第13話

 翌朝、私は島の浜辺で迎えの船を待っていた。エメラルドグリーンの海原は穏やかに波打ち、その向こうには本島の影が幻のように浮かんでいる。

 私は荷物と一緒に木陰にうずくまって、遠い島影を眺めていた。砕ける波の音に耳を澄ませていると、自分が世界の最果てに取り残された、流罪人になったような気がした。

 ニギは帰ってこなかった。彼女は熱帯の夜に飲まれ、消えてしまった。

 あの時、すぐに村人たちに知らせて、捜索してもらうべきだったのだろうか。しかし、私は彼らとは言葉が通じないし、第一、彼らの信仰する少女を傷つけたと知られることが、恐ろしかった。結局、私は彼らの目を逃れるようにして村を出てきてしまった。今頃村ではどうなっているのか、考えたくもなかった。

 本当に今さらなことだが、ニギに対して、申し訳ないという気持ちが私を支配していた。いくら仕事のためとはいえ、私は、いたいけな少女を騙し、弄んで捨てたも同然のことをしたのだ。人でなし、冷血漢と罵られても、反論する言葉もなかった。

 すべてを丸く収める、とまではいかなくても、もっと穏やかに、彼女と別れを果たすことは、できなかったのだろうか――今はただ、彼女の安否だけが、胸の奥で棘のように食い込んでいた。

 鬱々とそんなことを考えているうちに、沖に船の形が見えてきた。それは漁師が操る粗末なボートなどではなく、立派なクルーザーだった。それが沖の方で停止すると、ボートをおろし、数名の男たちが上陸してきた。

「こんにちは。ミスターナイトウですか?」

 男たちの内の一人が、流ちょうな英語で話しかけてきた。清潔な白いポロシャツを着た、褐色肌の青年だった。

 聞けば、彼らは民間の通訳ガイドなどではなく、N諸島を領土とする、政府の使者だった。どうやら、本社は彼らの国と直接やりとりし、私の身を安全に送り届けるよう要請したらしい。来た時とはえらい待遇の違いだなあ、と私は他人事のように思った。

「お話は吉岡さんからうかがっています。大変でしたでしょう、この島での生活は」

 青年は私の姿を上から下まで眺めて、再会した時の吉岡と同じ表情を浮かべた。私は、曖昧な笑みを返すことしかできなかった。

「本島でホテルも用意していますので、ゆっくりお休みください。さあどうぞ、乗ってください」

 そう言って、青年は浜に乗り上げたボートを示した。彼は私が少数民族たちの村に嫌気がさして、疲れ果てていると気遣ってくれているのだろう。だが私は、あの森のざわめきに、猛烈に後ろ髪を引かれていた。

 せめて――彼女の無事さえ、確かめられたなら。次に会った時、彼女に嫌われ、罵られたっていい。最後に彼女の姿を見られたなら、何も思い残すことなく日本へ帰れるのに……。

 その時だった。誰かの、「あっ」という声が、砂浜に上がった。

 私は振り返った。砂浜の真ん中に、黒い支柱のようなものが立っていた。

 ニギだ。

 いったい、いつの間に現れたのか。彼女はギラギラと照りつける陽光の中に立って、私たちを見ていた。その姿が妙に弱々しくて、畑に立ち尽くす案山子のように見えた。

「ニギ、無事だったか」

 私は彼女のもとへ走り出した。だが、すぐに足を止めた。

 視点の定まらない、乾いた眼。くしゃくしゃにもつれ、はりも艶も失った黒髪。一晩中森の中をさ迷い歩いていたのか、足先は泥にまみれ、ワンピースの裾にはクモの巣の切れ端が垂れ下がっている。そして、あの美しかった刺青の模様も黒ずみ、まるで枯れた花弁が張り付いているかのようだった。

 海の潮風のにおいを、強烈な腐敗臭が押し返してきた。私は、思わず口元を押さえた。

 これが、本当にニギだろうか。私は、彼女の変わりように言葉を失った。あの魚のように瑞々しくぴちぴちとした少女が、一夜にしてしぼんだ老婆のように変わり果てていた。

 ニギは私を前にしても、ぴくりとも動かなかった。力なく両腕をぶら下げたまま、どこか異国を見ているような眼を虚空に向けている。甘ったるい臭気に誘われてきたハエが、額や胸元を這っていても、それを振り払おうともしない。彼女の尋常ならざる気配に、男たちが後ずさりする足音が聞こえた。

「ニギ……いったい、どうしたんだ?」

 そう言いながらも、私は彼女に触れることを躊躇った。私が触れた途端、彼女の肉体はぐずぐずに溶け崩れ、取り返しのつかないことになってしまうのでは――そんな予感が、背筋に張り付いた。

 いや、もうすべては、取り返しのつかないことになっていた。昨晩、あの時、すべてはもう終わっていたのだから。

 ざん――海風にあおられて、密林がざわめいた。それはまるで、立ち尽くす私たちに向けられた、嘲りのようだった。

「――わたし、あなたを離さない」

 ニギのひび割れた唇が、かすかに動いた。打ち寄せる波音の中にありながら、彼女の声は鐘のように、ろうろうと私の耳に響いた。

「ずっと、ずっと、あなたと一緒にいる。この世界の、最果てまで……」

 彼女の小さな鼻腔から、黒いものが一筋、したたり落ちた。

 それは蜂蜜のように長く糸を引き、白い砂の中へと吸い込まれていった。

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