四、革命いまだならず
六百人の蜂起軍が籠もる三州田の山塞へは、香港から船と陸路でまる一日かかる。
山中には峡谷をうがつ瀑布があり、峡間に泉水を
その山塞跡地に通じる峠の道ばたに「
「激波滔天」、鄭士良を総指揮に任じた船中密議での孫文・滔天ら六名の立像。
「海外連絡」、腰掛ける孫文と和服姿で立つフィリピン革命党のマリアーノ・ポンセ。
「台北議事」、台北本部で蜂起を決議。腰掛ける孫文と平山周・山田良政の立像。
「
政府軍ですら容易に攻め落とせないこの天然の要害に潜み、決起の日を指折り数えて、ひたすら英気を養い、武技を訓練した六百人のむくつけき男どもは、孫文の革命を信じ、とうぜんのように命をかけていた。宮崎滔天が『三十三年の夢』で語っている。
「三州田の山塞に集結した六百人は、ほとんどが鄭士良の息のかかった三合会の壮士だった。孫文からの電報を待つため香港に詰める鄭士良にかわってかれらを束ねたのは、三合会では長老格の
それが図らずも、孫文が「即刻挙兵せよ」と香港の鄭士良に暗号電報を打った十月六日の夜だった。西に向かい、新安・
それに続き香港から戻った鄭士良が、十月八日に三州田の本隊を総動員して北上開始、開戦六日目(十一日)までに
三合会はアウトローの秘密結社であっても軍隊ではない。銃器の装備は、洋銃三百丁と一丁あたり三十発の弾丸、これにつきるから、内実はお寒い限りだが、「なに武器など、敵を襲って分捕ればいい」。幾多の抗争を生き抜いてきた裏社会の
ただし兵糧の調達には苦労した。敵は日帰り可能な恵州城からの出動で遠征軍ではないから、分捕るほどの兵糧は運んでいない。せいぜい個々の兵が不時に備えて、余分に数日分の携行食を身につけているに過ぎない。いじましい話だが、この携行食の鹵獲が戦闘の目的になった。狙われた恵州軍の兵卒は、携行食を放り出して命乞いをした。
卑しくも革命を標榜して蜂起した「仁義の軍」であるからには、近隣の民からの略奪は許されない。銭を払って分けてもらうのだ。その軍資金も豊富にあるわけではない。沿道の民の好意に甘え、ときに施しに頼っていても限度はある。鄭士良は途方に暮れた。
このとき孫文の密使として三多祝に現われ、作戦の変更を告げたのが、山田良政だった。
十月二十二日、蜂起から十七日目のことである。
「外援期しがたし(台湾からの応援はない)。進退のこと、鄭総指揮の判断にまかす」
受理していないが、香港あての電文と同じ内容だった。鄭士良は、その場に崩れ落ちた。
「五千とはいわぬ、せめて三千の洋銃と十日分の兵糧があれば、廈門を落とせたものを」
ぎりぎりと
「これまでだ。解散する。みんな、武器を捨てて逃げろ。近在のものは、家に帰れ。会党のものは、地場の仲間を頼れ。行き先のない遠方のものは、一緒に三州田に戻る」
「蜘蛛の子を散らす」とはよくいった。二万もの軍勢が、うそのように掻き消えたのだ。
街道をはずし、裏道を伝って、鄭士良は残党をひきつれ、ひたすら逃げ落ちた。
逃散する軍勢の最後尾を守ったのが、山田良政である。
「
ひきとめようとする鄭士良に、良政は笑って答え、決意を翻さなかった。
やむなく土地不案内の良政に会党の仲間をつけ、後事を託して鄭士良は去った。
清の軍勢が押し寄せた。金縁の眼鏡をかけ、メリヤスのシャツに支那服を着て、荒縄を腰に巻きつけた良政は、手にした
銃声が一斉に鳴り響いた。やがて喚声が遠くに移り、そして
「良政さん、良政さん」
耳元でささやく声がする。眠っていた良政はうっすらと目を開けた。
「もう十分ではないか。明日、処刑の前に尋問があるから、日本人だと名乗ってください」
仲間とはぐれ、流れ弾で負傷した良政は捕えられた。明朝、戦場で即決審判が下る。
鄭士良を訪ねて良政の参戦を知った雄一郎は、そのあとを追い、牢の中までもぐりこんで、良政を説得した。日本人だと分かれば、広州送りになり本国照会されるから、助かる可能性が高い。ふたりは北京語で話している。広東人には聞こえても通じない。
「武器弾薬も軍資金も送れず、孫文さんや同志に申し開きできない。おれが生きていては、児玉さんや後藤さんにも迷惑がかかる。だいいち日本の国に顔向けできぬ。このまま黙って死なせてくれ。革命ならずとも、孫文いのちにかわりはない。孫文さんのために死ねたら本望だ」
あくまで孫文支援を貫こうとする児玉に業を煮やした伊藤は、十月十九日に発足する第四次伊藤内閣の陸軍大臣に児玉を据えてしまった。ことは「福建経営」だけの問題ではなくなった。ロシアが満州深く侵入し、既得権作りに励んでいる。日本は列国に働きかけ、ロシアの撤退を要求した。そんなさなか廈門や福建に軍事侵略の疑惑を持たれては、列国を説得できない。三国干渉で返上した遼寧半島に居座るロシアに、日本国民の怒りが殺到し、日露の開戦は四年後に迫っている。陸軍大臣に就任した児玉は孫文支援を断念し、口約は破棄された。
こののち児玉は満州軍総参謀長を兼務、後藤は初代満鉄総裁になり、台湾を去る。
「孫文にたいする児玉の口約は、墓場まで持ってゆく」――決意した良政は死を覚悟で戦場に赴き、捕虜となっても黙秘を貫き、甘んじて刑に服した。享年満三十三。
処刑地は、いまの恵州市恵東県多祝鎮西
一部始終を見届けた雄一郎は、埋葬地の土を一握りつかみ、羅浮山へ去った。
雄一郎もまた良政の遺志を尊重し、その死の事実を表に漏らさなかった。
十月十五日、台湾在留の孫文に総督府から退去命令が下されたが、孫文はなおも留まった。日本から送られてくるかもしれぬ軍資金と、蜂起軍のその後の消息を得るためである。
鄭士良ら敗軍の残党は香港に逃げ延びたが、広州の陽動作戦は失敗したと伝えられた。
恵州蜂起中止の指令は、広州にも届いていた。しかし史堅如は作戦を続行し、最適の爆破機会を狙っていた。すでに爆弾は仕掛けられている。導火線に着火するだけだった。二十八日、総督らの標的が揃ったのを見て着火した。炸裂した爆弾は総督まで届かず、生死確認のため現場に近づいたところを捕縛された。自白を強要され、拷問に耐えたが、ついに処刑された。孫文はその死を惜しみ、陸晧東につぐ「共和殉難の第二健将」と称えた。
十一月四日、室田義文弁理公使を福州廈門に特派し、廈門事件を調査、同時に南清政策を確定した。
十一月十日、孫文は離台、十六日横浜に戻った。
「恵州蜂起は失敗した。当初の思惑に反し、軍資金が調達できず、武器弾薬はおろか兵糧にこと欠き、進軍を断念した。わしの失敗だ。同志諸君にはお詫びのことばもない」
孫文は頭を下げた。児玉総監にたいする恨み言は、いっさい口に出さなかった。
「すまぬ、元はといえば、わしの責任だ」
滔天が悔恨に満ちた低い声で、孫文のことばを引き取った。
「思い出しても
一九〇一年八月、羅浮山に潜む葛雄のもとに三合会の使いが来て、鄭士良からの呼び出しを告げた。香港の隠れ家を聞いていた葛雄は急ぎ出立、香港へ向かった。途中、帰善県の同生薬房に立ち寄ったが、すでに薬舗の看板は失せていた。隣家に消息を尋ねると、官憲の手入れがあり、住人は離散したという。葛雄の脳裏に
「なんとした」
葛雄は目を見張った。痩せさらばえた鄭士良が、瀕死の床に横たわっていた。
「刺客に毒を盛られた。回復する体力がなかったから解毒がきかず、死ぬのを待っている」
「妻子もおろう。生きて、いまいちど革命蜂起せぬか」
「妻も子も清朝に捕殺された。頼みがある。いまわの頼みとおもうて、聞いてくれ」
葛雄は鄭士良の死がまぢかにあることを
「なんのことだ。孫文さんのことか」
「ああ、そうだ。おぬし、孫文を助けてくれ。孫文の革命に汚点があってはならないのだ。孫文の名誉を守ってもらいたい」
すでに葛雄は、鄭士良の意図を察していた。
「恵州府城を落とさず廈門に向かった恵州蜂起は、総指揮たるわしの失敗だ。廈門の軍事援助は、わしと児玉総督との密約だった。仲介に立った山田良政がすべてを承知している。革命と引き換えに福建を日本に売ったのは、このわしだ。孫文はまったく関知していない」
真相を墓場まで持っていった良政同様、鄭士良もまたあえて汚名を着ようとしている。
「承知した。真偽の詮索はともかく、そのはなし、三合会を通じて江湖の巷に流布させよう。四億の民の願いを叶えるためには、孫文さんの革命に一点の曇りもあってはならない。あくまでも孫文さんには、仁義にもとづく革命を続けてもらわなければならないのだ」
事切れた鄭士良は、三合会の手により香港の基督教墓地に埋葬された。墓碑に名は刻まなかった。清朝のしつような報復を恐れたのである。憤怒の感情に駆られた葛雄は、羅浮山へ帰らなかった。良政と鄭士良の遺志を継ぎ、孫文の革命を支援する道を選んでいた。
三合会に身を投じた葛雄は、会党の仲間とともに全国を転戦した。こののち十年間に九回の蜂起があり、そのいくつかに参戦した。八回失敗したが、一九一一年辛亥の年、
翌年、中華民国が誕生する。
軍資金の調達で海外募金活動中だった孫文は、革命の成就をアメリカで知るが帰国せず、イギリスへ渡る。政権への執着は、孫文にはない。新政府のため良かれと思うことを、人が真似のできない方法で実行するのが、孫文流だ。ロンドンでは、募金活動のかたわら、清朝政府が求める英・米・仏・独四国借款団の即時停止を要求した。また日本政府が清国政府を援助しないよう、イギリス政府に牽制を依頼している。日英同盟は成立していたが、抑制効果は期待できた。
新たな共和国の大統領に推薦するという革命軍からの電報が、清朝公使館に届いており、イギリス情報部はその内容を把握していた。明日の国家元首と目される孫文は、もはや一介の革命家ではない。外交上の影響を考えれば、無視できない存在になっている。孫文は新たな国を代表して身は海外にあっても、ためらいなく国益のために主張し続けている。
ロンドンからパリ・シンガポールを経由し、香港に到着したのが十二月二十一日、四日後上海に移動し、一九一二年一月一日、孫文は南京で臨時大総統に就任する。しかし、二月十五日、
北洋軍を掌握する袁世凱の実力は、まとまりに欠ける革命軍を圧倒していた。脆弱な軍事力では国は保てない。清朝の総理大臣をつとめた袁世凱を共和国の臨時大総統につけるには矛盾もあるが、過渡期の措置と割り切り、目をつぶらざるを得ない。
恵州蜂起(一九〇〇)の失敗で
その著書『三十三年の夢』で、滔天は己が半生を懐古し、孫文らとの交友を語るが、恵州事件の章で盟友山田良政の身を案じている。蜂起軍に加わった良政が、蜂起後二年たった発刊時にも、
良政の消息が、兄の安否を求めて広州に赴いた山田順三郎の耳に達するのは、辛亥革命の二年後のことで、恵州での失踪から十三年の歳月が費やされていた。
当時、革命派が制圧した広州は、全国十八省三十六鎮(師団)に先駆けて共和体制を強固に構築すべきモデル地区だった。臨時大総統を退いた孫文は、広州に滞在した。そして順三郎を伴い、多忙な政務のあいまを縫って、投降した旧清朝政府軍の幹部連中を尋問して回った。恵州蜂起当時の消息を得るためだった。孫文の意図を知り、急遽、駆けつけた宮崎滔天に、順三郎は関係者から聴取した供述内容を説明した。ときに孫文四十八歳、滔天四十四歳、三十三歳で犠牲になった良政は孫文より二歳若かったから、十歳離れた弟の順三郎は三十六歳である。
「蜂起当時、恵州で清国政府軍の守備隊長をしていた
「処刑した場所は、どこだといっていますか」
息せき切って、滔天はたずねた。
「
三多祝―地名には聞き覚えがある。恵州の東、恵東県のさらに東にある鎮で、廈門への入城を企図した蜂起軍の進路にあたる。滔天は記憶をたどった。
そのとき、気落ちした順三郎を励ますように、横合いから元気の良い声が響いた。
「確認が先だ。いま三多祝に人をやって調べさせている。まもなく返事が届く」
孫文である。
「やあ孫文さん。山田良政君の消息が知れたと聞いて、飛んできました。残念ですが、やむをえません。手厚く弔ってあげましょう」
ふたりは握手した。多くは語らずとも、気心は知れている。
「三合会の情報では、三多祝の街道で清軍が蜂起軍と遭遇し、戦闘になった。その際、良政君は戦死したとも、負傷して捕らえられたとも伝わっていた」
こののち、民国を簒奪した独裁者袁世凱の打倒をめざした一九一三年の第二革命、帝政復古し自ら皇帝となった袁世凱に反対する一九一五年の第三革命と、孫文の革命は続いた。
一九二五年、「革命
(完)
孫文を助けた男 ははそ しげき @pyhosa
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