竜が守る場所

蒼井七海

竜が守る場所

 母親が自分を呼んでいることに気付き、ハーランは慌てて井戸のそばから離れ、転がるように家へと戻った。井戸のそばに佇む、丸太を組んで造られた小さな民家が、彼の家だった。

 ハーランが建てつけの悪い戸を開けて、家の中に飛び込むと、奥の暖炉の前に立っている母が、振り返った。

「ああ、ハーラン。ごめんなさい、いきなり大きな声で呼んでしまって」

 いつも穏やかな母は、このときもちょっと申し訳なさそうに目を細めた。ハーランはぶんぶんと勢いよく首を横に振る。

「いいよ。どうかしたの?」

「実はね、薬草を切らしちゃってることに気がついたの。これがないと、北のルドルフお爺さんに売るお薬が作れないんだけど……」

 母は、そう言って首を振る。この村の者は全員が《神官》かその候補だが、務めのないときはそれぞれ、別の仕事をしていた。母の仕事は薬師くすしだった。優しいたれ目の母は、いつもと変わらぬ穏やかな表情でハーランを見る。

「だから、《青の森》に行って薬草をとってきてほしいの」

「うん! 分かった!」

――その後、薬草の特徴を教えてもらったハーランは、勇んで家を出ようとした。けれどその直前になって、いつもより少し厳しい母の声が、彼を止めた。

「ハーラン。分かっていると思うけど、森の奥に入ってはだめよ。奥は《聖域》だからね」

「分かってるよ。大丈夫」

 昔から言い聞かせられていることを改めて心に刻み、ハーランは家を飛び出した。


 ハーランの家に限らず、この村で言う「家」はどれも、小さな丸太小屋だ。二十に満たない丸太小屋が、粗末な木の柵で囲まれた草原にぽつり、ぽつりと点在する。それがこの村のすべてだ。

 ハーランは村が好きだった。だから、自分も十五になったら儀式をして、認められれば神官になって、無理だったら母のように薬師として働こう、と、当たり前のように考えていた。


「あら、ハーランじゃない。こんにちは」

「こんにちは! レナおばさん!」

「ハーラン、どこ行くんだ?」

「森の入口だよ。薬草をとってくるんだ」

 時折すれ違う人々に笑顔でこたえながら、ハーランは村の通りを北へ抜けた。彼の目に、鬱蒼と生い茂る木々が見えてくる。それは遠くから見ると、まるで緑色の巨大な綿のように、彼には思えた。

《青の森》、あるいは《大森林》と、村の者は呼びならわす。村を抱き、大陸を包み、世界を守護するという、偉大な竜がすまう森。

 森の前までやってきたハーランは、木々の向こうから人の気配を感じて息をのんだ。必要ないのに、そばの大木の陰に身を隠す。木陰からそろっと顔を出したハーランは、思わず嘆息を漏らした。

――りん。

 鈴の音が、響く。

――りん、りん。

 音はいくつも重なって、大気を震わす調べとなる。

 森の中からゆっくりと、列をなした人々が歩いてきた。鈴を鳴らしているのは、彼らだ。彼らが纏う薄青色の長い衣には、銀糸で細かい刺繍がほどこされている。絹なのか、なんなのか、ハーランは知らないが、ゆっくりとたなびく衣はまるで、透き通った水のようにも見えた。

 水の衣をまとった一団は、ハーランにはまったく気付かず、静かに歩いてゆく。

「《神官》様だ……」

 消え入りそうな声で漏らしたハーランは、《神官》の行列が見えなくなると、そっと木陰から出た。目を閉じて、深呼吸する。

《神官》。村の中で特に高い地位にあって、あらゆる儀式を執り行う人たち。そして、それだけでなく、竜とじかに対面することが許される数少ない存在でもある。

 普段、ハーランのような子どもが間近で彼らを目にすることはない。貴重な体験をしたハーランは、高なる鼓動を必死でおさえながら、森へと入っていった。


《青の森》は不思議な森だ。一年中、みずみずしい緑で満たされている。まるで森の中だけ時が止まっているかのように。それが竜の御力であると、村の誰もが信じている。

 ハーランは自分がさっき通ったばかりの森の入口を見失わない範囲で、薬草を探し始めた。けれど、いくら探しても見つからない。家から持ち出した籠を片手に、首をひねった。

「おかしいな。もう少し奥にあるのかな。でも、あまり進むと《聖域》に入ってしまうし……」

 悩みながら、ハーランは少しずつ足を進めていた。


 それから、どれほど時が経ったのか。長いか、短いか、ハーランには分からなかった。けれど、そのとき――彼は一線を越えたのである。


 目印はなかった。けれど、地面に張り出した大きな木の根っこを踏んだとき、急に違和感を覚えたのだ。うわん、と耳鳴りのような「何か」を感じる。突然のことに驚いたハーランは前のめりになった。

「うわっ」

 倒れそうになって、慌てて踏みとどまる。ばくばくとうるさい心臓の音を聞きながら、ハーランは滲んだ汗をぬぐった。

「あ、危ない危ない……」

 ほっとして呟いた彼の声は、けれど尻すぼみに消えた。顔を引きつらせて、辺りを見回す。

 少なくとも、見た目は今までいた森とまったく変わらない。どこまでも生い茂る草木。それはまるで、夏の木の葉のごとく色づいている。変わらない、はずだ。

 しかし振り返ると、伸びていたのはさっき通ってきた道ではなかった。それよりずっと細く、不確かな、土の線。獣道、といってもいいかもしれない。

「ここ、どこ」

 ハーランは呟く。呟きつつ、本当は分かっていた。

 道もそうだが、何より空気が違うのだ。普通の森ではない、ずっと、ずっと冷たくて張りつめた場所。外来者を拒む、神聖なる気配。

「《聖域》――」

《神官》と竜以外、入ってはならぬ森の奥。

 どうして、とハーランは思った。道は見失わないよう、気をつけていたはずだ。薬草が見つからなかったからほんの少し奥に行こうとしてはいたが、聖域に踏み込むほど進んではいない。それなのになぜ、来てしまったのか。

「ど、どうしよう」

 全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。《聖域》に入るな、と言われるのは、何もそれが規則だからというだけではない。竜の力が働いた聖なる地に許されていない人が入ると二度と出られないといわれているから、というのが一番の理由なのだ。

 ここから出られないかもしれない、そう思うとすごく怖くなった。そのまま、膝から崩れてうずくまってしまいそうだった。

 そんなハーランの恐怖をまぎらわせたのは、声だった。


「――人間がいる」


 力強く、優しい声が響く。ハーランは驚いてびくっと震えた。それから、恐る恐る振り返る。

「え?」

 男が立っていた。

 一目見た限りでは、大人か子どもか分からなかった。けれどなんだか、不思議な男だ。

「人だ……青い、人だ……」

 ハーランは無意識にそう言った。

 見た目は普通の人なのに、なぜか「青い」ように感じた。そんな気配をまとっていたのだ。男は少し首をかしげて、ハーランをまじまじと見る。

「ふむ。『つたえの一族』ではあるが、《神官》ではない……と」

 自分たちの一族の名前を呼ばれて、ハーランはびっくりした。つたえの一族などという呼び名を知る人は、少ないはずだ。

「彼らと竜の対面が終わったばかりで、森の境界線が緩んでいたかな。そのせいで迷ったか」

「……? あの、あなたは誰?」

 一人で何やらぶつぶつと呟いている男に、ハーランはおずおずと話しかけた。そこでようやく、男とハーランの目が合う。

「私か。私がなんであるかは、今は知らぬ方がよいだろう」

「は、はあ」

 そう言われれば引き下がるしかない。ハーランが、男の近寄りがたい雰囲気にたじろいでいると、今度は男の方が話しかけてきた。

「人の子。何をしに森へ入った?」

 訊かれたハーランは、慌てて籠を見せた。

「や、薬草を探しに。《聖域》へ入らないよう気をつけて、探していたつもりだったんだけど」

「なるほど。分かった」

 男は短く言うと、指を立てた。何かを描くように、つい、と虚空に指を走らせる。

「不幸な偶然、というわけだ。意図的な侵入でないというのなら、咎めはしない。

――どれ。私が、おまえの目指すところに送り届けてやろう」

「え? そんなこと、できるんですか?」

「無論」

 男は鷹揚にうなずいて、それからハーランに、「目を閉じろ」と言った。言われた通り目を閉じると、不思議なことに、物音が一気に遠ざかったように感じた。

 彼の声が不思議に反響しながら、頭に響く。

「おまえには、《神官》の才能があるな。――まあ、道を決めるのはおまえ自身だ」

 どういうこと、と聞いてみたが、答えはない。かわりに、楽しそうに揺らぐ声が聞こえただけだ。

「だが、私はおまえと対面できる日を楽しみにしているよ」

 そうして、《聖域》が遠ざかる。


 目を開いたハーランは、森に立っていた。

 先程までの張りつめた空気はない。入口に戻ったらしい。振り返れば、見覚えのある道が伸びている。少し先に太い木の根が張り出していた。

 そして、見下ろすと――

「あれ?」

 探していた薬草が、びっしり生えていた。

「なんで? さっきまで、ここにはなかったのに」

 首をかしげながらも、ハーランは薬草を摘む。脳裏に、あの男の顔を思い浮かべながら。


 家を出たころにはまだ日が高かったが、戻ったときには真っ暗になっていた。

 母にたいそう心配されたハーランは、事情を話して、謝った。偶然とはいえ《聖域》に入ってしまったのだ。母も、怒りはしなかったが、少し困った顔をした。

「明日、《神官》の皆さまに謝りに行かなくてはね」

 そう言われてハーランはうつむいた。けれど、母はすぐに笑って、大丈夫よと頭をなでてくれる。

「きっと分かってくださるわ」

 その言葉が、何よりもの救いだった。


「でも、運がよかったのね、ハーラン。きっとその男の人は、水竜様の仮のお姿だわ」

「水竜様の?」

 森に住まう竜の名があがって、ハーランはまた驚いた。母は穏やかな表情を崩していないが、彼にしてみれば自分が竜と会っていたなどということは、信じられなかったのである。

 けれど母は言った。

「水竜様があなたに気付いて、導いてくださったのよ」

「そう……なのかな」

 いきなりそう言われても、幼いハーランに実感はわかなかった。

 しかし考えてみれば、あの人は《神官》の服を着ていなかった。《聖域》にいるのは《神官》か竜のどちらか。ならば、可能性はひとつしかない。

 それに――彼は言っていた。

『おまえと対面できる日を楽しみにしている』と。

「そうだと、いいな」

 ハーランは呟いて、微笑んだ。

 窓の外を見てみれば、遠くに佇む神聖なる森は、変わらぬ姿のままそこに在る。


 彼はこのとき、まだとおになったばかりであった。

 自分の将来も、水竜の未来も、当然知らない。

 しかし、この日を境に彼の目に映る世界がほんの少し変わったことは確かだった。

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