二、『三十三年の夢』宮崎滔天

 一九〇〇年七月十六日、孫文ら一行は、遊説先のシンガポールから香港に戻った。

こともあろうにかれらは、乗船した佐渡丸の船中で「恵州蜂起」の密議をこらしていた。中国の革命を日本人志士が支援する、日中合作の武装蜂起の企てだった。

 船中の密議には、日本側に宮崎滔天とうてん平山ひらやましゅう清藤きよふじ幸七郎と福本日南にちなん・原ていの五人が参加し、中国側は孫文と船内に招き入れた陳少白・鄭士良・史堅如しけんじょとう蔭南いんなん李紀堂りきどうら興中会幹部が顔を連ねている。

 陳少白が通訳した。かれは孫文が弟ともたのむ親友で、亡命中の孫文を代行して日本や香港の興中会をまとめ、支えている。陸皓東りくこうとう・鄭士良らとともに、孫文が医学生のころから革命を誓い合った同志で、みな基督教徒クリスチャン教友きょうゆうでもあった。

 ことに竹馬の友の陸皓東は、広州蜂起に際し、青天白日旗をつくったことでも知られている。蜂起失敗で捕えられたが、義侠心に富むかれは拷問されても口を割らず、「鉄漢(鉄の男)」と驚嘆された。孫文の革命で最初の犠牲者となった陸皓東を、孫文は深くいたんだ。

 広東香山こうざん県(いまの中山ちゅうざん市)に生まれ育った孫文は、十四歳で兄孫眉そんぴを頼ってハワイに渡り、三年間ミドルスクールで学んだが、この地でキリスト教とデモクラシー、そして会党の存在を知った。その後帰国し、広州と香港で医学を専攻した。ことに洗礼を受けた香港では、生涯を貫く革命思想の洗礼をも受けた。当時、イギリスの植民地だった香港には二十万の華人と、三万のイギリス人ら外国人が住み、清国の権威や拘束は無視してよかったから、本土にいてはとうてい許されない文言を宣誓文にする会党の結成が可能だった。

 孫文は革命の支援会党「興中会」を設立、「韃虜たつりょ(満州族)を駆除し、中国を恢復、合衆政府を創立する」という目標を掲げ、武装蜂起による清朝政府打倒運動を開始した。

 一八九四年日清開戦後にハワイで、翌年広州蜂起の年には香港、ついで広州でも興中会を結成、革命資金を募り、蜂起の賛同者を集めた。結党の会合で、孫文は仲間たちに尋ねた。

「三合会の領袖に入会してほしいが、あいにく知り合いがいない。だれかご存じないか」

 すると級友の鄭士良が、膝を乗り出した。ふだん無口で控え目な男にしては珍しい。

「かんたんなことさ。君が会いたいと思えば、いつでも会える」

 はて、どういうことかと、目を白黒させた孫文に、鄭士良はいたずらっぽく微笑ほほえんだ。

「ぼくがその三合会の支部長さ。恵州支部を束ねている。ぼくに尋ねれば、いやとはいわぬ」

 一八九五年十月二十六日(旧暦九月九日重陽ちょうようの日)、孫文らは広州で武装蜂起を企てたが、事前に漏れて不発に終わった。孫文と陳少白・鄭士良の三人は香港に逃れた。そして香港退去処分を受けたのち日本へ亡命し、横浜に潜んだ。中華街に興中会横浜支部ができていた。その後、鄭士良はひそかに香港へ戻り、討清活動を再開した。

 孫文はアメリカ・ヨーロッパへ向かった。ロンドンでは清国公使館に幽閉されるが、その救出劇が新聞報道され、自著『倫敦ロンドン被難記』が出版されるに及び、革命児孫逸仙そんいっせんの名は一躍、世界的存在になる。このロンドンで孫文は大英博物館の図書室に通い、多岐にわたる分野の書物に触れた。孫文を知る多くの人は、こういってはばからない。

「革命ひとすじで清廉潔白な天性の革命家は、ここ大英博物館で三民主義革命論の啓示を受けた」

 一方、日本に留まった陳少白は、日本との交流の架け橋となる。

 三年前、ロンドンから日本に戻った孫文が、宮崎滔天と平山周に出会うきっかけをつくったのは陳少白だった。

「人民を愚民化し搾取してきた清国を覆滅し、自治による共和国を作る」ために革命を志向する孫文を、滔天は自著『三十三年の夢』の文中で「東亜の珍宝(至宝しほう)」とまであがめた。

「君、わが党の志望をたすけよ。支那四億の蒼生そうせい(人民)を救い、亜東黄種(黄色人種)の屈辱をすすぎ、宇内うだい(天下)の人道を恢復し擁護するの道、ただわが国の革命を成就するにあり」

 貫禄不足を嘆く初対面時の拍子抜けは愛嬌だが、革命を語る孫文の高尚な思想、卓抜な識見、遠大な抱負、切実な情念を聞くにつけ、全身に義侠の気概を感じ、意気投合した滔天は、これ以後、孫文の革命事業にのめり込む。平山周とともに政客犬養毅いぬかいつよしに孫文を紹介、犬養は外務省や平岡浩太郎に渡りをつけた。平岡は玄洋社や黒竜会の資金源である。

 平山や滔天にしても、もとはといえば、犬養の口利きで「支那革命をたくらむ秘密結社」を探索するため、外務省に雇われた密偵あがりである。孫文と出会い、本物と見定めるや、

「調査報告書を書くまでもない。これが秘密結社の領袖だと本人を連れて行こう」と、犬養に引き合わせ,外務省の小村寿太郎には、「報告書が先だろう」と呆れられた。


拳匪けんぴの排外運動による無謀な破壊と暴行で、北京が危機に瀕している。拳匪にたいする報復攻撃で、日英米露独仏伊おう(オーストリア)八ヶ国連合軍が入城すれば、北京は戦場になる。列強の目が北に注がれているいまこそ、われらが南清なんしんで義軍を起こすべき好機だ」

 気負いのない、淡々とした口調で孫文は語り、船中密議の一同を見渡した。

 拳匪(義和団)の乱、北清事変ほくしんじへんともいうが、三年前、山東省で起きたドイツ人神父の殺害に端を発し、中国人キリスト教徒を襲撃し、西洋渡来の鉄道・教会・電信線などを打ち壊す拳匪の暴動が華北に拡大している。「扶清ふしん滅洋めつよう」を標榜し、公然と列強に歯向かう拳匪各派は義和団と総称され、先月、ついに北京に入った。その数二十万といわれる。北京在留の自国民の生命財産の保護を名目に、連合軍は二万の兵を動員し、北京に迫った。

「列強諸国に分割統治されてからでは遅いのだ。いまこそ清朝を倒し、万民の意志にもとづく共和制国家の建設を目指すのだ。まず広東カントン広西カンシーの両広で独立し、ついで南方六省に独立地域を拡大する。三合会を主体とするこのたびの武装蜂起は、鄭士良君を総指揮として恵州で敢行する。日本の志士諸君にも、それぞれの役割を分担していただく」

 恵州は深圳しんせんの北隣にある。孫文は蜂起の目的を明確に示し、実行手順を検討しはじめた。

「いま革命の機運は盛りあがっている。哥老会かろうかい・天地会などの会党が興中会に合流し、孫文先生を会長に、興漢会こうかんかいという名で挙兵に呼応する。保皇会の康有為こうゆうい梁啓超りょうけいちょうとの大合同こそ果たせなかったが、日清戦争敗北の責任を取らされ両広総督に左遷されていた李鴻章りこうしょうが、腹心の劉学詢りゅうがくじゅんをつかって両広独立後の連合政権を打診してきた。この計画には英国政府が深く関わり、香港総督ブレークが積極的に推している」

 滔天が孫文のことばを補足した。興漢会の合作を実現した陰の立役者の鄭士良は、表情をかえずに黙って聞いていた。孫文の右腕と、自他ともに認める陳少白がうなずいた。

 連合政権については先月、シンガポールに向かう途中の六月十六日香港に寄港した際、滔天は内田・清藤とともに広州で劉学詢と会談し、資金援助を仰いでいる。孫文が香港で下船できないため、その代理で出席したのだ。もっともひと月後の七月十二日、李鴻章は北洋大臣兼直隷総督に任ぜられ、北京に復帰することになり、連合計画は中断する。

「決行の日はいつになるか。早急にお決め願いたい。待機が長引くと士気に影響する。なんならいまこの場で船を下りて、恵州に向かって突撃してもよい」

 年長の福本が日本人志士の不満を代弁して、ひとり気を吐いた。

「お気持ちは分かるが、腹が減ってはいくさはできぬし、素手で戦うわけにもゆかぬ。武器弾薬と兵糧調達の工面を急がせているのだが、そのためには金が要る。その肝心かなめの軍資金が思うように集まっていない。決行日を告げるのは、いましばらくご猶予願いたい」

 孫文は率直に内情を説明し、理解を求めた。福本は無言でくうを仰ぎ、瞑目した。

「ただし武器弾薬については、あてがある。昨年、菲島ひとう(フィリピン)独立運動代表のアギナルド氏から譲り受けたものが使える。滔天君には保管先に当たってもらいたい」

「承知した。日本に戻りしだい、確認する」

 ふたつ返事で引き受けたが、たちまち滔天の脳裏に忸怩じくじたる思いが甦った。

 孫文の口利きでアギナルドから武器弾薬の調達を依頼された滔天は、仲介者を通じ、日本の軍部から払い下げを受けた。ところがマニラに輸送中、舟山しゅうざん列島沖で貨物船が沈没してしまい、急場の役に立たなかったのだ。昨年七月のことだったが、これでは面子が丸つぶれだ。

 アギナルドの指示で日本に遣わされたポンセに再購入資金の提供を頼み込み、買いなおしはしたが、スペインにかわって植民地支配した米国の力は強く、アギナルドは独立運動を断念した。使い道のなくなった武器弾薬は孫文に譲られ、日本の倉庫に眠っている。

 フィリピンには約十万人の華僑がいる。現地で戦う同胞を助けるため、広東から三万人の義勇兵を派遣すると孫文は豪語し、独立運動を積極的に支援していたのだ。孫文の悲願はアジアの同時革命で、その余勢を駆って両広独立につなごうとしていた。

「ご承知のとおり五年前、広州蜂起に失敗したわしは、清朝から千元の懸賞金をかけられたお尋ね者だ。大陸に入れば逮捕される。香港政庁からは五年間の入境禁止をいいわたされており、残存期間がまだ数ヶ月あるから香港でも下船できぬ。さらに滔天君と清藤君は、今回シンガポールで向こう五年間の追放処分を食らい、香港でも新たに五年間の追放・上陸禁止を宣告された。わしらの動きは香港政庁によって逐一監視されているものと、知らねばならぬ。革命に暗黙の了解はあるが、香港は昔ほどわしらに好意的ではなくなった」

 保皇派との大合同を画策した滔天は、康有為を説得するつもりでシンガポールに乗り込んだ。だが、話せば分かると楽観していた滔天は、説得する前に刺客の疑いで官憲に逮捕され、投獄された。五日後、刺客の疑いは晴れ放免されたが、シンガポールを追放され、やむなく香港へ戻ったのだ。

「刺客の疑いとは、大合同をよしとせぬ康有為一派の密告か。あるいは清朝政府に配慮した英国の深謀か。だとすれば、香港の作戦本部は、別の地に移動せざるを得まい」

 平山が無遠慮に進言した。東京もいつ退去命令が出るか分からず、長期的には不向きだ。

「台湾に移そうと思う。上海にも近く、地の利が良い。台湾は甲午戦争の敗北で日本に割譲された。住民は日本人になったが、自分では華僑だと思っている。清国の打倒をかれらにも説き、協力を得たい。じつは台湾の民間には、大量の武器弾薬が隠されている」

 日清戦後の馬関ばかん(下関)条約で、台湾は日本の統治下におかれた。もともと反清感情の強い地域で、会党が幅をきかせていた。日本軍が進駐してきたとき、清国の高級官僚は部隊を引きつれ本土へ帰ったが、残された下級文武官と会党などの民間人が結束して「台湾民主国」を設立、五ヶ月間抵抗したものの、鎮圧され消滅した。このとき武器弾薬が四散し、民間に秘匿された。孫文は、かれら会党の壮士を蜂起に参加させたいと考えていた。

「幸い南京同文書院教授の山田良政君から良い智慧を授かっている。山田君は台湾総督の児玉源太郎や民政長官の後藤新平と親しく、恵州蜂起に際し、援助を打診してくれた」

 児玉総督は廈門進攻に関心がある。義和団の動乱に乗じて、出兵する機会を狙っていた。

「台湾で民間義勇軍を募る。日本の倉庫に保管してある武器弾薬を台湾に搬送し、義軍を移動する船で広東の海豊ハイフォンまで送る。海豊で恵州蜂起軍と合流、廈門へ向けて進撃し、廈門入城をはたす。わしは台湾へ赴き児玉総督を説得し、軍事援助を取り付ける」

 いまの汕尾シャンウェイ市に属する海豊は、恵州の東約百キロ、廈門までなお三百キロある。

「さらに広州で陽動作戦を敢行する。両広総督徳寿を襲い、広州で蜂起すると見せかけるのだ。少人数の工作部隊を組織して爆弾を仕掛け、清兵を広州に釘付けする」

 徳寿は李鴻章の後任だ。爆殺工作は史堅如と鄧蔭南が担当する。軍資金は、香港でも有数の豪商李紀堂が用立てる。二十二歳の史堅如は美少年で通っているが、爆弾の知識があり、胆力に優れている。鄧蔭南はハワイ興中会の幹部で、香港に在留していた。

「よって、結論の出るまで今回の蜂起は延期する。この船でわしは日本へ向かい、あらためて蜂起の準備を進め、頃合を見て台湾で総督と会談する。諸般の懸案事項が解決した段階で、恵州蜂起の決行日を定め、電報で指示する。よってくれぐれも、いますぐ下船して突撃するなどと、軽挙に走らないでもらいたい。大事をまえに穏忍いんにん自重じちょうするのは、むしろ諸君ら日本人のお家芸ではないか。ほうれ、忠臣蔵の大石内蔵助くらのすけを見よ」

 ようやく孫文の軽口が飛び出し、その場の緊張がやわらいだ。後年、『元禄義挙伝』の著書があるくらい、福本の赤穂浪士贔屓には定評がある。それを心得たうえでの冗談だ。

 孫文は自分の立場をわきまえていたから、本土には足を踏み入れず、もっぱら世界の華僑を対象に海外遊説に徹している。清朝打倒と共和国建設を主張し、故国の革命運動にたいする理解を求め、軍資金の募集活動に専念している。革命には金がかかるのだ。誰よりも痛切にこの事実を知っている孫文は、蜂起のときも、戦場に駆けつけ陣頭指揮するというよりは、むしろ海外にいて軍資金を集める方を選びかねないほど、なりふりかまわずスポンサー探しに没頭した。余談だが孫文の読書好きは有名で、戦場でも本を手放さないと、尾ひれがついている。ただし、博識であっても、ひけらかすことはない。性格温和で人の意見にも耳を傾ける。決断までは慎重だが、決断すれば躊躇なく実行する。信念は曲げないが、ひとつことに拘泥しないから、変わり身も早い。最善がだめならすかさず次善に譲る。それでもだめなら中止する。状況に応じて、臨機に対応できる柔軟な性格ではあるが、これでは誤解を受けやすい。読書好きに加えて、小柄な体格で豪傑風ではなかったから、同じ革命家でも単細胞の武闘派から見れば軟弱さは否めない。「なんじ、書を捨てて銃を持て」と叱咤されかねない。この場に居合わせた日本人志士もまた、決行日を先送りする孫文の態度を優柔不断と思い、軍資金不足はいいわけにしか聞こえなかった。

「このたびわれらは死を覚悟で参集している。武士は食わねど高楊枝たかようじ、大事を前に飯の算段でもあるまい。むしろ時機を失して、意気阻喪することをこそ恐れる」

 福本は重ねて強調した。すでに香港に出てきた日本人志士もいたし、さらに九州にいて出陣の機を窺うものも多い。翌年黒竜会を結成する内田良平は、日本で四十余名の同志を糾合し、外人部隊として蜂起に加わる構えでいた。

 意気に感じて参集したとはいえ、日本人志士は決して一枚岩ではない。朝鮮や満蒙あるいは南洋の地でと、志を立てたいと思う場所が異なっていた。ましてやこのことが短気な内田良平の耳にでも入ろうものなら、総引き揚げということになりかねない。


 福本のようすを見て、滔天が割って入った。仲裁のつもりが、つい口を滑らせた。

「革命はソロバン勘定でやるものではあるまい。『秀才叛を謀り、三年待てど事ならず』とは君のことか。臆病風に吹かれて腰がひけた君とは、もはや大事は語れない」

 罵倒に近い。孫文も黙っていない。

「君は狂ったか。状況を見ないで猪突猛進するは、豆腐の角に頭をぶつけて自殺しようとするに等しい無意味な衝動的行為だ。革命には相手があり、時機の適否を見極めることが肝心だ。見栄やハッタリでやれるものではない。一体、いつわしが命を惜しんだ。君はわしが臆病者でないことを知っているだろう。頼むから二度と馬鹿なことはいわんでくれ」

 孫文は声を荒げてなんども滔天の膝をたたき、はらはらと涙を流した。孫文の涙をはじめて見て、返すことばもなく、滔天はうなだれた。

 ひとり去り、ふたり去りし、やがて孫文も去った。会議室には滔天だけがとり残された。

 悄然として自室に戻り、横になったが眠られぬ。ウイスキーのボトルを手にしてみたが、酒もうまくない。なすすべもなく天井をにらんでいると、ドアを叩く音がする。福本だ。

 やはり眠られぬ福本と連れ立ち、甲板に出た。見え隠れに方々で、人の動く気配がする。

「見ろ。うかつにも気づかなかったが、わしらの部屋はイギリスの警吏や清国の探偵に見張られている。武器を手にして下船しようものなら、たちまち御用となるは必定だ」

 水上を見れば、この深夜に香港政庁の艦船が幾隻も佐渡丸の周囲を巡視、警戒している。

「イギリスの手の内で動けば援護するが、勝手に動けば一網打尽だとの威嚇だろう。まさに孫君のいうとおりだ。状況が変化した。わが方の動きは、イギリスにも清国にも筒抜けだった。それを知らず、悪態をついてしまった。孫君に詫びて、再起に備えよう」

 実情をつぶさに了解したふたりは、孫文の状況把握や先見の明に、あらためて脱帽した。

 孫文の室を窺うと、まだ起きて本を読んでいた。ふたりは素直に頭を下げた。

「負けた。確かに君のいうとおりだった。以後万事、君に命を預ける。許してくれ」

「わしのほうこそ向きになって悪かった。至らぬときは遠慮なく忠告してくれ」

 ついで孫文は船窓の外を眼で示した。港湾の明かりは、夜もなお煌々と輝いている。

「イギリスが両広独立に興味を示すのは、香港のとなりに友好国ができるのを歓迎するからだ。戦せずともイギリスは、経済的利益の得られる版図を拡大できる。同様に、われらが廈門を制圧すれば、台湾の対岸福建省全域に有利な影響を及ぼせると、日本は期待する」

「それで革命だ、独立だといえるのか。いずれは列強国の傀儡かいらいとなるのではないか」

 むしろ滔天が危惧して、孫文に糺した。

「衰えたとはいえ、いまだ清朝は滅びぬ。ましてや、われらにこれを倒すだけの力はない」

 弱気でつぶやいたが、しかし孫文は一度伏せた目を上げ、きっぱりと断言した。

「ただし、全国制圧は無理でも、一部の地域だけでなら革命できる。互いに牽制しあっている欧米列強も、各自の地域での割拠はできるが、一国で全土は支配できない。ならば、われらは列強各国、ことに日英両国の支援の下に、多くの地域で複数の独立共和国を建て、清朝政府を壊滅に追いやる。そののち、平和的手段で各共和国をまとめ連邦化する」

 この時期すでに欧米列強国の中国分割支配は、着々と進んでいた。ドイツは膠州こうしゅう湾の租借で山東半島を、イギリスは香港に加えて九龍半島の新界と山東の威海衛いかいえいを租借し、多年の交易実績を通じて掌握した長江流域(江蘇・浙江・安徽・湖北・四川)を、ロシアは旅順・大連の租借で満州を、フランスは広州湾(雷州半島北東部の湛江たんこう)の租借で広東・広西・雲南を、それぞれの勢力範囲に組入れたのだ。そして日本は台湾の割譲で、対岸の福建経営をもくろんでいる。フィリピンの植民地化で出遅れたアメリカは、門戸開放・領土保全を主張、勢力範囲の固定化に反対し、実力による中国市場参入の余地を残した。

 孫文は口調をあらため、革命にたいする決意を再確認した。

「清朝建国から二百五十年たつ。建国の当初は公明正大で公平無私であっても、ときがたてば人の心には私欲が生まれ、傲慢になる。権力を手にすれば支配欲に駆られ、既得権にあぐらをかく。清朝政府官僚の汚職腐敗は、目に余るものがあるが、それを許容する体質が問題だ。アヘン戦争以来、列強各国に国土を割譲され、利権を簒奪されてきた。それでいて私財の蓄えだけは忘れない。こんな清朝政府は、たとえ軍閥の力を借りてでも、列強各国の支援に頼ってでも打倒すべきだ。まず決起して、腐敗した体制に風穴をあけるのだ。革命は一回だけで終わらない。何回も何年もくりかえし行うのだ。わしらの代でだめなら、次の世代に引継ぐ。つねに初心に返り、社会の発展段階に応じて永遠に継続して行うのだ」

 ドアの外で、ひそかに不寝番に立っていた鄭士良は、一部始終を耳にしていた。

 列強各国の支援の下に独立共和国を建てる、という孫文の思いに誤りはない。しかし、傀儡の可能性に言及する滔天の危惧にも一理ある。廈門攻略後の日本の出方は、やはり気になる。日本人が、犬養のような人ばかりでなければ、孫文の対応が危ぶまれる。革命ひとすじの孫文に、万にひとつも、「漢奸かんかん(売国奴)」の汚名などあってはならないのだ。

 下船し、孫文らを見送った鄭士良は、恵州に戻り葛雄と対面後、三州田の山塞に向かってひた奔った。「恵州蜂起は、しばし待て」、孫文の指令を同志に伝えるためである。

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