猫の夢

矢口 水晶

猫の夢


 飼っていた猫が死んだ。それは灰色に染まった十二月のことだった。

 猫は死に際に姿をくらますと言うが、うちの猫は僕の目の前で死んだ。彼女は寂しがり屋の猫だったから、ひとりで死ぬのは怖かったのだろう。彼女はよく寂しくなると、なーおと鳴いて僕のそばにすり寄ってきた。白い毛並みの、美しい猫だった。  

 猫の最期はとても静かなものだった。

 お気に入りのクッションの上に横たわり、目を閉じる彼女は単に眠っているようだった。けれども、彼女の喉の奥からは、ぐるぐる、ぐるぐる、と低く、不規則な寝息がもれ出していた。喉に石が詰まって、吐息が削られるような音だ。

 僕は猫に寄り添って、明け方まで猫の呼吸に耳を澄ませた。猫は今でも、庭の冷たい土の下で眠り続けている。

 その翌日から、がくりと体調が崩れた。

 身体がカイロにでもなったように熱が出て、布団から一歩も出ることができない日が続いた。そして高熱にうなされて眠っていると、決まって嫌な夢を見た。

 夢の内容は覚えていない。ただ、絶望する程の暗闇の中で、ぐるぐる、ぐるぐる……と、苦しげな寝息が聞こえてくるのだ。

 僕はその音に驚いて目を覚ますのだが、苦しく喘いでいるのは僕自身だ。熱でひりひりと喉が痛み、息を吸うと痰が絡んで濁った音を立てた。

 目を覚ました後、重苦しい布団の中で叫び出したくなる。けれども、痛む喉からはひゅうひゅうとか細い吐息がもれ出るだけで、それすら暗闇の中に飲み込まれてしまう。その時の僕はとても孤独だ。暗い海の中を、ひとり、ただよっている。

 猫も死ぬ時に、こんな夢を見ていたのだろうか。

 夜の暗い天井を見つめながら、僕は考える。




 終業式の日、清水が家を訪ねてきた。

 彼は僕の部屋に入ってくるなり、

「あー、寒い寒い」

 と言って、真っ赤に熱したヒーターに手の平をかざした。外は相当寒いのか、耳が赤く染まっている。

 僕は読んでいた『増補・昆虫図鑑』を閉じ、ベッドの上で身体を起こした。

「……何しに来たの?」

「何って、お見舞いに決まってるじゃないか。学校のプリントとか宿題とか、いろいろ持って来てやったぞ」

 彼はそう言うと、鞄の中からガサガサとプリントの束を広げた。数学のドリル、英語の問題集、連絡事項を記した書類……溜まりに溜まった宿題や提出物に、僕はげんなりとした。この世で一番迷惑なお土産だと思った。

「……そんなもの、犬の餌にでもしてしまえ」

「いいじゃないか、僕たちより冬休みが長いんだから。始末する時間がたっぷりあるだろ」

 僕はじろりと清水を睨んだ。が、彼は飄々とした顔で口笛を吹いている。蹴り飛ばしてやりたいところだが、頭が重くてベッドから出ることすらできない。元気になったら見てろよ、ちくしょうめ。

 彼は清水涼太郎という、僕の幼馴染だ。

 彼とはオムツを履いていた時からの長い付き合いになる。僕は小さい時から人付き合いが苦手で、彼が唯一友達と呼べる人間だった。

 病弱でチビの僕と違って、彼はすらりと背の高い少年だ。少し吊りあがった目や尖った顎が、大人びた雰囲気を漂わせている。

 見た目から活発そうな印象を受けるが、実際は面倒臭がりでいい加減な男だ。授業は寝てばかりいるし、競争や練習が嫌いだから、部活も真面目にやらない。それでも、何かと面倒見のいいところもあって、僕は小さい頃から彼に助けられっぱなしだった。

 もしも彼がいなかったら、僕はまともに社会生活を送れていなかったかもしれない、とさえ思う。

「どうだい、冬眠生活は」

 コートを脱ぎながら、清水は言う。一番上まできっちりとめた学ランが、大きな身体には窮屈そうだった。

「どうもこうも、ベッドと一体化してしまいそうだよ」

 僕がうんざりとして言うと、清水は「もうしてるんじゃないか?」と笑って布団をめくる。僕は苦笑した。

 こういう人間らしい会話は久しぶりだった。寝込んでしまうと外の世界から隔離されて、言葉を忘れてしまうんじゃないかと思うことがある。

 しばらく取りとめのない話をしていると、母が部屋に入って来た。「ゆっくりしていってね」などと清水にありきたりな言葉を投げかけ、ホットココアと手作りのパウンドケーキを置いて行った。母はお菓子作りが趣味で、誰かが遊びに来るたびにお手製のお菓子を振る舞うのだ。

「おばさんの作るケーキは、相変わらず美味いなあ」

 もそもそとケーキを頬張りながら、清水はしみじみと言った。

 僕は食欲がないので、ケーキに手を付けなかった。ここしばらく、固形物はほとんど口にしていない。呑気にお菓子を食べる清水が、ちょっと羨ましかった。

「いいよなあ、お前は。毎日美味いお菓子が食べられるんだからさ」

「……時々、君がお見舞いに来るのかケーキを食べに来るのか、分からなくなることがあるよ」

「そんなもん、ケーキを食べに来てるに決まってるじゃないか」

 そう言って、彼は当たり前の顔で僕のケーキを引き寄せる。付き合いが長いと嫌味も通じなくなるので、何だかとっても面白くない。

 ちっ、と小さく舌打ちし、僕はココアをすすった。

「あ、そうだ。今日はお土産があるんだった」

 彼はケーキを咀嚼ながら、鞄の中を探った。

 ほらよ、と中から取り出したものを投げてよこす。僕は慌ててそれを受け取った。

 彼がくれたのは、スノードームだった。

 丸いガラスの中に、白い猫の人形が入っている。猫はやけにスマートで、二足歩行している上に首に赤いマフラーを巻いていた。水の中を銀色のパウダーが漂い、まるで本物の雪が降っているようだ。

 僕は手の中のそれを、しげしげと見つめた。

「……何これ?」

「見りゃ分かるだろ? スノードームだよ」

「それは分かるんだけどさ」

 男にこんなファンシーな代物を贈るだろうか、普通。まさか手の込んだ嫌がらせか、とさえ思った。

「この間、母さんとクリスマスツリーの飾りを買いに行った時見つけたんだ。ほら、お前の猫にそっくりだろ?」

 どこか得意げに清水は言う。

 小さなガラスに閉じ込められた猫は、アーモンド形の愛らしい目をして僕を見上げていた。なるほど、こうして眺めてみると、確かに死んだ猫におもざしが似ている。上品な口許とか、たたずまいが、彼女にそっくりだ。なーう、と今にもかわいらしい声を上げて、甘えてきそうだった。

「……全然。うちの猫の方が、百倍美人だ」

 僕はスノードームを清水に投げて返す。猫が死んだことは、言わないでおいた。

 彼はスノードームを受け止めると、表情を曇らせた。

「何だよ、せっかく持って来てやったのに」

「欲しいとか言ってないし」

「何だと、この野郎」

 そう言って、ばし、と清水は僕の頭をはたいた。久々にはたかれたが、容赦がない。僕はずきずきと痛む頭を擦りながら、彼を睨み返した。

「……僕、一応病人なんだけど」

「病人だって言うなら寝ろ」

 と、彼に無理やりベッドに押さえつけられ、毛布と掛け布団を被せられた。

「君が来るから休養できないんじゃないか」と反論するが、当然聞き入れられるはずもない。僕は重い布団の中で、唇を尖らせた。

 窓から仰ぐ空は黒ずんだ雲に覆われ、雨交じりの風が吹き荒れている。スノードームのようにきれいな雪が降る気配もなく、庭の木々は物寂しげに震え、すべてが灰色に凍っていた。

 ガラスの中と違って、現実の世界はどうしてこうも悲しい姿をしているのだろう。……などと、ちょっとつまらない物思いに耽ってみる。

 ふと、清水の方に視線を移す。彼は絨毯の上に寝そべり、手の平の上でスノードームを転がしていた。まるで自宅にいるようなくつろぎ具合である。

 思い返すと、僕の部屋へお見舞いに来る友人は彼だけだった。僕が寝込むと必ず彼は我が物顔で部屋に上がり込んで来るのだが、彼は特に何をするでもない。お菓子を食べたり、ごろ寝して漫画を読んだり、思う存分くつろいで帰る。そしてまたやって来て何もしない。

 まるで猫みたいだ、と思う。

 猫という生き物は何もしない。けれど、ただ当たり前のように人間のそばにいるものだ。死んだ猫だって、本当は、僕に甘えていたのではなく、僕を慰めてくれていたのかもしれない。いまさらながら、そんなふうに思う。

「――何?」

 あくび混じりに、清水は問いかけてきた。僕は慌てて彼から目を反らす。

「用がないなら、もう帰ってよ」

「……へいへい、言われなくても帰るよ」

 どっこらせ、と清水は億劫そうに立ち上がる。

 その際、彼はスタンドライトのそばにスノードームを置いた。銀色のパウダーがふわりと舞い上がり、まるで風がそよいでいるようだった。

「暇になったらまた来てやるよ。まあ、元気になってくれたらそんな手間も省けるんだけどさ」

「お菓子が目当てのくせに、よく言うよ。材料がもったいないからもう来るな」

 清水はおざなりに手を振って、僕の世界から姿を消した。ばたん、とドアの閉ざされる音が、外の世界から切り離される合図のように思えた。耳が痛むくらいに、空気がしんと静まっていた。

 僕は溜息を吐いて天井を見上げる。見つめすぎて、目をつぶっていても模様や色が思い描ける天井だった。閉じた世界にうんざりする。

 帰れと言いつつも、僕は外から誰かが来るのを待ちわびている。そんな自分に、ちょっとだけ嫌気がさした。




 その夜、また悪夢を見た。

 深い暗闇の中で、ぐるぐる、と掠れた寝息が響いている。僕ははっとして目を覚ました。ずきずきと喉が痛みを発している。目の前に広がる暗闇に、今にも押し潰されそうだった。

 叫びたいのに、声が出ない。ひゅうひゅうとか細い吐息がもれるばかりだった。

 ふと、僕は窓辺に視線を移した。スタンドライトの下、そこに見慣れないものがあるのに気付き、目を細める。

 カーテンから差し込む月明かりを浴びて、スノードームの形が浮かび上がっていた。

 底に溜まった銀のパウダーが、きらきらと本物の粉雪のように輝いている。まるでおとぎ話の世界みたいだ。その中にだけ、恐ろしい暗闇は存在しなかった。

 雪の中にたたずむ猫と、目が合った。猫はとても穏やかな目で僕を見守っていた。

 僕はスノードームに手を伸ばし、枕元に引き寄せた。ふわりとパウダーが綿毛のように舞い上がる。冷たいガラスが火照った頬に当たって、心地よい。ほう、と溜息を吐いた。

 昼間に見た、清水の顔を思い出す。ケーキを頬張る、呑気な顔。彼が傍らでくつろいでいる時の、奇妙な安ど感を思い出した。もう苦しげな吐息は聞こえてこなかった。

 その夜、とても美しい夢を見た。

 夢の中、僕は月のかかる雪道を猫と歩いていた。空から舞い降りる雪が、白い花弁のように僕たちを包み込む。赤いマフラーを巻いた彼女は、銀色に光る月を見上げている。

 僕は初めて彼女を抱き上げた時のような、心地よい温かさに包まれていた。

 土の中で眠る猫も、きっと同じ夢を見ている。幸福な世界の中で、僕も眠った。

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