第12話
足音を立てないよう神経を尖らせ、小屋の中を覗き込んだ。薄ぼんやりとした明かりの中に、ニギのしなやかな肢体が浮かび上がっている。たき火は半分消えかけていて、炭化した薪にわずかに火がこびりついていた。
私はニギの顔をそっと盗み見た。長い睫毛を伏せ、桜色の唇をかすかに震わせながら、すうすうと心地よさそうに寝息を立てている。猫のように身体を丸めるその姿は、あどけない少女そのものだった。ぐっすりと寝入った彼女の様子に、私は安堵した。
私の私物はリュックの中にひとまとめにして、小屋の隅に置いていた。中には着替えと、吉岡が残してくれたライトやバッテリーといった文明の利器、それから手書きのレポートが入っている。レポートにはニギから口頭で得た情報も含まれているため、なにがなんでも持ち帰らなければならない。
消えかけた火を迂回し、中身の詰まったリュックを取り上げた。ただ自分の持ち物を取りに来ただけなのに、まるでコソ泥のような気分だった。それを背負って入口へと戻ろうとした、その時だ。
「どこへ行くの、あなた」
さっと背筋から血の気が引いた。世界の時間が止まったような、そんな錯覚すら覚えた。
「待ちくたびれて、寝ちゃった」
ニギは猫のように身を起こし、ううん、と背伸びした。とろんと寝ぼけた瞳で、私を見上げる。
「もう夜なのに、どこへ行こうというの? 出かけるのは明日にして、一緒に寝ましょう」
ほら、とニギは自分の傍らをぽんぽんと叩いた。一かけらの悪意もない、まっさらな微笑を浮かべて。
「……」
私は恐々と唇を開き、「できない」とだけ言った。
ニギは大きな目を、ことさらにぱちくりとさせた。
「できない? どうして?」
「もう、帰らなければ、いけないから」
「どこへ?」
「日本へ。私の国へ」
パチン。赤く熱した炭が、小さく弾けた。また一段と、私たちを囲う闇が密度を増した。
私は、自分が置かれている状況について、ニギに説明した。
君の薬には、驚くべき効能が認められた。先ほど本社から連絡があって、私が君の薬と、原料である青い菌類について研究するよう、指示があった。この研究が成功すれば、たくさんの難病に苦しむ人たちの命を救えるんだ――
私は小学生でも理解できるよう、なるべく安易な言葉を選び、丁寧に説いて聞かせた。どれだけ君の薬には価値があるか、どれだけ私は責任ある仕事を任されているか、どれだけ人類に貢献できるのか、と……。
それなのに、ニギから返ってきた言葉は「分からないわ」の一言だった。
「分からいないわ。だからなに? どうして、わたしたちが離れ離れにならなければならないの? ケンキュウだかなんだか知らないけれど、ここですればいいのよ」
「それは無理だ。研究は、日本でなければできない」
「じゃあ、わたしも一緒に行く。それなら、問題ないでしょ」
と、屈託なくニギは言う。愛情さえあれば、この世のすべては上手くいく。そう、心から信じているかのような口ぶりだった。
「……それも、無理なんだよ」
私は、苦いため息と共にそう吐き出した。
「すまない、ニギ。その、ずっと黙っていたんだが……私は、妻がいるんだ。だから、本当は、君とは結婚できないんだよ」
すまない、と私は繰り返した。
そうだ、私には妻がいる。住んでいる国や人種の違い以前に、それが一番の問題じゃないか。目の前の少女を大切に想ってはいるが、長年連れ添ってきた妻を裏切ることはできない。そんな至極当たり前のことを、どうして私は失念していたのだろう。
さすがに、これで彼女も諦めるだろうと思った。私が不誠実な男だと分かれば、愛想を尽かすと思ったのだ。怒り出し、泣き喚き、私を追い出すだろう、と。しかし彼女は、
「そんなの、関係ないわ」
と、あっけらかんと言い切った。呆然とするのは、私だった。
「この村にだって、妻が何人もいる男は、たくさんいるわ。他にも妻がいるから、なんだというの。わたしは、あなたのそばにいられたら、それでいいもの」
にこにこと笑ってそんなことを言うニギに、私は絶句した。なまじ言葉が通じるために、彼女と私の間には、海溝よりも深い文化の溝があることを見落としていた。
ニギは、すっくと立ち上がった。彼女の笑顔はあくまでも晴れやかで、混じりっけのない愛情であふれていた。
「わたし、あなたと一緒なら、どこだって構わないの。どこに行ったって、わたしがあなたを助けてあげる。その奥さんとだって上手くやるし、子どもだって、いっぱい生んであげる。だから、ね、私を独りにしないで。どこかへ行ってしまわないで……」
そう言って、ニギはわたしの胸にしがみ付いた。衣服越しに伝わる、子どものような熱っぽい体温、甘い汗の匂い、湿った吐息。それらが私の肉体に、じわじわと染み込んでいくような気がして、苦々しい嫌悪感が湧きだしてきた。
正直、私はニギのことが、面倒になっていた。
幼子のような無邪気さ、ひたむきな愛情、都会擦れしていない純朴な雰囲気。最初はそれらの性質がとても新鮮で、愛らしいと思っていた。だが今は、鬱陶しくて堪らなかった。
無邪気とはつまりは無知であり、ひたむきさは執着だ。純朴な性質も、ただ大人の機微を理解できないという、愚鈍さでしかなかったのだ。今までの私は、南国の解放感や異邦の新鮮な空気に、惑わされていたとしか思えなかった。
だいたい、私とこの娘とでは、最初から結婚などできるはずがなかったのだ。持っている常識や育ってきた環境、文明から受けてきた恩恵、私たちは何もかもが違う。それなのに、どうしてこの娘は、私たちが一緒になれると思っているのだろうか。私たちは心から通じ合っていると、どうして思えるのだろうか。
「ニギ」
私は彼女の肩を掴み、引き離した。
「私たちはね、生きている世界が違うんだ。私は日本人の研究者。君は島の魔術師。この村ではどうか知らないが、私の国では二人以上の女性とは結婚できないんだよ。私と君は、ずっと一緒にいることは、できない」
「絶対に、できない」びりびりと小屋に満ちる薄闇が震えた。
気づけば、私は折れそうな華奢な肩に、力いっぱい指先を食い込ませていた。はっとして手を離すと、青い花弁の上に赤い爪の後が残った。
「す、すまない……」
私は、彼女の痛々しい肩から目を逸らした。
「明日には、迎えの船が来るんだ。君には、本当に世話になった。本当に、感謝している――」
そう言いかけたところで、私はニギの変化に気づいた。
ニギは、伏せた顔を両手で覆っていた。長く垂れた髪が、彼女の顔を暗幕のように隠している。まだ爪跡が残る肩が、小刻みに震えていた。この熱帯の島で、まるで寒さに震えるように。
最初、私は泣いているのだと思い、一瞬チクリと胸が痛んだ。だが、違った。
どろどろと乱れた髪の奥から聞こえる、微かな声。それはなにか、呪文を唱えているようでもあり、あるいは、笑いを噛み殺しているようにも聞こえる。一心に何事か呟く彼女の姿に、私は、形容しがたい不気味さを覚えた。
「ニギ?」私は、恐る恐る呼びかけた。
「……もう、おしまいよ」
蝶の羽ばたくような声だったが、確かにそう言った。まるで感情の伴わない、ただガラスを擦り合わせたような声だった。
「あなたも、わたしも、もう、おしまい……」
次の瞬間、どん、とニギに胸を突き飛ばされた。私はその場でよろめき、背後の壁にぶつかった。
ニギは髪を翻し、小屋の外へと飛び出した。残っていた火種が蹴散らされて、あたりは完全な暗闇に包まれた。
「ニギ! 待ちなさい!」
私はニギを追って外に出た。しかし、眼前に広がっているのは、果てしない闇だけだった。折り重なる密林の影が、その奥で不気味にわだかまっているという以外に、私の眼は何物も捉えられなかった。
私は小屋の中に引き返して、手探りで懐中電灯を探り当てた。それで小屋の表を照らしたが、彼女の姿は見えなかった。
村の方へ走って行ったのか、それとも、森へ入ってしまったのか。頼りない光の中には、何者も現れない。夜が一瞬にして、少女を取り去ってしまったかのようだった。
たった独り残された私は、その場で呆然として立ち尽くした。
空には星も月もなかった。途方もない黒の天蓋が、島と私に覆いかぶさり、押しつぶそうとしていた。
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