第8話




     5



「うーん……」


 保羽リコは腕を組んで唸った。


 ほどよく離れた電気ストーブから心地よい熱気がやってくる。それなのに、時折寒風の過ぎる音がする窓の、その向こうにいるような気分だった。


 バレンタインでの騒動から数日が経ち、日戸梅高校の風紀は落ち着いていた。


 今日は会議の類いもない。

 一般生徒からの緊急通報の気配もない。


 風紀委員長として保羽リコのやる事は、書類にハンコを押す事くらいだった。


 日戸梅高校の奇人・変人どもは、わっと騒ぐと、その後の数日間は静かになる。活性化する周期や波のようなものがあるのだ。昼間もさほど、動きは無かった。アイロニング部が校長先生のスーツをはぎ取って皺を伸ばした事と、試合中のテニスコートのど真ん中で三分間クッキングを始めた者が出たくらいで、いたって平穏無事な昼休みだった。風紀委員会の業務も珍しく穏やかなもので、久しぶりにのんびりとした放課後だった。


 だが、保羽リコの心は休まらない。


「ふぅ……」


 思わず出てしまった溜息にはっとして、保羽リコは頭を横に振った。


 風紀委員会室で椅子に腰かけ、保羽リコは机の上に置いた箱を見る。バレンタインのチョコレートだ。

 毎年、森田君にあげてきたが、今年は渡しそびれてしまったのだ。


 バレンタインの夜のことが頭をよぎる。

 あの時、ヨロズ先輩と森田君のやり取りを、保羽リコは聞いていた。森田君に渡そうとチョコを持って、保羽家の生け垣を抜けて森田家へと入ったその時、玄関から二人のやり取りが聞こえてきたのだ。そうしてなぜか、それから渡すタイミングを失ってしまった。「はい、清太。これ」と、そう言ってチョコを渡すだけだというのに、それが出来ない。


 何かが変わってきている。

 ヨロズ先輩と森田君の関係か、それとも、それ以外の何かが。


 自身の胸の奥で、じくじくと疼くこの感覚。

 動揺とも不安とも、なんだか違う。


 この想いが何か、保羽リコははっきりしなかった。

 どこか寂しさがある。

 どんどんと森田君が遠くなっていってしまう気がする。そして、その遠くなっていく森田君の傍には、いつも、ヨロズ先輩の姿があるように保羽リコには思えた。


 その時、がらりと戸が開く音がした。

 書類仕事をサボっていると思われては困ると、保羽リコがとっさにチョコの箱を引き出しに仕舞って顔を上げると、冷気が入らないよう開けた戸を閉める風紀委員の後姿が見える。


「う~、さぶ、さぶぅ~」


 妙にオヤジ臭い仕草をする、ショートのソバージュヘアの女生徒だ。


「ああ、リコ、見回りは異常なしだった。要注意部活の連中、今日も落ち着いてるみたいね。あ、他の風紀の子達は帰らせたから。今日はもうやる事ないだろうし」


 電気ストーブの前で両手を温めつつ、そう言って女生徒は鼻をすすっている。


 風紀委員長補佐の香苗だ。

 風紀委員会のナンバー2にして、一番の実力者。保羽リコの友人兼、保護者にして、頼れる相棒である。

 その香苗は、保羽リコの顔を見るなり言った。


「……どったの、リコ? 辛気臭い顔して」

「バレンタインの夜から、清太がすっごく嬉しそうなの!」

「へぇ」


 椅子を電気ストーブの前に寄せて、香苗は爪やすりを手に取りつつ、やる気無さそうに相槌を打った。保羽リコが真剣な顔をしているというのに、香苗は爪を研ぎ始めている。


 一見すると他人の話を聞く気が無いようにも見えるが、香苗はどんな作業をしていても聞いた内容をちゃんと覚えている。地頭の良さが違うのだろう。おしゃべりしながらでも書類仕事をサクサクと片付けていくし、ミスの類いも極めて少ない。


 それが分かっているので、保羽リコは遠慮なく話を続けた。


「ファッション雑誌を読み込んでいたり、雑誌のデート特集のところにドッグイヤー作ってるし……これはもう、ぜったいあれよ、あれ! で、ででっ、でででっ――」

「デートだろうねぇ、銀野会長と」


 香苗はあっけらかんとそう言った。

 研いだ爪にふっと息を吹きかけて「あ、そうそう。パシャ子ちゃんに探らせたところによると、今回は遊園地デートらしいわよ」と付け加えた。


 香苗はずいぶんと呑気な口振りだったが、保羽リコは焦った。


「ゆ、ゆゆゆっ、遊園地デート!?」

「そそ」

「二人きりで!?」


 唾を飛ばす勢いの保羽リコとは対照的に、香苗は冷静に頷いた。


「デートなんだから、そりゃね。いいんじゃないの、そんな目くじら立てなくったってさ。たしか、あんたも森田清太と行った事あったよね? 二人きりで、遊園地」

「そりゃ、あるけど……! それ、清太が高校に入る前の話だし!」


 保羽リコは動揺が抑えられないとばかりに、自分の頭を抱えた。


「ってか、どういうこと!?」


 保羽リコは机へと、手で抱えた頭をごんっとぶつけた。


「二人は別れたはずよね!? バレンタインの時も、銀野ヨロズの野望は打ち砕いたし! なのに、なんで!? なんで、なんか、すっごい良い感じになってるの!? ヨリが戻ったっていうか、以前よりもこう、近くなっちゃってる感じがあるわけ!?」

「うーん、それはねぇ……」

「どゆこと!? ねえ、香苗、これは!? ワッツハープン!?」

「あー、うん、まー……男女の機微ってのは、そんなもんなのよ、きっと」


 香苗は保羽リコの肩をなだめるようにポンポンと叩きながら、続けた。


「ちなみに、リコ。たぶん今週の休日、遊園地でするっぽいよ、デート」

「もうそこまで調べたの?」

「第二新聞部にさぐらせてあるから」


 香苗の仕事の早さに保羽リコは目を瞬かせた。

 そんな保羽リコへと、香苗は仕切り直すかのようにぱんっと手を叩いた。


「そんでさ、リコ」

「なに?」

「あんたとしては、銀野会長と森田清太がくっつくの、嫌な訳でしょ?」

「うん!! 嫌!! 遊園地デートも絶対邪魔する!」


 香苗の質問に、保羽リコは断言した。


 普通の人間なら多少は躊躇いそうなものだが、保羽リコは全力で首肯している。良くも悪くも自分の気持ちに正直すぎる友人に、多少呆れたような顔を見せつつも香苗は言った。


「だったらさ、あんたの今までのやり方って、対処療法的なものでしかないわよ。銀野会長が動いて、それを阻止して、って繰り返しだし」

「……根本的な解決を、目指すべきって?」

「まあね」

「具体的に、どうするの?」

「簡単よ」


 香苗はさらりと言って、ソバージュの髪をオヤジ臭い仕草でガシガシと掻いた。


「森田清太に銀野会長以外の人を好きにさせればいい」

「はい?」

「あの二人の関係って、割りと森田清太がぐいぐいと行ってるから、そこそこいい感じになってる所、あるわけよ。森田清太が他の人に関心を寄せたら、あんたの目的は達成できる。銀野会長って自分から相手に積極的に距離を詰めていくタイプじゃないしさ」

「つまり……」

「そう」

「清太のカノジョ候補を見つける、ってこと?」

「それをあんたが支援する、これが一番手っ取り早い」

「だめ!」


 保羽リコは即答した。


「清太は男女交際とか、そういうのまだ早いの! そもそもっ、私の眼鏡にかなう相手じゃなきゃ、清太の相手には認めないしっ。まず、優しくて、気が利いて、男の子を振り回したりせずに、ちゃんと気遣いが出来る子じゃなきゃ論外よ」


 指を折って数えながら、保羽リコは続けた。


「それと一番大事なのは、ちゃんと清太の事を想っている子じゃないと!」


 小姑のような事を言い始めた保羽リコに、しかし香苗は怯まない。


「一人心当たりがあるけどね、私は」

「誰?」

「わかんないの?」

「うん」

「生瀬ちゃんよ。な、ま、せ、ちゃん」


 香苗がその名を口にすると、保羽リコはぽかんとした。


「な、生瀬?」

「あの二人、相性も悪くなさそうだし。仲もいい感じだし。この前、森田清太にバレンタインプレゼント、あげてたからさ、生瀬ちゃん。背中を押せばなんとかなる……かも」

「プレゼントって、チョコ? 生瀬が、清太に? 義理じゃなくて?」


 動悸が早くなっていくのを感じつつ、保羽リコは身を乗り出した。

 しかし保羽リコの質問への答えに、香苗は少し間を置いた。


「……いや、チョコじゃないんだけど、あれは、なんていうのか……」

「どしたの? 香苗?」


 いつになく歯切れの悪い様子の香苗に、保羽リコは思わず聞き返した。すると香苗は難しそうな表情になり、目線を斜め上に向けて何かを思い出している。


「ねえ、リコ。ちょっと変な事言うけど」

「なに? 香苗」

「バレンタインの時の、事なんだけどさ」

「うん」

「バレンタインの時さ、生瀬ちゃん、森田清太を土に埋めてた」

「…………」


 保羽リコはしばし思案した顔をしてから、顔を曇らせて香苗の目を見た。

 何をどうしたらそんな事になるのか。

 そもそも生瀬さんのように良識ある人間が、そんな行動をとるものなのか。保羽リコはいくら香苗の言うことでも、ちょっと待てと言わずにはいられなかった。


「……ごめん、香苗。今、なんて言った? あたしの聞き間違い?」

「だから、バレンタインの時にね、校舎裏で森田清太の下半分を穴に埋めてた」

「…………」

「…………」


 二人はしばし見つめ合い、保羽リコは眉をくねらせた。

 香苗の言うことはどうやら、本当らしい。


「……はい?」

「うん、リコ、わかる。そういう反応になるの」


 うんうんと頷く香苗に対して、保羽リコは首を傾げた。


「ど、どういうこと?」

「砂風呂ならぬ土風呂、とかなんとからしくて。半身浴させてあげてたっぽい」

「それ……が、生瀬、の……えっと」

「バレンタインプレゼント、らしい。たぶん。おそらく。森田清太もなすがままになってたっぽかったから、まあ、あれはあれで、よかったのかも……」


 確証はもてないけれどね、と香苗は頷いた。


「…………」

「…………」

「ねぇ、香苗。説明を受けるほどに訳が分からなくなるんだけど?」

「いや、わたしに、聞かれても……私はてっきり、以前から生瀬ちゃんは森田清太に特別な好意を抱いてるもんだって思ってたから……ちょっとあれだけど、これもその一部かと」


 唇に人差し指を当てつつ香苗は虚空を見上げている。

 保羽リコは香苗の言葉を聞き、意外だとばかりに身を乗り出した。


「な、生瀬が清太に?」

「それっぽい感じ、あんた、感じなかったの?」

「いや、えっと……まぁ、うん」


 頷く保羽リコに対して、「まぁ、あんたは一度こうって思ったら、狭くなっちゃうもんね、視野」と言いつつ、香苗は背もたれへとのけ反りながら首を横に振った。


「ま、私の勘違いかもしれないけどね」

「そっか……バレンタインなら、たいていチョコ渡すわよね」

「うん。意中の相手ならね」


 香苗がそう言うと、保羽リコはほっとしたような心持になった。この心持をなんと説明したら良いのかわからず、保羽リコは気持ちを押し込んで、香苗にさらに聞いた。


「ほんとに、生瀬は清太の半身を埋めてたの?」

「地面の下にすっぽりと。見事なもんだったわよ」

「生瀬、は、何がしたい、の……?」

「さ、さあ?」


 香苗はぎこちなく首を傾げ、眉に皺を寄せて口元を引き締めた。


「んなこと、私に聞かれても。生瀬ちゃんは妙に自信満々っぽかったし。如奧の入れ知恵でなにかおかしい事になってるのかな、とは思ったけど……」

「そうね。生瀬は常識的な子だし。変なのに毒されてしまっているのかも」


 生瀬さんの状況に少し不安を感じつつも、保羽リコは頷いた。

 そんな保羽リコの様子を、香苗が机に肘を付きながらまじまじと見てくる。


「でさ、リコ。どうすんの?」

「その話を聞く限りじゃ、生瀬を清太とくっつけるのは、ちょっと……生瀬の気持ちもよく分からないのに、生瀬の事をないがしろにしてるみたいで、私は嫌」

「けど、生瀬ちゃんと協力しとかないと、遊園地デート、邪魔できないかも」

「なんで?」

「今週の土日、私は用事あるからあんたに付き合えない」

「……はい?」


 あまりに突如とした宣言に、保羽リコは唖然として聞き返した。


 だが、聞き間違えではないらしい。

 本当なのかと保羽リコが目で訴えかけると、香苗は静かに頷いた。


 肝心要の時に、香苗がいない。

 自分一人が突っ走ったところで物事が好転しないことくらい、保羽リコとてわきまえている。自分の突破力は香苗という頭脳がいて、初めて役に立つのだ。


 それが……いない。

 保羽リコは目を剥いた。


「それじゃあたしは、どうすりゃいいの!?」




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愛しの彼女を埋めました。 喜多川 信 @kitashin

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