反逆者は誰がために血を浴びたか

 背後から響いていた戦場の音が、少しずつ遠くなっていく。反逆者の巨躯による足と、叫び、そしてヘルカたちのあげる声も小さくなり、消える。廊下に残る音は、ヴァリス自身の足音と、息遣いだけとなっていた。


 窓から差し込む月明かりに照らされ、周囲はすべて青に染まっている。飾り気がなく、装飾も絨毯も敷かれていないのは、もともと要塞として作られた城だからなのだろうか。血を吸って重くなった靴が、湿った音だけを響かせていた。


 廊下の先に片側だけ開いた分厚い二枚扉がある。奥にうごめくなにかの気配を察知して、ヴァリスは短剣を構えて部屋に飛び込んだ。


 ゼリが、玉座に座っていた。

 傍らには、長身のゼリの胸元ちかくまである長い刀身をもつ幅広の剣が、立てて置かれていた。柄に青い布が巻かれている以外に、一切、装飾がつけられていない。しかし、刃の返す青白い輝きが、時おり、鼓動するかのように揺らめき、異様な気配を漂わせている。


 王の間には、ヴァリスの呼吸だけが、ひゅうひゅうと鳴っていた。

 ゼリは、ゆらりゆらり、と、曖昧に首を左右に傾けた。半開きにした口の片端を上げ、耳障りな音を喉から絞り出し、嗤った。

 握りしめた両手を、肘掛けに叩きつけ、立ち上がった。

 ゼリの節くれだった手が、立てかけられていた長剣の柄頭に、伸びる。


「貴様らが、王都の門を叩いたと聞いたときは、胸が躍るようだった」


 いきなり打ちかかってくるものと思っていただけに、虚をつかれたヴァリスは、間合いを詰める機を逸した。

 あるいは、語り掛けてきたゼリの狙いは、そこにあったのだろうか。

 いずれにしても、走り戦い続けて上がった息を整えるなら、今をおいて外にない。

 ヴァリスは短剣を握り直し、空いた手とともにゼリに向けた。


「胸が躍った? 僕の事を知っていたとでも?」

「貴様なぞ知らん。誰でもない、ただの子供だ。だが、その黒い剣は知っている」

「この短剣? 僕の名前が王都まで届いてるなんて、初めて――」

「貴様なぞ知らんと言ったろう!」


 突如として、轟と鳴る怒気が、ヴァリスを襲った。大気を震わせる声はまるで反逆者のそれと同じだが、反逆者の声に感情がのることはない。ただ泣いているかのように聞こえるだけで、化け物たちの声には意思などない。しかし、同じ声色でありながら、ゼリは、たしかに怒りを乗せて叫んだ。


 じぐり、と音がした。足元だ。ヴァリスの靴に結ばれた革紐である。知らず知らずの内に、躰が後ろに下がろうとしている。

 ゼリが長剣を引きずり、一歩、前へと踏み出した。首が、がくりと傾いた。寄せられた眉が引きつっている。


「貴様がどこの誰であろうがどうでもいい。その短剣だ。それは私のものだ。随分と探し回っていたんだ。まさか、こんなに近くにあるとは思ってもみなかった」

「探していた? お前の? 意味が分からない」


 ヴァリスは言葉を続けながら、肩を前へと押し出した。怯むわけにはいかない。踏み込むタイミングを逃さぬように、前傾を取る。

 ゼリの視線が、ぐりんと回って上を向き、首ごと揺れる。

 人がとる思い悩む仕草に、そっくりだった。


「私に渡されるはずだった剣だ。リモーヴァの使いが、そう言っていた。リモーヴァの子である私に渡されるはずだった剣だ。私に……」


 狂気に囚われているのか、ゼリは虚ろに々言葉を繰り返す。

 好機。

 ヴァリスが刃に殺意を乗せるやいなや、

 ゼリの剣が横なぎに空を切り裂いた。


 ゼリは、ヴァリスに対し、左薙ぎに長剣を振るったのだろう。右手に握る剣は床と平行に持ち上げられ、ぴたりと静止している。柄を握る瞬間すら気づけなかった。しかし、たしかに柄を握り、回し、払ったはずだ。剣が払われた後、細い風が、ヴァリスの頬をなでたのだから。

 ゼリの顔はこちらを向いていない。

 だというのに、口の中が渇き、足がすくむ。


「その剣はぐるぅずの剣だと言うではないか。私の母、リモーヴァが、私に渡すはずのケンだったと言うではないカ」


 ゼリの言葉が崩れ始めている。剣を持つ手も躰も張り詰めているというのに、声を発する頭だけが、ぐらぐらと揺れている。

 ヴァリスは喉を鳴らし、口を開いた。無理やりにでもそうしなければ、得体の知れない感覚に躰ごと呑まれて、気付く間もなく切り殺される気がした。


「お前は血を浴びても反逆者にならないんだろ? こんな剣、いらないじゃないか」


 揺れていた首が止まり、真っ黒になった目が、ヴァリスを見た。


「いるのだよ。神殺しには、その剣がいる。人の作った剣で、神を討てるはずがないではないか。何を言っているんだお前は」


 当然かのように、ゼリは言葉を続ける。


「神を殺すのだ。私を慕う民のために、人の世界の未来のために、私は神の血を浴びて、母なる神リモーヴァの自由の風を世界に広げるのだ。私は――」


 そうしてゼリは、またしても同じような言葉を羅列しつづける。

 飄々とし、狂気が混ざるゼリの言葉の意味が、ヴァリスには理解できなかった。

 反逆の種の一件といい、どうやら狂気に囚われた王は、本気で神を討つ気でいるらしい。

 ヴァリスは意を決して、口を開いた。


「この剣は、僕以外が持っても血を防いだりしないよ。きっと、まがい物さ」


 揺れるゼリの頭が、止まり、世迷言も止んだ。

 途端に、静寂が部屋を支配する。

 一拍の間をおいて、ゆっくりと、ゼリはヴァリスに顔を向けた。


「そうか。それならいらんな。捨ててしまおう」


 唐突に、とぼけた、人と同じ声を発し、ゼリは無造作に歩き出した。


 ――なんだ、この感じ!


 異様だった。なんら注意を払うこともなく、剣を横に静止させたまま、近づいてくる。ヴァリスの知る、戦う人間の動きとは、明らかに一線を画している。

 攻め込むための隙が見つからない。


 ここまでに重ねた対人戦闘において気づいたことがある。移動するにしても、攻撃するにしても、みな視線は先を目指し、躰の部位のどこかに予兆がある。

 しかし狂王の無造作な歩みに、予備動作はない。真っ黒い目はあちらこちらと彷徨い、首をぐりぐりと巡らせている。ただ歩みと剣を握る手だけが、強烈に意思を放っている。その意志とは、殺意だ。


「……っ!」


 待ち受ければ負ける。そう直観したヴァリスは、短剣を構えて走り出していた。

 ゼリは剣を払い、ヴァリスの靴に巻かれた革紐は軋んだ。

 顎を引いたヴァリスの前を、ゼリの刃が音を置き去りにして走った。


 ――躰ごとぶつかってやる!


 後ろの足で床を踏みしめ、再加速する。間合いが詰まった。

 躰を投げ出そうかというとき、ゼリが高速で旋回し、再び白刃が閃く。

 月明かりの影の中、火花が散った。


 腕ごともぎ取られるのではないかという剣撃の力に押され、ヴァリスの躰は宙に浮いた。空中で腰を捻り、床に手をつき体勢を整える。

 間をおかず、短剣を構えなおす。


 りぃぃぃぃん、と、黒い刃が幽かに震え、欠けていた。

 ヴァリスの頬を汗が伝い、顎先から、一滴、滴り落ちた。

 ゼリは腕が立つ、と聞いてはいた。しかし、見えないほど鋭く、受けきれないほど重いとは、思っていなかった。立ち合いでは明らかにヴァリスが劣る。加えて手入れの足りていない短剣に不安も残る。何度も刀身で打ち合い続けるわけにはいかない。


 ゼリは躰ごと左右に揺れながら、踵を擦るようにして、ヴァリスに近づいた。

 全く無警戒に近づいてくるようにも思える。誘っているのだろう。しかし、すでに二度、ゼリの刃を見た。


 ――挑発に乗って、さらにその上をいく。


 ヴァリスは短く息を吐きだし、再び駆けだした。

 玉座を前にして、青白い剣閃が縦横無尽に走っている。部屋中に剣がぶつかる音が木霊している。歯を食いしばり、床を踏みにじり、苦闘する音だ。切り合っては離れ、即座にまたぶつかる。


 ヴァリスは、切り結ぶたびに、胸が押しつぶされるほどの圧迫感を覚えた。息が乱れていく。上手く吸うことも、吐くこともできなくなっていく。

 対し、ゼリの息は乱れない。元の体格の差か、あるいは人相手に積んだ研鑽の差によるものなのか。


 ヴァリスにできる精一杯の突進も、ゼリにとっては児戯に等しいのかもしれない。

 狂える王の顔には、いつごろからか、無感情な笑みが張り付いていた。目がぎょろぎょろと、うごめいている。狂人の様相を呈している。目に止まらぬほどの太刀筋とはまるで正反対だ。


 昏く落ちくぼんだ瞳は狙いを絞らせない。揺れる躰は予備動作を欺瞞している。一挙手一投足の全てが誘いに思え、打ちかかっていくたびに、ヴァリス自身が追い詰められていく。


 ――相手にもされていない。


 気づいたその瞬間に、想像よりも低く、長剣がすっ飛んできた。

 ヴァリスがゼリの刃を紙一重で潜り抜けたときには、すでに王の右足が腹に食い込んでいた。

 臓腑を押しつぶすかのような猛烈な衝撃を受け、ヴァリスは床の上を転がった。短剣を手放さぬように懸命に握り、床を叩いて流れのままに躰を起こす。


 胃袋の奥から、膨らみきった恐怖が、せりあがってきた。

 ヴァリスは嘔吐していた。空っぽの胃の中からは、胃液程度しか出ない。地面を転がったときに口の中を切ったのか、血が僅かに混じっているらしかった。全身から汗が噴き出してくる。

 口元を拭い、荒く息するヴァリスに、ゼリが子を諭すような声をかけた。


「いい加減、分かったろう。お前ごときの子供に、私は殺せない。そうだ。私と共にグルーズを殺そうではないか。人に、人と殺し合う自由を取り戻そうではないか」


 ヴァリスは短剣を払い、強く息を吐きだした。


「いま、僕らは殺し合ってる」

「こンな些末な争いを繰り返したところで、ぐるぅずが喜ぶだけダ。やつの語る平和とやらハ嘘に塗れている。なにが反逆者だ。人が人を殺して、なにが悪いというのか。野に放たれたケモノを見ろ、彼らは、共に殺し合っているではないか」


 ゼリの声色が、人の物へと、徐々に戻っていく。ゼリは戦いの最中、時おり、こうして人の気配が混じることがある。

 刃を交えるという行為が躰に染み込んでいるのだろうか。もしそうなら、切り合い続けることで、人に戻る。そして人に戻れば、隙を見出すこともできるはずだ。

 そう思い至ったヴァリスは、ゼリの躰に残る人の気配を探した。


「聞け小僧!」


 ゼリの叫びが飛んだ。怒声のようにも聞こえる。


「いいか!? 戦争だ! 戦争が必要なのだ! このまま人が増え続けてしまえば、いつか人が人を食う時代が来る。自分たちの手で間引くか!? グルーズはそれ見てあざ笑うはずだ!」 


 口だ。とヴァリスは思った。

 深淵そのもののようなゼリの目は、人の意思を示すことはない。鋭く正確に動く躰は、歯車で組み上げられた機械仕掛けのようにも思える。しかし、こうして雄弁に語る口だけは、人の気配を残している。歪み、引き攣り、嗤い、怒っている。

 ヴァリスはゼリの口元を睨みながら、吐き捨てるように言った。


「どこで誰が嗤っていようが、僕にとってはどうでもいい。お前がなにをしたいのかなんて、僕にとっては、もうどうでもいい。でも僕は、僕の大事な人たちだけは、絶対に守る」


 固く結ばれたゼリの口が、その両端を下げたのを見て、ヴァリスは駆けだした。


「死ね」


 たしかに、ゼリの反応は遅れていた。重心を落とすこともせず、一歩目から全速で駆け出したヴァリスに対し、剣は振られなかった。

 しかし。

 ヴァリスの小さな躰は宙を舞っていた。一歩、届かなかったのだ。

 切っ先が屈曲しているグルーズの短剣は、決して刺突に向くものではない。一撃で命を奪うなら、振り下ろす方が確実だ、と思っていた。また対人戦闘の蓄積がないヴァリスは、人相手であれば切っ先が指一本分も入れば死ぬことを、知らなかった。


 ゆえに、短剣を突き出せば刺さっていたであろう間合いで、ヴァリスは一歩、余計に踏み込こもうとしたのだ。

 その一歩が致命的なものとなった。

 身を退いて間合いを作ったゼリは、剣の閃きすら残さず長剣を払った。

 短剣は無慈悲に切り払われ、ヴァリスは再び蹴りをもらって、地に伏した。


 腸がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような苦しみだった。胸が焼けるように痛む。手にぬるぬるとした感触があった。えづきながら見た左手は、血に濡れて、奇妙な光沢を返していた。

 ゼリが払った長剣が、短剣ごと、ヴァリスの胸を掠めていたのだ。


 ――負けられない。


 ヴァリスは手を膝につき、立ち上がった。

 はじめて、ゼリが、深く息をついた。


「折れなんだか。まがい物だというが、大したものだ。本当にグルーズの短剣ではないのか? たしか貴様は、その剣を持てば返り血を防げるとかいったか? 折れてしまえばお前の価値はなくなるではないか?」

「僕は僕だ。短剣がなくても、僕はここにいる」

「ふむぅ?」


 鼻を鳴らしたゼリは、首を傾げはじめた。じりじりと曲げ、不自然な角度に達すると腰まで折る。ヴァリスの顔を下から覗きこむかのようなところで、止まった。

 ヴァリスは口を堅く結び、胸にできた傷を押さえるのを止め、血に濡れた手を、柄を握る右手に重ねた。

 そして、握る。

 弾かれたように、ゼリの躰が直立の姿勢に戻った。


「まぁ、よい。次は折る。折って、貴様にも私の血肉を与えよう」


 そう呟くように言ったゼリの口は、醜く歪んでいた。

 ヴァリスは、こみ上げる吐き気を抑え込み、短剣に目を落とした。曲刃はすでに凹凸が目視できるほどに刃こぼれしている。いつ折れても不思議ではない。

 だが、ゼリの首筋に刃を当てさえすればいい。

 当たるまで、何度でも繰り返すだけだ。


 ヴァリスは再び短剣を構え、重くなった足に。鞭打った。

 ゼリもまた動いた。規則的な歩様に変化がつけられ、これまでと違う間合いを取る。半歩ずれている。


 ――来る!


 ヴァリスは、とっさに短剣で受けた。受けてしまった。

 戦う中で見てきた太刀筋とは別の、まったく想像の外にある剣技だった。

 左と予期したヴァリスの期待を裏切り、手に伝わってきた衝撃は右からだった。受け止めたのではない。受け止めさせられた。短剣は屈曲する点から断ち切られ、さらにヴァリスの躰は、肩から胸にかけてを切り裂かれていた。

 ゼリは顔にかかった返り血を気にすることもなく、口元をだらしなく緩めた。


「さぁ、どうする。これで貴様は、グルーズの手の者と同じだ。私の血を浴びれば貴様は反逆者とやらになるぞ。化け物だ。人ではないぞ」


 くぐもったゼリの声は、喉を引きつらせて笑っているかのようだった。

 ヴァリスは、焼けつくような痛みに耐えていた。切られた直後はそれと気づかなかった。じわり、と躰が燃えるかのような感覚が広がっていく。自然と手足が震え、傷口を押さえずにいられない。額を床につけても冷たさを感じることすらできない。


 ゼリの言う通りだ、とヴァリスは思った。

 たとえその首を裂いたとしても、返り血を浴びれば、ヴァリスは反逆者と化してしまうかもしれない。故郷を、そしてヘルカやネウを守ったとしても、そのときヴァリスは、人ではないかもしれない。


 ――だから?


 ヴァリスは自問した。

 丘の教会。育ててくれた司祭と、イーロイが待つ場所だ。故郷というらしい。

 サルヴェンもそうだ。きっとイグニスが、街を守るために、どたばたと走り回っているはずだ。多くの人々が住み、ヴァリスを受け入れてくれた土地だ。宿の女将さんが、帰ってきてくれ、と言っていた。


 ヴァリスは短くなった短剣を逆手に握りなおした。

 ネウも怯えを振り払ったというのに、恐怖に屈するわけにはいかない。彼女はまだ幼いが、ずっと強く、優しい。こんなところで終わっていい子ではないはずだ。

 ヴァリスは、自分が入ってきた王の間の扉、そのずっと奥を、一瞥した。


 ――早く終わらせないと。ヘルカが待ってる。


 窓付きの兜の奥で笑ってみせるあの人は、なににも代えることはできない。

 ヴァリスはヘルカに大事だと言われてきたことを、思い返した。


「知ってる?」


 ごきり、と骨を鳴らして、ゼリが首を傾げた。


「なんだ?」

「こういうときには、冗談を言うんだ」


 ヴァリスは短剣の柄を、強く、強く握りしめた。


反逆者カピナッリネンにはならないよ。僕は血吸鳥ヴァリスだからね」

「……ふっ、ふくぅ、ふは!」


 ゼリの口が、笑った。嘲笑するものではなく、ただ大きな声を出し、吹き出して笑った。

 人のそれとなった声に勝利を見出し、ヴァリスは駆けだした。

 すでに覚悟は決めた。痛みは忘れればいい。恐怖など捨ててしまえばいい。やることはただ一つ。


 ――殺す。


 振られたゼリの長剣は、一手遅い。

 懐に飛び込んだヴァリスは、折れた短剣で受け止め、踏み込んだ。靴に巻かれた革ひもが床を食み、小さな躰を前へと押し出す。

 ゼリの剣を受け止めきれず、ヴァリスの腕が押されていく。青白い刃が鎧に、そして肌に食い込んでいく。


 構わず、さらに踏み込む。

 躰が刃筋を滑り、切り裂かれ、血が噴き出る。

 しかし。

 ヴァリスの左手は、ゼリの手首を掴んでいた。渾身の力を込めて腕を引き寄せたヴァリスは、狂王の首に、噛みついた。


 ――死ね!


 ヴァリスの歯がゼリの肉を貫き、食い破る。口の中に粘り付く鉄錆の臭いが満ちていく。溢れ出る血はヴァリスの口中にも収まりきらず、飛沫を上げて彼の顔を汚していった。短剣が折れたせいか血が散ることもない。

 初めて浴びた生きた血は、生暖かった。


 ヴァリスが口を離すと同時に、狂える王の絶叫が響いた。反逆者があげるそれではない。人の絶叫だ。断末魔というものを、初めてちゃんと聞いた気がする。

 聞くだけで心臓を掴まれるかのような声が耳障りで、ヴァリスは新たに喉笛に噛みつき、食いちぎった。まるで血吸鳥が腐肉をついばむかのように、歯を突き立て、引きちぎり、再び食らいつく。


 ヴァリスは躰の内側に熱を持つのを感じ、力の抜けたゼリの躰を、突き放した。ゼリは手で首筋を押さえ血を止めようとしていた。

 無駄だ。

 何度も噛みつかれ、肉を食いちぎられた首から血が止まるとすれば、息の根と共にでしかない。

 ゼリの躰は、血だまりの中に倒れた。その目は恐怖の色を乗せ、ヴァリスに向けられていた。


「反逆者に、なること、を、恐れん、か……」


 ヴァリスは、口に残るゼリの血肉を、吐き捨てた。


「なったとしても、ヘルカがすぐに始末してくれる。ヘルカは、すごく優しいんだ」


 ゼリが笑い、ヴァリスに手を差し出した。首筋を押さえる手が失われたことで、鮮血は噴きだす勢いを強めた。


「リモー……ヴァの……」


 ゼリの息は最後まで持たず、事切れた。


 ――終わった。


 ヴァリスは安堵の息をついた。ひどく気持ちが悪い。燃えるような、弾けるような感覚が、胃の奥から全身に広がっていく。皮膚の下を何かが這い回り、腸が食い荒らされていく。

 膝を折ったヴァリスは、床に広がるゼリの血だまりに手をついた。


「ヘルカ……」


 目の前にいないヘルカを思う。力が入らなくなっている。腹から全身に広がる熱と異なり、寒さを感じる。意識は朦朧とし、視界は暗くなっていく。


「せめて、離れて、おかないと……」


 血だまりの上で産声を上げれば、すぐさまに変化し、ヘルカを傷つけるだろう。

 ヴァリスはゼリの血の上を這い歩き、とうとう躰を支えきれなくなり、伏した。

 床の冷たさも分からない。瞼を開けているのもつらい。部屋が暗いのか、目が黒く染まってしまったのか、真っ暗闇だった。

 ヴァリスは、意識を手放した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る