最終話

 あれから、数年の時が経った。だが、私はあの南洋の島での出来事を、つい昨日のように覚えている。

 あの島より持ち帰った薬の研究は、順調に進行していた。原料となる菌の一種がどのように効果を及ぼしているのか、その構造が解明され、種々の難病治療に効果があることも動物実験で実証された。

 そのことがF製薬によって発表されると、マスコミは夢の万能薬として囃し立て、世界は彼らの功績を讃えた。あとは薬を量産する技術を確立し、国の認可を待つばかりだ。薬は難病に苦しむ多くの患者たちを救い、社に莫大な利益をもたらすだろう。

 そう、何もかもが順調だった。

 ただ一つ――私自身のことを、除くなら。

 N本島より帰国した後、突如、私は高熱に倒れた。

 すぐに入院したものの、高熱と昏睡状態はすぐには収まらなかった。そうこうしているうちに、顔や胸に青いあざのようなものが浮かび上がり、瞬く間に全身をくまなく埋め尽くした。それは青い花弁のようでもあり、あるいはヘビのうろこにも似ていた。

 血液検査の結果、私はある細菌に侵されていることが分かった。それも、治療法の分からない、未知の細菌に。

 私はすぐさま無菌室へと隔離された。その頃には私の全身は腐った果実のように青黒くむくみ、手足の末端からぐずぐずに崩れていった。髪も歯も抜け落ち、視界は白く濁り、立ち上がるどころかしゃべることもままならない。以来、ずっとベッドで寝たきりの生活を送っている。

 医者は、あらゆる治療を施したが、いっこうに効果は見られなかった。特例として、開発中の例の薬も投与されたが、症状抑えることすらできなかった。かの未開の地で生まれた微生物に対して、現代医学にできることは、点滴と対症療法で私の命を生きながらえさせ、経過を見守ることだけだった。

 いったい、どれだけの時間が過ぎたのだろう。今日は何日なのか。無菌室の真っ白な天井を見上げながら、いつもぼんやりと考えている。

 最初は足しげく通っていた同僚も妻も、最近ではぱったりと姿を見せなくなった。痛々しい私の姿に、見るに耐えられなくなったわけじゃない。私の腐った肉と絶えず垂れ流される糞便が生み出す悪臭が、彼らを遠ざけていた。

 だが、私は自分を孤独だとは思わない。

 私には、ニギがいる。

 命の腐っていく甘い臭いは、かの南の島の臭いだ。そして、ニギの匂いだ。

 蜜のように脳髄をとろかせる腐臭は、彼女となり、私に寄り添い、優しく愛撫してくれる。軽く目を閉じて彼女の香りに身を任せていると、本当に胸を撫でる手のひらの微熱を感じ取れるのだ。そんな時、私は息苦しい暗闇の中で、身もだえするような幸福感に酔いしれた。

 医者は、私が味わうこの感覚に、鎮静剤が生み出す幻覚作用だと説明をつけるかもしれない。あるいは、脳に到達した細菌たちによる、悪戯だと言うだろうか。だが、そんなことはどうでもいい。私が彼女を感じるという実感だけが、真実なのだ。

 いずれ、私の肉体はすべて腐り果て、私の魂も腐汁と共に流れ落ちていくのだろう。しかし、私はそれを恐れない。

 あの甘い芳香に満ちた熱帯の森で、美しい少女が私を待っているのだから。

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青の娘 矢口 水晶 @suisyo

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