずっと言ってたじゃないか」

「たしかに言ったけど、この声はもっと嫌だ」

「我儘なやつだね」


 どう言われようとも、丘の教会の司祭と似ているような、しわがれた声が欲しかったわけではない。

 ヴァリスはゆっくりと瞬きながら、ネウを見た。


「ネウ。約束は守った。ゼリを討ったよ」

「はい。知っています」


 ネウはおずおずと手を差し出し、ヴァリスの筋の浮いた左手を取った。


「ありがとうございます。本当に、本当にありがとうございました」


 ヴァリスはネウの涙を見て、苦笑いを浮かべる。


「そういうときには笑わないと、泣いたらダメだ」

「はい……!」


 流れる涙はそのままに、ネウは笑った。


 ――まさか生き残るなんて。


 ヴァリスは枕に頭を押しつけた。首の下に、ヘルカの体温を感じる。力強く脈を打っている。瞼を開け閉めして、ふと気づいた。

 左目の視界が薄暗い気がする。

 左目だけを閉じる。ベッドを囲う天蓋の裏を、金や銀で彩られたグルーズの装飾画がはっきりと見えた。右目だけを閉じる。突きの無い夜のように暗い。その中で、宗教画に紛れた赤だけが、はっきりと認識できた。

 

 ヴァリスは首を右に振った。

 ヘルカと目が合う。草原に咲く竜胆にも似た瑠璃色の瞳の奥に、ヴァリス自身の顔が映っていた。血管が浮き、よく見えないが、左目の色がおかしいように思える。


「ひどい顔だ」


 ヘルカの眉間に、皺が寄った。


「なんだい、起きた途端に」

「ヘルカのことじゃない。僕のことさ」


 ヴァリスはヘルカの瞳から目を逸らし、荘厳な、しかし不気味な天蓋を見つめた。


「なんだか、反逆者になる前の人に、良く似てる」

「なにをバカな。ヴァリスの顔は可愛いままだよ。私と同じさ。傷ごときに醜くできる美しさじゃあない。そうだろう? ネウ?」

「はい。私もそう思いますよ」


 ネウは苦笑いしつつも、首肯した。


「可愛いって言われて嬉しい男はいないと思うよ」


 躰を起こしたヴァリスは、左肩に感じた微かなと熱に、顔をしかめた。

 ネウが慌てて、を支えた。


「無理しちゃだめですよ。今さっき起きたとこなんですから」

「そうだけど、やらなきゃ行けないことがあるんだ」

「なんだい?」「なんですか?」

「帰らないと。故郷に」

「故郷? というと?」


 片肘をついたヘルカが、訝しげに聞いた。

 ヴァリスは唇の片端をあげてみせた。引きつり、上手く動かない。


「僕の故郷は、サルヴェンだよ。ヘルカと初めてあったところが、僕の故郷だから」

「なるほど? つまりヴァリスは、あそこで生まれたわけだ」

 そう言って、ヘルカは不敵に笑った。冗談を言ったのだろう。


 ――冗談を言ったわけじゃないよ。


 思いを胸の裡に留めて、ヴァリスは細く、長く息をついた。

 ヴァリスは、早くサルヴェンに帰りたくなっていた。柔らかいベッドもいい。顔をあげて笑うネウに励まされる。ヘルカの暖かい抱擁に痛みも忘れられる。


 それでも、あの街に帰りたかった。道中でイーロイも拾わないといけない。それなら、まずはあいつに報告しないといけない、というわけだ。


 だからヴァリスは、


「まずは丘の教会に戻って、あいつから、ちゃんとした名前をもらわないとね」


 ヘルカの目を見て、冗談を言った。

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反逆者は誰がために血を浴びるか λμ @ramdomyu

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