三、南京同文書院 山田良政

 一九〇〇年七月二十日、孫文と滔天・清藤の三人は香港を出港、日本に向かった。

到着したのち上京し、在京の志士らと会合をもったが、腕を撫して出陣に備えるかれら

に蜂起の準備不足は説明できず、ただ出発が遅延したとのみ告げるに留めた。

 八月にはいり、原・福本らが無断で帰国、平山もべつに用があり、戻ってしまった。

責任放棄に近いが、無理もない。待機につぐ待機で当面の目標がなくなり、意気の阻喪した日本の志士は、勢い酒・女に溺れ、なけなしの革命資金が遊興の代金に費やされていた。中国側からは非難の目で見られはじめている。管理責任は福本や原にあったが、自分の身内以外だと注意もしづらい。勝手にせいと、本人自身が遁走してしまった。

 苦情が、やがて日本にいる孫文の耳にも届いた。

 ――没辦法メイバンファ(やんぬるかな)。

 放埓三昧は、孫文がもっとも嫌う悪習である。吝嗇りんしょくでいうのではない。孫文自身は金銭に淡白で、革命資金とはべつの収入があると下のものに分け与え、本を買う以外、自分の贅沢には使わなかった。毅然としない「たかり」まがいの態度を嫌ったのだ。夜ごと平然と料亭にくりだし、酒が入ると大言壮語する――のちに顰蹙ひんしゅくを買う「無頼浪人」の悪習を嫌悪したのだ。すくなくとも他国の革命を語る謙虚な義侠心は、そこには微塵も見出せない。

 孫文は頭を抱えた。会党の仲間はまだしも、興中会の同志から見放されてはたまらない。――このころが一番つらかった。

 のちに、孫文自身が述懐している。一昨年、戊戌政変で追われた康有為・梁啓超らが日本に亡命した。ほどなくかれらは保皇会を組織する。滔天や犬養は勢力拡大を期待し、孫文に合作を説いた。しかし倒清革命の興中会と勤皇変法(改革)の保皇会とでは、「清朝」の扱いについて水と油の違いがある。光緒帝の覚えめでたく、変法が成功の暁には宰相にもと嘱目されていた康有為は、華僑実力者のあいだでは人気が高く、興中会から保皇会に乗り換える人が続出した。この合作で割を食ったのは、興中会の側だった。この傾向は日本だけでなく、ハワイ・アメリカ本土・カナダなど、かつて孫文が種をまいた華僑社会全域に及んだから、孫文が嘆くのも無理はなかった。ハワイの実兄孫眉ですら両会兼ねて加盟するありさまだった。恵州蜂起にかけてのこの数年が、興中会存亡の正念場だったといえる。


 おりしも上海に風雲の兆しがあった。変法派の論客唐才常とうさいじょうが上海で自立会を結成、決起するとの情報を得た孫文は、新たな同志の香港行きをめ、変法派との大連合の可能性を求めて八月二十二日、内田らと上海へ向かった。平山周と山田良政が上海で出迎えた。

 百日維新ともいわれるが、二年前、六月十一日の光緒帝の詔勅にもとづく戊戌ぼじゅつ変法へんぽうは、西太后らの逆襲によってあえなく瓦解し、譚嗣同たんしどうら六君子は粛清され、康有為・梁啓超は逃亡した。このとき香港へ逃れた康有為を日本へ亡命させたのが滔天で、日本公使館に避難した梁啓超を軍艦大島に乗せ、日本亡命を助けたのが平山と良政だった。

「いまは逃れて、再起にかけようではないか」

 亡命を勧める梁啓超に、譚嗣同は居残る決意を告げた。

「後世、血を流さぬ変法だったといわれたくない。死ぬは易く、生きるは難い。きみは西郷となって、生きて困難な変法を貫徹してくれ。わしは月照となって、易きにつく」

 譚嗣同には任侠の風があり、亡命を潔しとせず、むしろ犠牲となることを選んだのだ。盟友譚嗣同を失った唐才常は、二年後、康有為の資金援助を頼りに、漢口で自立軍による武装蜂起を企てた。しかし事は未然に露見し、二十二日、首謀者は一網打尽にされた。

 孫文が上海に到着したのは二十八日だった。蜂起失敗の報に接した孫文は残党との接触を試みたが、戒厳令の敷かれた港は香港以上に厳格で、孫文の上陸を許さなかった。下船した内田の導きで、平山と良政が乗船した。平山が状況を説明した。

「決起した自立軍はことごとく捕縛され、唐才常は処刑された。あてにしていた軍資金が届かず、延期している間に、密告者が出たらしい」

 軍資金の件は、康有為が送金を渋った、運び屋が持ち逃げした等々、真相は藪の中だ。

「このままではつまらんなあ。ちょうど李鴻章が上海にいる。暗殺してみるか」

 内田が物騒な提案をした。冗談めいてはいるが、半分本気だ。

「暗殺という陰険な手段は、革命の名に値しない。間違っても口にしないでほしい」

 珍しく孫文が不快感をあらわにした。一瞬、座がしらけた。良政が矛先をかえた。

「台湾に動きがあります。統治から五年、日本政府は南清への勢力拡大を鮮明に打ち出しています。『対岸経営』といわれる台湾の対岸・福建などへの経済攻勢です。そのための布石が、一昨年の『福建不割譲宣言』であり、今年七月の『福建互保協定』なのです」

「一八四二年の南京条約でイギリスは広州・福州・廈門・寧波ニンポー・上海の五港を開港し、以来、数十年にわたる交易活動を積み重ね、磐石の勢力を誇っている。そのイギリスに追随した米・仏・独も同様だ。新規参入の日本に、はたしてつけ入る隙があるのだろうか」

「不割譲宣言」で他国への分割を禁じ、「互保協定」で自国民の生命・財産を保護する。日本の政治的・軍事的介入には有利だが、他国の経済活動や利権競争は制限できない。

 孫文の疑問は、とうぜん台湾総督府の課題でもあった。施政開始後いまだ沈潜気味の現状からの浮上は急務で、宣言と協定の具体的活用策が検討されていた。なにせ「台湾など統治しても仕方ない。一億で売れるなら売ってしまえ」という声さえあった時代のことだ。

「児玉総督の本意は、軍事力を行使せずに廈門を実質的に経済支配することです。そのためには、孫文さんの革命軍が恵州攻略後、一気に北上して廈門に入城、清朝軍を掃討して廈門を占領する。これが短時日で可能なら軍事援助を与えてもよいと、お考えです」

「援助はするが、日本は軍事介入せず、廈門の独立、自治を認めてくれるのですね」

「列国の疑惑を排除し、福建の民心を収攬するためにも、日本は軍事介入を控えます。そして革命軍には、漳州しょうしゅう泉州せんしゅう・福州と福建の主要都市を続けて進撃攻略し、福建独立国を実現していただきます。これらの方策は、児玉総督と後藤民政長官おふたりの考えに基づくもので、欧米列国の既存勢力を排除して、台湾の対岸経営を早期に立ち上げるためには、親日的な福建独立政府の存在が不可欠であると結論付けたのです」

 おりしも山東から南下し、「台湾民主国」の残党を誘い、「台湾恢復」を掲げる義和団の一派が福州に出没している。列国は軍艦を上海から福州・廈門の港に回航し、沖合いに停泊させ、事態を見守る構えだ。在留自国民の生命・財産に危害を加える動きがあれば、いつでも兵を出動する。ただし抗争が発生しても、国内問題に終始する限り介入できない。

 一方この時期北京では、「五十五日」にわたる籠城戦が終結に向かっていた。清朝が列強に宣戦布告した六月二十一日から八ヶ国連合軍が北京に入城する八月十四日まで、天安門向かいの東側、各国公使館のある東交民巷の一画が義和団や清朝軍によって攻撃されたが、立て籠もった在留外国人と中国人基督教徒は少数の守備隊に守られ、よく耐え抜いたのだ。

 北京が陥落した翌日の八月十五日、西太后一行は紫禁城を脱出、西安に逃走した。自業自得といえばそれまでだが、列強占領後の北京は悲惨だった。報復攻撃され、略奪・暴行を受けたあげくに講和調印、四億五千万両という多額の賠償金を課せられたのだ。元利合計約十億両を完済したのは三十九年後の一九四〇年である。ちなみに日清戦争後の講和条約では賠償金は二億両、七年賦だったので戊戌の年(一八九八)に完済している。

 賠償の負担はすべて人民の肩にかかる。清朝が滅んだからといって、それは終わらない。中華民国になっても、乏しい関税収入の中から、延々、払い続けなければならない。


 九月一日、孫文らは上海を立ち、六日、神戸着。その足で上京、犬養を訪ねた。犬養は廈門の最新情報を孫文に告げ、台湾へ急行し、児玉総督と意志の疎通を図るよう勧めた。

「釈迦に説法とは思うが、政治の世界は一寸先は闇。くれぐれも慎重に行動されたい」

 犬養は孫文を買っている。孫文による倒清革命を支持しており、革命政府の首班には孫文を推している。しかし、孫文は三十五歳とまだ若く、知識はあっても経験不足は否めない。海千山千がひしめく政治の世界では、とうぶん苦労するだろうが、困難を糧とし苦境を乗り切り大成してほしいと、犬養は願っている。四十六歳の日本の政客が、孫文に惚れ込んでいたのだ。


 八月二十四日早朝、廈門の東本願寺布教所が暴徒に襲われ焼失するという事件が起きた。陸軍は居留民保護を名目に、ただちに停泊中の軍艦和泉から陸戦隊を上陸させた。さらに二十八日には台湾から歩兵二個中隊を廈門に向け出動させ、事態は急展開した。

 この事件に先立つ八月十日、山県有朋やまがたありとも首相は、廈門占領を閣議決定しており、二十日には福建・浙江を通商上・軍事上において日本の勢力範囲とする「南進経営」論の意見書を提出していた。二十二日、大山巌参謀総長は児玉台湾総督にたいし、「機会あれば廈門占領の必要あり」とする奉勅命令を発した。二十三日、民政長官後藤新平が廈門に渡っていたことと合わせ、あまりの手際のよさが列国の反感と疑惑を招いた。事件が、日本側によって仕組まれた謀略の可能性を疑ったのである。二十八日、英米両国が強硬に抗議し、これを受け入れる形で、九月七日、日本は廈門から兵を引いた。


「山田さん、良政さん」

 廈門の対岸、集美村しゅうびそん街道口の渡し場で、良政は日本語で声をかけられ驚いた。

「これは珍しい、福地君ではないか」

 風呂敷に包んだ五段重ねの柳行李を背にした葛雄が、いつもの行商姿で近寄ってきた。

「お待ちしていました。六、七年ぶりでしょうか。ご活躍のこと、うかがっていますよ」

「いやなつかしい。書簡ふみの交換こそしていたが、顔を会わせるのは上海以来になるか」

「その先をたどれば、十年を越えましょう」

 ふたりの出会いは、葛雄こと福地雄一郎の少年時代にさかのぼる。

「おれが水産伝習所に入る前、家でぶらついていた、はたち前後のころだったからな」

 家業の売薬見習いで津軽を回っていた雄一郎は、得意先の山田家で良政に出会った。

「良政さんは、庭先で神道夢想流杖術の型稽古をしておられた」

「東京に遊学中、福岡の友人から学んだのだが、請われて君にも教えるようになった」

「同時に支那語の基礎も教わり、ふたつ年下のわたしは大陸に関心を持ちはじめたのです」

 神道夢想流杖術は、宮本武蔵に勝ったという夢想むそう権之助ごんのすけを開祖とする武術で、黒田藩の御留流おとめりゅうとして藩外不出だったものが、廃藩置県のあと全国普及した。得物えものは剣よりやや長い樫の棒で、じょうと称した。順手じゅんて逆手ぎゃくて、先後の別なく自由に操れるところに特徴がある。福岡出身者の多い玄洋社の壮士はたいてい使えたから、好んでかれらと交友した良政は、自然にかれらから教わった。明治後期、日清戦争をひかえ、良政に大陸志向が芽生えていた。

 山田家の向かいに陸羯南くがかつなんの家がある。硬骨のジャーナリストだった羯南は、「支那に志を伸べたい」と進路相談に訪れた良政に、「専門技術を身につけて清国に渡れば、道はおのずから開ける」と清国研究の道を勧めた。そこで良政は水産伝習所に入学、とりわけ語学の学習に励み、就職した北海道昆布会社で配属された上海でも勉学を怠らなかった。

 良政のあとを追って、雄一郎もまた上海に渡った。漢方原料の買付目的だったが、葛洪の郷里句容こうようで、中草薬の宝庫「羅浮山」の存在を知り、欣喜して広東に下った。

 やがて日清戦争が勃発し、良政は陸軍通訳官に転進した。北京で「戊戌政変」に遭遇し、梁啓超の日本亡命を助けた。このときともに働いた平山周が、東京で孫文を紹介した。昨年のことだ。ことばを交わすうち、孫文の革命にたいする熱意に打たれた良政は、「これぞ天の配剤」と運命的出会いを感じる。革命家孫文を助けるために、天は自分を遣わしたのだ。清朝を覆滅し四億の民を救うことこそ、わが志のかなう道ではないかと、自ら孫文の協力者に徹した。良政は中国事情に詳しく、「性格は温良で寡言、こころざし高遠にして熱切」と滔天が絶賛する快男子で、交友関係に慎重な孫文が、滔天同様に心を許した日本人同志のひとりとなる。近衛篤麿の東亜同文会が設立した南京同文書院の教授兼舎監で赴任したものの、孫文が資金難にあえいでいるのを知るや、職を投げうって台湾に駆けつけ、旧知の後藤長官を通じ児玉総督に孫文を紹介し、軍事支援を要請することになる。

「君がここでおれを待つのは、廈門占領についての台湾総督府の考えを聞き質すためか」

 日本側の真意が何処いずこにあるか、鄭士良が抱く疑念は、あらかじめ良政に書簡で質問してある。

「恵州蜂起を軍事支援するという児玉さんの言に裏表うらおもてはないか、鄭士良はじめ同志のものたちが案じています。孫文さんが廈門と交換に軍事支援を得たとあっては、国を売る行為に等しく、非難を免れない。わたしは第三者の立場だが、良政さん、あなたの存念はどうか」

 本音を知りたいと思うあまり語調がきつくなった。しかし雄一郎は良政を信じていた。

「先ごろの廈門出兵は、現場の先走りだ。総督の意志ではない。だから列国の抗議で、すぐに兵を引いた。このこと、孫文さんは理解している。むしろ、省内に鉄道を敷設し、ドックを建設、鉱山を開発するといった福建経営の児玉案について興味をもち、会談を楽しみにしている。国を想い、民を救うために革命するのだ。四億の民は愚かではない。国を売る蜂起にしたがうものはいないし、福建の民心を無視した支援など、児玉総督の頭にはない」

 良政は、断固としていい切った。信念をもって支援する以上、姑息な考えはない。

 廈門に渡る良政を見送った雄一郎は南に向かい、「危惧は無用」と鄭士良に心で叫んだ。


 九月二十四日、孫文は清藤を連れ、神戸から台湾行きの船に乗り、二十八日基隆キールンに上陸した。先着の平山と良政が出迎えた。滔天と原は日本に居残った。アギナルドから譲り受けた武器弾薬を倉庫から引き出し、台湾へ搬送する任務を担当していた。


 ところが、孫文らの移動中、日本に政変があった。九月二十六日、山県内閣が総辞職したのである。後継首相は伊藤博文。清朝政府が政治顧問にもとたのむ維新の元老で、清朝の延命こそ日本の国益と思い、倒清革命派の台頭をかたくなに拒否していた。組閣が命じられたのが十月七日で、第四次伊藤内閣の発足は、十月十九日にずれ込んだ。児玉総督と孫文との会見は、かろうじて組閣前に行われ、恵州蜂起が決定されたのだ。

 会見の通訳は良政が担った。伊藤博文の意向にかまわず、児玉総督が独断専行する内密の会見である。公式記録は残さない。当事者以外に通訳もまた歴史の生き証人となる。

 三国干渉の例もあり、欧米列国の介入は、極力避けたい。軍事発動なしに廈門を占領する方策を思案していた児玉総督と後藤長官にとり、親日家孫文の革命は渡りに舟だった。

 後藤と目配せした児玉は、自己の権限を行使できる範囲でと断り、口約した。

「中国側の自主的蜂起であれば、廈門入城を拒むいわれはない。二個師団分の武器弾薬を、廈門で渡す。日本から搬送してきた隠し持った分の転送と台湾の民間義勇軍を恵州に派遣する船は、黙認する。廈門占領後、独立を宣言すれば、台湾総督府は真っ先に承認し、後ろ盾となる」

「海のものとも山のものとも分からない革命に資金は貸せない。しかしことは革命だ。談判している暇はない。廈門に台湾銀行の支店がある。証文を書いて無断借用するか」

 児玉に続いて発言した後藤は、靴底でゆかを蹴った。地下金庫を狙えと示唆したのだ。


 十月六日、「即刻挙兵せよ」、孫文は香港の鄭士良に暗号電報を打った。そして日本の滔天のもとには、「ただちに送械の準備請う」と、武器を急送するよう指示する電報を打った。

 ついに出番がきた。電報を受けるや滔天は勇躍して、買付を依頼した中村弥六に書かせた委任状を元陸軍大尉の原に渡し、武器商人大倉喜八郎を訪ねてもらった。原は「保管してある武器弾薬を引き取りたい」と申し出たが、大倉は「現物は陸軍の倉庫に保管されており、勝手に動かすわけには行かぬ」と拒否した。「ならば実見したい」詰め寄る原に、「素人が見ても判断できぬ」と大倉はうそぶいた。原が「おのれは元陸軍大尉を愚弄するか」と一喝すると、しぶしぶ大倉は聞き入れた。そして原を中村の一味と誤解し、実態を暴露した。

「ご承知のとおり廃品同様のガラクタばかりで、実戦の役にはたちませんよ。体裁だけを繕うには結構ですが、ずいぶんとあこぎなご商売をおやりになりますな」

 聞いて驚いた原は、犬養に注進した。犬養は激怒した。滔天に中村を紹介したのは犬養だった。先の布引丸沈没事件とあわせ、政界を揺るがす疑獄事件に発展しかねなかった。

 恵州蜂起は、すでに秒読み段階に入っている。廃品は送れないし、買い直す時間はない。

 滔天は、「難あり送れぬ」と返電、詳細は書簡にしたためた。これにたいし孫文は、「金に換えて急送せよ」と要求をかえた。中村に着服した分を返させれば、軍資金の足しになる。

 しかし中村は、すぐには現金を用意できなかった。ポンセが支出した再購入資金は六万五千金、大倉が支払った代金は五万金。中村が返還すべき着服金は一万五千金だった。

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