孫文を助けた男
ははそ しげき
一、三合会 鄭士良
「
大急ぎで香港から立ち帰った
「ああ、
数え歳三十八になる鄭士良は、
おまけに、武骨な旦那が帳場に座るより、よほど親切に
店に回ると葛雄が薬草を仕分けし、手代らに調合の仕方を説明している。
「葛雄さん。すっかりお待たせしてしまった。きょうはあなたに、すこしお聞きしたいことがある」
鄭士良は、遠慮がちに声をかけた。葛雄の多忙な日常を承知しているからだ。
知り合って四年になる。亡命先の日本からひそかに香港へ戻り、ほとぼりの冷めたのを見計らって帰郷した時期に知り合った。
そのじつ鄭士良は、五年前に起こした広州
もとを糾せば、葛雄が鄭士良の薬舗を訪ねたのが、知り合うきっかけだった。薬草の卸売りで、かってに押しかけたのだ。
「三合会の鄭士良どのはご在宅か」
店先で秘密結社の名を大声で叫ぶものだから、店のものが驚いて店内に引っ張り入れた。
「羅浮山でご尊名をお聞きしてきた。薬草を買っていただきたい」
見れば、壮士と見紛う体格雄偉な青年が、大きな風呂敷で包んだ五段重ねの柳行李を背負って突っ立っている。どこかで見かけた
――日本で見た、
中国では
「おぬし、もしや、日本人ではないか」
「
臆する風もなく葛雄は答えたが、そのじつ三合会の首領を訪ねるについては、冷や汗が出るほど緊張していたと、あとで葛雄は正直に打ち明けた。
この屈託のない朴訥さにあわせ、身のこなしから武術に通じていると見てとれ、拳法の達人鄭士良には好ましく思えた。それ以来、年に数度の訪問だが親しく接している。
広東の方言も多少は分かるし、なにより北京語が達者だったから、日本人であることに違和感はなかった。そもそも開山いらい羅浮山に学ぶ外国人は、一向に珍しくない。
「いかにもわたしは生粋の日本人で、
たいへんな仕事だとこぼしながらも、葛雄は楽しげに語った。
この時期「仁丹」は少しあとになるが、日露戦争で爆発的に売れた「征露丸」はすでに市販され、国際的には「タイガーバーム(虎標萬金油)」が売り出されていた。
「
道教の聖地羅浮山は恵州と広州の半ばにある。自然の薬草の宝庫で、自生する千二百余種の植物にその薬用効果が認められている。葛雄は葛洪の『抱朴子』を教本に、先輩方士の実地指導を受けていた。『抱朴子』は不老不死の仙薬製造法「
葛雄はおどろおどろしい「煉丹術」には手を染めず、一般常備薬の開発・普及を、己が終生の務めと定めている。「百病
十九世紀末、中国の農村はあまりに貧しく、日本のような戸別訪問というわけにはゆかなかった。農村での売薬は、庄屋や
都会なら豪商や県令で羅浮山ファンともいうべき特定の愛好者を巡回する。霊験あらたかな
その活動範囲が羅浮山を中心に、広東から福建・江西・湖南など多方面に及んでいるのを知っていたから、鄭士良は各地の世上の風聞を訊ねてみたかったのだ。
「最近の話題といえば、
葛雄は作業の手を緩めず、てきぱきと鄭士良の問いに答えている。
「どうでしょうとは、どういうことですか」
「
葛雄は顔を上げて、鄭士良を直視した。さあどうするのだと、問いかける目だった。
「香港には志士と称する日本人が大勢結集し、孫文を助けて広州に攻め込む構えだという人もいます。
鄭士良とて、ただの薬舗の
「よくぞお見通しだ。あなたが日本人だということは以前から伺っているが、このたびの噂の出どころ、香港にお知り合いの日本人でもおられるか」
「いいや、だれもおりません。羅浮山で修行しはじめてからは、ひとりだけ上海に親しくしている人を除いて、日本人との交わりを
「あえて交わりを断ち、
「あるいはご存知かと思いますが、
あっと、鄭士良は叫びそうになる声をかろうじて抑えた。よもやと思って聞いてみたが、図星だった。香港で、孫文から聞かされたばかりの名ではないか。
――この男、どこまで知っているのか。
自分より七つ若い。医薬知識が豊富なのは納得できるが、驚くほど清国の民間事情に通じている。おまけに人物を見抜く直観力や時世の流れを推し量る判断力は、鄭士良が舌を巻く的確さだ。やはり各地を広く
「おぬし、孫文という人物をご存知か」
山田良政の名が出て葛雄に興味をもった鄭士良は、唐突に訊ねた。目前に迫った大事の決行が心を
しかし葛雄は平然と、いつもの口調でおだやかに答えた。
「
「わたしもそうですよ。男が男に惚れこむ、孫文という人の革命の志には、そんな義侠心の
「この国には、古代
「欧米列強の理解を得るためには、どうすればいいのですか」
「革命後の新政府においても、列強国が
「それではまるで、国土の半分を列強に渡すようなものではないですか」
「眠れる獅子と恐れられた清国も時代がかわれば、列強国の餌食となって領土を侵され続けています。一方、香港をご覧なさい。かつて海賊の根城でしかなかった無人の孤島がイギリスの植民地となり五、六十年
孫文なら語るだろう大胆な説ではないか。さすがの鄭士良も、思わず声が上ずってしまった。
「おっ、おぬし、孫文に会ったことがあるのか」
「いいや、良政さんからの書簡で知っただけで、お会いしたことはありません。清朝にたいする民の憤りと無力感を、孫文流に代弁すればこうなるのではないでしょうか」
「孫文さんなら主張しそうなことばかりで、つきあいの長いわたしも驚いた。その調子なら申し分ない。じつは、折り入って君に頼みたいことがある」
鄭士良の口調があらたまった。葛雄のことばの裏に清朝への批判を感じ取り、これなら信頼できると決断したのだ。その思いは葛雄にも伝わった。
「なんでしょう。わたしにできることでしたら」
「君がこのあと立ち回る先で、決起に呼応しそうな人の動きがあったら、『しばし待て、義軍の決起を見てからともに行動しよう』と
ちなみに会党とは秘密結社のことで、鄭士良が属した三合会の三合は、天地人の合体を意味するが、広東を流れる東江・北江・西江の三江が
いま広東一帯に「蜂起近し」の風説がある。義侠心をもって、「天命を
会党の仲間でもない葛雄にこの一事を託したのは、葛雄もまた会党の仲間や蜂起の志願者に負けないだけの義侠心があると見込んだ、鄭士良の賭けだった。
「すぐにも決起するのではなかったですか」
「情況が変化した。早くても二か月は待たねばなるまい。この間、福建ことに
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