灰色の雪
矢口 水晶
灰色の雪
雪はどこから来るのだろう、とトムは思った。
早朝の空気は痛いほど冷たく、空は分厚い雲が垂れ込めている。そこから羽毛のような雪が舞い降り、灰色の街並みを白く染め上げていた。
どうして汚らしい雲から、こんなにも美しいものが生み出されるのだろう。
トムはそれが不思議でならなかった。
「おい、何をぼうっとしてるんだ」
大きなだみ声が上がると同時に、トムは後頭部を叩かれた。振り返ると、父親が赤ら顔を忌々しげに歪めて立っていた。彼は古びたマフラーを首に巻き、穴のあいた手袋をしている。
「早くしろ、仕事に遅れちまう」
「……ああ」
トムは痛む頭を擦り、父親の後ろに続いた。歩く度に靴の下で雪がざくざくと音を立てた。
冬は死にそうなほど寒くてひもじいが、トムは雪が好きだった。白く清らかな雪は、トムの目から醜いものを隠してくれる。
トムが住んでいるのは、貧しい下級市民の住む
「……なあ」
トムは空を見上げながら、父親に話しかけた。父親はぶっきらぼうに返事をして、顔だけ振り返る。
「雪って、どこから来るのかなあ」
「ああ? そんなこと知って、どうするんだよ」
父親はぶっきらぼうに鼻を鳴らす。彼の団子鼻は、寒さで赤く染まっていた。
「そうだけど、気になるんだよ」
「馬鹿馬鹿しい。そんなんだから、お前はのろまだって言われるんだよ」
そう吐き捨て、父親はトムに興味などないというようにさっさと先へと進んでいく。そんなふうに他人から無視されるのは慣れていた。トムは黙って歩き続けた。
父親にトムの問いが答えられるはずがない。なぜなら、彼にはまったくと言っていいほど知識と教養がないからだ。彼は簡単な読み書きと、二十までの数を数えることしかできない。トムに至っては文字を読むことさえ困難だった。しかし、そんなことはこの貧民街では珍しくもない。
道に溢れた生ごみを、カラスと野良犬が漁っている。痩せこけた犬の後ろ姿と、父親の背中が重なった。どちらも醜い生き物だ。
何もかも、雪が隠してしまったらいいのに。
トムは、静かに息を吐いた。
トムと父親が働いているのは、郊外にある焼却場だった。竜の口にも似た巨大な焼却炉の中で、真っ赤な炎が燃え盛っている。そこから吐き出される熱気と灰を浴びながら、作業員たちは黙々と働いていた。
焼却場で燃やされているのは、本だった。毎日大量の本がワゴンに乗せられ、この焼却場に運び込まれてくる。
専門書や小説、子ども向けの絵本など、その種類は様々だ。トムの仕事はそれらを炎の中に投げ込み、灰を掃除することだった。
「さあ、どんどん本を燃やせ! 今日中に焼かなきゃならん本は、まだまだあるんだからな!」
焼却場の監督が、作業員たちを叱咤する。少しでも仕事の手を休めれば、容赦なく分厚い本が飛んできた。トムも本の表紙でぶたれるのは日常茶飯事だった。
ここで焼かれる本は、すべて国が没収した禁書だった。この国では検閲でひっかかったもの、政府の許可なく出版された本は焼却処分される決まりになっている。
もうずい分と昔のこと、トムの知らない偉い人が、知識や思想は制限すべきだというお触れを出した。国の指導者や身分制度、国教の宗旨に反する思想は必要ない。被支配者階級の人間は何も考えず、ただ畑を耕していればよい、とのことだった。
その法律が今でも受け継がれ、本の出版には厳しい制限がされる。また、書店に売られている本は非常に高価で、トムのような下級市民にはとても手が出なかった。
それでも、どこかの知識人や反政府論者によって秘密裏に本が出版され、それらは日々摘発されている。そうやって没収された本は、トムたち労働者の手によって焼却炉に投げ込まれるのだ。
「そこのお前! 誰が休んでいいと言った!」
監督の怒号と共に、分厚い本がトムの足許に投げつけられた。トムは慌ててスコップを動かし、床の灰をかき集める。
少し離れたところで、父親がねじまき人形のように黙々とワゴンを押していた。コンクリートの床には灰が雪のように降り積もり、その中に零れ落ちた本が埋まっている。
トムは、灰に塗れた本を拾い上げた。くすんだ表紙には、禁書であることを表す赤いバツマークのスタンプが押されている。金色の文字で題名が刻印されているが、トムには読めない。
トムは周囲を見回した。周りの人間は仕事に集中し、トムに注意を向ける者などいなかった。そのことを確認し、そっと本を服の下に隠した。
仕事が終わったのは、夜の八時過ぎだった。監督からわずかばかりの日当を受け取り、作業員たちが次々と焼却場から出て行く。皆、仕事を終えた解放感よりも、過酷な労働による疲労感の方が濃く顔に滲み出ていた。
「トム、お前は家に帰ってろ」
そう言うやいなや、父親はトムの日当を半分取り上げ、街の雑踏へと消えた。またいつものように安酒を飲みに行ったのだろう。
母親は病ですでに他界している。トムは両親と食卓を囲んだ記憶がほとんどなかった。
トムは貧民街に戻った。雪こそ降っていないものの、冷たい風が容赦なくトムの頬を刺した。がたがたと奥歯が鳴るのを抑えながら、暗い夜道を駆け抜ける。
トムは自分のアパートの前を通り過ぎ、その三軒隣の借家に向かった。息を切らせながら、家の扉を叩いた。はあい、と、か細い女の声が返ってきた。
「……あら、トム。また来たの?」
扉が開くと、中から青白い中年女の顔が出てきた。女は白いものの混じった髪をひっつめ、つぎ当てだらけの服を着ている。貧民街の人間特有の、生気のない人形のような顔をしていた。
「セシルなら、二階にいるよ」
女はそれだけ言うと、さっさと室内に引っ込んだ。部屋の中にはほとんど家具がなく、ストーブに火は入っていない。外とあまり変わらない寒さだった。女はランプの小さな明かりを頼りに、内職の繕い物をしていた。
二階の廊下には、扉が二つ並んでいた。トムは迷わず手前の部屋に入った。
室内は蝋燭の火が灯っていて、少しだけ明るい。窓際に古いベッドが置かれ、そこに少年が上体を起こして座っていた。
「やあ、トム」
少年、セシルは目を細め、静かに微笑んだ。
セシルはトムと同じ十七歳だ。華奢な身体付きで、少女のようにほっそりとしている。繊細な容貌は、高価なビスクドールを思わせた。
何より、その肌の白さが見る者の目を惹きつけた。折れそうなほど細い首筋は、光にかざせば血管が透けて見えそうなほど白く澄んでいる。
まるで雪みたいだ。
彼の肌を見る度に、トムはそう思う。セシルと雪ほど白く美しいものを、トムは知らない。
しかし、肌の白さと同様に、セシルの身体も雪のように弱くて脆い。彼は生まれ付き病弱でトムのように働くことができなかった。少しでも冬の冷たい風に当たると、熱を出して寝込んでしまう。そのため、彼は一日をこの部屋で過ごすことが多かった。
トムの家と同様、彼の家も困窮していた。彼の父親は数年前に強盗を働き、逮捕された。それ以来音信が途絶え、生きているのか死んでいるのかも分からない。一階にいた母親と二つ上の姉が生活を支えているが、彼の薬代どころかその日の食費を稼ぐのがやっとだった。
僕はこの家の厄介者なんだ。
セシルはいつも自嘲的に語った。彼の美しさは、貧しさの前では何の役にも立たなかった。
「仕事、終わったの?」
「ああ、終わった」
「そう、お疲れさま」
そう言って、セシルは膝の上のものをぱたんと閉じた。
彼が手にしているのは本だった。表紙には禁書の印が押されている。いったい何について書かれた本なのか、トムには分からない。
「今日も、本を持ってきたんだ。見てくれ」
トムは服の下から本を引っ張り出し、誇らしげに歯を見せた。トムの体温で温まったそれを、セシルの細い手が受け取る。労働をしたことのない、優雅な手だった。
「ありがとう、トム。いつも悪いね」
「いいんだ。セシルが喜んでくれるなら」
「でも、本を勝手に持ち出したりして大丈夫かい?」
と、セシルは気遣うように細い眉を寄せた。
焼却場には検査官がいて、作業員たちは帰宅する際に本を隠し持っていないか検査された。本は闇市で高額で取引されているため、持ち出そうとする者が絶えない。
しかし、トムは他の者たちと比べて検査が甘かった。誰も従順で愚鈍な彼が、本を持ち出すとは思っていないのだろう。これまで何度も本を持ち出し、セシルに渡していた。それらの本は、すべて彼のベッドの下に隠されている。
なあ、とトムは新しい本のページをめくるセシルに問いかけた。
「雪がどこから来るのか、セシルは知ってるかい?」
父親にしたのと同じ質問をセシルに投げかけた。父親には答えられなかった質問に、彼はあっさりとうなずいた。
「うん。雪はね、小さな氷の結晶が集まって出来たものなんだ」
そう言って、セシルは窓から空を指差した。夜空は分厚い雪雲に埋まって黒く染まっていた。
「雲の中の水蒸気が冬の寒さで凍って、それが地上に降ってくるんだよ。雪の欠片を黒い紙の上に乗せてようく見てみるといい。とても小さな氷の結晶が見えるはずだから」
へえ、とトムは感嘆の声を上げた。
「そうなのか。でも、不思議だ。雲はあんなに汚いのに、きれいな雪を降らせることができるなんて」
理屈を説明されたところで、トムにはよく理解できなかった。だが、雪がただの氷の塊だったとしても、その美しさは変わらない。
「汚いものからきれいなものが出てくるなんて、不思議じゃないかい?」
「別に、不思議なことでも何でもないよ。ただの自然現象じゃないか」
セシルは薄い肩をすくめた。たわいもないことで感動するトムを見て、呆れているような、面白がっているような表情だった。
「ふうん。やっぱり、セシルは何でも知ってるんだなあ」
「それはトムのおかげだよ。君が持って来てくれた本に、そう書いてあった」
そう言って、セシルはさっきまで読んでいた本を持ち上げた。
どうやって学んだのか、彼はトムと違って読み書きができた。その上、貧民街の住人とは思えないほど博識だ。
彼曰く、一度読んだ本は一字一句漏らさず記憶しているらしい。彼がとても長い詩を諳んじてみせた時、トムは魔法を見せられたかのように驚愕した。
病弱なセシルを出来損ないだと大人たちは言う。ここでは肉体労働をして、少しでも多くの金を稼ぐことが最も大切なことだった。しかし、それは間違いだとトムは思う。
セシルは誰よりも聡明で美しい。彼はただ、生まれた場所を間違えただけなのだ。本来ならこんな薄汚い貧民街ではなく、もっと温かく、きれいな場所で暮らすべきなのに。それこそ、禁書の印が押されていない本が読める場所で。
「……どうしたの? またぼうっとして」
セシルはベッドから身を乗り出し、トムの顔を覗き込んだ。窓辺に置かれた蝋燭の光に照らされて、白い頬が赤く染まっている。長いまつ毛が濃く影を落としていた。
「いや。セシルは、きれいだなあ、と思ったんだ」
セシルは、きょとんとしたように目を瞬かせた。大きな瞳は、吸い込まれそうなほど深い色をしている。
雪の白さは神様だ。美しいということは尊いことなのだ。セシルと友達になった時、トムはそのことを知った。神様のようなセシルと一緒にいることだけで、トムは誇らしく、充足していた。
「セシルはきれいだ。雪みたいにきれいだ」
「そんなことないよ。……僕は、きれいじゃない」
セシルは自嘲するように唇を歪め、首を振った。頬を染める明かりが、不安定に揺れる。
「僕なんかより、君のほうがずっときれいだ」
「お、おれが?」
セシルの言葉に、トムは頭を捻った。トムは図体ばかりでかくて、目鼻の形が不細工で醜かった。まるで失敗した粘土細工だと、鏡を見る度に思う。その上、馬鹿でのろまだ。父親からも仕事場の人間からも、ずっとそう言われ続けてきた。
そんな自分を、どうして彼はきれいだなどと言うのか。
「あのね、トム。姿形が美しいからって、それが本当にきれいなものとは限らないんだよ」
セシルは、窓の外に視線を移した。
また雪が降り始めた。汚れた貧民街の上に、厚く降り積もっていく。たとえ暗い夜でも、雪の白さが鮮やかにトムの目に浮かんだ。
「雪の積もった街はきれいだけど……その下には、汚いものが隠れている」
そう言って、セシルは静かに唇を閉じた。
その後、トムは禁書を持ち出した罪で警察に逮捕された。
トムを告発したのは彼の父親だった。彼はたまたまトムが服の下に本を隠すところを目撃し、金と引き換えに息子を売った。金はすぐに酒とギャンブルに消えただろう。その後、彼の父親がどうなったのかは知らない。だが、自分の子供を売るような親だ、きっとろくな人生を送ってはいないだろう。
目の前に広がる共同墓地には、静かな銀世界が広がっている。その光景を見ていると、この世の果てに来てしまったような、何とも言えない孤独感に陥った。雪は柔らかな毛布のように死者たちに被さっているが、触れれば残酷なほど冷たい。足許に立つ墓碑には多くの死者と共に、トムの名前が刻まれている。
トムは刑務所に収監され、間もなく流行病にかかって死んだそうだ。彼は貧しい下級市民だ。きっとまともに治療されず、弔いもされなかっただろう。赤い印を押された禁書のように、無慈悲に墓穴に放り込まれたのだ。この広い墓地のどこに彼の遺体が埋められているのか、知るすべはない。
僕は彼からもらった本で知識を手に入れ、学校に入った。そして必死で勉強して学者になった。学費は本を売って稼いだ。今は食うものに困ることもなく、温かい家に住み、貧民街にいた頃には考えられないような生活を送っている。
トムは僕に本を与えることに満足し、逮捕されたことを嘆いたりはしなかっただろう。彼は僕を慕い、僕もまた彼を慕っていたと信じていたに違いない。
ずっと、僕に利用されていたとも知らずに。
トムは単純で愚鈍な男だった。それに、彼は僕を信頼していた。その心情は信仰と言ってもよかった。だからトムを唆し、本を持ってくるように仕向けるのは簡単だった。
トムがいつか逮捕されることは分かっていた。彼は警察に捕まった際、本はすべて売ったと言って警察の目が僕に向かないようにしていたそうだ。当然、そのことも僕は想定していた。捕まっても僕のことだけは守ってくれるだろうと思っていたが、まったくその通りになった。悲しいほどに彼は純粋な男だった。
僕は隙間風の吹く家で、母と姉と共に擦り切れるように死ぬのはまっぴらだった。彼ら貧民街の人間はわずかなものを食べて呼吸するだけで、考えることも反抗することもしない。だが、僕は違う。僕には愚かしい彼らと違って、優れた頭脳があった。
いつか貧民街の生活から抜け出し、裕福な生活を送ることをずっと夢見てきた。病弱な僕が夢を叶えるには、知識を得て学校に入るしかない。そのために、僕はトムを利用したのだ。
トムはよく僕をきれいだと言っていた。真っ白な雪のように、きれいだと。しかし、僕はきれいなどと言われるような人間じゃない。僕は友達を利用した、汚い人間だ。彼はうわべの美しさばかりを見て、その下に醜いものが隠れていることを知らなかったのだ。彼は、本当に愚かだ。
しかし、たとえ僕の真意を知ったところで、彼は僕を憎んだり罵ったりしないだろう。きっと、僕を笑って許してくれるに違いない。それほどまでに彼は一途で、優しかった。彼のそういう愚直さが、嫌いだったような気もするし、好きであったような気もする。
ふと、空を見上げた。薄暗い空から、また雪が降り始めた。羽毛のような粉雪は、地上のすべてに等しく舞い降りる。生きている者にも、死んでいる者にも。美しいものにも、醜いものにも、等しく。
雪がどこから来るのか、セシルは知ってるかい?
雪の好きだった、友の言葉を思い出す。
汚いものからきれいなものが生まれ出ることを、彼は不思議だと言っていた。彼は知らなかったのだ。醜いものの下にこそ、きれいなものが隠れていることを。本当は誰が、きれいだったのか。
僕は死者に花を手向けることも祈ることもせず、墓地を後にした。
灰色の雪 矢口 水晶 @suisyo
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